後輩
四月も下旬を迎え、毎日のように朝比奈との勉強会をこなしていた俺は、少しずつ今までの遅れを取り戻していた。彼女が頑張って教えてくれたおかげだ。中学三年間で習う範囲はほとんど終わり、もうすぐ高校レベルの勉強に取り組むことが出来そうだ。
だが今日は用事があるようで、その勉強会は無しになっている。今日は俺も勉強はせずに放課後は軽く昼寝をして、そのまま夜を迎える。
「そういえば、今日小テストあったな……」
五十点満点の数学のテストだったが、俺は五点しか取れなかった。復習をしようと思ったが、朝比奈が不在なためやる気が起きなかった。
そんな彼女がいないこの家は少々寂しさが彷徨っている。
まあでも、最近はずっと一緒にいたので一人の時間が恋しかった。この寂寞も俺の心を埋めてくれていた温かみの一つであるのを忘れてはいけない。
「やっぱり一人の方が気楽でいいや」
息をするだけで居場所が分かってしまいそうなほどの密やかさは、夜に住んでいた俺にとって心が洗われる。
やっぱり俺は夜の方が性に合っているのかなと思いつつも、それを許してはいけないと思う俺も存在してしまっているのは、成長したってことだ。
緩やかに変化していく気持ちに、まだ慣れていないだけ。いつかは夜に隠したものを見つけられなくなる日がやってくる。その時にあるのは、今とは比べ物にならないほど変わってしまった自分がいるはずだ。
それを楽しみにしつつ、今だけはこの特別なトリップを楽しもうか。
ドンッ!
ドアを思い切り叩く音が聞こえた瞬間、俺はらしくもなく舌打ちをしてしまった。朝比奈ではなさそうだったため、居留守を使おうとしたが電気を点けていたので無理そうだ。外の人間が倫ならば、インターホンを鳴らしてくれそうなので多分違う。なら誰だ?
分かるのは、開けてしまえば面倒な出来事が発生し、またそれが面倒な出来事を呼ぶ。どうしてこれが日常茶飯事なのだろう。やはりあっちの世界に関わってしまうことは、疑う余地もなく人生の終わりを意味している。
「いませ~ん」
だからこそ、外の人間が誰なのかこっちは分かっているぞ。というけん制も兼ねた、やけくそで雑な反応をしておく。家の壁が薄いからこれでも聞こえるはず。
「あっ!光先輩お久しぶりです!」
「この声は……」
この夜に似つかわしくない、はつらつとした可愛い声が耳に入ってくる。
「開けてくださいよ~。でないとこの扉壊して侵入しちゃいますよ?」
「……はいよ」
乗り気ではないが、壊されるくらいならと諦めてドアを開けた。
だが、そこには人がいなかった。
「もう、不用心ですね。窓のカギが施錠されていなかったので、簡単に侵入出来ちゃいました」
背後からさっきの子の声がした。この家に空き巣するやつなんていないし金目のものはここに保管していないため、鍵なんてかけない。
その少女は朝比奈がいつも座る場所に座っていた。高いポニーテールを垂らしており、規律を重んじているかのように背筋を伸ばして正座をしながら、俺がさっき淹れたお茶を勝手に飲んでいた。
この家の窓は開けようとすると、ギギギと錆が擦れるような音がするし立て付けが悪くてスムーズに開閉することは難しい。
それなのに、音を立てずに侵入するとは……。
「お久しぶりですね。光先輩」
「ああ。久しぶり」
「倫先輩と接触したみたいですけど、やっぱり私たちはもう関わらない方が良かったですか?」
「別に気にしていない。どうせ倫はまた会いに来るだろうし」
「倫先輩は光先輩が大好きですからね」
彼女の名は篠崎陽乃。
一つ年下で、昔から俺や倫と同じ組織に加入していた。俺と同じように家族を失い、助けられたお礼として裏社会に足を踏み入れた。幼い頃から暗殺者としての類まれな才能を開花させており、同世代で陽乃に勝てる人間はかなり少ない。
また学力的にも優れており、俺がそれで彼女と争おうとすれば勝てる可能性はまずない。
こっちの世界は才能があるヤツにとっては、まるで天国だ。彼女もそう思っている。
「お友達は出来ました?」
「ああ。一人だけだがな」
「朝比奈宙って女の子ですか?」
「なんだ、調べていたのか」
「当然です。先輩の周りの情報はどんな時でも調べているのですから」
「怖いな」
「朝比奈宙、年齢は十五歳で誕生日は七月十日。アメリカ出身で彼女の好きな食べ物はアップルパイ。三年前に両親を殺され復讐に走る。そしてヴァージン」
「最後の調べようないだろ」
「あははっ。でも、馬鹿らしいですよね。母親が優秀だからと言って自分にも稀有な才能があるみたいな行動を取るなんて」
上品に笑ったと思えば、その顔からは想像出来ないほどの悪口が発せられる。
言い方に棘があるが、陽乃が間違っているとは思えない。彼女も幾度となく修羅場を乗り越えてきた豪傑だ。たとえ才能があっても、下積み時代は辛いことのほうが多かった。
「まあ、目標を持つのはいいことだ」
「もしかして、朝比奈に気を配っているんですか?」
「本当にそう見える?」
「所詮は裏社会の人間です。それに、このままあの女と仲良くすればきっと面倒なことが起きますよ?」
「面倒なこと?」
「朝比奈の母親は世界中で指名手配されていましたからね、その娘が生きているとなれば賞金が懸けられてもおかしくないです」
「あんなか弱い子が賞金首だなんて、可哀そうだな」
まあ、俺には関係のないことだ。彼女に一千万円が懸かっていても俺は興味を示すつもりはないし、誰かと共謀して金を貰うことはしない。
朝比奈とは卒業するまで友達でいるつもりだし、元々計画にはなかったが大学も行かなくてはいけない。助けるまでとはいかないが、彼女が狙われてしまえば誰が俺に勉強を教えてくれるというのだ。
「その時がきたら、守りますか?」
「少しはな。国が動けばさすがに俺じゃ敵わないから逃げる」
「少しって……まさか助けるんですか?」
「友達だからな。まあ、俺は朝比奈をどうこうするつもりはない」
「絶対にダメです」
俺はいつもの定位置、陽乃の正面に湯呑を台所から持ってきて座った。
テーブルの上にあった急須を上げればちゃぽんと中身が揺れた音がし、空の湯呑に注ぐと湯気が立たない緑茶の匂いが届いてくる。
八の字の眉になった陽乃を落ち着かせるようにゆったりとその場を支配していく。
「どうしてだ?」
「だって、光先輩はあんなにも裏稼業を辞めたがっていたじゃないですか。つまらなさそうに悪事に加担していた時の光先輩は見ていられませんでした。それなのに……またつらい気持ちになる必要なんてないんです」
「陽乃がそんなこと心配する意味はない」
「それは……光先輩が大切だからです」
「どうしてもか?」
「どうしてもです」
決闘を始めるかのような険しい表情に俺は目を逸らす。口の中の水分が失われるのを感じ、ぬるい茶を飲む。
ここで実力行使をされてしまえば勝てるかどうかは疑念が残る。しばらく本格的に戦っていないためブランクがある。そんな差如き、陽乃なら簡単に才能で埋めてくる。
だからこそ、敵意を見せず彼女の想いを逆撫でせずに結論を出す。
「朝比奈は友人だ。その範囲でしか俺は動かない」
「朝比奈宙を引き渡せと国からの通達が来れば彼女を渡してくれますか?」
「悪いが国からの命令はもう聞くつもりはない。勝手にやってくれる分には俺は手出しすることはしない。約束しよう」
陽乃は助けようとしてくれている。すでに価値を失い、場所を失った俺を潰すことは国にとっては赤子の手をひねるようなもの。助言すれば、最悪俺の命だけでも助かることができ、またここじゃない別の場所で生存することは可能だ。
しかしそれは不要だ。陽乃は俺の過去を一番近くで見てきて、その能力も知っているはずだ。
「そんなことより」
思考がやっと繋がった。今から答え合わせを始める。
「お前、今日どうしてここに来た。この裏で何が起こっている?」