鼻よ鼻よ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おっと、消臭剤がもう切れかけか……つぶらや、そのあたりに換えのものないか?
ラスト一個? うーん、注文しておくか。ここんところ、寒いから臭いが強いし。
――夏場の方が、臭いはきつくなるんじゃないか?
確かに、夏は汗をたくさんかくから不潔っぽくて、臭い印象があるわな。だが、冬の臭いっていうのは、思ったよりやっかいだぜ。
いま取り上げた汗はかなり大きい。冬場は空気が冷たく、汗をかく機会は夏場より減る。結果、汗腺は夏に比べて休みがちになるんだ。
よく働く汗腺は、汗を水に近い物質へ変える。一緒に出ていってしまいがちなミネラルとかを、身体の中で再吸収できるように促すわけ。
ところが、動くことが少ないと、働きがにぶるのは汗腺も同じ。すると、同じ汗にも本来ならごっちゃにならないはずの成分がしみ出し、それが雑菌を呼んで、悪臭のもととなる……という筋書きのようだ。
人間は視覚と聴覚から多くの情報を得ている。これらに比べると、嗅覚から得る情報はわずかなものらしいが、それでも命にかかわるものの判別には長けているのだとか。
その鼻の働きに関して、俺が体験したことがあるのだけど、聞いてみないか?
かつて俺の通っていた学校は、いろいろなところからフローラルな香りがしていた。
見ると、ところどころに置き型の芳香剤が置いてあって、てっきりそれらの匂いが漂うのかと思っていた。
けれども、たとえば一階の廊下の隅。
当時、連絡用に置かれていた10円玉で話せる公衆電話の台の足下に、芳香剤の箱が置かれている。その気になれば子供でも踏みつぶせそうなその箱だけど、よく見ると中身の薬は空っぽになっていたんだ。
いつからかは分からない。でも、箱の中には色付き芳香剤のしずく、その一滴すらも残っていなかった。空になってから、それなりの時間がたっていると思っていいだろう。
なんとなく気になった俺は、トイレをはじめとして、これ見よがしに置かれている芳香剤へ目を向けた。
本来の薬が入っている部分は、ぱっと見て中身が入っているように思える。けれどよく観察すると、薬と同じ色をした半透明の帯がきれいに箱の下半分を包み、あたかも液が入っているかのように、カモフラージュしているに過ぎなかった。実際、揺らしてみても波が立つ気配はない。
――本来の匂いがする発生源を、ごまかすために置いている?
ぴんと、俺の頭の中に浮かんだ仮説だ。
ならばなぜ? なんのために?
この芳香、校内でも濃いところと薄いところがある。あの偽装した芳香剤の箱の距離と関係なくだ。
なんとなく興味を惹かれる俺は、時間の許される限り校内をめぐってみた。何日間か探ってみて、ようやくどぎつい匂いの正体に気が付いた。
それは音楽の時間のこと。今回は楽器の演奏練習をする回となり、しばらく各自で練習していた際に、先生が一度席を外したんだ。準備室ではなく、じかに廊下に通じるドアを開けたから、トイレにでも行ったのかと思った。
それが、再び教室のドアを開けて先生が入ってきたとき、誰もが「うっ」と声を出しかけて、鼻に手をやりつつ、先生を見やってしまったんだ。
校内で感じる匂い。それを圧倒的な濃密さでまとい、それでいて先ほどまでの落ち着き払った雰囲気を崩さない先生に、俺たちはどこかひやりと背筋が冷えるのを感じたさ。
先生の手前、鼻をつまむことはなんとか我慢したし、露骨に顔をそむけることも避ける。
ただひとり。先生方からいつも注意を受けている、空気を読まない生徒ひとりをのぞいては。
「くっせ〜!」
悪びれもせずに言い放ち、思い切りそっぽを向いたその生徒。ドア近くにいる先生から目を離して、反対側にある教室の窓の方へ顔を向けた。
「いけない!」と、不意に先生が叫び、件の生徒へ手を伸ばす。けれどその時はもう、おふざけ感がたっぷり浮かんでいた生徒の表情は消えていて、どこか呆けたように固まっている。
俺たちが彼の視線を追うも、窓の外には見慣れた景色が広がるばかりだ。しかし、彼は声をかけたり、肩を叩いたりしても、まともに反応してくれない。よく見ると、まばたきすらしないままに、まなじりへ自然と涙が溜まってくる始末。
すぐに保健室へ運ばれた彼が復帰したのは、音楽の授業から2時間が過ぎてからだった。
目は充血し、マスクで鼻と口をしっかり覆っている。声もガラガラで、音楽の時間までとはまるで別人のような体調の崩し方だった。
その日はもう、俺たちの方で彼を気にかけてしまい、ほとんど声をかけないまま下校時間を迎えちまったのさ。
それから俺は、特に先生方の動向に、それとなく注意を払うようになった。
やはり、この芳香は先生方から出ていると見て、間違いない。トイレや空き教室から出てくる際、先生方があのフローラルな匂いを強烈にまとっていることが、ときおりあったんだ。
場所によって、匂いに差が出るのも道理だ。匂いをつけた先生が通るか通らないかで、強弱がつき続けていたんだ。
女の先生なら、まだ分かるような気もした。香水のつけすぎという線もある。
でも、男が香水をつけるもんじゃないと、思い込んでいた俺は、ついに男の先生が匂いをつけて現れたことに動揺を隠せない。
休み時間中、部室へ置き忘れたものを取りに行こうとする途中で、通りかかった視聴覚室から、教頭先生が顔を出したんだ。
大柄でふくよかで、顔もはげた頭も脂ぎっている。その不潔そうな空気が、女子たちの間で、しばしば陰口の元となっていた。
俺も、正直なところ得意とはいえないルックス。その先生が、あの強烈にフローラルな香りをまとって、目の前の教室からぬっと出てきたんだ。
音楽の先生のときより、よっぽど間近で叩きこまれた匂いは、鼻の奥がじんじんするほど辛い。目の奥すら熱くなってきそうなその感覚に、思わずその場を逃げ出そうと、踵を返してしまったんだ。
背中から、教頭先生の制止の声が聞こえるも、実際に肩を掴まれるまでの間で、俺は息を呑んでいた。
そこにはリノリウムの床と、並ぶ窓。反対側の校舎の壁と、延々と続く廊下の姿はなかった。
視界の四方に、茶色がかったゴムのようなものが覆い尽くしている。それが洞穴か何かのように、廊下の代わりとなって奥へ奥へと道が伸びている。
先ほどまで嗅いでいた芳香を、塗りつぶすほどの生臭さ。俺の足下わずか数センチ先に、ゴム状の床から生えた、湾曲した二本の刃のような突起が飛び出ている。
ぽたりと、頭へ水滴が落ちる気配。見上げるや、頭上にも足下と同じような刃が、逆さに垂れ下がっていた。その刃の先から垂れた水滴が、頭を打ったんだ。
まさに酩酊って奴かな。
とたんに足元がぐらついて、先生に肩を掴まれるや、その場で腰が砕けちまったよ。
その時にはもう、ゴムの空洞はさっと後退を始めていた。ものの一秒に満たず、廊下の奥へ消えていったそれは、ホースのように長く、けれども太い管のようなものだったんだ。
下がりぎわ、俺の数メートル先で開いていた管の口が、ばくりと閉じる。代わりに見えたのは白、黒、茶をまだらにたたえた、獣の表皮。そして、天井近くに爛々と光る、一対の金色の目。
あっという間に姿を消していったそれは、廊下の床から天井までをすっかり塞ぐほどの大きさを持つ、大蛇のものだったんだ。
教頭先生が語ってくれたところによると、先生たちがまとって校内を満たすあの香りは、件の大蛇が特に苦手とするものらしい。
あの大蛇が現れたのは、ほんの十数年前のこと。口を開く前後しか姿を見せないあの奇妙な大蛇は、人を食らいこそしないものの、毒気をしきりに吐き出すのだという。俺が嗅いだあの生臭さが、まさにそれなのだとか。
放っておくとあの悪臭が充満し、次々と体調不良者を出す。過去、生徒と先生を問わず、重篤な症状を引き起こした例もあるようだ。
俺はというと、それから三日三晩寝込むことになった。
その間、めまいが止まずに真っすぐ立てなかったばかりか、件の生臭さばかりが鼻の奥へこびりつき、家の中のどのような香りも脳が認識してくれることはなかったよ。






