たぬきの村に残された色
森を進むごとに、空気の密度が変わっていった。
木々の色は灰色だったはずなのに、どこか淡い光が差し込んでいる。
「――もうすぐだよ」
クロが肩の上でそう言ったとたん、目の前の木立がふわりと開けた。
そこには、村があった。
小さな家々が並び、色とりどりの布が風にたなびいている。
地面には赤い石畳、屋根には青い瓦。
人々が笑いながら道を歩き、子どもたちが花を摘んで走り回っていた。
「……え、なにこれ……色、ある……?」
「この世界で、色が残ってるのはここだけや」
そう答えたのは、ひときわ大きな古民家の前で待っていた男だった。
どこかの旅人のような風貌――でも、その目は狸のように細くて、どこか鋭い。
「ようこそ、変化の村へ。
ワイがここのまとめ役、“たぬみち”や。よろしゅう」
深々とお辞儀をする彼に、悠真は少し戸惑いながらも会釈を返した。
「……人間、なんですよね?」
「どうやろな? 見たまんま信じるんも、ええけどなあ」
たぬみちが笑うと、どこかで“ぽんっ”と、何かが跳ねる音がした。
見れば、通りを歩く“人間”の子どもが、しっぽをしまい忘れて慌てている。
「……あれ、たぬき……?」
「せや。この村の連中は、みんな狸や。
人間のふりして、こうして暮らしとるんや」
悠真は言葉を失った。
どうしてここだけ、こんなにも色があるのか。
さっきまでいた森と、同じ世界とは思えない。
夜になり、囲炉裏の前で小さな宴が開かれた。
たぬみちは湯呑を手に、ゆっくりと話し始めた。
「……昔な、この森は色で溢れとったんや。
けど、“色”っちゅうのは不思議なもんでな。人の心を惑わす。
“もっと欲しい”“自分だけのもんにしたい”……そないな欲が、どんどん溢れてな」
たぬみちは、静かに火を見つめた。
「せやから、森は自分で“色”を閉じてしもた。傷つかんように、誰にも触れられんように。
うちらは、その前に、変化の術で色を“偽った”。
――せや、これは本物の色やない。偽物や。
でもな、誰かが“色がここにある”って思い続けてる限り、それは消えへんのや」
悠真は、しばらく黙っていた。
火の光に照らされたたぬみちの横顔は、どこか悲しげで、それでも芯がある。
「……じゃあ、この色は、たぬみちさんたちが“守ってる”んですね」
「そうかもしれへんな。
でも、それもワイの……頑固な意地みたいなもんや。
せやからこそ、そう簡単には“旅のお供”とか、できひんねん」
そう言って、たぬみちは口を閉じた。
火がパチ、と弾ける音だけが、しばらく響いていた。
焚き火の灯りが、静かに揺れていた。
たぬみちは手元の湯呑を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……ほんまはな。最初はワイらも、色が消えてしもた理由なんて、知る由もなかったんや」
その声は、さっきまでの飄々としたものとは少し違っていた。
柔らかいけれど、奥に沈んだ響きがある。
「ある日突然、世界から色が抜けた。
花も、空も、子どもらの笑顔さえも……まるで墨で塗りつぶしたみたいやった。
みんな、怖がったで。自分の色がなくなったら、自分が誰かも分からんなる、ってな」
たぬみちは、焚き火の中に何かを思い出すように目を細めた。
「それでも、ワイは信じたんや。“色”っちゅうもんは、目に見えるもんだけやないってな。
だから……変化の術を使ってでも、残したかった。せめて、子どもらには“世界にはまだ色がある”って思わせたかった」
悠真は、黙ってその言葉に耳を傾けていた。
「……でも、誰にもそれを伝えたことはない。
色が偽物やって分かったら、それすら壊れてまう気がしてな。
――せやから、ワイは今日まで、ここにとどまってる。
たとえ偽物でも、守りたい“ほんまの色”があるさかい」
少し照れくさそうに笑ったたぬみちの横顔は、まるで秋の月みたいに、どこか寂しくてあたたかかった。