4 家
車に乗ってすぐ、戒は驚くことになる。
「冗談だろ、山道に異空間だなんて……」
来は車を走らせるとすぐに街中から離れ、人気のない山道へ向かう。
ここから遠いのかと問うた戒に対して、一族の住んでいる場所は異空間にあるので、人気のない場所で車ごと移動しなくてはならないのだと来は答えた。
人気のない緩いカーブの山道で、対向車も後続車もない今ここから、まさにこれから移動すると言うのだ。
車は速度を保っていたが、前方の景色はすでに暗闇に塗りつぶされていた。
ずっと先の道路は途切れ、まるで暗いトンネルに飛び込んでいくようにも見える。
「おかしい」
あっという間に、アスファルトが見えなくなった。
脇のガードレールも。
片側の夜景も、反対側の木々の連なりも。
「何が?」
穏やかに聞き返す来の声音だけが違和感を感じさせる。
「だって、道がない――」
「そんなものは必要ありません。俺達の一族が住む場所は」
道なき道をゆく車は、全てが闇に包まれた。
それでも、運転する来は車を停める気配もない。
暗闇を進む車は、景色はなく、視界が流れない。
動いているのに停まっているような錯覚さえ起こさせる。
奇妙な違和感に、戒は初めて車酔いの感覚を覚えた。
その時、不意に暗闇が途切れた。
「――!」
一瞬にして両脇にどこまでも続く樹木が現れた。
遥か前方には木造りの大きな門が――見る見る門が大きくなる。
このままの速度ではぶつかるのではないかと思うほど速度が一定だ。
「ちょっと、危ない――」
「大丈夫」
大きくて重そうな門扉が、前触れもなく開く。
車はそのまま門を通過し、中に入る。
それから、ようやく停まった。
「――」
「着きました」
来がシートベルトを外して外に出る。
動かない戒の様子にも構わず、助手席にまわりこみ、ドアを開け、シートベルトを外す。
「行きましょう」
手を取られるまま、戒は車を降りた。
「ここが――」
「本家です。一族の多くがここに住んでいます」
風が吹いて、木々を揺らした。
大きな門扉にふさわしい、重厚な日本家屋が聳え立つようにそこに在った。
「――」
闇に浮かぶその屋敷は、永い時を経ているようなのに、朽ちた印象もなく、静謐を湛えていた。
玄関を開け、来が先導する。
中に入ったというのに、石畳が続き、靴のまま二人は進む。
静まり返り、人の気配もない屋敷内に、密やかな足音だけ。
ようやく直進以外に左右に別れるところで、来が左に曲がる。
さらに奥まで進むと、ようやく脇の壁に、交互に引き戸が見えるようになった。
まるで老舗の旅館のようだ。
一番奥の左手の引き戸まで来て、来はようやく止まった。
「どうぞ」
来が引き戸を開けてくれて、戒が中へ入ると、玄関の三和土があり、女物の靴が脇にある。
曇り硝子がはめ込まれたドアの向こうには人の気配が。
きっとこの靴の持ち主だろう。
「来? 戻ったの?」
ドアを隔てて落ち着いた声がする。
「ああ。お連れしたよ」
靴を脱ぐと、式台に上がり、廊下に置かれたスリッパを履く。
「中へどうぞ」
ドアの向こうの右手側には広々としたリビングがあった。
ソファとテーブル、壁際の大きなテレビ。
外観は旅館の体でも、内部は洗練されたホテルのスイートルームの様相だ。
違うのは、リビングの左脇にオープンキッチンが備え付けてあることだ。
離れが一族の住居スペースであることを考慮されているからだろう。
しかも、キッチンには古めかしいところは一つもなく、最新のシステムキッチンで、冷蔵庫も電子レンジもウォーターサーバーまである。
「暫くはここを使います。食事も今用意しているので安心してください」
「お帰りなさいませ。戒様。お待ちしておりました」
IHコンロから離れてこちらへ来たのは、三十代後半に見える女性だ。
「俺の母です」
「綾乃と申します。どうぞよろしくお願いします」
「――お、姉さんじゃ、ないの?」
驚く戒に、綾乃は微笑う。
「あら、まだ若くみていただけるとは。もう50は越えたと思います」
「全然若い……」
「一族は皆ここでは歳の取り方が緩やかなので見た目は若い方が多いですね。食事にしますか。それとも、先に風呂に?」
「お風呂がいい」
正直、そんなに空腹ではなかった。
「では、簡単に使い方を。こちらへ」
「では、それまでには準備を終えますね。何か、好き嫌いはありますか?」
「好き嫌いはないけど、パンより、白いご飯が、食べたい」
「わかりました。おまかせください」
一礼して綾乃がキッチンへと戻る。
来は戒を簡単にどこに何があるか伝えながら風呂場へと連れて行った。
トイレはきちんと個室をとってあり、洗面・脱衣所には洗濯機もある。続く風呂場はシステムバスではなく、かなり広く作ってある上に総ヒノキである。
バスタオルやドライヤーの置き場、着替えには浴衣を渡され、あっという間に戒は浴槽に身を沈めていた。
湯がかけ流しで出ているのに、脇にはシャワーも備えてある。
和洋折衷の小さな温泉宿にも思えるから不思議だ。
新旧の設備をバランスよく取り入れているので、あまり違和感なくなじんでいる。
思ったより疲れが出ていたのか、湯船に浸かった時点で眠気が催してきた。
「――」
程よい温度。水の流れる音。
腕が、浴槽に沈む。
意識が遠のく。
このまま眠ってしまう――その時。
誰かが呼んでいるような気がした。
言葉ではない。
自分を引き寄せるものが在る。
わずかだが確かに。
抗いがたく。
知らないのに、なぜか懐かしい気がした。
その気配を探ろうと腕を伸ばそうとしたが、指一本も持ちあがらない。
待ってほしい。
行かないで――
「戒様?」
「っ!?」
かかる声に、身体が大きく痙攣した。
「戒様? 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫。今上がる」
曇り硝子の浴室の引き戸の向こうに来の輪郭が見える。
先程の懐かしい気配は完全に消えていた。
風呂から上がり、浴衣に着替え、軽く髪を乾かして脱衣所兼洗面所を出ると、リビングとオープンキッチンの間にあるダイニングテーブルには食事が用意されていた。
膳に乗った料理は和を中心としたもので、どれも戒には馴染みのないものだったが、心を込めて丁寧に作られたものだとわかる。
「もしもお好きなものがあれば教えてくださいませ。和・洋・中なんでもお作り致しますよ」
ご飯を置きながら、綾乃が優しく笑う。
「好き嫌いは、あまりないよ。大丈夫。いただきます」
手を合わせてから箸をとる。
汁椀に口をつけると、出汁のきいた澄まし汁の温かさに、緊張がほぐれていく。
「美味しい……」
「お口に合ってようございました」
思わず呟くと、綾乃も嬉しそうに笑った。
「だから大丈夫って言ったろ?」
向かい側で同じ食事をとっている来が小さく笑う。
「来は食べなれてるから。よかったわ、明日もご期待くださいね。おやつもお出しできますよ。もしお好きなものがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね」
「甘すぎなければ何でも好きだ。でも、どっちかっていうと、和菓子のほうが好きかな。コーヒーよりお茶がいい」
「まあ、まあ、おまかせくださいまし」
嬉しそうにキッチンへ戻る。何やら下ごしらえを始め出した。
「料理や菓子作りが趣味なもので助かります。俺一人ではいつも食べきれませんので」
静かに言って、来は食事を続ける。
空気のように静かに、その場にいてくれる。
必要以上の干渉のないその様子に、戒もそれ以降は食事に集中した。
食べ終わると、寝室に案内される。
ここも新しく作られたばかりの部屋のように何もかもが新しく、簡素だった。
まるでちょっとランクの高いホテルの寝室のように大きめのベッドとサイドテーブル、大きなクローゼットの扉が目に入った。
部屋の簡単な説明を受けて、来がいなくなった後は、真っ直ぐベッドに入るとサイドテーブルのリモコンで明かりを消す。
暗闇の中、じっと手を見てもあの光はもう見えない。
「ここが――家か」
まだ信じられなかった。
自分が独りになってしまったことが。
――戒、私の戒。
そう呼ぶ声を、もうどのくらい聞いていないのだろう。
物心ついたときから、自分達はいつもさすらうように生きてきた。
自分達だけで、生きてきたのだ。
他には誰もいなかった。
いらなかった。
――お前を愛してるわ。
彼女は美しかった。優しかった。気高く、誇り高く、女神のようだった。
そして全身全霊で、戒を愛していてくれた。
戒には、彼女が全てだったのだ。
彼女を喪ったのに、どうして自分は今も生きていられるのだろう。
それが、最後だった。
意識が遠のく。
「――」
不意に重苦しい余韻を残し、戒は再び目覚めた。
ほんの数分のような気もするし、長い時間が経ったようにも思う。
見知らぬ天井を凝視しながら、思考する。
「夢、か……」
懐かしく哀しい夢を、見ていた。一番幸せだった、もう戻らない時を。
窓を見るとまだ暗闇は続いている。
夜明けはまだ遠いのだろう。
なんとなく、ここには朝は来ないような気がした。
もう一度目を閉じる。
孤独を埋める術も、今はまだない。
だから目を閉じ、再び眠りにつけるよう、ただ心の中で数を数えた。
とある部屋の中に、力のある二人がいた。
「当主が帰ってきたんだろう?」
若々しい、声音にさえ力のある響きだった。
「まだ当主ではありませんよ。正確には当主の御子です」
答える声も、若々しく、美しく響く。
「瞑の子なら、瞑亡き今、当主になるんだ。そこで言い換えるな」
「あなたがなるかもしれないじゃないですか。父が動いているのに、暢気というか……」
「真月も無駄なことを。俺は本家の当主にはならん」
「またそういうことを。我々分家の悲願を、そう簡単に否定しないでください」
「当主なんて、何の意味もないさ、俺にとっては。分家の当主を名乗ってるだけで満足しておけ。俺達の使命は、そこにはない。いっそ真月が当主になればいい」
「父は不適格でしょう。当主の絶対条件を持ち得ないのに」
「なら、お前がなれ」
「それこそ不適格ですよ。純粋な血統を継ぐのは、あなたと御子だけじゃないですか」
「〈斎名〉があるなら、それが当主の絶対条件だ。今生では、戒、来、俺と、お前だ」
「そこから私と来様は除外してくださいよ。血統の確かさも一族は最重要視しているんですからね。力が全てではありませんよ、玲様」
「弱肉強食が世の常だろうが。全く、続きすぎる血も弊害しか齎さないな」
「私達の存在意義をばっさり否定するのは、やはりあなたが高貴な血をひいたがゆえに力を得ているという証なのですよ」
「みんな同じ血が流れているのに、血統の貴賎も何もあるか」
「あなたのそういうところは父にとっては愛すべき点でしょうが、尻拭いをするのは父だけでなく私もですので、やめてください。迷惑です」
「いうようになったな、類」
「3年も付き合わされれば学習しますよ。そろそろお休みください。明日から本家と分家のすり合わせが始まるようですし」
「なあ、戒にはいつ会える?」
「東の離れにいるということは、暫く会えないのでは?」
「明日会いたい」
「また無理を――」
「何とかするのがお前の仕事だろ?」
大きなため息が一つ。
「わかりました。何とかします。その代わり、来様に叱られるのは玲様ですからね」
「ああ――楽しみだ」
一人が部屋から出ていく。
残った一人は暫くそこから動かなかった。
そうして、夜は更けていった。