3 戒
振り返って、戒はそこに見知らぬ男を見つけた。
二十代前半ほどの若い男の姿を。
闇のごとき漆黒の髪に、黒曜とも思える瞳を、男は持っていた。
落ち着いた、けれど繊細な雰囲気を伺わせる顔立ちは人間の造作を遥かに超え、美しかった。
それは戒が己れと母親の顔に見る、只人と異なる美貌だった。
けれど、こんな男を、自分は知らない。
母親以外、誰も知らない。
なのになぜ、彼女しか呼ばない自分の名をこの男は呼ぶのだろう。
懐かしい響きすら隠さずに。
「あんた、誰だよ――」
「あなたの、敵ではない。警戒しなくてもいい」
音もたてずに進み出た男に、反射的に戒は身をひいた。
「そういう奴が一番怪しいんだ」
記憶にない見知らぬ男は、じっと戒を見つめていた。
けれど、戒自身を見ているのではなく、別の面影を探しだしているようにも見えた。
「とにかく、その『気』を消してください。人目につきすぎる」
格別大したことのなさそうに告げた男に、戒は怒鳴りつけた。
「簡単に言うな!! なんとかできるもんなら、とっくにやってる!!」
苛立たしげなその態度に、男は苦笑した。
「すまない」
「思ってもいないことも口にだすなよ、苛々する」
手負いの獣のように、戒は牙を剥く。
見知らぬ男の出現に、戒は些か混乱していた。
「では、俺がなんとかしましょう」
一歩踏み出した男に、戒も後退る。
「側に来るな!!」
男はそれ以上の動きを止めた。
「あんたが敵じゃないって保証が、どこにあるんだよ」
男を睨みつけても、男は動じた風もない。
「証を見せれば、気が済みますか」
「それが、俺の信じられるものなら」
美しい造作が笑みを刻む。
「わかりました」
言葉とともに、男の身体から陽炎が立ち昇った。
「!!」
それは暗い波動であった。
全てを切り裂く闇の如き、冷たく鋭い気だった。
炎のように揺らめきながら、一切の熱量を感じない。
彼女の放つ光とも、戒の放つものとも違う。
光と影のような、対になるような――否、完全に相反するようなもの。
陽炎に魅入るように、戒は呟く。
「あんた、誰だ――?」
「あなたと同じものです。それ以外には、何者にもなれない」
静かに、男は戒へと近づいた。
そして、動けない戒の手を、男はそっと捕らえた。
「――」
咄嗟に掴まれた腕を引きかけるが、来の手はそれを優しくとどめた。
「心を落ち着けて。何も心配はない」
触れた手から、何かが流れこむ。
じわじわと熱の引いていくような、穏やかな感覚。
それは水の流れを思わせる。
押さえつけるのではなく、融けていく――
「――」
なぜか、戒は泣きだしたくなった。
あまりにも自分の中に優しく入ってくる感覚が、安堵感しか齎さないことに。
ずっとこれを求めていて、ようやく見つけたかのように侵食するもの。
初めてなのに、懐かしいとさえ感じてしまうもの。
それは独りである自分をいとも容易く取り込み、脆くする。
危険だ。
本能で感じた。
それでも、目を閉じ、歯を食いしばってじっと耐えた。
そうして、何も考えないように、ただひたすら閉ざされた視界に残像として残る、目の前の男の輪郭を見ていた。
「目を開けてください」
静かに声がした。
「――」
目を開けると、黒い輪郭だった男の姿が色を伴ってそこに在る。
陽炎は、もう見えない。
同時に、未だ繋がれた自分の手や続く腕、全身から、あの異様な光は消えていた。
「消えてる――」
「よほどのことがない限り、二度と気の暴走はないでしょう」
穏やかに微笑む男に、途端に戒は気まずさを感じた。
「助かったよ。ありがとう……」
そう言って、手を放そうとしたが、今度は明確な意志を感じる強さでとどめられる。
「俺は、あなたと同じ血を引く一族です。あなたの従兄に、あたります」
「俺の、従兄……?」
男は、空いている手をとらえていた戒の手に重ねる。
「俺と一緒に来てください。ずっとあなたを探していました」
男の懇願に、戒は何を言えばいいかわからなくなった。
突然現れた男から齎される情報量に心が追いつかない。
戒は疲れていた。
「俺の、家族がいるの……?」
「ええ」
「もう、独りじゃない……?」
「ええ。帰りましょう――」
自分を捕らえる手を、振り払うことができなかった。
「――帰る……」
それは只の呟きだった。
それでも男は待った。
静かに。
戒の手を包み込んだまま。
「――」
戒はそうして男の手を握り返した。
縋りつくものが欲しかった。
確かなものが欲しかった。
一番そうして欲しい彼女のものではないけれど、今一番欲しいものだ。
「名前を、聞いてないよ。まだ」
男は穏やかに微笑い、告げた。
「来、と申します――」