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ソノバシノギ

 三時間ほど経過したところで、愚痴を言っていた一つ先輩の佐藤がついに眠った。佐藤はバーのカウンター席に突っ伏している。寝ぼけ眼を擦ってから、成瀬ミノルは四本目の煙草へと火をつけた。


「気持ちよさそうに寝てらぁ」ミノルは言って、煙を吸う。


 あれだけ飲んで、あれだけ毒を吐けば、さぞ眠りもご快適だろう。愚痴の内容はたいていが女のことだった。彼は女運みたいなものがあまりよくないようだった。


「ミノルくん、どうせお金ないんでしょ」


 佐藤が眠ってしまったのを見つけたバーテンダーがカウンターの向こうから言った。この店のオーナーの娘で、バーテンダーとして立つのは専らこの女だった。

 名を、クロエといった。おそらく本名ではない。


「だって今日奢るって言われたもん。財布なんて持ってきてないよ」


「ふふ。ツケにしといてあげるよ」


 クロエがそう言ったのに対して、ミノルは軽く両手を上げて、「わーい。佐藤先輩から取ってね」と薄っぺらく喜んだ。


 放っておくわけにもいかないので、佐藤と肩を組むようにして支えて立ち上がった。佐藤はミノルより一回り体が大きい上に筋肉質なので、彼を運ぶのは他の誰かを運ぶよりも困難だった。しかし、ミノルはむしろ慣れた様子。

 佐藤はミノルにとって、あらゆることについて気兼ねなく話せる数少ない……というかほとんど唯一の友人であった。上下関係を感じさせない性格と、良くも悪くも容赦と忖度のない性質がそういった関係を手伝っていた。優しくない人間は好きだ、優しくしなくていいから。ミノルとしてはそれが一番楽だった。


「……んぬぬぬ」唸りながら、ミノルは佐藤を店の外まで運んだ。


 もう日付も変わる頃だというのに、繁華街は賑わっていた。このへんは特に飲食店が多い。だからというわけではないだろうが、目を細めてもしつこくネオンが瞳孔を刺した。色々な呼ばれ方をしているが、『クジラ街』という名前が最も知られている。


 タクシーのよく止まる道路脇まで佐藤を運ぶと、ほとんど投げの要領で彼を乱雑に道路に寝かせ、その隣に自分も寝転がった。嘔吐物さえなければ、道路に寝転がるのも特別抵抗のある行為ではなかった。ミノルはなぜか、意味もなく大声で咆哮した。


 そこからの記憶はほとんどない。ただ、店を出るときに貰っておいた酒をラッパ飲みしていたことだけは確かだ。

 ミノルが目を覚ましたとき、すでにアスファルトを日光が照らしていた。冬の朝は凍えるほどだったが、それを感じぬほどに暑苦しいような、息苦しいような気持だった。寝転がった場所から少し移動していたが、歩道脇に寝転がっているのは相変わらずだった。隣に佐藤はいなかった。


「あのクソ野郎……」


 すでにそこにはいない佐藤に向けて呟いた。頭の中で爆竹が何度も炸裂しているような気分だった。ひどい頭痛だ。


「あんた大丈夫?」


 ふと、声をかけられた。見上げると、女がいた。逆光でそれ以上の情報は何も得られないが、女の影の輪郭をなぞるように日光が生えていて、仏のようだった。


「だれ、あんた……?」絞り出すように声を出した。


「私、ブルー。どうしたの、あんた」


「家はこの辺じゃないの?」


「いや、すぐそこだよ。それより、どうしたのよ」


「この辺に住んでんならもう見慣れただろ、俺みたいなヤツは」


「最近越してきたばかりなんだよね。それに酔いつぶれてるやつはごまんといるけど、どいつもクソガキかオッサンだよ。あんたみたいな美形は酔いつぶれたりしてない」


「そりゃどうも。それよりあんた、水持ってない?」


「今は持ってないけど、ウチ来たらあるよ」





 女の家へ上がった。女の家はクジラ街から少し外れた住宅街にあった。気分も体調もすこぶる悪かったが、目を突き刺す日光とおさらばして、水を何杯か飲んだから、いくらかマシにはなっていた。


 それから、ミノルは彼女に、ココアももらった。


 女は青く染めたショートカットで、痩身で頬にそばかすがあり、耳に何十個もピアスをつけていた。左の肩にカラスのタトゥーが入っている。すらっとした美人だったが、近寄りがたい雰囲気の女でもあった。


「サンキュー。助かったよ」水もココアも飲んだ後にやっと言った。


「いいんだよ。困ったらお互い様さ」女はテーブルを挟んでミノルの向かいに座り、頬杖をついて言った。


「いんや、あんたが道路脇でぶっ倒れてても俺は助けねえよ?」


「あはは。そりゃいい、それでいいよ」


 女は笑いを堪えながら――本当に可笑しくて仕方がないという様子だった――煙草に火をつけた。見た目からは成人しているかどうか、判断できなかった。


「あんた、名前は?」女が問う。女がすでに名乗っていたことをいまさら思い出した。


「ミノル。よろしく、ブルー」


「よろしく、ミノル」ブルーは煙草を持っていないほうの手を差し出した。


「ところでブルーって本名じゃないよね?」ミノルは握手をした。


「まあね。仕事で使ってる名前なんだよ」


「へえ。何してんの?」


 そう問うたが、彼女はほんの少し首を横に振っただけだった。


「……私のこと、抱きたいなら諦めたほうがいいよ。それか金を払いな」


 少しして彼女がそう言ったことで、ミノルは何となく彼女の仕事に勘付いた。


「――――」


 しばらくミノルたちは無言になった。ミノルは水を飲んでは溜め息を吐き、ブルーはそれを退屈そうに眺めては煙を吸っていた。


 ブルーから水をペットボトル一本と、電話番号を書いたメモを受け取って、彼女の家を後にした。

 ブルーに水をもらったおかげで、いつのまにか随分調子がよくなっていた。酒を飲む前よりもむしろ清々しい気分になった。繁華街、ネオン街、盛り場、歓楽街、そう呼ばれるような汚れた通りを出る。


「あ! おーい、成瀬!」少しは明るいマトモなところへ出てすぐに声をかけられた。


「よお」と返した。城戸――大学時代の友人だった。


『ははッ、んだよ、その返事』声がした。


「元気か、おまえ」城戸はそう言ってミノルの側へ寄ると肩に肩を軽くぶつけた。彼もまた、筋肉質だった。


「元気だよ、俺にとっちゃ酒なんかより大学のほうが毒だったわけだ」

『笑顔が硬いぞ、笑顔が』


「はっははは!」城戸は嬉しそうに笑うと、ミノルの腰に手を回して体を寄せた。彼のこういうところが、ミノルは苦手だった。「じゃあ、悪いけど……。また飲みに行こうぜ」


 そう言って彼は去った。すぐ近くで待っていた集団に合流した。大方サークル仲間か何かだろう。彼には友達が多い。善人だから。





 インターホンを鳴らしたが、何も応答はなかった。だが、試しにドアノブに手をかけると扉はいとも簡単に開いた。――サスペンスドラマだったら人が死んでいる展開だ。


「おーい」と声をかけながら入室する。


「……ん……」狭い部屋の奥で小さく声がした。しわくちゃになった布団の上に、部屋着の女が寝転がっていた。


「お前、危機管理能力……」


 注意しようとして、途中で面倒になってやめた。水を飲んだ直後は頭が冴えて清々しい気分だったのに、ここに着く頃にはもういつもの重い空気を背負っていた。


「んぁ、あぇ、おかえり」部屋着の女が寝ぼけ眼を擦って言った。


 女の名前は、ヒナミ。茶色がかった黒髪を肩の下まで伸ばした、料理の上手な女だ。


「おー、ただいま」てきとうに返事をしながら、ミノルは冷蔵庫を開けた。中には食材と、清涼飲料水、ただの水くらいしかなかった。「酒、お酒ないのか」ミノルは溜め息を吐く。


「ないよ。もう、家じゃ飲まないって言ってたじゃん」とヒナミ。


「うん、うん、もう、飲まない」


 もう家でも酒は飲まないし、外でも佐藤がいない場では飲まないと約束していた。しかし、佐藤も暇な人間ではなく、毎日会えるわけではない。それでは足りなかった。それでは声が消えなかった。


『我慢すんの。偉いな、本当に偉いよ、お前はいつもそうだもんなあ。本当は飲みたくて仕方がないのに、彼女のために我慢するんだもんな、偉い偉い』


「うるせえよ……」ヒナミに聞こえないように呟いた。


 冷蔵庫から水の入ったペットボトルを一本取り出して、一口飲んでから、ヒナミの隣へ寝転んだ。佐藤と飲んだのは土曜日だったから、今日は日曜日だ。ミノルにはもう予定がなかった。

 その日のほとんどを布団の上で過ごした。深く眠れるわけでも、体を活発に動かせるわけでもなく、ただ惰眠を貪った。どのくらい眠ったのかも、どのくらい目が覚めていたのかも分からない、夢と現実が混濁してしまったような状態で怠けていた。


 二十時を回る頃、ようやく覚醒して、布団から這い出た。部屋にヒナミはいない。夢現なまま、ふらふらと立ち上がると、低いテーブルの上に置手紙を見つけた。


{ミノルくん、こっちまで遊びに来た友達に誘われたので、夕食に行ってきます。何かあったらすぐに電話して。大好き。――ヒナミ}


 と、あった。ミノルは薄目でそれを読んで、何に対してでもなく、うんうんと頷く。



 もう数えきれないほどの回数になるが、またもミノルはヒナミとの約束を破った。携帯電話と財布だけ持つと、鍵も閉めずに家を出た。真冬の夜の町は冷えきっていて、薄着で外に出たことを後悔したが、戻るのも面倒だったので諦めた。吐く息が白く、無意識に肩が震えていた。『クジラ街』にあるクロエのバーまで歩いた。


「あら、今日は一人?」カウンターの席についてすぐに、クロエがミノルに問うた。彼女はミノルが何も言わずとも、ビールを注いだ。


 ミノルは力なく頷いて、何もない壁を眺めていた。それから酒を何杯も飲んだ。ミノルは立派なアルコール依存だったが、人一倍酒に強いのも事実だった。簡単には酔えず、バーを後にした。


 煙草を吸いながらとぼとぼと『クジラ街』を徘徊した。酔わずとも、酒を飲めば気分がふわついて、テンションは少しずつ上がってはいた。


 歩を一度止めて、スロットをしようと心に決めた時、ちょうど携帯電話が震えた。


「はい」


『やっほー。何だった?』慣れないノリの女の声だった。


「誰?」憂鬱な気分が酒で中和され、割と元気に応答ができた。


『ブルーだよ、あんたからかけてきたじゃん』


「あ? かけてねえよ?」本当に身に覚えがなかったが、寝惚けてかけたのかもしれない。


『ふーん、じゃあ用事ないのね?』


「まあ、ないね……あ、」


『なにー? てか体調大丈夫なの?』


「大丈夫。あれ、今度遊びに行こうぜ。飯おごるよ」


 そんなわけで、ミノルはブルーとのデートの約束を取り付けた。自分でもなぜ彼女と会おうとしたのかは分からなかった。


 その夜はスロットに行くのはやめて、マンションのヒナミの部屋へ戻って再び眠った。ヒナミはまだ帰ってなかった。次の日もほとんど何もしなかった。ソファに根が生えたように居座り、ほとんど意識もはっきりしないような気の持ちでテレビを見ていた。酒を飲みたくなったら、水を飲んだ。酒を飲むことへの罪悪感は、ある意味でミノルを救ったが、またある意味でミノルを苦しめていた。





 水曜日を通り越して、木曜日が来た。ミノルは灰色の空の下、寒さを凌ぐために厚着をして外へ出た。ちょっとした遠出だったが、平日はヒナミも暇じゃないので特にバレなかったし、怒られることもなかった。罪悪感がなかったといえば嘘である。しかし、ミノルは今回に、罪悪感以上の、それを覆す何かを感じ、また求めていた。


『本当に来ると思う? おまえ、いつから娼婦に遊ばれるような腑抜けになったんだよ?』


「まだ、待ち合わせの時間にもなってない」


 寒い大気に向けて、何度も煙を吐きながらブルーを待った。彼女は待ち合わせの時間ぴったりに到着した。


「やあ」ブルーは手を上げて挨拶をした。彼女も、暖かそうな上着を着ていた。「今日あんまり元気ない?」


「や? んなことないけど、三十分も前から待ってたからかな」


 それから二人は、取り留めもない会話を交えながら水族館を回った。誘っておきながら特に行きたいところのなかったミノルだったが、ブルーは海鮮料理が好きとのことで行先は水族館に決まった。

 しかし、海鮮が好きだから水族館へ行こう、というのも、考えてみれば訳の分からぬ話ではあった。


「イルカのチ〇コって、刺繍針みたいだな」信じてもらえなさそうだが、これはブルーの発言だ。


「ああ、確かに、チ〇コってより、凶器だな」ミノルは同調した。


「チ〇コも、ケースバイケースだけど、凶器だよ」


 ショーではなく、イルカの水槽を見ていた時の会話だ。ちょうど二匹のイルカが交尾をしていた。ミノルとブルーの会話のほとんどが、こうした低俗な会話であったことを記しておく。


 会うのは二度目、交流の少ない二人だったが、水族館にいる間の数時間、笑いなく過ごした時間はなかった。最初はミノルの元気を心配していたブルーだったが、気付けばお互い笑いっぱなしだった。

 自分以外の何者かを、世間だとか、組織だとか、そういうのを気にせず、感情を素直に表に出したのはいつぶりだろうか。


「マジで言ってんの? 後悔するよ?」


 みんなが笑ったら自分も笑い、みんなが悲しそうだったら自分も悲しみ、相手が喜んでくれたことを繰り返し、相手が嫌がったことは二度としない。人生がこんなにも簡単だと、ミノルが気付くのは、彼がすでに十五年間も苦しんだ後のことだった。――なんだ、生きるのって、簡単じゃないか。けれど、だから苦しまないわけではなかった。


「大マジだぜ。後悔すんのはブルーだよ」


 水族館を後にした二人は、解散するのを目前に、お互いにラーメンが好きであることが判明した。特に家系である。それから水族館の近くにある店を見つけ、どちらが多く食えるか、という勝負を始めた。


「な、なかなかやるね……」


「あんたこそ……正直驚いたぜ、本当に女かよ……」


 水族館に近いラーメン屋を出た時、二人はすでに満腹であったが、勝負はつかないようだった。だから、二人はその足でクジラ街まで戻ると、そこにある家系ラーメン屋を転々と食べ歩いた。


「は、ァ……しんどい……」ブルーの肩を借りながら、ネオンの照らす道を進んだ。


「後悔した?」ブルーも満腹を超えた具合だったが、余裕そうに笑っていた。そういう表情を作っていた。


「ああ……、した。……後悔したね……完敗だよ……」


 ミノルは嘔吐する寸前で、視界も揺らいで、喉をつままれたように息苦しかった。だが、どこか普段よりも健康な気がした。そういえば今日一日、酒も水も飲まず、ラーメン屋でさえココアを飲んでいたことを思い出し、ミノルは急に酒を飲みたいような気分になった。


「……最後に、酒、飲みに行こう」


「あァ? やだよ、やだね」ブルーは呆れるように笑った「また私に介護させるつもり?」


 誘いは断られたが、ブルーは最後に水のペットボトルを一本奢ってくれた。


「あんた、夢とかあるの?」ブルーがミノルに問うた。


「夢? なんだ、その虫唾の走る言葉は? 知らねえな」


 満腹、その限界を超えて詰め込んだ麺が、ミノルの意識を強く揺らしていた。酒とは違う、酔いのように思えた。


「夢、私にはあるよ。――私、イケメンと死にたいんだよね。あんた、死にたくなったら誘ってよ」


 ブルーの目は、ミノルを見ていて、見ていないようだった。その時のブルーの顔は、美しかった。そんな気がする。ココアが好きになった。


 金曜日は、十四時を回った時に目を覚ました。体を動かす気力がなく、しばらく布団の上でゴロゴロしていた。上体を起こす元気すらなかった。酒を我慢することだけに専念するように、喉が渇いたら水を飲んだ。


『寝てていいの?』

『やるべきことがあるんじゃねえの?』

『そのまま眠ったら、問題がすべて解決するのか?』

『それは違うな。けど、悪いとは言わないぜ、嫌なことからは逃げたっていいんだ。怖いことからは逃げたっていいんだ。みんながみんな、努力しなくちゃいけないんじゃない』

『一体全体、誰が努力を尊いものだなんて決めたってんだよ、なあ?』


 はやく、はやく、酒がのみたかった。

 しかし、意外に早く救いはあった。金曜日、その日の夜だった。明日は土曜日で、一日暇だからということで、佐藤から連絡が来た。ミノルは待ってましたとばかりにヒナミに伝えて、家を飛び出た。


「夜にね、聞きたいことがある。早めに帰ってね」


 ヒナミはミノルに盲目的だった。ある程度、盲目的だった。以前、何度か無断で、ヒナミが親から受け取った仕送りをミノルが無断で使って競馬やスロットに溶かしたことがある。ミノルの生来の性格的な問題と、抱えた倫理観の問題によって起こした、浮気行為や暴力沙汰も、怒りはするが結局は許してくれた。


 ――しかし、中でも浮気行為の時の彼女はやや異常というほどに取り乱した。否、これもミノルの思い違いで、誰でもあれくらい怒ったのかもしれない。が、他の問題に比べて、浮気だけは彼女を最も怒らせるところだった。


「――どーもー」ミノルは例のバーに入店、佐藤を見つける。


「おー、来たか、成瀬」佐藤はすでに酒を飲み始めていた。


「おいすおいす。どうっすか」


「どう、って、何がだよ」佐藤は酒も入ってテンションが高かった。


「え? そりゃ女よ。こないだ言ってた、あの……」


「あー、あの子、あの子はね、だめやね。どうも地雷っぽい女ばっかに好かれちまう。あの子もそのタイプやね」


「先輩が地雷にしてんじゃねえの?」佐藤が頼んでくれた酒を飲みながら、笑って言った。


「馬鹿、違ぇよ。ホントに女運がないの、俺は」


 それから、しばらく、前に良い感じになった女の子の話を聞いた。ほとんどはやはり愚痴だったし、地雷女だのと言う割に未だに連絡を取っているようで、こういうところが佐藤の情けなくも愛おしいところだった。前の女も、その前の女も、みんな揃って胸が大きいのも佐藤らしいと言える。


「先輩。先輩はどう思う……」ミノルは言い淀んだ。


「あんだよ」佐藤はすっかり顔が赤い。


「……いや、まあ……、何でもない」


 自分でも、このとき佐藤に何を相談しようとしたのかも、どうして佐藤に相談しようとしたのかも分からなかった。――俺はとうとう頭がおかしいのかもしれない。ミノルはそう思った。


 ミノルは自身が救いようのないダメ人間だと自覚していたが、佐藤だって褒められた人間ではない。定職に就いている分、ミノルよりいくらかまともではあるが、倫理観は常人のそれには一致せず、偶然一般人に溶け込めただけの狂人とすら思えた。そんな佐藤に、ミノルは己の内面を吐露しようと、……――内面? 内面ってなんだ? 俺の内側には、何があるんだ、…………。





 ヒナミには二十時過ぎには帰ると伝えていたが、結局ヒナミの家に着いたのは二十三時を過ぎた後だった。玄関を抜けると、ヒナミは布団の上に胡坐をかいて待っていた。ミノルとヒナミの目が合う。ミノルが謝ろうとして、「あ、」と声を出したのと同時に、ヒナミは呆れたように溜め息を吐いて、布団の中に潜っていった。





 次の日。ミノルは久々に高校時代の友人に呼ばれ、大人数での飲み会に参加した。大人数とはいっても、高校三年生の時のクラスメイト、その一部だったので、プチ同窓会といった具合だった。


『ほとんど同窓会だってのに、行く必要あるか? 自慢できること一つだってないだろ』声が聞こえた。ミノルにとっては、酒を飲めれば何でもいいような気持ちすらあった。


「成瀬じゃん! 久しぶりー!」


 甲高い声に迎えられる。案内された個室には、すでに十人程の男女が席について、酒を飲んでは騒がしくしていた。懐かしい顔が並んでいた。

 ミノルは先入観で、こういう飲み会は和風な座敷の上で行われるものだと思っていたが、今回は明治モダン的な、ハイカラな内装な店だった。どことなく、クロエの店に雰囲気が似ているかもしれない。しかし、実際はあちらの店ははっきりとアングラ的な匂いがする。


「成瀬ますますカッコよくなってない⁉」てきとうに座った席の、その隣に座っていた女が甲高く叫んだ。――誰だっけな、こいつ。


「え、それな⁉」

「思った、磨きかかってるよね」


「ミノルきもー。萎えるわ、そういう感じ」


 文句を垂れた男には覚えがあった。女も何人かは覚えていたが、もしかしたら高校時代は女好きじゃなかったのかもしれない。


『どいつもこいつもうるせえんだな、ダチってのはさ』


「久しぶり、ハルト」ミノルは文句を垂れた男に挨拶をした。


「おう、久しぶり。てかお前、女子は無視かよ」


「いや別に、そういうつもりじゃねえけど……」


 ミノルは思わず笑った。ここに、こんなところに、懐かしい友情が落ちていたのか。


「んで、調子どうよ」と、ハルト。


「あー、調子? クソッタレだね。俺大学辞めたし」


「え⁉ やめたん⁉ じゃ、今何してんの」


「何? んー、何だろ。カスかな」


「カス? カスってなんだよ」とハルトは笑う。「具体的に、朝起きたら何してんの?」


「何って……まず俺、朝に起きねえし」


「だっはっ! ウケる、ガチで生活リズム壊れてんのか!」


「そう、まあ、それは大学辞める前からだけど」


 こんな生き方をしていても、自己嫌悪は抱いていない。そこがミノルの最も駄目なところかもしれなかったが、自己嫌悪なんていう感情は、抱かないに越したことはないという意識があった。


「じゃあじゃあ、夜は何してんの」ハルトはすでにいくらか酒が入って、鬱陶しいテンションに入っていた。


「スロットとか、競馬とか、あとまあ、大概は酒飲んでるかな。そうでもねえか。よく分かんねえや」


「だ……ッ、はっはっは! ほんでカスを自称するに至ったか、お前相変わらずおもれえな‼」


 それから何杯か、十何杯か飲んだ。クラスのみんなはそろそろ顔も赤くなって、変なテンションで変な会話をしていた。ミノルは何杯飲んでも自分だけ変に冷静で、逆に恥ずかしい気分になった。何人かはすでに眠そうにしていた。――こんなギリギリまで飲むもんなのか。そういう冷静さが自分では嫌な気がした。


 ミノルの隣に、懐かしい顔が座った。トイレ帰りだったらしく、席替えの多い集団の中、漏れなく何度も人が入れ替わっていたミノルの隣の席を、ここぞとばかりに獲得したらしかった。


「久しぶり、かっこよくなったね」女だった。


「女子ってそれ言わないと死ぬルールとかあんの?」


「まあね、ただの社交辞令だよ。本音じゃない」


「へえ。お前、墓前の花なにがいい?」なんとなく、ブルーを思い出した。何故かは分からなかった。


「はっはっ、うそうそ、ごめんごめん」


 女は嬉しそうに口角を釣り上げて、手を叩いた。女の名前はたしか、カナだったか、ハナだったか、そんな名前だ。


「でも、ホントかっこよくなったよ。てか、昔からかっこよかったんだけどね」


「なに、ホントに何、みんなして。気持ち悪ぃな」


「ははっ。みんな思ってること言ってるだけじゃない?」


 女は言って、ミノルから体を離すと、テーブルに肘をついた。


「俺のこと口説こうとしてる?」


「ふふ。うん、みんなが油断してる隙にね」


「あっそ。まあ頑張れよ」ミノルはなんだか面倒な気分になっていた。


「何それ。ふふっ。成瀬は私のこと、覚えてた?」


「まあ、それとなく。ハナだったよな?」


「ハナって……! カナね! 私の名前、カナだから!」


 女は名前を間違えられたのにも関わらず、嬉しそうに笑うと、ミノルの方へ体を預けた。


「ああ、そうか、そんなんだったな。悪ぃ悪ぃ」


 ミノルはさらに何杯か飲んで、段々と意識がふらついてきていた。気持ちがいい。


「それで、成瀬、私のことどう思ってんの? あり?」


 彼女は酒が入ると声が大きくなるタイプらしかった。


「どう? どうって、そりゃあ……」


 分からなかった。彼女のこと、好きでも嫌いでもないようだった。――あり? なし? なんだそりゃ、どう判断しろってんだよ。めんどくせえな。


 ――だいたい、女って生き物はいつもこうだ。ちょっと優しくしてやればほいほいついてくるクソチョロメンタルのくせに、いったん仲が深まれば、付き合ってなかろうが構わず気色悪い独占欲を出してくる。男の浮気は許さないくせに、女の浮気は不安な気持ちの結果だから男に責任があるらしい。クソくらえだ。男を自分の所有物か何かだと誤解してやがる。ああ、もう、なんか全部めんどくせえな。同級生も、女も、社会性だとか、将来性だとか、政治だとか、組合だとか、年収がどうこう、教養がどうこう、常識がどうこう、全部、全部、めんどくせえ。


「――正直、あり」ミノルは口を開いた。


「え! マジ⁉ 私さ、高校ん時から成瀬のこと好きだったんだよ」


「ありがとう、気持ち伝わるよ。俺いいこと考えたんだ」


「え、え、なになに」女はどんな想像をしているのか、興奮気味だった。


「俺たち、二人だけでさ、遠いどこかに行こう。誰も俺らのことを知らないところ。何も持たず、誰にも知られずにさ、」


「え、え、え、いや、でもさ……、」


「ビルのないところだ、それがいいに決まってる。俺らでそこに一軒家を建てよう。でも不動産とかは話したくないし、二人で一から建てるんだ。素材を買い集めて。で、家の周りに二メートルくらいの壁を立てよう、」


 ミノルは早口でまくしたてた。


「いや、でも、ちょっと待ってよ、何で急にそんな興奮して……、」


「でも近所の何人かとは仲良くするんだ。小学校の近くは嫌だけど、遠すぎない所にしよう。子どもとの交流は大事だから。それで、それで……、俺たち、そこで静かに生きていくんだ。老いて、死ぬまで。この街の奴らには見つかることもなくさ、静かに生きて、静かに死のう。……ふたりっきりで」


「ねえ、ねえ、待って、成瀬。無理、無理だから。どうしてそんな飛躍するわけ」女は困惑していた。「急にそんな、無理に決まってるでしょ」


「は? なんでだよ。完璧だったろ、今の」


「何言ってんの、急にそんな。絶対無理だから」女は苛立っていた。


「急じゃねえよ、すぐじゃなくていい。将来的にって話」


「じゃあ、具体的には? どこに行くの? なんでそんなことするの?」


「なんで? 何でって……、そりゃ、ここがクソッタレだからだよ。全部捨てて、やり直したいんだ」


 ミノルはたしかに酔っていたが、妙に冷静で、自分でもわけの分からない状態だった。


「ねえ、成瀬」女の声が少し低くなった。「そんなの、無理だから。人生の負債って、逃げれば消えるわけじゃないと思うよ。どっかで清算しなくちゃならないんだよ、たぶん」


「なんでだよ、そんなのクソだ。何でどいつもこいつも嫌なことばっかやって生きてんだよ」無意識に、声が少しふるえていた。


「だって、だって……人生って、その程度のものだもん……」女は急に悲しそうな声色になった。


「は? なんだ、てめえ。気色悪ぃな。」心臓がうるさく鳴っていた。


「じゃあてめえはこのクソッタレな街で一生苦しんで死ねよ、クソ女。嫌なことも我慢して、好きなことにはごくたまにしか触れず、そんなのが人生だなんて、そんなの嘘だ! このクソアマ……!」


「ううん、嘘じゃないよ、嘘じゃない。ホントだよ。人生って、みんなそう。たった一瞬の幸福のために、ずっと耐えるんだよ。みんな、耐えてるんだよ」女の目には涙が浮かんでいた。


 周りの元同級生たちはいつのまにか、ほとんど眠ってしまっていた。数人の起きている者は、ただ黙って、怒鳴りあう二人を見つめていた。


「耐えてるって、……はは、クソだな。……お前らって、明日死んでもそう言えんの? なあ? 明日死んじまっても、耐えた甲斐あるってほざけんのか……!」


 ミノルがテーブルを強く叩いて、その上の食器やら何やらが音を立てた。ミノルは息を荒げ、少しずつ頭が冷えていくのを感じていた。冷静になって、なんでこんなことで怒鳴っているんだと馬鹿らしく感じた。


「ねえ、ねえ……怒鳴らないでよ、怖いよ、成瀬……」


「おいおい、おいおいおいおい、ミノルくんさぁ、女の子泣かしちゃダメだろー」聞き覚えのある、鼻につく声が聞こえた。「だいたい、カナは間違ったことは言っちゃいない」


 武田という男だった。

 高校時代、惚れてた女がミノルに惚れてただとかで、以来ずっと陰湿な嫌がらせを繰り返しては、クラスメイト全員に呆れられていた、筋金入りの陰キャ男だ。


「カナはな、お前に現実を見てほしいんだよ――」


「カナとか馴れ馴れしく呼ばないで、気持ち悪い」


「――で、でさ、だから、お前、ありえねえこと言うなってことだよ」


 武田が言った。酔いきっているようだった。カナは鼻をすすっていた。


「なに、おまえ」


『なんだこいつ、殴ろうぜ』まだ、酒が足りない。


「お前さ、まだヒナミのとこいるんだろ? そんでお前、どうせヒモだろ? そんで、しかもお前、ヒナミのことめんどくさいと思ってるだろ? いいか、めんどくさいのはお前だよ、誰がどう考えたってな」


「呼び捨てすんなよ、本人とは目合わせて話すことすらできねえくせによ。キショいんだよイ〇ポ童貞野郎」


「うるせえ、静かにしろ。お前、ヒナミのこと重い女だと思ってるだろ? 違ぇよ、お前が軽薄すぎるんだよ。ヒナミはお前のこと尊重して、大切にして、尽くしてくれてるんだろ? お前はあいつに何してやったんだよ? 何かしてやったのか? やってねえだろ、どうせ。お前、家事すんの? 洗濯、料理、掃除、買い出し、なんかひとつでも手伝ったことあるのか? ねえだろ、ねえよな? そんなお前が、お前ごときが何がどうしてヒナミのこと見下せるんだよ。オイ。お前、一日中、酒、女、煙草にギャンブルだろ? そんで家事もてんでダメなんだろ、そんなお前がなんでヒナミを重いだのめんどくさいだの思っていいと思ってんだよ。キショいのはお前だよ。まずギャンブル中毒とアル中治せよ、社会不適合者。大学もやめたらしいな、お前どうすんだよ、将来。まさか一生ヒナミのすねかじり続けんのか? 働けよ、今からでも。ホント救いようねえなお前。てかさ、お前佐藤さんにも可愛がってもらってるよな? お前どうせあの人のこと下に見てんだろ? 佐藤もカスだから付き合いやすいとか思ってんだろ? でもな、お前と付き合ってくれてるだけで十分良い人だから。しかも酒も奢ってくれるんだろ? お前どうせ一円も出さねえんだろ? そんで佐藤さんのこと下に見てんの意味わかんねえから。俺からしたら佐藤さんも暴力漢のクソダサ野郎だけど、お前に付き合ってやってるってだけでマジで尊敬するよ。俺だったらマジで、マッジで無理だもん、お前みたいなやつ。生理的に無理。理性的にも無理だよ。お前、周りを不幸にする天才なんだよ。お前のせいで俺は高校もクソつまんなかったし、女もお前に取られたしな。でも、これで結果が出たよな。お前は道から外れ、俺は真面目に生きてる。そういうことだ、クソ野郎。成瀬、俺はお前が嫌いだし、どうせここにいる皆もお前の事うざがってるよ」


 武田の言葉には、彼にとって都合の良い妄想や推測が多く含まれていたし、ほとんど私怨だった。いつもなら問答無用に殴って黙らせていただろう。しかし、ミノルは何故か、何かが悔しくて、何も言えなかった。





 地獄のような雰囲気と、脱落した人の多さを原因に、プチ同窓会は修羅のように終わりを迎えた。ミノルは茫然自失のまま帰路に立っていた。


 帰路――ヒナミのところへ帰るのか。ミノルはどこかで、武田の言葉を気にしていた。


 武田は救いようのない陰湿な男で、彼の言葉には何の価値もない。しかし、あれだけ直球に悪意や憎悪といった感情をぶつけられるのはなかなかないことであった。

 武田はそれだけ、ミノルに深い嫉妬を抱き、卒業した今でもなお、胸の中にその嫌悪の残り香を宿していたのだ。


 ミノルは、もはや自分の在処が分からないような気持ちだった。武田がどう、ではない。興味もなかった女と逃避行しようとしたのは、ミノルが精神的に限界を迎えていた証拠なのかもしれない。


 ミノルはポケットから携帯電話を出した。ヒナミの声が聞きたかったような気がした。しかし、結局なぜかブルーに電話をかけていた。


『もしもしー? どした?』


「ブルー……、」


『なになに、どうしたの。元気ないね?』


「ブルー、こないだ、イケメンと死にたいって言ってただろ?」


『――うん、私の将来の夢ね』


「……光栄に思え、一緒に死んでやるよ」


 電話の先に、一瞬の沈黙が流れた。普段の、世の中を舐めきったミノルの態度との差に少々面食らっているようだった。否、このような夢を語った時点で、ブルーは、ミノルの〝こういう面〟に気付いていたのかもしれない。


「――だから、ブルー……、俺と一緒に死んでくれ」


「――――いいよ」





 クジラ街を外れたところにある長い坂を上り、多少風情のある町並みの見えるところまで来ると出会える、『麦茶川』という川がある。可愛い名前だが、別名『人食い川』である。


 真冬の麦茶川は水の冷たさも然ることながら、その流れの強さを特徴としていた。ミノルにはその原因が分からないが、変わった地形をした土地なので、何か理由があるのだろう。川は、町ひとつをまたぐ大蛇のようにも見えた。


 ミノルとブルーは、その、真冬の麦茶川を眼下に見下ろしていた。岩をも砕くような強さの流れと、それに見合わぬほど綺麗で、透き通った、優雅な川の彩。それを見下ろして、


「ああ、死ぬにはいい日だ」


 ミノルがそう呟いた。直後に、隣でブルーが吹き出した。


「ちょっと、軍人気取り? 違うでしょ、私たちはそんな崇高な存在じゃない。誇りも、権威も、尊厳もとっくに捨てた、負け犬でしょ、私たちは」


 ミノルとブルーは手をつないで、その綺麗で、優雅で、気高く、暴力的で、殺人的な川に身を投げた。


 ――――――ぁ。


 清らかな濁流によって、己の輪郭を見失った。肉も剥がれ、骨も砕かれるような、暴力的な水流に気が遠くなって、ついに、ついに、死ねるような気がした。


 ……しかし、ミノルは自分が息苦しいことに気付いた。本能的に、空気を欲しがった。しかし水流のあまりの強さに、水面に顔を出して呼吸することは叶わない。そして、結局、必死になってどこかを掴んだ。そのまま腕力を頼って、身を地に引き寄せる。


「……む、ん……ッ! ぷ、はぁ……‼」


 やっとの思いで地上に這い出た。背の低い雑草で成った芝生の上に身を乗せた。


「は、あ……はぁ……はァ……」


 急いで呼吸を整える。そして急いで何かを確認するように、川のほうを向き直った。

 そこには、綺麗な暴力が流れていた。もう、川には川以外、何もない。


「死ぬかと思ったぁ……」


 どうして、いまさら、生にしがみついたのだろう。

 そんな困惑を抱えながら、水から身を引いて、ふらつきながら立ち上がった。


 なにかを飲もうと思った。


 とぼとぼと重い足つきで、自販機のあるところまで歩いた。意識が朦朧として、視界のピントが上手く合わないような感覚だった。まだ、酒が入っているのかもしれない。


 自販機に小銭を入れてから、見上げた。ココアのところは、赤い文字で「売切」と光っていた。


 ミノルは思わず、膝をついた。そして、出し抜けに泣き出した。なにも悲しいことなんてなかった。なにも辛いことなんてなかった。ブルーが死んだことも、悲しくなかった。けれど、ミノル自身もわけが分からないまま、ただ子どものように泣きじゃくっていた。泣き喚いていた。





 ミノルはクロエのバーに来ていた。川から上がって、二十分ほど後のことだった。バーには珍しく多くの客が来ていた。ミノルはいつも通り、カウンター席に座った。川に入っていた約十秒のせいで、携帯電話が機能しなくなっていたため、まだヒナミには何の連絡もできていなかった。


 自販機では何も買えなかったので、その分酒を呑んだ。ミノルは酒に強く、なかなか酔えないというだけで雰囲気に合わせられず焦ることもあったが、もう何杯飲んだのか、数えきれないほど飲んで、もはや前後不覚に近い状態だった。


「あれ、あれあれあれ、ミノルくんじゃん」鼻につく声がした。「お前、逃げるように帰っちゃったから心配したよ」


 ――武田だった。彼も相当に酔っているようで、恐らく同窓会で会ったのであろう、女を連れていた。


「よお。は、ははは」ミノルは不安定な視界で彼を捉えた。


「結局、酒飲んでるし。ほんとにどうしようもねえな、お前は。まあ、今更焦ってもマトモな人間のフリなんかできんさ、安心しろ、逆に」武田は笑った。


「はは、はははっ、そういえばよぉ、お前、あの子元気か。ほら、お前が高校ん時に惚れてた……」


「――お前、その話すんなっつったよな。本気で殴るぞ」一転、険しい表情になる武田。


「ははははッ、あははははははっ、いまお前、意外と可愛い顔してるぜ、それは知ってたか?」


「黙れ、マジで殴るぞ」武田の顔が真っ赤になって、プルプルと震えていた。


「それでさぁ、あの子なぁ、名前すら覚えてねえけどよ、フ〇ラが上手かったことだけは覚えてるよ、はははは――ウッ……!」


 ミノルの視界が大きく揺れた。武田がミノルの右頬を殴ったのだ。椅子から転げ落ちるミノルに、クロエが「ちょっと、騒ぎ起こさないでよ」と注意をした。


 ミノルはふらふらと、実体も意識も揺さぶられながら立ち上がった。


「……くっ、はははははっ」そしてまた、気違いのように笑い出した。


 そして次の瞬間。

 ミノルは武田の顎に、右フックを入れた。意識を抜かれたように武田が脱力し、ワンテンポ遅れて連れの女が悲鳴をあげた。構わず、ミノルは武田の胸倉を掴んで引き寄せる、すでに降参の顔をしていた武田の顔面に、一、二、三発、気持ちのいい拳をお見舞いした。



 ――なんだ、人生なんて、簡単じゃないか。

 人生なんてこんなにも簡単だ。全部、忘れたらいいんだ。全部、壊したらいいんだ。

 酔って忘れよう。殴って黙らせよう。どうせ全部クソなんだから、迎合してやる必要なんかどこにもない。

 とにかく、其の場を凌げれば、何だっていい。社会も、常識も、将来も、世間も、生き様も、死に様も、他人も、自己も、なんだって、どうだっていい。





 気づいたら、いつの間にか、知らない女を連れて歩いていた。クロエのバーで会った女かもしれない。いつの間にか雪が降り積もっていた。草木も枯れ、禿げた枝の上に、薄く雪が乗っかっている。ミノルたちは、喧騒を少し遠くに聞きながら、細い道を、ゆっくり歩いていた。


「ほんとに大丈夫?」


 女は、そう言ってミノルの方に一歩寄った。

 ほとんど抱きかかえるような姿勢でミノルに寄り添う、守られているような心地で、何故か安心した。


「だいじょうぶだよ……」


「飲みすぎだよ。お酒って、そんなにおいしい?」女が問うた。


「まずいよ」


「だったらどうして……、毎日そんな飲んでるの? 死ぬよ?」


「死ぬ気で飲んでるんだ」


 女は本気でミノルを心配しているようだった。初めて会った、赤の他人なのに。「死ぬ気で……」ミノルはもう一度言った。


 それから無言で、何分か歩いた。どこに向かっているのかはミノルには分からなかったし、わざわざ女に問うのも面倒だった。

 遠くに喧騒を聞きながら、己のペースで、何も考えずに歩く雪道は、静寂よりも静寂で、どんな平穏よりも平穏な気がした。


「ねえ、わたしのこと、忘れたりしないよね?」何分かして、女が不安そうに言った。


「ああ、きっと――、」言いかけて、ミノルは。


 背中に異物感を覚えた。自分ではない何か、固いものが自分の皮膚や筋肉を押し退けて体内に侵入した気がした。そして、じんわりと熱くなった。


「――ぁ、」小さく声を漏らして、全身が脱力した。


 隣を歩いていた女が、絶叫に近い悲鳴をあげて、走り去る。ミノルはやっと、三人目の気配に気が付いた。


「ひ、な、み……?」


「うん、そう、私よ。ミノルくんの、ヒナミ」


 ヒナミは言いながら、あおむけに倒れたミノルに跨った。手には血塗れた刃物があった。そしてそれを、ミノルの胸に振り下ろす。突き刺す。何度も、何度も。刺される度、ミノルの肉体は形を変え、血が吹き出し、意識が遠のいた。


 ミノルはなぜか、安心していた。どうせ、死ぬつもりだったんだ。


「ミノルくん? 私、私ね、ミノルくんが大好き。これまでも、今でも、これからも、ずっと、ずーっと大好き。でも、でもね、私、叱らなくちゃいけないの。だって、ミノルくんは私を裏切ったでしょ? ねぇ? ねえ‼ 裏切り者! 裏切り者! 裏切り者! 私以外と、私以外の女と死のうとするなんて、裏切りだよ、ミノルくん! どうして、ねぇどうしてなの! どうして裏切るの! 死ぬときは、私と一緒に死んでくれるって言ってくれたじゃん! 私、忘れてないもん、ミノルくんが私にくれた言葉は全部覚えてるもん! 約束してくれたのに、裏切るなんてひどいよ‼ 私のお金勝手に使っても、私の知らない女の子とこっそり遊んでても、やめてって言ったお酒飲んでても、私、ミノルくんのこと見捨てなかった。嫌いになったりなんてしなかった。ずっと好きだったんだよ、すっと愛してたから一緒にいたんだよ。ぜんぶ、ぜんぶ、ミノルくんに愛して欲しかったからだよ、ねぇ、どうして、なんで……‼」


 ヒナミは声を震わせながら絶叫した。そして、絶叫しながら何度も刃物をミノルの胸に突き刺した。ミノルは呼吸ができず、意識が遠のき、ほとんど死んでいた。


「…………」


「でも、でもね、これで一緒になれる。ミノルくんも殺して、私も死ぬの。あの世なら、面倒なしがらみも、仕事も大学も、きっとないよ。それで、あの世で愛し合おう? 一緒に死のう? そしたらきっと、きっと、きっと幸せだよ……」


 ヒナミは涙を流しながら、そう言った。


「――ひ、なみ……」ミノルは声を絞り出した。


「な、何? ミノルくん」


「あ、い、して、る」


 最後の、この世で吐き出す最後の息を使ってそう伝えた。


「……ああ、あああああ、嬉しい、嬉しいよ、うれじぃぃい」


 ヒナミは声を上げて泣き出した。


「私たち、死によって永遠に結ばれるんだね――」



 否、きっと、そうではない。

 死は二人を分かつ。

 死はいつの時代も、人々を切り裂くだけだ。結ぶことなんて、きっと、ない。

 二人は結ばれない。永遠に結ばれることはない。

 死とは、そういうものだ。永久の眠りで、永遠の別れだ。


「あいしてる、あいしてる、ミノルくん。永遠に、永久に、ずーっと、あいしてる」


 さようなら。


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