求められていたのは本当に正確さだったのか?
世界の中心で「君が好きだ」と叫ぶよりも、「こんなこと(時代考証的に)間違ってるよ!」と叫びたい、そう思う時がある昭和後半生まれでございます。
作り手を悩ませる「時代考証」。
二〇二四年放送のNHK大河ドラマ「光る君へ」に対して「時代考証的におかしい」と批判する声が随分あったのは、皆様もまだ記憶に新しいかと思います。大河ドラマでさえ「時代考証から外れている」と容赦なく批判されるという、印象的な出来事でした。
ならば時代考証に忠実なら良いのかというとそうもいかないようで、二〇一二年放送の『平清盛』は「王家」という用語が時代考証的に適当であるかどうか物議を醸した一方、衣装や建物、都の描写があまりに考証に忠実だったために、一部からは「映像が汚らしい」と不評でした。そのリアルさが芥川龍之介の『羅生門』を連想させて、あれはあれで非常に良いものだったと思いますが、一方で、その七年前に放送された『義経』の映像美を深く印象に刻まれた視聴者が「同じ時代の同じ場所、主要登場人物もほとんど同じであるはずなのに何故……」と不満を覚えたのは無理からぬことであったろう、とも思います。
そういうわけで、時代考証を徹底し、リアリティを追究した作品に対してもそれはそれで不満が出ます。
それでも出される「大河ドラマは時代考証に忠実であってほしい」という要望。これはNHKの制作する番組である以上、出来るだけ正確な内容であってほしい、という考えを持っている人々が一定数存在するところから来るようです。
では、その他の娯楽作品で「時代考証的に間違っている」と文句を言いたくなるのはどういう心理からくるものなのでしょうか。
民放の代表的娯楽時代劇『水戸黄門』シリーズ。その時代考証の緩やかさは、大河ドラマとは比べるべくもありません。そもそも水戸光圀が日本全国を徒歩で旅して回る、というストーリーの根幹が既に史実と異なっています。細部も「面白さ」「分かりやすさ」を重視して最低限の「江戸時代らしさ」を感じさせる程度。人々の言葉は身分や立場による差異はあれど、生まれ育った地域による差異はさほどなく、人々の服装や髪型は江戸末期のもので、既婚女性が塗るはずのお歯黒もありません。
それでもそういったことが大きな問題になることはなく、老若男女に愛されてシリーズは数十年にも渡って続いていきました。
このように、必ずしも時代考証に厳密でなくても広く長く愛される作品もあるのは何故なのでしょう。
それは、視聴者や読者といった受け手が、その作品の架空の設定やストーリー展開を受け入れているからではないでしょうか。時代劇「水戸黄門」の場合、光圀が全国各地を漫遊した史実はないのですが、江戸時代に「水戸黄門は名君で、各地を漫遊していた」という伝説が生まれ、落語や講談、小説などによって人々の間に浸透していました。陳寿が記し裴松之が注を施した史書『三国志』には「司徒・王允の養女で、絶世の美女である貂蝉が、美女連環の計によって董卓と呂布の主従関係を破綻させた」という記述などなく、「董卓の侍女と密通した呂布が、その発覚を恐れていた」とある程度ですが、よほど実力のある作家の書いた作品でなければ、貂蝉のいない三国志物は彩りに欠けるとさえ思われます。それを受け入れる土台がある、或いはその展開があるために物語が面白くなるのであれば、「史実と違う」「時代考証に合わない」と拒絶されることはないのでしょう。
逆に、間違っていると言われる、或いは間違っているのではないかと疑われるのは、その設定や展開が受け入れ難い、或いは不快だ、と受け手が感じた時ではないかと思うのです。
シリアスな人情ドラマを描く時代劇で、もしも侍がコーラを飲み、ハンバーガーを食べていたら物語に没入出来ませんよね。太平洋戦争のさなか、医者から結核と診断された善良な若者の元に赤紙が届き、結果彼が戦場で病死するという展開は悲惨過ぎるでしょう。古代中国を舞台にした話で楊貴妃の如き豊満な女性だけが美女とされ、一方で趙飛燕の如きほっそりした女性が醜女と貶されていたら「古代美女の条件に『柳腰』『細指』が挙げられることも知らないのか」と文句を付けたくなるかもしれません。
時代考証は、物語に説得力を与え、その作品の世界観を守るものです。「時代考証に合わない」と批判される時、その声の裏にあるのは「説得力のない物語だ」「作品世界に没入出来ない」という心理が働いている可能性があります。
創作上の方便として史実に合わない架空の設定や展開を入れたいと考える時には、「想定される受け手に受け入れられる土台があるか」「世界観が破綻する可能性はないか」に気を付ければ、失敗する可能性は低くなりそうです。
NHKはNHKでも大河ドラマを放送しているのは総合チャンネルの方なので、娯楽作品として大らかに楽しめば良いと思う一方、教育チャンネルの世界名作系アニメ・人形劇は、もう少し原作や史実に忠実にしてほしい、と思うことも。「生まれつきの髪の色でピンクの服を諦めることはないよ」というメッセージがあるとか、「尺の関係でオリジナルキャラクターを出して話を広げる必要がある」とかなら良いのですが、とある人形劇で推しが意味もなく老人にされた件については、制作されて数十年経っているのに、未だにモヤモヤするのです。




