3.誘惑
ザリッと音を立てて、あの男の靴で地面を擦る。
男の肉を見ながら、私の身体はゆっくりと、男の方へと向き直る。
もしここが異世界なら、いや、異世界でなくとも法と技術の発達していない所ならば、食べてもきっと大丈夫だ…
バレない…
こいつは、私を襲ってきた悪いやつなのだ。食べたっていい。少しくらい肉がえぐれていたところで、揉み合いになった際に怪我をしたのと見た目は変わらないだろう。
元々石で潰されてかなり男の肉体は損傷しているのだから。
「はぁ…はぁ…っ、は…あぁ…っ!!!…っ!!!」
興奮で息が荒くなる。
目の前に肉がある!!食べられる、肉がある!!
今なら食べられるのだ。食べられるのだ。
堪えきれないように私の顔が笑みの形に歪む。
「ああああっ…!!」
私は男の方へ歩いていく。近づく間の時間さえ味わい楽しむように、ゆっくりと歩いていく。
口の中に唾液がにじむ。
じゅわっ…
じゅわっ…
「はぁあ…っ!」
私は男の身体の脇に跪き、するりとナイフを抜く。
ああ、ああ、肉だぁぁ…!!!
空いている方の手で口元を押さえ、声にならない叫び声を上げる。
一瞬だけ、あの男の気持ち悪い笑みが頭をよぎったが、既に潰れた顔を気にしなければ、ただのほどよく引き締まった良い肉体がそこにあるだけだった。
割れた腹筋が実におしいそうで、目が離せない。
人間の肉は、脂肪よりも赤身肉がおいしいのだ。
女性の胸やおしりなんかは脂肪だらけで水っぽくておしくないらしい。
これもネットで手に入れた知識だが、もうそんなネットサーフィンでは足りなくなってきていたのだ。
もうネット上のものはあらかた見尽くして、妄想でも満たされない。
それが、それが!!ああ、こんなチャンスもう2度と無いかもしれない。
できればこんな気持ち悪い男じゃなくてもっと美味しそうな獲物を見つけたかったが、目の前にある肉と誰にも見られていない絶好の機会だという思いから、食べるという誘惑に抗えなかった。
男の腹筋に手を伸ばす。
サクリ、とナイフを入れて、スーッと20センチほど、線を引くように切る。今度はその線から肉の裏に刃を入れて、引っ張りながら剥がすようにして皮を取り除く。その下にある脂肪やら何やらよく分からないものもなんとか取り除くと、真っ赤な肉が露出した。
多分これが筋肉だ。
私には人体の構造についての正確な知識はない。だが、この赤い肉が1番美味しそうだと思う。
本当に筋肉かどうかは割とどうでもいい。美味しそうだから食べたい。
目の前に、目の前に肉がある!!食べてくれと言わんばかりに美味しそうな!!
ああ、ああ!
口の端から唾液が漏れた。
私はその赤身肉にナイフを入れると、する、する、と引っ張りながら剥ぎ取った。
手のひらくらいの肉が取れた。
私はそれを拝むような気持ちで右手でつまみ、眼前にぶら下げた。
血抜きはできていない。血の滴る生肉だ。
なんとも言えない極上の匂いがする!!鉄の匂いだ…!ああ、なんと香しいのか…!鉄はもっと鼻につく嫌な臭いのはずだったのに。
ああ、肉の匂いだ!!
ああ、ああ、最高の気分……!
私は舌を突き出すと、その肉をそぉっと端から口に頬張った。
「んんんんん……!」
嬌声のような声を上げて、私は恍惚の表情を浮かべて肉を咀嚼する。
「ああ、はぁっ!!んん、んんんっっ!!」
グニュリ、グニュリ、生の肉はなかなか噛みきれない。だが、永遠に咀嚼できそうなほど美味かった。
誰だろう、人間の肉はまずいなんて言ったのは。
ザクロの味がするなんて言ったのは、
ザクロのように変な酸味は一切ない。程よい塩味があり、しっかりと歯ごたえがある。うまく取り切れなかった脂肪がとろけて、口の中をいっぱいにする。なんとも言えない独特の甘みが、後味として残る。
ああ、最高の味だ……!
私は肉を噛みながら、人の肉を食べると病気になると聞いたことがあるなとか、そういえばこれは生肉だな、お腹壊すかもなと思ったが、やはり目の前の欲望には勝てない。
ひと切れひと切れ、丁寧に剥ぎ取り、ゆっくりと噛み締めて味わう。
ああ……幸せだ……
『称号を獲得しました。称号:食人鬼』
ん?
何か頭の中で声が聞こえた。
もう一度頭の中に意識を集中力する。
『称号を獲得しました。称号:食人鬼』
『ステータスを表示しますか』
んんん!?!?
「すてーたすぅー!?!?!?」
辺りに響くような声で叫んでしまった私は、ハッと口を押さえる。あたりに素早く目を配らせると、人影が無いことを確認する。
だがこれで誰かに気が付かれてしまったかもしれない。あの男が持っていた食料は、おそらく朝食か昼食の一食分だろう。そこから考えると、明るい間に往復して更に森で何か作業する時間がとれるほど近くに拠点があると考えられる。
その拠点から同じように森に出ている人間が他にいる可能性が高い。むしろ、あの男が複数人で森に入って途中で別行動したとも考えられる。
頭の中の声は気になるが、ここから離れることの方が先だ。
さっきまでは興奮していて気が付かなかったが、服と靴がぶかぶかだ。服はいいが靴がこれでは森の中は歩けない。
仕方なく靴を脱いで、服の袖をナイフで切るとその布を足に巻き付けた。
だいぶ防御力には不安が残るが素足よりマシだ。
そういえば、男はここに何をしに来たのだろう。採集か狩りか、薪集めとかだろうか。なぜこんなことを考えているかというと、何も持たずに小さなナイフだけで森に入るとは考えづらいからだ。要するにそういった作業に使うような道具で、何か武器になるような物が欲しい。
運動音痴の女子1人で何の武器もなく、知らない土地をさまようのは危険だ。
さっき男が現れた草むらの方まで歩いていくと、斧が落ちていた。試しに持ってみたが、やはり重くて長時間は持ち運べそうにない。
私はさっさとその場を離れることにする。
斧を持っているということは、木を伐採しに来たのだ。他にも共同作業するための仲間が居るはず。
私は男が現れたのとは反対方向に、急ぎ足で歩き出した。
少しして。
1人で昼食を食べると言って歩いていって戻ってこない仲間を探す男たちの姿があった。
森で1人になるのは危険だが、いつもあいつは大勢で居ることを嫌い、1人で飯を食うし放っておいた。
陰気で不気味なところのあるやつだが、何かあってからでは遅いので仕方なく捜索している。
そしてある男が、うわああっ、と悲鳴を上げて腰を抜かした。皆がそこに駆けつけると、ぐちゃぐちゃになった男の死体があった。
近くにあった靴と、仲間内で間違わないように柄に印をつけた斧から見てまちがいない。1人で昼食を食べると言って戻ってこなかったあいつの死体だ。
皆が絶句する中、その中で1人だけ、ノーバという男だけが不自然に切り取られた腹の肉に気がついて、得体の知れない恐怖に慄いていた。