第2話:静寂の朝
朝が来た。
だが、夜との違いはほとんどなかった。
厚い雲が街を覆い、光は灰色に濁っている。
窓を叩く雨の音だけが、世界の存在を知らせていた。
湊はベッドに腰を下ろしたまま、しばらく動かなかった。
眠った記憶がない。
けれど、眠っていない実感もない。
夜がそのまま朝に変わっただけ――そんな感覚だった。
机の上の懐中時計が、静かに針を刻む。
金属音が、雨音に飲み込まれて消えた。
「……もう朝か」
自分の声が、誰か他人のもののように聞こえる。
ぼやけた視界の中、窓の外を眺める。
街はまだ眠っている。
――コンコン。
ドアを軽く叩く音。
湊は振り返らずに言った。
「開いてる」
ドアが静かに開く。
顔を出したのは、テオだった。
いつものようにコートの襟を立て、片手に紙袋を持っている。
「よぉ。朝飯、持ってきた」
「食べたくない」
「だろうな。でも食え」
テオは机の上に紙袋を置き、椅子に腰を下ろした。
「また寝てない顔してるぞ」
「寝ても、変わらない」
「……お前、そう言ってもう一年になる」
湊は答えなかった。
紙袋を開けると、温かいパンの香りが広がる。
湊は無意識に、指先でパンをちぎった。
「アリアが言ってたぞ。今日は完全休暇だと」
「そうか」
「あと、ボスの娘が直々に言うんだから、さすがに休めよ」
「……ボスの娘、か」
湊は小さく呟き、視線を落とした。
テオはその表情を見ながら、少し笑った。
「お前、あの人に弱いよな」
「そうか?」
「そうだよ。あの人が何か言うと、お前、少しだけ止まる」
「気のせいだ」
湊は短く言い捨てた。
テオは笑うでもなく、パンの袋を自分の方に引き寄せた。
「……ま、いいけどな。あの人、俺たちの中じゃ珍しい“まとも”な人だ」
「まとも?」
「ああ。血の匂いがしても、ちゃんと顔をしかめるタイプ」
その言葉に、湊はほんの少しだけ目を細めた。
アリアの笑顔が頭をよぎる。
あの夜、雨の中で彼女が見せた微笑み。
何かを隠すような、優しすぎる笑み。
「……俺たちは、まともじゃないのか?」
湊の声は小さく、雨に溶けた。
「少なくとも、“普通”じゃないな」
テオはそう言いながら立ち上がり、窓の外を見た。
「外、相変わらずの雨だ。止む気がしねぇ」
「いつもそうだ」
「まるで俺たちに合わせてるみたいだな」
テオは肩をすくめ、背を向けた。
「昼になったら下に降りろ。アリアが顔を見たいってさ」
「……わかった」
「ちゃんと食えよ」
「努力はする」
テオが出ていくと、部屋に再び静寂が戻った。
湊は、手の中のパンを見つめる。
冷めていた。
口に入れても、味はほとんどしない。
窓の外では、雨がまだ降り続いている。
まるで世界が、洗い流されることを拒んでいるように。
湊はゆっくりと立ち上がり、
冷たいガラスに手を触れた。
外の景色が、ぼやけた水彩画のように揺らいでいる。
その中に、一瞬だけ――
“誰か”の影が見えた気がした。
けれど、次の瞬間にはもう消えていた。
「……幻覚、か」
小さく息を吐く。
どこかで、時計の針が動く音が聞こえた。
雨の音と、静寂の呼吸。
その狭間で、
黒狗《Seconda Zanna》の朝は、ゆっくりと始まっていた。




