2.正当防衛
ドサッ。
「うううっ…」
気がつくと私は全裸のまま森の中に投げ出されていた。
身体を軽く地面に打って呻き声をあげる。
さっきまでお風呂に入っていたのにこれはどういうことなんだ…
そうだ、私は湯船の底が崩れて真っ黒な穴に吸い込まれたのだ。それで今、何故か森の中にいる。
ガサガサッ!!
不意に近くの草むらが揺れる音がした。反射的にその方向を向く。
「ゲヘヘヘヘ」
そこには気持ち悪い男が立っていた。私の身体を舐めるように見回してこちらに向かってくる。
私は立ち上がり、警戒して後ずさりする。
この距離では走っても逃げられない。
「ゲヘヘ、グヘヘヘヘ」
男は素早く手を伸ばして私の両肩を掴むとそのまま押し倒してくる。
「くっ…」
頭を打ち付けた。
男の力が強い。必死に抵抗してもビクともしない。
私は身の危険を強く感じた。
なんとかして肩の拘束を解いて、男の眼を潰そう。非力な女性が抵抗するにはそれがいいとどこかで読んだことがある。
そのとき、
「グヒッ…顔をよく見せておくれよぉ…」
そう言って男が私の顔にかかった髪を払おうと、右肩から手を外した。
瞬間、
私は男の眼球めがけて右手を突き出した。
クチュリ。
「グアアッ」
男の瞬きの方が早かったようで眼から血は出ていないが、両手で目を抑えて大きな隙を見せている。
私はすかさず男の身体を押しのけると、近くにあった石を拾った。
走って逃げるのが無理ならば反撃するしかない。
男の柔らかい顔面にこれを振り下ろそう。
「このクソアマァ!!!」
男に向かって踏み込んだ瞬間、男もまたよろよろと立ち上がり、腰に下げたナイフに手をかけていた。
間に合え。
ガンッ。
私の方が早かった。
ふふっ、私の方が早かった。
その瞬間、なんとも言えない高揚感が身を包む。
倒れる男の顔面に、何度も石を振り下ろした。
腰のナイフは反撃されては危ないので空いている方の手で男の手の届かない所に投げた。
ガン、ガン、ガン、ガン
今度は両手で力を込めて顔を打つ。反撃されないように手や足も打っておく。
ガンガンガンガン
そろそろ男から抵抗を感じなくなっている。
もうやめても大丈夫だろうか。
私は完全に男が動かなくなったことを確認すると、周りを見渡す。男の仲間がいないかどうか。
幸いなことに誰もいないようだ。
私はもう一度男に向き直る。
本当はまだ気絶しているだけかもしれないと思って、血だらけで変形した顔をもう一度石で打っておく。
あまりここに長居するのは良くない。
血の匂いに引かれて危険な動物が寄ってくるかもしれないし、誰かに見つかるかもしれない。
とりあえず私は男から服を剥ぎ取って、少しでも染み付いた血が目立たないように裏返して着る。
男が身につけていたベルトには、ナイフのさやと水袋、それと巾着のようなものが2つ括りつけてある。
薄汚れた大きい方の巾着の中を見るとそれはどうやら昼食のようだ。固く焼きしめられたパンが入っている。
気になったのはこちらの小さい方の巾着だ。どう見てもこのみすぼらしい男の格好とは不釣り合いな、上質な生地でできている。
中をまさぐると、お金が入っていた。
あまりに他の生地と比べて浮いているので、誰かから奪ったものかなと一瞬思ったが簡単に人を疑うのは良くない。
ベルトをしめて、水袋と巾着2つを括り付ける。
落ちていたナイフを拾い上げて、鞘に戻す。
ここがどこだか知らないが、とりあえず森の中を歩くならナイフ1本あれば役に立つだろう。食料と水も必須だ。
お金は、村か街にたどり着ければ使う機会もあるはずだ。
ここを離れよう。
小さなナイフ1本では心もとなかったので、護身用に血の付いていない綺麗な石を手に持って、私は歩き出した。
ああ、あんなに石で殴らなくてもこのナイフで刺せばよかったのか。今更だな。
両手は空いていた方がいいかもしれない。やはり石は持っていかないことにした。
2,3分歩いて、ふっと振り向く。
男の肉が見える。
私は薄々気がついてきている。ここは、もしかしたら、もしかしたら、異世界、なのかもしれないって。
有り得ない、それは分かっている。
でも、あのお風呂で起きた不思議な現象は?
何故いきなりしらない森の中にいるのか?
水筒の代わりに水袋なんてものに飲料水を入れて持ち歩いている理由は?
そして、あの見たことも無いデザインの、明らかに現代の機械によって作られたとは思えない歪みのある貨幣。
異世界なんじゃないのか。ここは。技術の発達していない、異世界なんじゃないのか。
だって、そうだとしたら…
「ここであの男を食べても誰にもバレない…」
水袋:動物の皮などで作った、水を入れるための袋。昔使われていた。