第3話:雨の止まぬ街
昼になっても、雨は止まなかった。
窓の外は薄暗く、街全体が霞んでいる。
ファミリーのビルの屋上から見下ろせば、灰色の海のようだった。
湊は、傘を持たずに廊下を歩いていた。
湿った空気が肌にまとわりつく。
足音だけが、広い回廊に静かに響く。
「おい、傘ぐらい差せ」
振り返ると、テオがコーヒー片手に立っていた。
「びしょ濡れじゃねぇか」
「……外に出てない」
「屋上で濡れるのは“出てる”って言うんだよ」
テオは苦笑しながら紙コップを差し出した。
「飲め。アリアが淹れたやつ」
湊は受け取り、黙って口をつけた。
苦みの奥に、少しだけ甘さがある。
「……甘い」
「お前が苦いの嫌いだからな」
「そんなこと、言った覚えはない」
「顔に書いてあるんだよ」
テオは肩をすくめて、窓の外を見上げた。
「相変わらず、止まねぇな……」
「この街は、いつも雨だ」
「まるで“誰か”が泣いてるみたいだな」
「泣く理由なんて、どこにもない」
その言葉に、テオは小さく笑った。
「お前がそう言うと、逆に信じたくなるんだよ」
二人はしばらく無言で雨を眺めていた。
降り続く雨は、音を吸い込み、世界を静寂に染める。
そのとき、遠くから声が響いた。
「――湊、テオ!」
振り向けば、アリアが廊下の奥から歩いてくる。
金色の髪が光を受け、灰色の中で際立っていた。
「やっと顔を見せたわね」
「命令だったか?」
「ええ、私の」
アリアは微笑む。
それはいつもの笑みだったが、どこか柔らかさが増していた。
「昨日の任務、報告書は読んだわ。完璧ね」
「仕事だ」
「そうね。でも……あなたたちは、“仕事”を超えてる気がする」
湊は答えず、ただ視線を逸らした。
テオが苦笑混じりに言う。
「褒め言葉だぞ」
「慣れてない」
「だろうな」
アリアは二人のやり取りを見て、少し安心したように息をついた。
「ねぇ、湊」
「何だ」
「雨、嫌い?」
不意の問いに、湊は一瞬だけ目を細めた。
外の雨を見つめ、答えを探すように沈黙する。
「……嫌いじゃない」
「そう。じゃあ、少しだけこのままでもいいわね」
アリアは窓の外を見た。
その瞳に映る雨は、どこか悲しげだった。
「この街、ずっと雨が降ってるのよ。
でもね、ボスは言ってたわ。
“雨が降るのは、光を守るためだ”って」
「光を……守る?」
湊が呟く。
アリアは微笑みを浮かべたまま、静かに頷いた。
「いつか晴れる日が来る。
それまで、私たちは“雨の中で立っていればいい”の」
言葉の意味は、どこか遠くて掴めない。
だが、湊の胸の奥で何かがかすかに疼いた。
――光を、壊せ。
昨夜の、あの声。
脳裏をかすめた一瞬の記憶が、雨音に重なる。
「湊?」
アリアが心配そうに覗き込む。
「……何でもない」
湊は小さく答えた。
テオが腕時計を見て言う。
「昼飯の時間だな。行くか」
「ええ、食堂に来て。今日は私が作らせたの」
「アリア特製か?」
「まさか。命令しただけよ」
「そっちは得意だもんな」
アリアは笑い、テオもつられて笑った。
湊だけが、まだ雨の外を見ていた。
窓の向こう――
黒い傘を差した見知らぬ影が、一瞬こちらを見上げた気がした。
だが、目を瞬かせたときには、もう姿は消えていた。
「……また幻覚か」
小さく呟く湊の声を、雨がかき消した。
廊下を歩き去る三人の背中に、
灰色の光がゆっくりと滲んでいく。
雨の止まぬ街。
その静寂の下で、何かが少しずつ、動き始めていた。




