事件
陽乃がここに来た理由。特に用もないくせに、わざわざ家にまでやってきて接触してきた。そしてここで始まったのは朝比奈のことを調べたと無意味な自慢と今後の動きの確認。俺を大切にしているのなら、黙って遠くから見ていればいいのに。
あまり話したくなさそうに唇を噛んでいた陽乃を睨めば、小さく息を吐いて語り出した。
「国からの依頼が入りました」
「……っは?」
「ごめんさない……光先……輩」
大粒の涙が陽乃の頬を通って畳に落ち、しみを作った。目を強く拭って何回もごめんさないと口にする後輩の姿を俺は何も出来ずにただ呆然見ていた。
「多分……ですが光先輩のやろうとしていることはバレていると思います」
「……何のことだ?」
「…………どうしてこんな古い家に住んでいるのに、あまり勉強が得意ではないのに、私立の進学校である京璃高校に入学したのですか?」
「いや、その………」
「大方、分かったのでもう平気です」
平気ではない。きっとこの話はかなり大きな話になってくる。
そんなことより、国からの依頼とは何だ?
この国が動くほどの脅威が迫っているとでも言うのか。
もしかしたら、やはりあの日のこととも繋がっているということ?
「何だ。国からの依頼って」
「きっと、光先輩なら分かっていると思いますが、食い違いが起きないように」
一度目を閉じて顔を伏せれば、覚悟を決めて朝比奈は顔をあげた。
「久留間という男を殺してくれという依頼が入りました」
陽乃がそう言った瞬間、居ても立っても居られなくなり外に飛び出す。身体に纏わりついてくる空気を今出せる全速力で掻っ切り駆けていけば、スマホが鳴ってしまう。
声にならないような音が喉から出れば、俺はかなり焦っていることを実感させられてしまい、余計に心のスペースを切り減らしていく。
「朝比奈……」
画面の名前を見れば、彼女の安否だけは確認できた気がした。俺はそれを信じて電話に出た。
「もしもし……」
『光ッ!久留間が……久留間がぁぁあ‼』
電話越しに聞こえてくるのは、迷子の子供みたいに狂ったように泣き喚いていた朝比奈の声だった。何が起こってしまったか、簡単に予想できてしまう。
久留間は死んだ。
久留間と言えば、両親を失った朝比奈の身の回りのお世話をしていた執事。俺のことを探るような目で見てきたのを覚えている。少なくとも朝比奈やその母親よりもこっちの世界の経験が長いだろうから、俺の正体を多少は見破っていただろう。
一度、こっちの世界を経験した人間としていない人間とでは味が違う。重みが違う。
あの男なら、きっと分かっていて言わなかったはずだ。
ならばきっと、探ったのか?
「久留間は国の内情について調べたと断定されました。恐らく、光先輩に関してのことです」
後をつけてきた陽乃が喋る前に、電話を切った。聞かれたらより厄介なことになる。
「朝比奈に言っていないのですか?この国の殺し屋であることを」
「言ってないな」
「憐れですね。正直救いようもないほどの現実を見てしまうと少しだけ同情してしまいそうですよ」
泣いたことなんか感じさせないようなほどの落ち着きを取り戻していた陽乃はゆっくりと、俺を後ろから抱きしめてきた。恋愛感情一切抜きにした、誰かに優しくするための抱擁。だからか身体があまり密着しておらず、ほんの少し距離があった。
だが、それでも俺の心は落ち着くことはない。
「光先輩は、朝比奈を守るために学校に入ったのですか?」
「……ああ、まあな」
「やっぱりですか……先輩がやることは否定しません。でも覚えておいてください」
抱きしめてくる力が強くなり、身体を密着させてきた。その気持ちを受け取ることは今の俺には難しかった。
「多分、光先輩の目的は国の上層部にバレています。そして最後には………」
「言わなくてもいい。裏社会を離れた責任は、自分で取るのがルールだ」
もしかしたら、いつかこの子も俺に対して牙を向けてくるのかもしれない。
この世界の根幹は腐っている。それが嫌で、逃げてきたはずなのに。
どうしてこんなに報われない。
国に目を付けられたら、それなりに強くても無理だ。勝てない。
今、相手がどうやって動いているかは不明だが、結末くらいは把握できる。
「今日は、少し疲れた」
「………家に戻りますか?」
「ああ。ちなみに、誰が久留間のところに行った?」
俺から離れた陽乃は、家に向かって歩く。その背中は見てられないほど虚ろだった。足に力が入っておらず、今にも倒れてしまいそうだった。
俺はその横に行けば、憂いや後悔を孕ませた表情から目が離せなかった。
「倫先輩です」
「あいつか……」
倫は上からの命令に忠実に従い、確実に依頼を完遂させる。それが、どんなに非情なものだったとしてもあいつが心を痛めることはない。性格は俺と真逆のようなやつだが、裏稼業の適正は俺よりも高い。
生きるためにはああいう風に上に逆らわないことが一番簡単な方法だ。
「大丈夫だよ陽乃。俺は簡単に殺されない」
「もしよろしければ、私に守らせてもらえませんか?あまり力になれないかもしれませんが、光先輩が戦うくらいなら私がやります」
「今の俺には、そうされるほどの価値はないよ」
「でもっ……」
「そんなことより、お前はあっちの世界が嫌じゃないのか?聞いたところで何も出来やしないけどな」
「私は、平気です。自分でもこっちの世界の方が住みやすいと思っていますし、お金も。それに……先輩や色んな人に出会えましたから」
陽乃も親族がおらず、血の繋がりのない人たちだけの環境で育ってきた。そこには自分たちと同じ境遇やつらい思いをしてきた奴らが多かった。そのおかげもあってか、普通の生活を送ってきた人よりも少しだけ懐が深いと思う。
「そうか。まあそっちの方が合っているかもしれないしな」
強ければ重宝され続けて莫大な金額が支払われるなら、そこにいるべきだ。
俺みたいに大した理由もなく辞めてしまえば、裏切られたと判断されてしまう。でも利口に生きるつもりのないので、そこを思い煩っても何も変わらない。
「これからどうなると思う?」
「きっとしばらくは平気なはずです。先輩は強いですから簡単に手出ししてこないですし、国の上層部は光先輩を敵対視しているかもしれませんが、裏社会自体は意外とその辺緩いですから。去る人に興味持ちませんよ」
「確かにな。あの人も俺が辞めると言った時は労ってくれたし」
「ママは心が広いですよね。社会復帰を手伝ってくれるなんてすごい人ですよ」
その話題を出しただけで、めげていた陽乃の表情は柔らかくなる。
ママと言っているが、衣食住を提供してくれた女性のことだ。本名は教えてくれなかったが、その女性本人が「ママって呼んでね」と言ったせいで、一緒に住んでいた仲間たちがママと呼ぶようになった。
因みに俺はママと呼んだことは一度も無く「先生」と呼んでいて、倫は「お母様」と呼んでいた。
「あの人も徹底しているよな。皆と仲良く遊んでいたはずなのに、誕生日すら教えてくれなかったし」
「噂では結構凄い人らしいですよ」
「そりゃそうだ。二十人以上いた子供たちが数十年生活を送れる資源を行き渡らせるほどの財源を彼女はどこかに持っている。それだけで間違いなく裏社会のトップだ」
「でも最近は会えてないんですよねぇ」
しゅんとして肩を落とした。それほど、先生が大好きなのだ。
特に陽乃は女の子ということもあって一番先生に甘えており、いつも近くに行っては頭を撫でてもらっていた。先生も甘えられることがまんざらでもなかったようだったし、他の皆も陽乃を肖って甘えに行くようになっていった。
「みんなあの人の虜だったな」
「光先輩は全然よしよししてもらってなかったですよね」
「優しい人だったけど、なんだかちょっと怖かった。怪物のようなものを飼っていたような雰囲気があってさ」
「ええっ!そんな雰囲気ありました?」
小テストがあるのを忘れていた今日の俺みたいに陽乃は驚いた。
この話を倫にもしたのだが一切の共感を得られなかった。陽乃ですらそれを感じなかったのはやっぱりただの勘違いだったのか?
自分の直感を疑ったことはないが、さすがに杞憂だったのかもしれない。
「平気ですよ。ママはきっと私たちの味方です」
「だと良いんだがな」
こんな和やかな会話の裏では嫌な計画が動いていることを忘れられず、気を緩めることが出来ない。一体誰を信用して、背中を預ければいいのかを選定しなくてはいけなくなってしまった。
心臓が引っ掻かれているかのようだ。それくらいには追い込まれている。
これからどうすればいい。誰を頼って生きればいい。なあ、助けてくれよ。
解決方法は簡単だ。けど、それを取るくらいなら────。
吠えても聞こえない。どこまでも高く、掬えない夜に隠した秘密。
ここに来た理由を思い出せ。もうこんなことをして生きていたくないから、地獄にいることをやめたはずだろ。だったら別にいい、ここにいなくても。
最初から俺に居場所はないから、どこでも同じだ。
こんな所にいるくらいなら、死んだ方が幾分マシだ。