願い社と記憶の桜
山道を抜けた先――風に乗って、ひらひらと桜の花びらが舞っていた。
けれど、それは“今”咲いているわけじゃない。
大樹の枝には花ひとつなく、空から落ちてくるのは、いつから舞っていたのかも分からない“記憶の花びら”だった。
「……ここ、なんか、変な空気」
クロがそう言って、ぴたりと足を止める。
りとは前を見据えたまま、そっと呟いた。
「ここは“願い社”。過去に多くの祈りが集まった場所です」
社の跡はすでに朽ちていたが、その周囲だけは不思議と空気が澄んでいた。
まるで、人々の祈りだけがまだこの場に残っているかのように。
悠真は、花びらが一枚、掌に落ちるのを見つめながら口を開いた。
「……昔、俺の学校でも“こっくりさん”って流行った時期があった」
風がそよぎ、どこからか鈴のような音が聞こえた気がした。
「みんな遊び半分だったけど、俺だけは……変に“本気”でやってたんだ。
答えを聞きたかったんだと思う。俺自身の、誰にも言えなかったことの、答えをさ」
クロがふと、視線を上げる。
「誰にも言えなかったこと、って?」
「……たぶん、俺自身の価値とか、生きてていいのかとか、そういう、言葉にするとバカみたいなやつ」
悠真は笑うでもなく言って、花びらを握りしめた。
「だから、今になって思うんだ。あれは“遊び”じゃなかった。
俺にとっての、最初の“占い”だったんだなって」
それは、彼が“誰かのために”ではなく、“自分のために”行った最初の問い。
答えをもらえなくても、何かを感じた気がしていた。
それだけで、少しだけ夜を越えられた。
「ここで、もう一度占ってみようかな」
悠真の言葉に、リトが頷く。
「きっと、何か残っているはずです。かつて“願い”が捧げられたこの場所には」
悠真は懐から、古びた硬貨を取り出した。
そして――風に揺れる花びらの中心に、そっとそれを置いた。
それは“遊び”ではなく、
“祈り”と“決意”が混ざり合った、静かな儀式だった。
風が、またそっと吹いた。
桜の花びらが、空から舞い降りる。
けれど、それはただの風景ではなかった。
花びらに混じって――“声”が聞こえた。
「ねぇ、あたしのお願い、届くかな」
「ぼく、生まれ変わったら空を飛びたいな」
「ありがとう……さよなら、じゃないよね?」
子どもの声、大人の声、誰かの泣き声、笑い声。
それは風に乗って、花びらとともに舞っていた。
そして、光が揺れた。
幻のように現れたのは、小さな動物たちだった。
キツネ、ウサギ、リス、フクロウ、オオカミ……
どれも人のような瞳を持ち、笑ったり、涙をこぼしたりしていた。
――それはこの地に捧げられた、かつての“願いの化身”たちだった。
彼らは静かに輪になり、悠真の周りを取り囲む。
そして、花びらがすべての空を埋め尽くした瞬間――
一陣の風が吹き抜け、辺り一面が桜色に染まった。
咲いていなかったはずの大樹に、
一瞬にして満開の桜が咲き誇った。
風に乗って、柔らかな光が降りそそぐ。
そのあまりの美しさに、誰も言葉を出せなかった。
悠真はただ、掌を見下ろしていた。
そこにあったはずの、古びた硬貨。
それが――静かに、ぱきり、と音を立てて割れていた。
中から何かが現れるわけではなかった。
けれど、その欠片が花びらのように舞い落ちるのを見た時、
彼はなぜか、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
「……ありがとう」
誰に言うでもなく、ふとこぼれたその言葉に、
木々がざわめき、幻の動物たちはそっと目を閉じた。
そして、花びらとともに――音もなく、風に消えていった。
……満開の桜が、静かに揺れていた。
その下で、悠真は割れた硬貨をそっと握りしめる。
祈りは消えない。たとえ風に散っても。
そう思えたことが、なによりの“答え”だった。