23.死臭
長らくお待たせいたしました。
…………っ!!!
見えない、何も見えない!
とつぜん視界が真っ暗になったため、一瞬、矢に当たって気絶したのかと思ったが違うらしい。
まとわりつくような真っ黒な何かに……視界を覆われている?
いや、というよりも、周辺を質量を持った何か黒いものに覆われているような感覚だ。
どちらかといえば液体のような、とろみのあるものに。
それをかき分けるように手を動かしてみても視界が開けることはなく、再びまとわりつく感覚がはっきりと感じられるだけだった。
そのとき、誰かにぐっと肩を掴まれた感触がした。
「おい、こっちを見ろ」
目の前で囁くような声が聞こえる。クリムソンの声だ。視線を向けた瞬間、真っ暗な中に紫色に光る2つの瞳が浮かび上がる。テレパシーだ。
(この暗闇は私の闇魔法だ。安心しろ。矢はその魔法で絡めとって地面に落とした。)
これが闇魔法か……
クリムソンが攻撃から守ってくれたのだ。
「クリムソン、ありが……むぐっ」
ありがとうございます、と言おうとしたところ、口を手で押さえられた。
(静かにしろ。居場所を気取られる。お前が走ると音がするからな。少々揺れると思うが、いくぞ)
頭の中でそう声がしたと思うと、目の前から紫の瞳は消え、私の視界は再び真っ暗になる。
そして、目の前の空気が動いた次の瞬間、私の身体が宙に浮いた。
「ひっ……!」
思わず声を上げそうになってこらえる。
どうやらクリムソンの肩に片手で担ぎ上げられたらしい。
何も見えないうえに、消音を使っているのだろう、担ぎ上げる際に聞こえるはずの衣擦れの音すら聞こえない。
まとわりつく闇に視覚を完全に奪われ、消音の使用によって聴覚もほぼ奪われたような状態だ。怖い。
ただ、クリムソンの体温とローブの感触、その下にある骨と肉の存在だけが、とりあえず攻撃は受けていない、という安心感をもたらしていた。
クリムソンが走り出す。地面を踏みしめる足音も、呼吸音も、クリムソンから発せられるはずの音は何も聞こえない。真っ暗闇の中、ただ物凄いスピードで風が傍らを通り抜けていく。
ふいに、ドサッ、と大きいものが地面に落ちるような音がした。
「何!?」
私は小声でクリムソンに尋ねる。
「…………」
だがクリムソンはそれに答えない。
また、ドサッという音が聞こえる。
なんだ……?
ドサッ、カン!
大きな音の後に、金属が石にぶつかったような、軽い音がした。
そして、次にドサッという音がしたかと思うと、ふわっと甘い匂いがした。これは、嗅いだことがある。肉の匂いだ。
ふふ。好き。
いや、甘いだけじゃない。少し酸っぱい……なんの臭いだ?まとわりつく闇が臭いを遮断しているのか、臭いが薄くて、何の臭いか判断できない。
ドサッ、ドサッ、その後も何かの音が続く。
少しすると。パッと目の前が明るくなった。
闇をまとわりつかせながら、クリムソンが魔法の範囲から走り出たのだ。
そして、その闇を振り払うようにマントを翻し振り返った瞬間、闇は霧散して消える。
「うむ」
後ろを向いたクリムソンが、どこか満足そうな声で頷いた。
「あの……降ろして貰えません?」
担がれたままだった私は遠慮がちに申し出てみる。
「ああ、すまない。すっかり見惚れてしまった」
心ここに在らずと言ったように、正面の何かに目線を固定したクリムソンは、抱える私を全く見ずに地面に降ろした。
「おっ……と。もう少し気をつけて下ろしてくださいよ……」
適当に地面に降ろされたため、バランスを崩して少しよろけてしまう。
「ああ…すまない………1秒でもこの光景を見逃したくなくて……」
ゾクリとする魅力的な笑みを浮かべながら言うクリムソン。その視線の先に見たのは、地面に倒れて腐敗した数体の死体だった。
そう認識した瞬間、先程感じた甘いような、酸っぱいような臭いが強烈に鼻を突く。
これは、そう、目の前の死体が発する腐敗臭、死臭だ。
「なっ……!」
なんだこの状況は……
腐敗臭といっても生ゴミなどの臭いとは全く違う。
フルーツのような変な酸っぱさとコクのある甘みが混ざって、それでいて生臭い。異臭。
私は思わず、鼻と口を手で覆った。
「すぅーーーーーっ」
ふいにクリムソンが両手を広げて深呼吸をする。
「は……?」
この、もの凄い異臭の中、深呼吸をするだと……?
「なにしてるんですか……?」
「ん?大丈夫だ、心配するな。付近の盗賊は全て片付けた。緊張を解いて良い」
「いや、そうじゃなくて……」
言いかけた私を、クリムソンは怪訝な顔をして見ている。そうじゃなくて、とはどういうことだ?とでも言いそうな。
その表情を見て、彼にはどこか話が通じない気がして一瞬言いよどんでしまう。
どうやらクリムソンは、敵が近くにいるかもしれないのに深呼吸してリラックスしていることを責められたと思ったようだ。
「そうじゃなくて、この異臭の中で深呼吸をするなんて、どういうことですか?私はただ呼吸するのも辛いくらいです。」
「何を言っている? 良い匂いだろう。あまり嗅ぐ機会がないから分からないだけではないか?よく嗅いでみればお前にも分かる」
いや分からん。
私は改めて目の前の死屍累々とした状況と、向かい風が吹く度に強く感じられる腐敗臭に眉を顰める。
その真横でクリムソンは、目を細めながらも決して死体から目を離さず、深く、深く深呼吸を続けるのだった。