型に則って創作するのは非難されるべきこと?
「小説家になろう」をはじめとする投稿サイトでよく目にする「テンプレ」。最初はなんだろう、と思っていたのですが、「テンプレート」(定型)から来ている言葉なのですね。小説投稿サイトに投稿される作品は「テンプレ」に従って書かれた作品も少なくありませんが、その点で「独創性がなくてつまらない」と批判する方々も、時々いらっしゃるようです。
それを聞いて、思うのです。「型に則って創作するのは、本当にいけないこと?」と。
単純に「型に則ること」と「独創性がないこと」をイコールで結び付けられる方には、まず、和歌や俳句、唐詩を思い出して頂きたいと思います。いずれも定められた字数で、和歌ならば掛詞や縁語などの修辞を用い、俳句ならば季語を一つ入れ、唐詩ならば決まった箇所に押韻と対句を入れるのが基本ですが、果たして「独創性がなくてつまらない」かどうか。和泉式部や在原業平の和歌、孟浩然や杜甫の詩。型こそ同じですが「似たり寄ったりの詰まらないもの」ではないから、千年以上も愛されているのです。
そして、散文の世界にも、案外、お決まりの型から始まるお話は多いものです。例えば、子どもに読ませたい世界名作として挙げられる『赤毛のアン』『少女パレアナ』『ハイジ』『秘密の花園』は、いずれも親を亡くした少女が、子育て経験がないか、コミュニケーションに問題があるか、或いはその両方、といった大人に引き取られ、その強烈な個性で周囲を振り回しながら、愛され、承認される経験を通して成長していく話です。
また、これらの作品からは「子どもは衣食住が揃っているだけでは育たないので、太陽の光の下で同年代の友達と思い切り身体を動かして遊ばせ、愛情をたっぷり与え、承認される場を設けましょう。また、大人は家庭内で、または一人で全てを抱え込むのではなく、地域の人々や友人など、信頼出来る人に協力を仰ぎましょう。」という大人に対する共通のメッセージも読み取れます。
では、これらの作品は似たり寄ったりで読む価値もないものでしょうか?
そうではないから、今でも図書館や書店の世界名作コーナーに置かれているはずです。
また、映像作品にも、型に則って創作された作品はよく見られます。因習村を舞台にしたホラーやサスペンス。身分の高い武士が本来の身分よりも低い身分の、下級武士や町人に身をやつして弱き庶民を助ける時代劇。そう聞くだけで、どういう話なのか大方の予想はついてしまうのに、ついつい視聴してしまうことは、ありませんか?
「型に則った創作」(いわゆるテンプレ)には、作る側にとってメリットがあります。まず一つは、完全な無から有を生み出すよりも、創作のハードルが下がること。もう一つは、その時代や社会に受け入れられやすい話を作れること。つまり大衆受けしやすい作品を量産するのに都合が良いのです。
デメリットは、大衆娯楽作品の範囲から抜け出るのが難しいということ、飽きられやすいこと、他の作品との差別化が難しいことでしょうか。
しかし「テンプレ」作品でも、ありきたりの作品にしない方法はあります。お約束通りの展開と見せかけてのどんでん返しも面白いのですが、細部で差を付ける方法もあります。
異世界恋愛で特によく見られる「愛情や所有欲を示すために、自分の髪や目の色を相手の衣装や装飾品に取り入れさせる。」という様式。竜や獣人の登場する作品の「番制度」。「舞台が学園で、悪役令嬢が登場する乙女ゲーム」。「魅了能力でハーレム」。これらのお決まりの要素を一つ、二つ外して、それに代わる別の設定を入れるだけでも一味違う作品になります。
一方「自分の色を纏わせる」、「番制度」、「悪役令嬢のいる学園」、「魅了能力でハーレム」等のお決まりの要素を全部取り入れていて、それでも読者に「唯一無二」と思わせる作品もあります。そういう作品は、キャラクターの造形や、展開に、作者の個性が強く表れています。作者の人間観(人生観)、嗜好、人生経験などなど。
作品に独自性を持たせるために「お約束」を一つ二つ外して代わりとなる別の設定を入れるか、自分自身をさらけ出す勢いで書くか。これらのことは上位ランキングの常連の皆様ならば既に実践されているところでしょう。
無から有を生み出すような、世界観も人物造形も独創的な作品は、勿論素晴らしいと思います。しかし、「型に則る」ことはあっても「盗作・盗用」はせず、「ありきたり」にならないようにいつも工夫しながら創作をされている方々にも敬意を払うべきですし、そうして生まれた作品も評価されるべきだと思います。
ミッチェルの『風と共に去りぬ』はストックキャラクター作品ですし、名作でも必ずしもゼロからの創作とは限りません。




