第5話 雨の匂いと血の温度
廊下に出た瞬間、息が詰まった。
――血の匂いだ。
湿った鉄のような、それでいて生温い空気が肌にまとわりつく。
テオは足を止め、指先で空気を掴むようにして確認する。
黒狗の拠点の廊下に、そんな匂いが漂うこと自体が異常だった。
「……まさか」
声を潜めて歩き出す。
夜の照明はぼんやりと橙色で、足音を吸い込むように静かだ。
角を曲がった先で、警備班の隊員が二人、立ち尽くしていた。
その表情を見た瞬間、状況を悟る。
「何があった」
「セコンダ所属の隊員が……玄関で倒れてました」
「倒れてた、じゃないだろ」
テオは淡々とした声で返す。
その語尾に含まれる硬さだけで、相手は口を噤んだ。
玄関の自動扉の前――
そこに、一人の男が仰向けに倒れていた。
スーツの胸が深く裂け、雨に濡れた血が床に広がっている。
雨の滴が扉の隙間から入り込み、血と混じり合って薄く滲む。
匂いは強く、鼻の奥に焼きつくようだった。
「……遺体の確認を」
「はい……第三牙の監視班、ダニエル=コルビ」
「第三牙……?」
黒狗とは別部隊。
内部の人間――しかも、監視側。
テオはしゃがみ込み、男の胸を軽く開いた。
そこに刻まれていたものを見て、目を細める。
――光の紋章。
ルーチェ・ファミリーの象徴。
胸にそれを刻まれるのは、本来ボス直属の“選ばれた者”だけだ。
だが、これは焼き印ではなかった。
切り裂かれた皮膚の下に、無理やり描かれている。
まるで“真似された”ように。
「……この印、偽物だな」
「え?」
「本物は金属製のプレートだ。これは、血で書かれてる。」
隊員たちの顔が青ざめる。
外はまだ雨。
風が吹き込み、扉の隙間から冷たい音が流れ込んだ。
「封鎖を。誰も出すな。黒狗以外の隊員は全員部屋に戻せ」
「了解……!」
短い指示を出すと、テオは自分の無線を耳に当てた。
「こちら黒狗。現場を確認。第三牙のダニエル・コルビが死亡。状況は不明。内部殺害の可能性あり。」
返ってきた声は、ノイズ混じりだった。
『……了解、テオ。現場を保持して。――私が行く。』
アリアだ。
少しの間を置いて、無線が途切れる。
――そして、彼女は本当に来た。
高いヒールの音が廊下に響く。
白のコートを着たアリアが、ゆっくりと玄関に現れた。
彼女の金の髪が、雨の光を淡く反射している。
「……すぐ来たな」
「報告を聞いたわ」
アリアは淡々と答え、倒れた男の前に膝をつく。
細い指が、血の跡をなぞる。
表情は変わらない。
ただ、その瞳の奥には一瞬、痛みのような影が走った。
「光の紋章が刻まれている。けれど……おかしいわね。」
「偽物だ。誰かが“光”を模して殺した。」
「――光を、模して。」
アリアは小さく呟き、立ち上がった。
その白いコートの裾が、血の色を吸って染まる。
「犯人は?」
「内部の可能性が高い。第三牙は黒狗を敵視していた。」
「つまり、“見せしめ”ね。」
「そう考えるのが自然だ。」
短い沈黙。
雨の音が二人の間に降り注ぐ。
やがて、アリアが口を開いた。
「……湊は?」
「部屋にいる。あいつに関係は――ない。少なくとも今は。」
「“今は”、ね。」
アリアの声に、わずかな棘が混じる。
テオはそれに反応せず、視線を死体に戻した。
血の中に、何かが混ざっている。
細い銀色の糸のようなもの――いや、違う。
それは“速さの痕跡”に似ていた。
湊の異能の残滓。
それに酷似していた。
「……まさか」
テオが顔を上げた瞬間、アリアが先に言った。
「触らないで。――もう回収したわ。」
「……何を?」
「痕跡。湊の能力によく似た残留反応。」
テオは言葉を失う。
アリアは淡々と立ち上がり、表情を崩さずに続けた。
「彼に問う必要はないわ。まだ。」
「“まだ”?」
「彼がその答えを思い出すまでは、ね。」
意味の分からない言葉。
だが、その口調に、明らかな確信があった。
アリアが背を向ける。
ヒールの音が廊下に遠ざかっていく。
扉の向こうの雨は、さらに強くなった。
残されたテオは、無言で天井を見上げる。
血の匂いがまだ鼻に残る。
そして――温度。
遺体の手に触れる。
冷たくなりかけていたが、まだ完全には失われていなかった。
「……死んで間もない」
呟くように言う。
雨が扉を叩く音が強くなり、風がカーテンを揺らした。
遠くで雷鳴が響く。
その瞬間、テオの無線が一度だけノイズを吐いた。
『――テオ?』
アリアの声ではない。
低く、歪んだ声。
『……“光”は……壊れた。』
そして、無線は沈黙した。
テオは立ち尽くす。
廊下の奥に広がる闇が、どこか湿って蠢くように見えた。
「……影か。」
外の雨がさらに強くなる。
血と水が混ざり、床を赤く染めていく。
その温度だけが、まだ現実だった。
――雨の匂いと血の温度。
それが、この夜に残された“生”の証だった。




