先生
朝になり、陽乃は俺の中の何かを汲み取ったようで「その時が来たら全力を尽くすつもりです」と言い残して溶けるように消えていった。
そんなことを言われても、今の俺は自分に失望している。やらなければいけないことは分かっていても、動けない。結果からして俺は国に助けられてしまったのだ。
久留間が殺されたのが分かったのは、朝比奈がその場にいたから。何かしていたと捉えるのが自然だ。陽乃は久留間が俺のことに関して探りを入れたようで、それをいち早く察知した国は彼を潰すことに決めた。
そして、昨日の勉強会が行われなかった理由。
久留間から調査結果を報告したかったから無しにしてほしいという旨を伝えられていたのだろう。つまり俺はあの瞬間に終わっていたのかもしれない。
国の暗殺者ということはいわゆる、平和維持組織のようなもの。危険な人物はすぐに暗殺対象となり任務が入ればすぐに抹殺に向かう。仮に任務がなくとも、ある程度上の役職を貰うことが出来れば、任務を課されなくとも暗殺をしてもよいという暗黙のルールがある。
久留間は長年の経験からか、直感で俺のことをきな臭い人間だと見抜いてしまった。
急ぎ過ぎと言いたいところだが、こればっかりはどうしようもないため運が悪かったと片付けるべきだ。
洗面台の鏡の前に立てば、いつも通りの自分がそこにはいた。鏡に映る俺と目が合えば、真っ黒な曇天のように光を遮ってそうな瞳に嫌気が差した。
だからこその抵抗として、俺は鏡に思い切り拳をぶつけた。熱を帯び始めた拳はじんじんと痛みが広がっていくが、ピシッと割れた鈍い音と共に流れ始める赤い血を見ても冷静なまま。割れた部分は歪み、心を示しているようだ。
昔と同じ。人を殺していた時の目をしている。何かに期待することもなく、機械的に業務をこなしてそれが終われば次の業務が与えられるまでただ待つ。そして死ねば新しい人材が投入されて自分のことなんて忘れ去られる。思い出すだけで吐き気がしてきそうだ。
朝比奈と会っていた時もこんな目をしていると思うとぞっとする。ただただ気持ちが悪い。
しかし俺は貰っていたはずだ。亡くなった肉親からのちょっぴりの愛を。
だが、愛は少しあっても、使い道が分からなくて邪魔でしかない。決心が揺らぐくらいなら捨てたほうが良い。あっちの世界ではそれは命取りになる。
でも最終的に俺は捨てられなかった。ちっぽけな愛だけは、捨てられなかった。
それすら失えば、本当に壊れてしまう。そう言い切れた。
取扱説明書があればいかに楽だったろう。ここにいない誰かに与える方法を上手く教えてくれれば、多少今よりいい人になれたのに。
すると、テーブルの上に置いてあった電話が鳴る。
朝比奈かと思っていたのだが違った。
非通知の電話。国か?
烙印を押される覚悟はある。
もう少し抗いたかったけど、お約束は守らないと。
緑のボタンを押して、血が滴る手で耳元まで持って行く。
『────────やっほぉ~!』
かくれんぼしてもすぐに見つかりそうなほどはっきりとした声。
「……先………生っ」
その声を聞いた途端に、膝の力が抜けて崩れてしまう。
『だ、大丈夫⁈』
「大丈夫……です」
音が響いて、どうやら先生にも届いてしまっていたようだ。
一瞬だけ安心してしまったのは、育ててくれた第二の母のような存在だったから。俺たちの間に思い出なんて無いに等しいし馴れ合ったことは僅かだけど、それでも優しさをくれたひと。
だが、なぜあの人が今更俺に連絡をくれるのか、意図が掴めずにいた。
「今日は、どのような用事で?」
『あはは~。やっぱり疲れ切っているね』
何もおかしくないのに笑う彼女に気を遣わせていると自覚する。
「んっ、と。いつも通り振舞っているつもりですが」
『男の子は無理しがちだよねホントに。弱さを見せることは恥ずかしいことなんかじゃないよ?ましてや、光くんはまだ子供だからね』
「関係ないですよ。子供も大人も、こっちでは同じですから」
『もう、裏社会に毒され過ぎだって、君は辞めたんだから違うでしょ?そんな考え方じゃ一生幸せになれないよ?』
「それは……困りますね」
さっきまでは眠たくなかったのに、先生の声を聞いてからふわふわとした気分になってきて瞼が重たくなる。
埃っぽい部屋に光が入り、動けない俺は役目を終えた屋根裏部屋にあるクマのぬいぐるみのように壁にもたれて座り込む。もう二度と立ち上がれないと思うほど疲弊しきっていた。
『学校は楽しい?』
「ええ、最初は友達の作り方が全然分からなかったんですけど、最近は楽しくなってきました。勉強も、最近は毎日やっています」
『う~ん、色々嘘。昨日はやっていないでしょ?』
「ああ、くそっ。隠し事は出来ないものですね。特にあなたの前では」
『それは君の嘘がとても下手になっただけだよ。上手い子は私を騙してくれるの』
「そんな上手な子がいるのなら、裏社会は安泰ですね」
『君も居てくれたら良かったのに』
「俺がいてもその子の足手まといにしかならなそうです。それか、良くて身代わりと言ったところか。話を聞く限り、その子は俺なんかよりもずっと強いと思うので」
先生は嘘が下手になったと語るが、これまで騙せた例がない。内臓すら透けて見えているのではないかと疑問を持ってしまうほど、彼女に隠し事は通用しない。
「この際、教えて貰えませんか?あなた、何者なんですか?」
『何者って?』
「その心に何か飼っていますよね。黒くて、痛くて、怖くて、歪んでいるものを」
『ふふふっ……光くんは感受性が豊かなんだね。皆が気付かないことにずっと目を向けていたから私に頭を撫でさせなかった。すごいすごい……ね』
どうしようか、ちょっと怖い。つぅーっと、背中を刃の切っ先が這っているみたいだ。足掛かりを掴もうとすればするするとしっぽを巻いて逃げるどころか、その尾で首を絞めようとしてくる。しかも、相手は自分が育てた子供だというのに。
電話越しで助かった。もし、顔を合わせて話していたら歪んだのは俺の表情だ。
しかし、先生に失望することはない。元々裏社会で生きている人間に裏の顔があるのは当たり前というよりは常識なのだから、ここで不満を表すのはお門違い。
『君はかなりの逸材だから争ってみたいけど、私たちは敵になれないからね』
「それは、今後も仲良くしていただけるということですか?」
『もちろん!君が殺されそうになったら庇うから安心して?』
「言質取りましたからね」
『そんなことしなくてもいいって~。陽乃ちゃんに守ってほしいって言われているから』
「……あいつか」
『光くんのこと好きなのに辞めちゃったから残念そうにしていたよ。でも、好きな人が悲しい顔しながら生きるのってつらいもん』
「他人の恋心を暴くのはやめておいた方がいいですよ」
『ああっ!やっちゃった……。恋バナなんてする機会なんてたまにしかなかったから一人で盛り上がっちゃったよ』
能天気な性格は相変わらずで、この瞬間だけは気が紛れてくれた。
「お元気そうで何よりです」
『光くんは元気じゃないんだね』
「まあ、そうですね。組織を辞めても大変なことばかりでかったるいですよ」
『かったるいで済ませるほど簡単な状況じゃなさそうだけどね』
「分かっていた事ですけどね。それでも、覚悟を持っていたし全部楽しもうとしていたんですけど、難しいです。まさかこんなことになるとは」
『結構話題になっているみたい。確か、久留間って人が死んだんでしょ?その人は、朝比奈宙っていう子の執事で、倫くんたちが殺しに行ったって聞いたよ』
「倫はあなたを敬愛していますから。あなたが連れてきてくれた世界で生きることに決めた」
『う~ん、これじゃあ私が彼を利用しているみたいに聞こえちゃうね』
「あなたはそう思わなくても、あなたや倫たちを雇っている国の上層部は思っているでしょうね」
『上に期待しているなら辞めて正解』
先生もこの国に雇われている危険な組織に属しているのだろう。
今はもう言及する気力も残っていないが、裏切られた場合を想定しておくのも重要だ。さっきは裏切らないと明言していたけれども、仮にその上層部と同等の価値や権力を持っている組織に加入していることも無くはない。欺瞞は裏社会では必需品。
何を信じて、何を疑うかをふるいにかけるしかないのだ。
「話を戻しますが、どうして今日は電話を掛けてきてくれたんですか?」
『光くんがピンチだからね。助けが必要だったりするのかなぁ~と』
「もしかして、俺に恩を売ろうとか考えていたりします?申し訳ないですけど、今の俺は仇で返してしまいます」
『全くもう……』
「え?」
『恩なんか売る気ないよ。私は君のようにこっちの世界から離れようとする人を応援するだけ』
「それは……すみません」
意図が分からない。一体何のためだ?
正直裏社会の人間は誰であっても信頼するとなれば躊躇ってしまう。特に、先生みたいに恐怖を秘めていて社会的スキルの高い人が一番危険だ。
そういうやつは大体どこの世界でも通用する。
『君は身を引いた存在。これ以上、こっちの問題を背負わせるわけにはいかないの』
「久留間が殺されたのは、俺の管理が甘かったからです。まさかあいつが俺を調べあげるとは思っていませんでした」
『いや、調査するとは思っていたけど国が気付くのが早すぎたの間違いでしょ?』
嫌になるほどの直感の持ち主だな。
「まあでも、その結果悪い方に進んでしまいましたね」
『それで、簡単にまとめれば久留間が殺されて、次は朝比奈って子かその原因を作ってしまった自分が殺されると思っている。違う?』
「合っています」
『それで、今自分はどうすればいいか分からないのね』
「ふっ、まるで事件を全て分かっているみたいな口ぶりで話しますね」
『残念だけど、私って実はすごい人なの。だから君たちの何倍も情報が多く入ってくる。状況把握も容易に出来ちゃうよ』
ころっとした声音で自慢してくるが、そんなことできるのは間違いなくその世界の上位層だ。俺たちに入ってくる情報なんて断片的なものばかりで、それ以外のものが欲しければ自分で色んな人間からかき集めなくてはならないのだ。
ますます謎を帯びてくるその正体はあまり望ましいものではなさそうだ。
「何か、アドバイスを頂けるんですか?」
『アドバイスねうんうん』
「……何も考えていませんでしたか?」
『ううん、これを言うのは光くんには酷だと思って』
「分かっているとは思いますが、覚悟くらいは出来ていますよ」
不器用ながらも口角をあげてみせた。先生がそれを悟ることは、朝飯前だったみたいだ。
『ねえ光くん』
いつまでもうじうじして何も行動しない俺には、どんな言葉が似合うのか。
あやふやで歯切れの悪いものなら、なおさら拗らせてしまいそうな現状。その背中を押してくれるのが先生なら心配はいらない。その辺はちゃんと信頼出来る。
俺が欲しいのは、結論ではなく脅迫。既に答えはあるのだから。
『君のベールはどんな模様をしているの?』