信頼
家に到着しても、光は自分から話すことはなかった。
彼は先に部屋の中に入り、いつもの場所に座って観念したかのようにすんとして待っていた。後に入った私は、閉じ込めるみたいに鍵をかけてその正面に腰を下ろした。
寡黙でどこか引き込まれるような感じがあったから、きっと何かあると思っていた。家族のことや自分のことも、深入りしたら嫌われるかもしれないから。
でも、そんな彼を追い詰めるように話しかける。
「なんで黙っていたの?」
どんな答えでも嬉しい、けど本音を聞きたい。
私は自分の身分を隠して生きる人間として周囲の危険を排除したい。彼も同じ気持ちなのだろう。あの動き、判断、そして人に危害を加えることに関して一切の躊躇が感じ取れなかった。
スマホの遠心力を利用して、男を気絶させた。私は、ただ何も出来ずに彼の一瞬の動きを見ているだけだった。
もしかして、私よりもずっと強いのかも。
しばらく黙っていたその重たそうな口が開く。
その瞬間、光はまるで観察するかのように伏し目がちに私に視線を送ってくる。
「そりゃあ、悪い人間だって言わないよ。普通じゃないからね」
やっぱり悪い人だった。けど、変わりたいからここに来た。
「ここに来れば変われると思っただけだよ」
表情は一つも動かさない。つまり、つらいから辞めた。
「しんどいから辞めただけ。人を殺めるって結構疲れるよ。才能ないから」
「私も才能なんてないわ。でも、そんな人いないでしょ?」
「いるよ。俺よりもずっと強い人。会ったことないけど、会っても絶対に分からない」
「断言できるの?」
「上を見ていたらね。俺なんてその世界じゃ必要なかったみたいだ」
昔からそっちの世界にいるみたいな言い方。詳しいのね。
私よりも強そうな彼が嫌になるほどの才能を持った人と、私は同じ世界にいる。
もし、そんな人といつか戦う日が来たら私は勝てる?きっとそんな人、昨日の大男よりも別格で強くて、見ただけで何も出来ないで終わってしまう。
道半ばで復讐は終わってしまわないか。そんな不安が頭をよぎる。
「何でこっちの世界にいたの?」
「両親がいなくなった俺を助けてくれる人は誰もいなかった。けど、ある人が俺に衣食住を提供してくれて生き延びることが出来た」
「誰なの?その人は」
「さあな。美しい人だったが名前は知らない」
「そっか」
「その人もそっちの世界の人で、いつも何かをしていたが俺たちには教えてくれなかった。けど、俺はその人に恩を返したかったからその世界に来たってわけだ」
「………」
何も言えなかった。
私は両親を殺されて、ただ闇雲にその人に復讐したくて生きている。そして、今まで彼にその自分を肯定するために友達になって近付こうとしていた。愛されている自分こそ、意味のある私だと思っていた。
彼を、両親と重ねていた。
でも光は自分を肯定するために生きていなかった。そんな打算的な生き方はしなかった。
あの女性に危険が迫っていた時、彼は私よりも先に動いた。自分の正体がバレてしまうのを顧みずに、男を一撃で仕留めてしまった。その時の顔は忘れられないだろう。
彼の初めて見る悲しそうな顔は、私自身も苦しくなった。
一度悪いことをしてしまえば、逃げることが難しくなってしまう。
光はここでの生活をとても満喫していた。エアコンの掃除をしていたとき、勉強で難しい問題を解いているとき、テレビでニュースを見たとき。どれも一瞬だけしかその表情は見ていないが、一人でいる時よりもずっと生き生きしていた。
「どうして、あの女の人を助けたの?」
「嫌だったんだろうな。きっとあの人が傷付くのが」
「人を傷付けたことのある人が言うセリフなの?」
「確かに。そうかもな」
自嘲するみたいに笑った光は、私と目を合わせることはなくどこか遠くのほうを見た。それは次に来る朝を今か今かと待ち望んでいるみたいに。
目にかかる前髪が、私との距離をさらに突き放しているようでもどかしい。
「でも、俺はもう昔の生活をするのが嫌になったからここに来た。目的を失って何もする気がなくなって、だったら夜の世界にわざわざ残って人様に迷惑をかけるくらいなら遠くに離れて全く違う生活をしようと思って」
「それと女性を助けたこととどう繋がるの?」
「俺も昔は助けられた。だから、今度は俺が助ける番が回ってきただけ」
「なにそれ、都合良いのね」
ただ私は自分が裏切られたことを責めたくて、強く当たってしまう。その事情を知っていながらも、結局どうすればいいのか分からない。
「ごめん朝比奈。俺は、今の生活を壊したくないからお前に黙っていた」
「………いや。えっと」
立ち上がったと思えば、彼は頭を下げた。
光は何も悪くない。今更起きた事にとやかく言ってしまっているのは私だけ。新しい一歩を踏もうとしている彼の妨害をしている。
あの日、ここに来てしまったことによって本当は何もなかったはずの人生を狂わせてしまった。
「もし、朝比奈が良かったら友達でいてくれないか?」
「………っ!」
それでもあなたはあの日のままだ。
顔をあげて気まずそうに手弄りをして、はにかんだ顔で不器用な笑みを浮かばせる。そんな優しそうな表情が嬉しくて、私は限界だった。視界が滲んで、それがバレないように下を向けばスカートにぽたぽたと涙が落ちていく。
「えっ。ちょっ………と」
光の焦った声は止まり、静まったせいで嗚咽が漏れてしまうのが嫌だった私は部屋を飛び出そうとすると、光は私の手を掴んで離さなかった。自分の大切な人に、また汚い部分を見せたくなかった私は力一杯振り払ったが、それ以上に彼の力が強かった。
「途中から気付いていた。俺に過去の話をさせたことを後悔しているだろ」
「なんで……分かるのよ」
「なんでって。表情に出しすぎなんだよ。俺が少し深刻な話しただけで顔面蒼白だったぞ」
「嘘っ⁈」
「本当だ。正直こっちが気を遣いそうになった」
「………もうっっ‼」
顔はもうぐちゃぐちゃだ。それでも体裁を保ちたかった私は、意地でも顔を見せないようにしていた。だが、それすらも読んだ彼は鼻で笑うと私を引っ張られる。一瞬、何があったのか分からなくて動揺しそうになったが、背中に手を添えられたことで理解した。
「………やめて………優しくしないで」
頭に手を乗せられ抱き寄せられた私はそれ以上声を出せなくなっていた。
触れるその手は優しく置かれているだけだったが、私を捕まえておくには十分だ。逃げることも出来たが久しくなかった温かみに動くことは出来なかった。
ただ、それを離したくなかった私は宙ぶらりんだった手を縋るように彼に巻き付けた。学生というベールに包まれた引き締まった身体。きっとこの人にとって私を仕留めることなど容易いのだろう。
「この時間は外に出たら寒い。それに、こうすれば何も見えないし聞こえない」
「どうして、ここまで優しくしてくれるの?私がいたら、光の人生を壊しかねない……もうやり直せないかもしれないじゃない」
「そういうもんだろ、道をわざと外した人間たちの最期っていうのは良い結果に転ぼうが、悪い結果に転ぼうが喜んで受け入れなければならない。その結果がやって来ただけ」
「私は、悪い結果?」
「それは今後次第だな。朝比奈がその復讐を果たすことが出来ずにずっと友達として仲良く出来れば、俺にとってはいい結果なのかもな。朝比奈はそうとは思わないだろうが」
「なら……こっちの世界の先輩として教えてよ。私はどうすれば良い結果に出会えると思うのか」
「そいつを殺す。理想がそれなら、他のことなんか考える必要はない。それで負けたら、まあその時は代わりに俺がそいつを殺しに追いかけてもいいぞ」
「ううん。それだけは絶対に嫌だからね。あなたにだけはその復讐の手伝いはさせてあげない。とっても大事なお友達だから」
「それは嬉しいような、嬉しいような」
「嬉しいしかないじゃん」
「朝比奈が守ってくれるのなら心強い。近くにいるだけで気持ちが楽になる」
またすぐそうやって勘違いしそうになることを言う。やっぱり私はおかしくなってしまった。
その場から消えるかのように、彼の胸に顔を埋めれば少し鼓動が高鳴っているのが伝わってきた。平静を保とうとして一言も発さなくなったのが逆効果で、うるさいほど感じてしまう心臓の音はよりクリアに分かってしまう。
それを察したようで、光の慈悲深い腕がするりと遠ざかっていきそうになった。
「んっ⁈」
中途半端に終わるのが嫌だった私は、引いていく彼の背中に根を張るみたいに強く抱きしめる。声を漏らして驚いたみたいだけど、狙い通りだ。
すると彼も、それを真似てくる。
ああ、懐かしいなぁ。ママとパパが持っていた柔らかい優しさが少しずつ光から伝わってくる。
どうして、私は彼を見るだけで熱くなるのだろう。どうして、彼は私をあの日理解してくれたのだろう。その答えが、落ち着くこの腕の中でようやく見つけた。
きっと光には理解されない。
まだ出会って数日しか経っていない私たちの関係値は、友達というだけで上々だ。
普通なら近付くことすら出来なかったような仲だったのだから。
あの階段で起こった事件は、運命の巡り合わせ。そうじゃないと説明がつかない。
そこにいたのが自分と同じ世界の住人だなんてあり得ないもの。
入学早々、学校生活に絶望していた子が同業者だって信じられる?
その人もどうやら自分の身分を夜に隠していた。違うのは、二度と取り出さないつもりでいたこと。
ゴミ捨て場を荒らしてしまったみたい。そんなの誰であっても嫌だよね。
彼がどんな人かまだあまり把握出来ていないけど、友達の作り方が分からないってだけで頭を抱えちゃうピュアな男の子なのは意外だった。
あんなに強くても、悩むことはまだ高校生らしいものだった時は驚いちゃった。
彼の過去はここにある。
手を伸ばせば、掴んで捲れるほどの距離。
でもそれをしてしまうのはルール違反だ。
夜にはルールがあって、自分のことを隠す代わりに他の人のことも見て見ぬふりをしなければならない。
誰かが決めたわけじゃないけど、みんなが守る約束事。
でも、何があっても自己責任。夜の幕が開いている間にあったことは「しょうがない」の一言を添えるだけ。
「だから光も、どんなことがあっても笑ってね」
彼を見上げて、笑顔と共にお願いをした。
私は自分の正体は秘密にしても、この気持ちは夜に隠すつもりはない。
彼を離せばもう大丈夫。
道が分からなくなれば前を見ればいい。匂うような太陽のもとまで歩いて行こう。
光は誤魔化すようにぎこちなく笑う。私の感情についてこられずにいた。
その復讐が終わる前に全部伝えたい。そして、最後は全部手に入れたい。
彼の全部を────ね。