ある夜の邂逅
天正十年六月三日。あの夜のことは、今でもよく覚えている。
その夜、雲水姿の私は、街道から少し離れた森の端の小道の脇で、ひとり焚き火をしながら野宿をしていた。雲が垂れ込め、今にも雨が降りそうな、じめじめとした夜だった。
私が焚き火を見ながら白湯を飲んでいると、東西に伸びる小道の東から、誰かが歩いて来るのが分かった。
灯りも持たず、こんな夜半に何者か。私は緊張しながら身構えた。
小道の端に沿うように歩き、こちらへ向かって来る。焚き火に照らされ徐々に姿が見えてきた。旅装束の男で、手に杖を持っていた。その杖で小道の端を確認しながら歩いている。どうやら盲人のようだ。
私のすぐ近くで立ち止まったその男は、目を瞑ったまま笑顔で私の方を向いた。かなり疲れているようだった。
「そこにどなたかいらっしゃいますか? もしよろしければ、水を一杯いただけませんでしょうか? 目の見えぬ身、道中で水を飲むのもままならず難儀しておりまして」
「ああ、どうぞ。丁度いま沸かした白湯がありますから」
私は笑顔で答えると、焚き火で沸かした白湯の残りを茶碗に入れた。
「さあ、白湯を入れました。立ったままでは何でしょうし、そこへお座りください」
「いえいえ、旅路を急いでおりますので、このままで」
その男は立ったまま笑顔で答えた。私は白湯の入った茶碗を手に取り立ち上がると、その男の前に立ち、手を取って茶碗を渡した。
「ありがとうございます。ああ、体に染み渡る……」
白湯を飲み干した男は、嬉しそうにそう呟くと、茶碗を私に返した。
「こんな夜半に歩かれるとは。何かあったのですか?」
茶碗を受け取りながら私が聞くと、男は笑顔で私に言った。
「はは、ちょっとした野暮用を頼まれましてね。それにしても、こんな場所でお坊様から白湯をいただけるなんて、まさに地獄に仏ですな」
雲水姿の私に、その男は笑いながらそう言った。
「ははは、これも何かのご縁かもしれませんね」
そういって、私が手を合わせると、男が嬉しそうに頭を下げた。
「それでは」
男が再び歩き始めた。私は、男に声をかけた。
「お待ちください」
「いかがされましたかな?」
男が目を瞑った顔で私に振り返った。私は笑顔のまま穏やかに話し始めた。
「先ほど、私のことをお坊様と仰いましたね。なぜ、目の見えないお方が、私の雲水姿に気づかれたのですか?」
それを聞いた男は、瞑っていた目を見開いた。杖を投げ捨て、私の方へ体を向けながら脇差しに手を掛ける。
男が脇差しを抜く前に、私は男を蹴り飛ばした。小道に俯せに倒れ込んだ男の上に馬乗りになると、私は懐に忍ばせていた縄で男を縛り上げた。
† † †
「お、お主、何者だ?!」
「羽柴筑前守様にお仕えする者。名乗るほどの者ではないよ」
「くそっ! 甲賀者か?!」
私は、男の最後の問いには答えなかった。
男は、私の沈黙で察したようだった。必死な様子で顔を私の方へ向けると、大きな声を上げた。
「頼む、甲賀者よ、見逃してくれ! 見逃してくれれば、必ず後で莫大な褒美を与える!」
「莫大な褒美など、誰が出すのだ?」
私が笑うと、男は真面目な顔で応じた。
「次の天下人となられるお方だ!」
「次の天下人?」
「そうだ。尾張の大うつけは、もうこの世にはおらん」
「何を訳の分からんことを……」
「嘘ではない! 次の天下人は惟任日向守様、あの明智様だ。証拠もある。お主も、あんな猿に仕えるのではなく、明智様に仕えよ! 悪いようにはせん!」
男は嘘をついているようには見えなかった。私は困惑した顔で呟いた。
「莫大な褒美を得て、次の天下人にお仕えする、か……」
「そうだ、よく考えよ! それがお主の最善の道だ!」
勢いづいた男が叫んだ。私は少し考えた後、苦笑しながら答えた。
「私は小心者でな。今の主君を裏切る勇気はないよ」
私は、味方に知らせる笛を懐から取り出し、吹き鳴らした。
† † †
男を羽柴様の兵に引き渡した私は、引き続き雲水姿で小道の脇に座り、道行く者の警戒にあたった。
翌日、向こうの街道を羽柴様の大軍勢が東へ向かって駆けて行くのが見えた。それからしばらくすると、仲間が私の所へ来て、今回の任務が無事に終了したことを告げられた。
後日、私は羽柴様から直々に褒美を賜った。私が偶然捕まえたあの男は、前右府様、すなわち織田様が本能寺で自害されたことを毛利方に報せる密使だったそうだ。
そして、明智を討った羽柴様は天下人となった。しばらくして、甲賀衆は、その羽柴様によって改易処分を受ける羽目になった。とある戦での不手際を理由にしたものだった……
† † †
……天正十年六月三日の夜の出来事は、私の忍びとしての任務の中では取るに足らぬものの一つだった。だが、何故か私の記憶から消えることはなかった。
あの時、あの男の言うことに従っていたらどうなっていたのだろう。
あの男との偶然の出会い、あの時の私の判断は、天下人の、甲賀の行く末を左右する、言わば分水嶺だったのではないか。
徳川の世となり、隠居して故郷で田畑を耕し静かに余生を過ごす私は、世の移り変わりを思い起こしながら、時折そんなことを考えるのだった。