第14話:静かな残響
倉庫を出た雨は、思ったよりもやさしかった。
潮と鉄と血の混ざった匂いを、無言で拭い去るような雨。
それでも、耳の奥だけは静かにならない。――音が、残っていた。
港の照明が遠くで滲んでいる。
湊は歩きながら、呼吸の段差を整えるみたいに数を数えた。
四拍吸って、四拍止め、四拍吐く。
乾いた喉に、雨が少しだけ甘い。
隣のテオは、いつも通りの足音だった。
いつも通り――のはずなのに、歩調の中に“譲らない”硬さが走っている。
掌の中のデバイスは沈黙していたが、Prototype_06 の文字だけは、皮膚の裏側で焼き付いたままだ。
「……帰るぞ」
テオが短く言い、湊は頷くだけで言葉の形を作らなかった。
口を開くと、まだあの音がこぼれそうだったから。
◇
帰路の車内は、ワイパーのリズムで揺れていた。
雨脚が強まったのか、屋根を叩く粒の音が一段深い。
湊は窓外を流れる街灯を数える。
数はいつも逃げ、十で区切ろうとすれば十一が廊下の突き当たりから顔を出す。
『――でさ、帰りに甘い物買ってきてくれたら許す。ほら、血とか音とかいろいろ大変だったじゃん、あたし』
フィオの声は軽い。だが、底に沈みがある。
おっさんの“今”を、彼女はもう数えている。
「何を許すんだ」テオが返す。
『おっさんが黙ってる罪』
「罪じゃない」
『だよねー。でもさ、M・Gってさ』
言いかけて、フィオは舌打ちみたいに短く笑った。
『はいはい、了解。口は閉じて耳は開く。紅鼠モード、ON』
「……速さ、戻ってるか」
テオが問う。
湊は拳を握り、関節の鳴る音で確かめる。
「戻ってる。けど――中に別の脈がいる」
『共鳴の残り香だよ』とフィオ。
『波がまだ打ってる。時間の奥行きが、さっきより深くなってるはず』
「深く?」
『速さってのは平面を速く走る行為じゃない。層を抜ける行為。
さっき音の層を破ったでしょ。だから、段差を身体が覚えた。――次は躓き方が変わるよ』
「……躓く前提か」テオが苦笑する。
『人は走る時、必ず躓く。あたしはいつも、それを前提に設計するよ?』
『それと――甘い物、忘れんな』と続け、通信は切れた。
雨の音が席を取り戻す。
◇
拠点。地下への階段はいつもより冷たい。
段差の鉄が、夜の温度を丸ごと連れてくる。
黒狗のフロアは灯りが落ちている。
備品ロッカーへ刃を戻し、湊はタオルを肩に掛けた。
静かすぎる時、人は自分の音を拾いすぎる。
湊は呼吸のテンポをわざと大きくして、世界の中に自分を戻した。
テオは机に荷を降ろすと、無言で資料室へ。
扉は閉じない。閉まらないほうが、逃げ道がある――そういう判断に見えた。
湊の机の隅に、紙包み。
開けると白い砂糖に沈むカンノーリが二本。
付箋には丸い字で『借り』。差出人は書かれていないが、分かる。紅鼠の字だ。
湊は一本をテオの机へ、もう一本を噛んだ。
甘さが、残響の角を少し丸くする。
「――報告だ」
テオが戻ってきた。目の下に疲れはあるが、声は平ら。理性がそこにある。
小会議室。アリアが待っている。
灯りは白すぎず暗すぎない、“設計された”照明。
「二番倉庫、確保。残敵なし。確証を伴うデータ収穫:Prototype_06」
テオが淡々と告げる。
アリアが頷き、卓上端末に触れる。画面には既にフィオの雛形報告が走っていた。
「残響は?」
「死亡。最期にこう言った――『正解はお前たちではない。速さが生まれた瞬間、設計図は完成していた』。
設計者は“光そのもの”、我々は“模倣体”。――そう言った」
アリアの視線が、テオと湊を同じ角度で掃く。
価値でも温度でもなく、機能の列として。
「Prototype_06 の被験者表記に M・G」
テオは淡々と続ける。
アリアは眉ひとつ動かさず受け、「推定:同姓同名」とだけ言った。
「推定を並べるには材料が薄い」
「材料は集めるもの。――第二牙の仕事」
声は刃でなく定規。真っ直ぐで、曲がらない。
「……任務は?」
テオの問いに、アリアは港周辺の旧図面や迂回路、廃倉庫名簿を窓のように開いていく。
「二番から三つ先。記録上は取り壊し、市に引き渡し済み。
――でも、地図から消した建物ほど“痕跡”はよく残る」
「三つ先、四番だ」テオ。
「ええ。四番倉庫。Quarta」とアリア。
“第四”――薄紅の番。偶然より、設計を疑うべき組織だ。
「四番倉庫に潜る。監視は紅鼠、影の灯消しは黒影。――静掃」
テオは短く区切って言い切る。「四十八時間、眠らない」
「……よく眠らない」アリアの瞳が、一瞬だけ人間の温度を持つ。
「甘い物は用意させる。紅鼠が“借り”を増やしてるから」
湊は会話の少し外側で、自分の脈を数える。音が行き来する。
止まらない代わりに、揺れも止まらない。これは借りだ。返し方は、走ることだけ。
「……行く」
湊が言い、アリアとテオの視線が返る。
「四番。今夜」
テオが頷き、アリアは端末の光を切って一言だけ落とす。
「走りなさい」
◇
装備室の匂いは、オイルと綿布と鉄の青さ。
湊はブレード・ユニットのエッジに指腹を滑らせる。
鋼牙の祈り――微細な溝が皮膚に目に見えない音を残す。
テオは弾倉を二つ、均等に腰へ。
荷の配分。計算された所作。
それでも、指先が一度だけ空を握る。掴めないものの形を確かめるみたいに。
「……テオ」
振り返らないが、耳は向く。
「M・Gが――」
「行こう」
遮る声は、冷えていて温かい。
「答えは現場に落ちてる。紙の上でも端末の中でもない」
『――んで? 甘い物は?』
いつものタイミングでフィオ。
テオはカンノーリをポケットから掲げる。
『よろしい。四番倉庫、耳は開けとく。……あ、おっさん』
「なんだ」
『さっきより、息が揃ってる。二人とも』
通信が切れた。湊は深く息を吸って吐く。確かに、テンポは同じだ。
◇
四番倉庫は、夜の底に沈む。
「取り壊し済み」の札。だが門扉は厚く錠も新しい。
取り壊す前に“壊すのに困るもの”を入れておく――いつものやり口。
フェンス影に沿って、二人は音を削るように進む。
足裏が地面の“粗さ”を逐一拾う。
さっきの残響が置いていった“層”が、まだ身体を補助している。
段差に躓く前に、段差が自己申告してくる。――走りやすい。怖いくらいに。
『外回り――監視無し。拒否ログ多数。誰かが“見ないふり”してる。
中、心拍二。機械心拍一。音場無し。残響タイプじゃない』
「開ける」
テオが閂に触れ、金属のわずかな軋みで錠を壊す。
湊は呼吸を凪にして踏み入れた。
湿った埃。空気は手前から奥へ。
正面の木箱は偽物。左壁のパネルは後付け。――右奥が冷たい。
視線で合図。テオは見ていないふりで右奥へ。
扉。電源は落ちているが、錠機は生きている。カード式。
床下配線の膨らみにカード。
膝をつき、床板を起こし、古い金属音。
緑が一つ灯る。扉が開く。
機械の冷気――規則正しく呼吸を模倣する冷気。
『心拍三に増。機械二、人一。人は女。呼吸浅い。緊張』
「行く」二人は同時に答えた。
階段を下り、狭い地下。
白く、白すぎない光。――“設計された光”。
机が一、端末が三、中央に筒状の装置。
脈動。〈SPEED_α〉ではない、別の波。
黒いジャケットの女が一人。短い髪。
目の奥の緊張が、正面から立っている。
「撃たないで」
両手を上げる声は震えない。それが一番怖い。
「誰だ」
「レオナ・セルヴァ」
湊の背に冷たさ。第四牙・薄紅。アーカイブの守人。
「驚かないで。私はここを守っていない。
ここへ来たのは――消すため」
レオナは装置を指し示す。
「“光の設計図”の過去版。模倣ではなく、原記録に近い層。
――消しに来た。私は薄紅だから」
薄紅の仕事は、残すために消す。
湊は目を伏せ、上げる。「どうして、今」
「あなたたちが辿り着いたから。遅すぎると消えない。早すぎると別の誰かに拾われる。
――今が、ちょうどいい」
「誰か、とは」テオ。
瞬き一つ分の沈黙。
「十一と五。場合によっては、一」
黒影、黄金牙、そして神の砦。
湊は装置の波を耳で数える。残響ではない。
もっと“人の言葉”に近いリズム。――脳の奥の、願いの音に似ている。
「消す前に、ひとつだけ」
レオナが端末に触れ、短いコードを浮かべる。
Luce_Prototype_06
subject: M.G
note: ——(破損)
破損の行に触れられた痕。指でなぞったような削れ。
「私が削った」
テオの瞳の奥で光が揺れる。
「保存したのよ。あなたを」
沈黙。装置の脈だけが“呼吸”を続ける。
「あなたは被験者じゃない。――候補だった」
「選ばれなかった理由は記録の外。私が外に出した。
そのあと、誰かがあなたを第二牙に上げた」
テオは銃口を下ろす。
湊は拳が勝手に強くなるのを止められない。胸の奥で音が跳ねる。
残響ではない。怒りか、別の名の火か。
「消す」
レオナ。
装置側面のパネル。配線の束は心臓に刺さった針のよう。
一本抜き、二本切り、三本目へ――止める。
「条件がある」テオが低く。
「写しを持たない」
「持たせない」
「――記憶は?」
レオナは薄く笑う。
「薄紅は記憶を持ち歩かない。匂いしか残らない」
湊は装置の脈に掌を当てる。冷たい。
なのに、奥に微かな温度。人間の体温ではなく、願いの温度。
走りたいという、名のない衝動の熱。
「消せ」
テオ。
最後の線が抜かれ、脈動が止む。
同時に、湊の掌の内側の熱が少し強くなる。
空いた場所に、何かが戻った気がした。
レオナはコードを一つずつ潰し、何も残さない形に整える。
“消す”のではなく、“終わらせる”手つき。薄紅の字は墓標の字だ。
「――行って」
「ここは私が片付ける。あなたたちは動く。動かない光は、すぐ腐る」
テオが一瞬だけ湊を見る。湊は頷く。
言葉はいらない。走るしかない。
◇
地上。雨は細く、屋根の水が点で落ちる。
港の照明はさっきより遠い。
『――ねぇ、おっさん。ありがとうって言えた?』
フィオ。どこまで見たかは知らないが、見ていたのだ。
「言う必要はない」テオ。
『じゃ、代わりにあたしが言っとく。……ありがとう、薄紅』
湊は空を見上げる。
雨粒はまっすぐ落ち、音はもうしない。
残響は消え、静けさが残った。
帰路、信号で車が止まる。赤。
雨に滲む、簡単な正解――進むな、止まれ。世界は時々、優しい。
「湊」
「速度、どうだ」
「出せる。……さっきより、細い」
「細い?」
「線で走ってる感じ。前は面で走ってた。音を避けたせいだと思う」
「避けることを覚えると、突っ込むのが遅くなる」
「遅くなる?」
「――狙いが良くなる」
テオの笑みは微かで、それが今夜いちばんの“正解”だった。
◇
拠点。非常灯の薄い緑が床を長く撫でる。
湊はシャワーで残響の“匂い”を落とし、ロッカーの扉を鏡代わりに顔を見た。
映るのは今の自分だけ。“昔”は映らない。――それでいい。今は、まだ。
踊り場の手すりに、フィオが腰掛けていた。
両足で空気を蹴り、猫みたいに笑う。
「おかえり、湊くん。……おっさんは?」
「上で書類。紅鼠の“借り”を増やすって」
「増やせ増やせ。借りは栄養」
フィオは湊の顔を覗き込み、瞳の奥の刃で速度を測る。
「まだ音がいる?」
「いる。薄い」
「いいね。薄い音は合図。――速さが動く前に、こっちに教えてくれる」
「……合図、か」
「そう。湊くんは、走るたびに“音”を鳴らす人だから。
それ、あたし、好き」
“好き”は紅鼠の辞書で“使える”のずっと上にある。
湊は頷き、その言葉を胸にしまう。少しの雨音が落ちた。
「フィオ」
「うん」
「……テオの前で、Prototype_06の話は、もう少ししないで」
フィオは親指と人差し指で小さなゼロを作る。
「りょーかい。おっさんはおっさんのままが、いちばん強い」
彼女は手すりから滑り降りる。
「寝な。明日も走るから」
足音が遠ざかり、湊は部屋に戻る。
灯りを落とす。天井の暗さに目が慣れる。
音が、やっと静かになった。
眠りの手前、台所の匂いが蘇る。
『みな――』
そこから先は、やはり聞こえない。けれど今は、それでいい。明日も、走るから。
◇
【別室:記録庫・封鎖部屋】
テオは鍵のかかった小部屋で、古い端末を開く。
指紋ではなく手順の鍵。順番を間違えれば、何も出ない。
正しい順で叩けば、古い海の匂いがする情報だけが浮かぶ。
画面隅に破損したファイル名。Luce_Prototype_06
被験者:M・G。――読み込めない。
読み込めないから、想像が補う。想像は時に真実より鋭い刃。
テオには、記憶がある。
“候補”と呼ばれた日。黒い部屋。白い紙。
選ぶ、という言葉。選ばれる、という沈黙。
――そして、断った記憶。
なぜ断ったか。言葉にはならない。
ただ、あの時見た“光”が自分の光ではない――それだけは確かだった。
端末を閉じる。音はしない。
沈黙の中で、心臓だけが仕事を続ける。
◇
【屋上】
アリアはひとり、雨の匂いを吸う。傘は差さない。
髪から落ちる水がコートの肩を濡らす。
冷たさのことは、もうどうでもいい。
イヤピースの向こうに歪んだ声。
『進行状況は?』
「第二牙は、走り続けている」
ほんの少しの誇りが混ざる。
『鍵は?』
「彼は鍵かもしれない。……あるいは鍵穴」
『どちらでも、扉は開く』
「――扉の先が“正解”とは限らない」
雨が強まる。
「開けるのは、走る者だけでいい」
通信が切れる。屋上の風が濡れた世界を撫でる。
光は高く、影は近い。どちらもルーチェ。
向かうべき場所は、もう決まっている。
◇
【港・二番倉庫:深夜】
割れた窓から、細い音がひとつ。
残響ではない。残響に似せた偽物の波。
床の隙間の小ユニットが、一度だけ弱く光る。
“送信完了――Luce/Sequence_07/Hand_Shake”
闇のどこかで、誰かが微笑む。
鍵にも鍵穴にも、まだ名前はない。だからこそ、扉は開く。
◇
夜はまだ明けないのに、港の鳥が鳴いた。
湊は音の薄さで時間を知る。雨は止んだ。
耳の“残響”はいない。代わりに静かな印が残っている。
走る前の、余白のような印。
ベッドから起き、手を握る。
掌の熱は昨夜より細く、真っ直ぐだった。
細い線は真っ直ぐに伸びる。躓きも跳躍も、全部載せられる。
廊下に出る。ちょうどテオが扉を閉めるところ。
目が合う。互いに言葉はない。
朝の空気の中、わずかな頷きだけが合図になる。
走る。
それだけだ。
――まだ光は遠いが、道はもう、はっきり見えている。




