学校で習う古典って役に立ちますか?
このエッセイをお読みになる方々の年齢を知るすべは、私にはありません。しかし、もし中学校や高等学校の生徒さんがお読みになっていたら、迷わずこう申し上げます。
「小説を書く側になりたいのなら、今のうちに古典単語と古典文法をしっかり学習して身に付けておくべきですよ」
どのくらい学んでおくべきかというと、書きたいことを、そこそこ文語(古典の言葉)で書ける程度です。
何故なら、それだけで表現の幅が格段に広がるからです。
古文書、古い歌の歌詞、太古の神々の言葉……。そういったものを文語で表すことが出来れば、それだけでずっと雰囲気が出ます。また、登場人物にあえて文語調の言葉遣いをさせることで、厳かな場面を演出することも出来ます。
――本当に?
――面倒くさいし、勘で良くない?
そう思う方もいらっしゃるでしょう。確かに、文法を習わずに「それっぽい」文章を書くことも出来なくはありません。必要な時だけ他の作家などが使っていた文語調の言葉を真似してみる、という方法もあるでしょう。
しかし、「それっぽい」物はどこまでも「それっぽい」だけなのです。
文法の誤りなど、誰も気付かないか、気にしていないだろうから構わない?
いいえ。案外、少し勉強している高等学校の生徒さんレベルでも、容易く見破ることが出来るものなのです。
せっかく自分では重厚感のある表現が出来たと思っていたのに「この作家さん、形容詞の後に名詞が来るなら連体形にしないといけないのに終止形のまま書いているよ」と笑われるのは勿体ないと思いませんか?
そして、読者は一度「ここが間違っている」と思ってしまうと、そこが気になって後の内容が入ってこないことが多いのです。
他の作家などが使っている文語調の言葉なら大丈夫ということもありません。売れている作家や映画の脚本家でも、間違うことはあります。真似をするということは、その間違いまでコピーするということです。
それはたとえるなら、こういうことです。
「テーブルマナーを知らない人が、隣の席の人の所作を真似しているうちに、隣の席の人が謝ってグラスをひっくり返してしまった。それで、テーブルマナーを知らない人は、自分もグラスをひっくり返した」
今の話は、ある有名な少女漫画のギャグシーンですが、基礎的なことも身に付けずにただ真似だけをすれば、どれほど滑稽なことになるか、解って頂けるのではないかと思います。
もし真似をするなら、きちんとした古典文学を真似しましょう。「ここ間違っているんじゃない?」と言われた時、現代人の誰かもそう書いて(言って)いたからと答えるよりも「兼好もそう書いていますから」と言う方が説得力がありますものね。
それでは、偉そうに講釈を垂れている書庫裏自身はどうなのだ、と仰る方もいらっしゃるでしょう。
私は学生の頃にきちんと学んでいなかったので、大人になってから、昔学校で使っていた国語便覧と古語辞典を先生代わりに学びはじめ、時々、文語を書く練習をしています。紫式部のような漢籍(漢文の本)や和歌の豊富な知識があるわけではないので、『源氏物語』のような麗しい文章とはいかず、簡単な文語なら古語辞典を片手に少しだけ、という程度。間違うことも多くあります。それでもまだまだ学び続けたい、きちんとした文語を書きたいと思っているのです。
目標は新作の謡曲をものすこと。
人生が終わるまでには必ず、と思っています。
今回は本当に「心に浮かぶよしなしごとを、そこはかとなく」書いてみました。兼好の『徒然草』は大人になって読み返すと面白いですよね。




