第13話:正解の残響
倉庫の空気は、腐った鉄と潮でできていた。
音が、存在していない。
世界が、息を止めているようだった。
その中心に、ひとりの男がいた。
光の届かない椅子に腰かけ、足を組んでいる。
その姿は、静止画のようでいて、呼吸のたびに周囲が微かに揺れる。
空気が震え、視界の端の壁が波打った。
「ようこそ、第二牙。……“正解”を見に来たのか?」
声が、低く響く。
だが、その音の出どころがわからない。
右から聞こえたと思えば、左の奥で反響する。
音が、方向を持たずに回っている。
湊とテオは、同時に立ち止まった。
『反応ひとつ。……けど、心拍が変だわ。音が呼吸してる』
フィオの声が、耳元の通信機から落ちる。
“音が呼吸する”。
意味を理解するより早く、空気の層が一枚、ズレた。
「名は?」テオが問う。
銃口が、わずかに男を捉える。
男は笑う代わりに、指を弾いた。
パチン。
それだけで、空間が爆ぜた。
音の波が走り、金属棚が一斉に軋む。
ガラスが音もなく割れ、雨粒のように床へ落ちた。
「俺は“残響”。――“光の設計”を守る残り火だ。」
その瞬間、空気がまた揺れる。
微振動が床から伝わり、足の裏が痛いほど痺れる。
心臓が“音のリズム”を強制されるような、不快な脈拍。
「“速さ”は、神の時間だ。
ならば俺は、“音”で神を殺す。」
残響が片手を持ち上げる。
その掌から、淡い銀の粒が舞い上がった。
金属粉かと思ったそれは、耳鳴りとともに可聴域を超えた音を放つ。
――空間が、崩れた。
床のコンクリートが、波のように隆起する。
壁の影が流体のように動き出す。
そして――湊の世界が止まった。
「……っ!」
走ろうとした瞬間、身体が動かない。
速さを使えない。
世界が、自分より速く動いている。
視界の端で、テオが何かを叫んでいる。
だが声が遅れて聞こえる。
“音が時間を食っている”。
その現実を理解した瞬間、後頭部に鈍い衝撃。
目に見えない“圧”が、耳から脳を突き抜ける。
吐息とともに、肺がひしゃげた。
膝が折れ、地面に手をつく。
手のひらがビリビリと震える。
――金属と共鳴している。
『湊くん、駄目! 音場が体内で回ってる! 神経伝達を乗っ取られる!』
フィオの声が悲鳴に近かった。
湊は歯を食いしばる。
耳の中で、世界が軋む。
「どうした、Prototype_07。
“正解”を証明してみせろ。」
残響の足元に、光が走った。
地面に、円形の陣のような波紋が広がっていく。
それはまるで、心臓の鼓動を可視化したような模様。
音が形を持っている。
湊の“速さ”が封じられるたび、空間の輪が狭まる。
呼吸が合わない。
動こうとすれば、世界が逆に動く。
――速さを殺す音。
「湊!」
テオの声が、何層もの音の間を突き抜けて届く。
その声だけが、ぶれない。
世界の中で、唯一“正しいテンポ”を刻んでいる。
テオが一歩、踏み出した。
その足音が、倉庫全体に響く。
銃口を向けたまま、淡々と告げた。
「お前の異能――数式で動いているな。」
残響が笑う。
「ほう……?」
「振動数を、固定式で制御してる。
音が均等に分布してる。……つまり、“予測できる”。」
テオが膝をつき、床を指先で叩く。
カン、カン、カン。
そのリズムが、残響の波に対して逆位相を作り出した。
バチィィン――!
音が衝突し、空気が破裂する。
耳をつんざく爆音のあと、倉庫が一瞬だけ静止した。
共鳴の波が止まり、湊の身体が“戻る”。
「湊――今だ!」
その声で、全てが繋がった。
湊の中で、何かが弾ける。
世界が“遅れる”。
足の裏が地面を蹴る。
反動の瞬間、音が置き去りにされた。
空気の層を突き抜け、波紋を超える。
残響の目の前に一瞬で出る。
――速さ、解放。
刃が閃く。
時間が遅れる。
音が届く前に、光が先に通り抜けた。
残響の頬が切れ、血が線のように宙を走る。
だが――彼は、まだ笑っていた。
「……それが、お前の“速さ”か。」
次の瞬間、壁から金属音が走った。
反射音。
まるで倉庫全体がひとつの“楽器”のように鳴っている。
その中心に、残響が立っていた。
掌を上げ、低く呟く。
「第三共鳴――人音融合(Uman Resonance)」
空気が破裂した。
湊の動きが、また止まる。
音と肉体が融合する。
自身の心音が、敵のリズムに合わせて“演奏”されている。
「速さは“孤立した時間”だ。
孤独である限り、音に飲まれる。」
湊の心拍数が跳ね上がる。
頭の中で、リズムが反転する。
全身が金属のように硬直する。
――だが。
銃声。
その一発が、音の支配を割った。
テオの弾が、音の“焦点”を撃ち抜いた。
共鳴が一瞬止まる。
その隙間に、湊の足が動く。
「――っ!!」
閃光。
音より速く、空気を裂く。
残響の胸に、刃が通った。
衝撃波が、全方向に拡散する。
倉庫の窓が一斉に割れ、外の雨が吹き込む。
共鳴の音が止まると同時に、世界が静かになる。
残響は崩れ落ちながら、血の中で笑った。
「正解は……お前たちじゃない。
速さが生まれた瞬間、設計図は完成していた。」
「どういう意味だ。」
テオの声が低く響く。
残響の瞳が、光を失いかけながらも笑う。
「設計者は、“光”そのものだよ。
俺たちは、ただの模倣体だ……」
そのまま、息が途切れた。
沈黙。
雨が屋根を叩く音だけが残る。
湊は肩で息をしながら、崩れた装置の残骸を見下ろした。
『テオ、デバイスが動いてる! 自動転送――止める?』
「いい。開けろ。」
端末の画面に、コードが走る。
Prototype_06 / Data Fragment / Luce Sequence-06
そして、その下に。
M・G
湊が顔を上げる。
テオの表情が、僅かに強張った。
そのアルファベットを、彼は知っている。
Matteo Greco。
まるで時間が止まったような沈黙。
テオはゆっくりと目を閉じ、デバイスを握りつぶすように閉じた。
「帰るぞ。――アリアに報告だ。」
外に出ると、雨が静かに降っていた。
風が血の匂いを洗い流し、潮の音が遠くに響く。
湊は空を見上げる。
速さは戻っている。
けれど、音の中に何か別の脈動が混ざっている気がした。
“Prototype_06”。
その記号が、今も頭の奥で反響している。
テオの背中が、夜の中で濡れる。
湊は一歩、後を追った。
雨が、すべてを流すように降り続ける。
だが――音は、まだ止まっていなかった。
倉庫の奥。残響が倒れた床の下で、小さな機械音が一度だけ鳴った。
“ログ送信完了――Lu_ce/Prototype_07/Sequence_Continue”。
その信号は、誰にも気づかれないまま、闇のネットへと沈んでいった。




