2 それぞれの思い
不意に何かを感じて、来は薄暗くなりかけた廊下を振り返った。
誰かが自分を呼んだように思えたのだ。
「――気のせいか」
静まりかえったその場には、自分以外の気配は何もなかった。
疲れているのだろうかと、来は頭を振った。
が、それから不意に何かを思い立ったように、空を凝視した。
喚ばれたのか。
そう、思ったのだ。
彼女が、自分を喚んだのではないかと。
「――」
だが、すぐに自分の考えを振り払う。
ありえない。
あれから十五年も経っているのだ。
自分ももう、十歳の子供ではない。
わかっている。
彼女はもう帰ってこない。
彼女は一族を捨てたのだ。
子供を護るために。
当主である彼女がここを去ってから、直後に密かに探らせたが、その姿を見かけた者も、消息を追えた者さえもいない。
当主が一族を捨てる――前代未聞の出来事は一族に様々な波紋を投げかけた。
暫定的に夫である颯夜と分家の当主である真月が今一族をまとめているが、本来一族をまとめる絶対的な力を持つ当主の不在で一族は二分している。
あくまで当主を待ち続ける颯夜の本家派と新たに当主を戴こうとする真月の分家派に。
来自身は本家派だが、当主が産んだ子を認めない、あくまでも当主本人を待つ颯夜の考えには賛同できなかった。
当主が認めた子だ。
ならば自分達ができるのはたった一つ。
当主が産んだ子を、次代の当主として迎え入れること。
そうしてこそ、一族は真の当主を取り戻せるのだ。
颯夜が早く諦めてくれればいい。
そう思い続けて、すでに十五年の月日が流れた。
来は常に当主の気配を捜し続けてきた。
期待しては失望する日々にももう慣れた。
今日はなぜか心が騒めくのは、考えすぎか。
感傷を振り払おうとしたその時。
「――っ!?」
懐かしい気配がふわりと彼を包んだ。これは――
「御当主!? 貴女ですか!?」
懐かしい思念。
焦がれた感覚。
心が震えた。
彼女を失ってから、ずっと感じていた喪失感がたちどころに消えた。
――来、来――あなたに、あの子を託します
――あの子を護ってください。あの子は尊い光。一族がやがて受ける苦悩から、唯一救いを見いだすことができる希望の光です
――来、どうか、私の最期の願いを聞き届けてください
「御当主!!」
気配は完全に途絶えた。
来はすぐに廊下を戻りだした。
当主が死んだのだ。
報せなければならない。
当主に忠誠を誓う、一族の中核をなす者達へ。
「お婆様、本当ですか――」
一族の当主の次に権威ある大巫女に向かって、颯夜は問う。
広間に集っているのは、当主代理を務める颯夜と、その配下の者が数名。
皆大巫女の言葉を待っている。
しばしの沈黙の後。
いつも動かぬ御簾越しの影が揺らいだ。
「ああ。瞑は、逝った。知っていたのだな。こうなることを――」
長く生きている大巫女の声音は、静かに、寂しく響いた。
「新たな当主を迎えねばならぬ。颯夜、瞑の遺言は、儂と来が受け取った。次の当主は〈戒〉となる」
「お婆様!」
「従わねばなるまいよ。当主の言葉は絶対。それが掟なのだから――」
衣擦れの音がして、大巫女が静かに去る。
「――」
沈黙は、押し殺した声に破られる。
「我等は十五年待った。その結果が、これか――」
颯夜は拳を震わせた。
激しい怒りに目が眩むほどだった。
「颯夜様……」
凍えるような冷たい眼差しが配下の者を見やる。
「あれの目醒めの兆しは」
「――ございません」
躊躇いがちにかかる言葉。
「次の当主には、玲様をとの声が高く――」
「やはりな。真月が動いたか」
苦々しげな声が漏れる。
「だが、玲は当主にはなれん。あれがいる以上――」
「……当主様の、お連れになられた御子では、本当に駄目なのですか……」
弱々し気にかかる声に、
「おいっ、何を言う!」
隣にいた者が慌てて肩を掴む。
「も、申し訳ございません! ですが――」
「あれは我等一族の穢れた血の凝集だ。生かしておけば、どんな災いになるやも知れぬ――」
押し殺した声に、あからさまな怒りの響きを聞き取り、それ以上の言葉はなく、在るのはひたすらの沈黙だった。
夜は、人ならざるものが密やかに蠢く魔が刻である。
戒もまた、人外の者であった。
陽の光よりも闇に、安らぎを見いだす。
だが、それを恥じたことはなかった。
戒の誰よりも愛した彼女もまた、そうであったからだ。
彼女は美しかった。
誰よりも美しかった。
闇にあって輝く月の如く。
時折、戒は彼女に清い光を見た。それを話すと、彼女は決まって笑いながら言うのだ。
――お前のほうがずっと綺麗よ。私の戒。お前は全ての象徴なの。
彼女の言葉は時折よくわからぬものだったが、そこには溢れる温かなものが確かに感じられたので、戒はいつだって彼女の言葉を聞くのが好きだった。
――愛しているわ。いつでも、どんな時でも。それを忘れないで。
けれど、愛しい日々は、永くは続かなかった。
突然の別離。
人外の魔物が、彼女を戒から永遠に奪い去ってしまったのだ。
彼女の死により、それは起こった。
光が、戒の身体から溢れだした。
それは身体を包む神聖なまでの光。
最も自分に、相応しくないとさえ思える光。
普通の人間には、この光は見えない。
だが、それでも彼等はそこに尋常ならざるものを見いだすのだ。
戒は人に紛れるわけにはいかなくなった。
人を避け、夜さえ逃れて逃げ続けねばならなくなった。
逃げなければ。
囚われてしまう。
あの闇に呑まれれば、きっと自分は変わってしまうだろう。
「見つけました。ええ。彼です。連れて、戻ります。では」
携帯電話を切ると、来は車を降りた。腕を通しただけのコートが風にはためく。向かい風にも構う様子もなく、来はじっと先を走る少年を凝視していた。
美しい鮮烈な輝きが少年を覆っていた。
十五年間の封印を一気に解かれたのだ。
無理もない。
形ならざる闇の気は、炎に群がる虫のように少年に向かう。
当然だ。
人であれ何であれ、美しいものに皆惹かれるのだ。
十五年の年月は、あの小さな赤ん坊を、どのように変えたのだろう。
「戒――!!」
そうすることが必然であるように、来は呼んだ。