第4話:影、微笑む
食堂は、昼のざわめきに包まれていた。
各部隊の隊員たちがそれぞれのテーブルで談笑し、
誰もが昨日の戦闘を他人事のように笑っている。
黒狗《Seconda Zanna》の二人が入ってくると、
空気がわずかに静まった。
視線が集まり、すぐに逸らされる。
尊敬とも畏怖ともつかない、その沈黙がいつものことだった。
「相変わらず人気者だな」
テオが冗談めかして言う。
湊は返さない。
トレイにスープをよそい、無言で席に着いた。
「……塩気、強いな」
「アリアが味見したんじゃねぇの?」
「そうなら、もう少し甘くしてる」
「お、珍しく冗談か?」
「事実だ」
湊の淡々とした言葉に、テオが吹き出した。
その笑い声に気づいたのか、向こうのテーブルでアリアがこちらを見て微笑んだ。
薄い唇の端が、やわらかく持ち上がる。
その一瞬だけ、雨の音が遠くなった気がした。
「アリアさん、ほんと綺麗だな」
「そう思うなら言ってこい」
「無理だろ。あの人、全員の視線を同時に刺してくる」
「それでも目を逸らさないのは、お前くらいだ」
「まぁな。慣れてる」
そんな他愛のないやり取りをしていると、
突然――廊下の方から怒鳴り声が聞こえた。
「おい、誰だ! 勝手に入るな!」
ざわめきが広がり、食堂の空気が一瞬で凍りつく。
テオが立ち上がる。
「……面倒な気配だな」
「行くのか」
「放っとけねぇだろ。お前は座ってろ」
湊は言葉もなく従った。
テオが廊下へ消え、再び静寂が落ちる。
雨音が遠くから戻ってきた。
湊はスプーンを置き、外の窓を見た。
雨に煙る街の向こう、
ビルの屋上に“黒い影”が立っている。
人の形をしていた。
だが、輪郭が曖昧で、揺れている。
まるで雨に溶けるように――。
「……また、か」
幻覚のはずだった。
そう思いたかった。
けれど、その“影”が、ゆっくりとこちらを向いた。
そして、笑った。
氷のように冷たい笑み。
けれどどこか懐かしい。
心の奥を、掴まれたような感覚。
湊は思わず立ち上がった。
椅子が倒れ、金属音が食堂に響く。
全員の視線が彼に向いた。
「湊?」
アリアの声。
だが、湊は答えない。
窓の外を見つめたまま、息を止めた。
そこには、もう何もいなかった。
テオが戻ってくる。
「どうした?」
「……何でもない」
「顔色、悪いぞ」
「ただの……見間違いだ」
アリアが席を立ち、彼の傍に歩み寄る。
「湊」
その声には、ほんのわずかな震えがあった。
「あなた、何を見たの?」
湊は視線を落とした。
手のひらに汗が滲んでいる。
雨音が、また強くなった。
「……知らない。ただ――」
言葉が喉の奥で止まる。
「“笑っていた”気がする」
アリアは息を呑み、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
そして、穏やかに微笑んだ。
「……大丈夫よ。きっと気のせい」
その笑みは優しかった。
けれど、どこか“影”のそれに似ていた。
雨は止まない。
灰色の街に、微かな不安の匂いが混じり始めていた。
――それが、始まりだった。




