この一杯に真心を
「ルネの淹れてくれるお茶はいつも不思議な味がするのね」
「……お口に合いませんでしたか?」
「まさか。わたくしは好きよ、ルネのお茶」
お嬢様はそう言って静かに微笑む。見る者の心を溶かすような優しい微笑みだ。私はお嬢さまのこの笑顔が好きだ。病床に伏してしまわれてからは少し翳を負うようになってしまったが、その気持ちに変わりはない。お嬢さまの屈託のない笑顔が見られないことは少し残念に思うが、私は現状で充分に満たされている。
お嬢さまは両手で握りしめていたカップをソーサーに戻そうとした。私はお嬢さまがカップをひっくり返してしまわないよう、そっとその手から取り上げる。以前は背筋を伸ばし、お手本のような美しい仕草でお茶を啜っていたお嬢さまは、今は筋力が衰えてしまい見る影もない。
「ごめんなさい、いつも手間をかけるわね」
「いいえ、お嬢さまのお役に立てることが私の喜びです」
少し眉根を寄せて申し訳なさそうに謝罪するお嬢さまは、そんな憂いた表情でさえ美しい。陶器のように蒼褪めた肌、目の下に薄らかに浮かぶ青、色のない唇、日に日に少しずつほっそりと肉の落ちていく体躯、折れてしまいそうなほどに華奢な指先。幾重にも布を重ねたドレスの重みにも、コルセットの締め付けにも、きっと耐えられないであろうその姿は、貴族令嬢に求められるはずの美しさとは随分とかけ離れてしまっている。しかし私にはこの姿が、これまでのどのようなお嬢さまの姿よりも美しく映るのだ。
「ギゾー様から結婚式の招待状が届いたわ」
テーブルの上に広げられたカードを手に取り、お嬢さまは溜息を零した。
「わたくしが出席できないというのはわかっていらっしゃるでしょうに、あの方も律儀ね」
お嬢さまが「ギゾー様」と呼ぶのは、ギゾー侯爵家のご子息ロジェ・ギゾー様のことだ。かつてお嬢さまのご婚約者であらせられたが、二年前、お嬢さまの病が悪化して、そのご婚約も白紙に戻されてしまった。度々お嬢さま宛にギゾー様から手紙が届き、その内容を教えてくださるので、彼が新しく婚約を結ばれたことは私も知っていた。いよいよ相手の方とご結婚されるらしい。
私とお嬢さまとギゾー様は幼馴染だった。物心ついた頃から、三人で兄弟のように育った。三人の中で私だけ立場が違ったが、お二人は気にせず私に接してくださった。周りはお嬢さまとギゾー様を見てお似合いだと言ったが、お二人のご婚約は私にはどうしても受け入れ難かった。ギゾー様がお嬢さまのことを妹のようにしか見ておられないことを知っていた。お嬢さまはそうではなかったようだが。
婚約が白紙に戻った時、いつも静かに微笑んでいらしたお嬢さまは、ベッドの上で声を上げて泣いておられた。私しか知らないことだ。泣きじゃくるお嬢さまを宥めながら、私は自分の感情を押し殺すのに必死だった。ともすれば胸の内に居座る醜い感情が表情となり零れてしまいそうだった。泣き疲れて眠ってしまったお嬢さまの痛々しいお姿を、私は今でも憶えている。きっと生涯忘れることはないだろう。今はもう、お嬢さまもすっかり穏やかな顔つきをされている。あれだけ傷ついておられた日も、お嬢さまの中ではすでに過去のことなのかもしれない。
「式には出られなくても、お祝いの言葉くらいは送らなければね。……ああ、でもだめだわ。最近は指先が震えてしまって、ペンもろくに持てないから」
「私が代筆いたしましょう。お嬢さまからのお言葉があれば、きっとギゾー様もお喜びになります」
本当はお嬢さまからのお言葉など、ギゾー様には届けたくない。しかしそういうわけにもいかないのが社交界というもの。そして私の立場というもの。私は自分の身勝手な欲求を押さえつけ、反対の言葉を口にした。
お嬢さまは小さく口許を綻ばせる。
「まあ、本当に? ありがとうルネ、助かるわ」
病に伏せるようになってから、お嬢さまは一つひとつできないことが増える度、泣きそうなお顔をされていた。私が手伝いを申し出る度に、申し訳ない、情けない、とご自分の病状を嘆いておられた。それが今では私の申し出を素直に受け入れてくださる。嬉しいと言ってくださる。そのことが、私は何よりも嬉しい。お嬢さまの手足となれることは私にとってこの上ない名誉なのだ。
お嬢さまに命じられた通り、祝いの言葉を書くのに相応しいレターセットを用意し、お嬢さまの許可を得てその隣に腰を下ろす。お嬢さまの紡がれるお言葉を一字一句違えずに綴っていく。お嬢さまのお声は聞いていて心地よい。かつては張りのあったそのお声も、今では病のせいか、少し掠れるようになった。それがまた何とも言えぬ艶っぽさを含みますます深みが与えられている。選ばれるお言葉も美しい。いつまでも聞いていたくなる。私が代筆しているとはいえ、ギゾー様がこの手紙をお読みになるのかと思うと、意味のない焦燥に掻き立てられる。
「こちらでよろしいでしょうか?」
代筆の終わった手紙をお嬢さまに渡し、間違いがないか確認して頂く。
「ええ、完璧だわ。ありがとう、ルネ」
お嬢さまのお言葉に、私は微笑み返して手紙に封をすると、近場の使用人に届けるよう告げた。この間に、お茶はすっかり冷めてしまっていた。
「淹れなおしましょう」
「それには及ばないわ。わたくしはこのお茶がいいの」
お嬢さまが冷えてしまったカップを手に取ろうとされるので申し出たが、断られてしまった。お身体が冷えるので本当は淹れたての温かいお茶を飲んで頂きたかったのだが、お嬢さまが嫌がっていることを無理に押しつけるわけにもいかない。私は冷えたカップを持つお嬢さまの手を支える。
「ふふふ、冷めてしまっても変わらずに美味しいわ。ルネは天才ね」
「お褒めに預かり光栄です」
お嬢さまが、ゆっくりと、少しずつ、お茶を飲み干すのを、私は傍で見守っていた。
「……少し冷えてきたかしら」
お茶を飲み終わった頃、お嬢さまは小さく体を震わせた。私はその肩に厚手のショールを羽織らせて差し上げる。
「そうですね。そろそろお部屋へ戻りましょう。お運びします」
「ええ、お願いするわ」
お嬢さまが私の首に手を回したのを確認してから極力振動を与えないようその体をそっと抱き上げ、私たちは春の庭が見えるドローイングルームを後にする。お嬢さまは羽根のように軽い。もともと軽くていらっしゃったが、日に日にその重みが失せていく。いつかこのまま消えてしまうのではないだろうかと、私は時々どうしようもなく怖くなる。それでもこの役目を手放したくないと思っているのだから、私は浅ましいほどに欲深い。
「ねえ、ルネ」
「何でしょう、お嬢さま」
「わたくし、ルネの淹れてくれるお茶が好きよ。少し不思議な味がするけど、それでも本当に好きなのよ。一生、毎日飲んでいたいくらいだわ」
耳元に落とされたその言葉に、私は思わず足を止めた。
「……ありがとうございます。お嬢さまがお許しくださるのなら、私は一生お嬢さまのためにお茶を淹れ続けます」
「……ええ。許すわ、ルネ」
首に回された手に、僅かに力が込められた。とても弱弱しい力だ。私が少し身動ぎすれば簡単に解けてしまうような、そんな儚いくらいの強さだ。それでもこれが今のお嬢さまの精一杯の力なのだと私はよく理解している。必死に私に縋りつくお嬢さまはとてもいじらしくて、だから余計に私はこの温もりを手放せなくなるのだ。
「許すから、ルネ。あなたはずっとわたくしの傍にいてね」
「仰せのままに」
お嬢さまを部屋にお連れして寝かしつけた後、私は明日の分の茶葉を調合するために自室へ戻った。部屋には甘いような、苦いような、酸っぱいような、何とも言えない香りが充満している。ここには様々な茶葉が保管されている。中には茶葉ではないものもあるが、それに気づく者はこの屋敷に誰もいない。
なぜ、ギゾー様なのか。なぜ、私ではだめなのか。なぜ、私だけがこの立場で産まれてしまったのか。同じように育ったのに、なぜ。
最初はそんな理不尽に対する醜い憤りが、このお茶を淹れ始めた理由だった。それが身勝手で残酷な行為であることも理解していた。罪悪感がないわけではなかったが、それでも他の男に奪われることを思えば躊躇いはなかった。今ではお嬢さまが日に日に弱り、その分少しずつ私に依存してくださる様子を見ることに仄暗い喜びを見出してしまっている。目的を達成したのにいつまでもこのお茶を淹れ続けるのは、私の方こそがお嬢さまに依存してしまっているからだ。私は汚い、最低な人間だ。
思わずほくそ笑む。お嬢さまはおそらく、このお茶の正体に気づいておられるだろう。それでも許すと言ってくださった。こんな私に傍にいてほしいと言ってくださった。私の人生で、これ以上の喜びが他にあるだろうか。
明日も、明後日も、その先も、この命がある限り、私はお嬢様に真心を込めてこのお茶を淹れ続けるだろう。ゆっくりと内側を巡り、じわじわと蝕んでいく、そんな奇妙な味のする狂気を添えて。