1 失われた当主〈瞑〉
満たされない心を知っている。
叶わない願いをそっと抱くような、哀しい想いを知っている。
何処にいても、誰といても、その想いは自分の中で虚ろな痛みを呼び起こす。
苛立ちともどかしさに、時折押さえきれなくなるのはどうしてだろう。
愛してくれた者も、愛した者も、誰よりも近くにいたのに、どうして心はやるせない想いを残すのだろう。
ここにいる自分は不完全だ。
ここにいるには何かが足りない。
だからこんなに濾がれている。
心の何かが求めてやまない。
ここではない、ここにはない、自分がきっと何処かにあるのだ――
殺さねばならない。
そう、彼女の夫は言った。その端正な美貌で、顔色一つ変えずに。
あまりにも凍えた空気が、その部屋には流れている。
日本家屋のどっしりとした造りの広い部屋に、彼女は夫とともにいた。
彼女の腕には、生まれて間もない赤ん坊が抱かれていた。
美しい夫婦だった。
人間の持ち得る美の全てを集めても、これほどの造形を創ることはできまい。
人ではない故の美貌は彼等一族にとっては当然のことではありながら、それ以上に、この二つの生き物は特別な美しさを所有していた。
「殺さねばならない。その子は生まれてはならない子だった」
だが、美しい唇からもれるのは、容赦のない言葉だった。
彼女自身、それが一族にとって正しいとわかっているだけに、同意しようとしてしまいそうになるもう一つの自分に必死に抵抗を試みる。
「いいえ」
彼女は首を振る。
この世界に、意味失くして生まれたものがあろうか。
全てが必然であるこの世界が、無用のものをそこに現象させるだろうか。
この子は意味のある子だ。
自分の産んだ、意味のある、かけがえのない命だ。
生きるべき、大切な子なのだ。
「殺さねばならない。この子は最も清く濃い血を受け継ぎながら、力の片鱗すらない」
男の言葉通り、その子供は確かに希有な存在だった。
当主の血を受け継ぎながら、当然持つはずの力を、一切持たなかった。
それだけではない。産まれた子供は男子であった。
当主の第一子は必然的に女子であるはずなのに。
次代の当主となるべき力を継ぐ特別な一子を、一番初めに産むはずなのに。
産まれるはずのない子供。
持つべき力を持たない子供。
その子供の誕生は、ある重大な楔を、一族へ打ち込んだ。
「子供をこちらに。生きていたとて何の意味もその子は持たないのです。ならば殺してやるほうが、その子の幸せというもの。再び一族の血脈の中に還ることもできましょう」
「いいえ、いいえ」
必死に彼女は訴える。
自身に、強く言い聞かせる。
抗いがたい誘惑に、それでも抗うために。
「私の子です。殺させない。誰にも、私からこの子を奪わせない」
彼女は、しっかりと腕の中の赤ん坊を抱きしめた。
安らかな寝息が感じられる。
生きているのだ。
確かに、ここにいるのだ。
どうして殺せよう。
「お願いです。邪魔をしないで。私は敵にはならない。ただ、この子と二人、一族を離れ遠くへ行きます」
「立場を弁えなさい。あなたには一族の当主としての使命がある。それは、何においても優先されなければならないのです」
寂しげに、彼女は微笑んだ。
「母に、子を捨てろというのですか」
「では、私達を捨てても、その子を選ぶのですか ?」
「どちらも捨てられないから、こうするのです」
どちらも彼女にとっては大事だった。
例え初めから望んだものではなかったとしても。
「私はこれまで一族のためにだけ生きてきました。それが私の生きる意味であり、それこそが使命だと、自覚していたからです。一族のために全てを捧げた私の唯一の願いすら、聞き届けてはもらえないのですか」
「あなたは、事の重大さをわかっていない!! その子は一族の穢れだ、生かしておいてはどんな災いを呼ぶかわからない、それぐらいなら――」
その場の緊張を裂く、赤ん坊の泣き声。
夫の苛立たしげな舌打ちに耳を貸さずに、彼女は赤ん坊をあやした。
小さな身動き一つ、かすかな仕草一つが、彼女の心を慰める。
子供は自ら身を守ることのできない分、周囲の状況に敏感だ。腕の中の赤ん坊が怯えているのが、痛いほどに感じられた。
この子には、わかっている。
自分の今おかれている状況も、その身に背負った戒めも、そして、唯一の守護者である私自身の揺らぎも。
だからこの子は泣いているのだ。
途方もない孤独に怯えているのだ。
彼女は涙をこぼした。
愛しさと憐れみが、感情を支配する。
「可哀相な子。誰からも祝福されず、自分の父親にさえ抱いてもらえない憐れな子。
だから私は行くのです。せめてあなたが私と同じ気持ちであったなら、全て捨ててもいいほどに、この子を愛しいと思ってくれたのなら、私はここにとどまり、あなたと二人、この子を守れたでしょうに」
彼女の夫は苦しげに首を振った。
「私は、あなたを愛している」
彼女は哀しげに目蓋を伏せる。
「それでも、この子は愛せないのですね。まぎれもなく、私とあなたの血を引く愛児ですのに」
「私に、一族以外のものになれというのですか? 私達の意味は、それしかないのに。そこにしか見いだせないのに」
「けれどあなたは知らない。一族の哀も、積み重ねられた悔恨も、繰り返される罪も、本当に何も」
彼女の言葉は、永い時を経てきた者のように疲れた重みを漂わせていた。
「偽りの中に在ってもいいと、思っていたのです。本当に。どんなに汚れようとも、血に塗れようとも、私もまた、一族以外の何者にもなれないから――」
「では!!」
彼女は夫の言葉を遮るように首を振った。すでに答えは決まっていた。
「だからこそ、自身を捨てても、私はこの子を守りましょう。
この子は尊い光。
暗い闇にあっても、なお清く輝く光。
私の、私達全ての、希望の光なのですから――」
毅然と彼女は顔を上げて男を見据えた。それは決別だった。
どうあっても、彼女をひきとめることはできない。
それを、彼女の夫は、悟らねばならなかった。
「一族を、どうなさるおつもりだ!? 当主でありながら、あなたは、我々を捨てるというのか!?」
「あなたがいるではありませんか。それに、お爺様にお婆様も。
私はもうここにはとどまることはできないのです。私自身、思ってもいませんでした。こんな日が、来るなんて」
彼女はきつく瞳を閉じた。
そして、夫に背を向けた。
「一族を離れて生きられるのですか、あなたに!?」
男の言葉にも、彼女は振り返らなかった。
「生きられますわ。今だとて、生きているでしょう。呼吸を重ねて、鼓動を響かせて。
それだけです。私にとって、生きるということは。心は死んでいるのに――」
彼女は部屋から出ていった。
それが、最後だった。
「――」
男はしばし立ち尽くしたまま、部屋にいた。
やがて続き部屋の襖が静かに開けられる。
現われたのは、腰の曲がった小柄な老婆だ。
皺深い細面のその顔に、叡知を伺わせる瞳を持ち、その毅然とした物腰は年齢を定かにしない。
永命な一族故に、全ての者を外見からだけではもはや判別できないが、男はこの老婆がすでに齢五百年を越えることを知っていた。
それもまた、この老婆の類稀な預言の力に起因することも。
「大巫女様――」
「行かせるがいい」
老いた女の声には些か不似合いな、艶のある落ち着いた声が洩れる。
「あの子は、暝は、もう儂らにも見えぬ遠い未来を独り視たのじゃ。ならば行かせるしかあるまい」
「しかし……」
「何が正しくて何が間違いだったのかなど、誰にも決してわからんのだよ。全てが終わってしまったあとにも、決してな……」
屋敷に重く昏く立ち篭める密かなこの気配を、十の子供ながら、来は息詰まるほどに感じていた。
不安と焦燥。
限りない負の力が、緊張とともに空間に浸透している。
だが、無理もないことだった。
当主が去る。
それは一族の永い歴史の中でも例をみないことであった。
だが、一族の全ての能力を以てしても、彼女を止めることはできないであろう。
だからこそ、彼女は当主なのだ。
一族の頂点に立ち、その全てを率いて永劫にも近い血脈を導く。
誰にも太刀打ちできない、強大な能力をその身に具現する故に。
「――」
遠くにその気配を感じたとき、空気さえその色合いを変えたかと思われた。
闇に閉ざされた長い廊下を渡り来る者が誰であるのか、来は視ずともわかっていた。
跪き、その時を待つ。
足音さえなく、彼女は近づいてきた。
「御当主」
「お立ちなさい、来。もう私に跪く必要はありません」
顔を上げた来は、彼女の哀しげな眼差しとぶつかった。
「――」
「あなたも私を愚かだと思うのでしょうね、来」
来は強く首を振る。
そういう彼女の瞳は全てを見透かすようにも見えたからだ。
「去くのですか、御当主」
「ええ。この子が生まれた今となっては、もはやここにはとどまれないのです」
来はこの女当主をとても慕っていた。
彼女は子供だからといって来を軽んじたりしなかったし、その言葉をとても真摯に聞き止めてくれるのだ。
「来。この子は戒というの」
彼女の言葉に、来は驚きを隠さなかった。
そんな来の驚きの意味するものを見透かすように彼女は微笑み、頷いた。
「この子の名は戒。この子もまた私やあなたのように〈斎名〉を持つに相応しい子です。
私亡き後、一族を統べる運命の子故 」
来は柔らかな産着にくるまれた小さな赤ん坊をじっと見つめた。
どことなく彼女の面差しを残した、愛らしい赤ん坊だ。
だが、それだけだ。
この子には能力がない。
一族の直系という最も濃い血を継ぎながら、一族の中でも特別に〈斎名〉を与えられる者が持つ大いなる能力を、この子は持たないのだ。
こんなことは彼等一族の歴史始まって以来の変事だ。
それなのに、こんなちっぽけな子供が次代の当主になるというのか。
来は内心笑ってしまった。
「――」
ふと気がつくと、赤ん坊は自分の方をじっと見ていた。
まだ見えるものさえ認識できぬであろう目が、じっと据えられている。
恐る恐る、来は手を伸ばした。
赤ん坊が、珍しくもあったのだ。
一族には子供が生まれにくい。
特に、現在に至っては、〈斎名〉を戴けるほどの子供は稀だ。
永い間の血族婚の故か、それとも大いなる意志なのか。
「……」
来は、伸ばした自分の手が赤ん坊のそれと比べると、とても大きいことに驚いた。
こんなに小さいのに、この子にはちゃんと命があり、生きているのだ。
それはまるで奇跡のようだ。
物思いに耽っていた来の指を、赤ん坊が捕らえ、しっかりと握った。
「まあ、この子はあなたが気に入ったようね、来」
笑う赤ん坊に、彼女は喜んだ。
「あなたに似て、美しい、優しい子になります」
「ありがとう、来。あなただけだわ。そんなふうに言ってくれたのは」
彼としては、当たり障りのない言葉を選んで言っただけなのだが、そんな何気ない言葉こそが、彼女の最も欲しいものであるのがわからない。
「皆が、あなたのようであればいいのに」
言葉は甘く、微笑みは切なく来に届く。
連れていってくれればいいのに。
来は強くそう思った。
ともに来いと言ってくれれば、あるいは。
「――」
だが、彼はすぐにそんな思いを打ち消した。
あくまで、それは仮定だった。
正直、来には当主の心情を完全に理解することはできなかった。
一族を離れて、それ以外の何かとして生きるなど、考えたこともなかった。
一族として生まれて、それ以外の何に、彼がなれるというだろう。
だが、それでも来は言った。
彼の信じる全ては、当主である彼女に帰結するのだから。
「どこにいても、どんなときでも、喚んでください、御当主。私はいかなるときもあなたに従います」
彼女は花のほころぶように微笑った。
「ありがとう、来。きっと喚ぶわ。でも、それは多分――」
その時彼女は、遠い瞳をしていた。
彼女の瞳は、いつもここにはない何かを見つめている。
地上には見えない、遥か幾千億の星の瞬きを見るように。
「忘れないで、憶えていて、来。
全てのことに意味があるということを。
意味があるから生まれるの。
必要だから、生まれるのよ、誰もが皆。
それを忘れなければ、必ず幸せになれるわ――」
厳かに、その声は響いた。
まるで神の如く神聖な――そうだ、いつだって彼女は神だったのだ。
彼等、闇に近き一族にとっては――