雪の少女
壱
『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』
昔読んだことのある有名な小説の書き出しだが、僕の眼前に広がるのはまさにそのような風景だった。薄ら暗く立ち込めた鉛色の空に、見渡す限りの一面の純白の雪。体の芯まで凍てつくような寒さ。万人が思い浮かべるような雪国がここにはあった。
東京から在来線に揺られること九時間。新潟県と山形県の県境に位置する四方を山に囲まれた小さな山村。年間積雪量は二メートルを優に超える豪雪地域で、閉鎖性も高く土着の民俗的習慣、信仰が生まれる土壌をもっている。この町は僕のフィールドワークを行うにはうってつけ土地だった。
雪国の風に冷たさを感じ、トレンチコートのボタンを留める。除雪で堆く積まれた雪が作り出す天然の迷路の中を僕は一人歩く。時刻は午後四時。時間的にも空模様的にも早めに今日の宿を探した方がよさそうだ。わずかな焦りを覚え、歩調を速める。
どれくらい歩き続けただろうか。風景は相変わらずの雪景色が続くだけで、これという変化が見受けられない。全くの雪の中に一人だけ取り残されてしまったような錯覚に陥る。
気づけば鉛色の空からは柔らかな灰みたいな雪が舞い降りてきた。吐く息も白く、やかんのように吹き出ている。一歩ずつ雪を踏みしめるごとに雪の冷たさが足にじんわり伝わってくる。それが僕の体の熱を徐々に奪っていく。
とうとう除雪のまだ行き届いていないところまでたどり着いたらしい。堆く積もった雪の中に足を踏み入れてみる。すると足はみるみる雪の中に沈み込んでいった。未踏の地を踏む心地よさを感じると同時に底の知れない恐ろしさを感じた。雪の中に僕の存在ごと消えてしまいそうな空恐ろしさを覚えた。足場を固めながら慎重に踏み込み、処女雪でできた丘陵の上に立つと視界は開け、一面の雪の中に点在する枯茶色の塊に気づいた。
明らかに自然のものではなく、それは異彩を放っていた。
雪をかきわけ、まとわりつく雪に足をとられながらも、僕はその色に近づく。全くもって予知できないものがそこにはあった。枯茶色は屋根の色。雪の中に埋もれていたのは一棟の家屋であった。
堆積した雪がすっぽりと家屋を包み込んでいた。すり鉢状の土地らしくその家のある辺りは周囲よりいっそう土地が低くなっているようだ。入り口が申し訳程度に除雪されているくらいでその他は全く手付かずのままだった。だがその申し訳程度の除雪からその家がどうやら空き家ではないことがわかる。
――この家の人はどうやって外に出ているのだろうか。
ふと疑問に思う。家をよく観察しようと思い一歩足を踏み出す。
そのとき世界が逆さまになった。
ほんの少しの浮遊感のあと、叩きつけられるような鈍い衝撃が全身を襲う。何が起こったのかわからない混乱と、体の痛みから気が遠のいていく。雪が深深と体の上に降り積もっているのを感じながら、僕は意識を手放した。
❄❄❄
温かい。最初に感じたのは肌を包み込む優しい温かさだった。ゆっくりと目を開き、ぼやける視界でとらえたのは木製の天井。自分の体の方へ目をやると、布団がかけられていた。僕にぬくもりを与えてくれていたのはどうやらこれらしい。
「ここはいったい……」
「気がつきましたか」
枕元から凛と澄んだ声が聞こえた。
振り向くと同時に鋭い痛みが全身を刺し思わずうめき声がもれる。
「無理をしないでください。私は怪しいものではありません。安心してゆっくり休んでください」
声の主は少女だった。真っ白な服に身を包んだ、背が高くほっそりとした少女。年のころは自分より五つほど下、というところだろうか。彼女は優しそうな笑みを浮かべていた。
「私の名前は白石ユキです。この家のすぐ近くをあなたが通りがかったときに雪庇を踏み抜いたのでしょう、家の前であなたが倒れているのを見つけました。見てみぬ振りをするわけにもいかないので看病させてもらいました。見たところそこまで重傷でもなかったようでしたし」
「僕は、落ちたのか……」
はっきりとは覚えていなかったが、反転する世界の様子はなんとなくは記憶にある。
「ありがとう。見苦しい姿を見せて申し訳ない」
「見苦しいだなんてそんなことありません。気にしないでください」
「本当に、ありがとう」
寝たままの状態で首だけ動かし礼をする。少し体を動かすだけで痛みが駆け抜け顔をしかめる。
「まだ、痛みが残っているようですね。今日はゆっくり休んでいてください」
少女はにっこり微笑んでみせた。
白石ユキという少女とは初めて会ったにも関わらず彼女の笑みにはなぜか安心感があり、心の底から安らいだ。
「ところで、今は何月何日の何時だい? 僕はどのくらい寝ていた?」
「二月四日の一六時です。私が玄関先であなたを見つけたのが二月三日の一八時頃だったのでほぼ丸一日あなたは寝ていたことになります」
「丸一日か……」
ぼんやりとした意識のままつぶやく。一日寝ていたという実感がまるで湧かない。
「……まだお名前をお伺いしておりませんでしたね。お名前教えていただけませんか?」
柔らかく、丁寧な声で彼女は尋ねた。
「ああ失礼、僕は今井康之。東京で学生をしています」
「今井さんですか。遠路はるばるようこそこの町へお越しくださいました。せっかくおいでいただいたにも関わらず今回は災難でしたね」
優しい声が耳を満たす。歌う鳥のようなその声は心地よく僕の心に染み渡った。
雪が戸を叩く音がする。昨日よりもますます勢いが強くなって老いるようだ。
「雪、やまないですね」
傷の具合を診ている白石さんに声をかける。
「はい、町の中でもこの辺りの地域は特に雪が積もりますから。一日雪掘りをしないだけで屋根くらいの高さまで雪が積もって、埋まってしまいます」
雪の中に屋根だけがぽっかり浮かんでいた異様な光景を思い出した。
「ですからここに住んでいると一日が雪かきをするだけで終わってしまいます」
「なるほど、体がこんなじゃなかったら僕も雪かきの手伝いくらいはできたのですが」
「気にしないでください。いつも一人でやっていることですし、何よりお客さんにそんなことさせるわけにはいきませんので。それでは私は雪かきをしてきますので、何かありましたらお呼びください」
彼女は音も立てず、消え入るように部屋を後にした。
弐
僕がこの町にきてから一〇日ほど経った。
幸いにも柔らかい雪の上での事故であったことから、僕の体の傷は想定よりも軽く、まだ少し痛みは残るものの、一〇日の間でほぼ完治というところまできていた。
一日寝たきりの生活をしている間の退屈を紛らわせてくれたのは自分の世話をしていた少女だ。少女の名前は白石ユキ。歳は一五。冬の間両親が米沢の方へ出稼ぎにいっており、彼女は現在一人で暮らしている。普段は町の中にある唯一の高校に通っているのだが、雪がひどくなる時期には山の麓であるこの地区では一切の交通が遮断されてしまい、学校へは通えなくなってしまうのだという。
「家を守るのが、私の今の役目ですから」
少女は少し照れくさそうにそういったのを覚えている。
ユキは今日も朝から雪かきに励んでいた。今までに一度もここまで雪が多い町にきたことがないため雪かきの大変さはよくわからないが、おそらく重労働なのだろう、ユキの様子を見ているとそれとなく苦労が伝わってくる。
少し伸びをして、体の調子を確かめる。多少なまってはいるが、これならいけそうだ。
体を起こし、壁にかけてあったトレンチコートを羽織る。
一〇日ぶりに出た外の世界はこの町に来たときのそれと変わらず、一面白色に染まっていた。吹き付けてくる風は冷たく、雪が頬を叩いてくる。
雪の中で動く影を見つけた。
「やあ、お疲れさま」
影に声をかける。せわしなく動いていた体が止まり、大きな目がこちらを覗き込む。
「……どうしたんですか?」
「いや、一〇日間も休んでたらさ、体がなまって仕方なくて。僕にも手伝わせてくれないか?」
「傷の具合は……今朝診た限りではほぼ治ってましたが……」
「大丈夫だよ。無茶はしない。自分の体のことは自分が一番わかってるさ。心配してくれてありがとう」
「……それはですけど」
うつむきながらも食い下がるユキ。どうにも彼女は腑に落ちない様子だった。
「大丈夫だって。ゆっくり休ませてもらったおかげで、傷ももう治ってるから。それにずっと休ませてもらってるばっかりじゃ立場無いだろ?」
「私はそんなこと気にしません」
「僕が気にするんだよ。労働力が増える分には文句はないだろ? ここはひとつ任せてみろよ」
ユキの瞳をじっと見つめる。
ユキはため息を一つついた。
「……わかりました。ただし、条件があります。雪掘りは必ず私と二人でやってください。まだ完全には治っていないので、私が監視しています」
「監視?」
「ええ、万一ということもありますので。監視させて頂きます」
まっすぐな瞳でこちらを見てくるユキ。こうなってしまったらてこでも動かないだろう。
やれやれ、ため息を、一つつく。
「わかった、条件を飲もう。一緒に作業してくれ」
ユキはにっこりと笑って見せた。
実際に雪かきをしてみるとよくわかると思うのだが、雪かきは見た目以上に全身を使う。雪にはずっしりとした重みがあり、スコップで持ち上げるのにも上半身から下半身まで全身の力を使う。
スコップでざくざく雪を掘り起こしているとユキから制止が入った。
「どうした?」
「雪掘りのやり方が違います」
「やり方? そんなのがあるのか?」
「はい、ちょっと貸してみてください」
ユキはスコップを持ち、雪に突き立てる。おおよそ正方形に近い形になるようにスコップを雪に指し、そして雪を掘り出す。いや、切り崩すという表現の方が正しいだろう。
「こうすることで、一回である程度まとまった量の雪をどけることができます。ただ雪を闇雲に掘るより こっちの方が作業能率も高いですし。」
手際よくユキはどんどん雪を切り崩していく。なるほど、たしかに先ほど僕がやっていたよりも効率がいいように思える。
「ほら、どうです?」
自慢げに尋ねるユキ。年相応の少女らしさを感じ思わず顔がほころぶ。
「ああ、言うとおりだな。僕もそうやって見るよ」
スコップを雪に突き立て、ユキに教わったように切り崩していく。さっきまでの我流のやり方と比較するとたしかに、効率は上がった気がする。
家の周りにできた白い海は徐々にその体積を減らしていった。だがそれに反比例して僕の体に感じる疲労は大きくなっていた。外の気温は変わらないが、熱は体にこもり、額から汗が零れ落ちる。
「そろそろ休憩にしませんか? お疲れでしょう」
軒先からユキが声をかける。手にはタオルを持っていた。
「ありがとう。頃合いを見て休もうと思っていたからちょうど助かったよ」
タオルをうけとり汗をぬぐう。
「雪掘りを始めてもうけっこうな時間が経ちましたし、今日はもう止めにしましょう。もうじき日も暮れます」
「もうそんな時間かい?」
「ええ、ほら、じきに四時になります」
時計の長針と短針は一二〇度ほど開いていた。
「そんな長い時間やっているつもりはなかったんだけどな。あっという間だったよ」
「それだけ熱心にやっていたということでしょう。汗もかいてらっしゃるみたいなので早く家の中へ。風邪をひいてしまいます」
「そうだな。じゃあ今日の雪かきは終わりにしようか」
空を見上げると、東の空は雲が重く垂れ込み、日は西の空へその身を隠そうとしていた。
参
雪が屋根から落ちる音で目が覚めた。
頭までかぶっていた布団をどけ、時計を見る。時刻は七時を回ろうとしていた。体を起こそうと、一度大きく伸びをする。
ちょうどそのとき、ふすまが開き、ユキがひょっこり首を出した。
「あら、おはようございます。もう少し起きるのが遅ければ私が起こして差し上げたのに」
「それは残念なことをした。もう少し布団の中でゆっくりしていれば良かったかな」
「朝から少女と軽妙な会話を交わす。
「朝ごはん、できておりますので、お好きな頃合いにいらしてください」
「ああ、すぐいくよ。ちょっと待っててくれ」
体を起こし、立ち上がる。体の節々にだるい疲労感を感じた。おそらく筋肉痛だろう。昨日の雪かきはなかなかに体にこたえていた。だが滑落のときに受けた傷の具合は良好で、痛みもなく、ほぼ快復していた。
食卓につき、ユキと向かい合い食事をとる。
「今日も雪かきをするのかい?」
「はい、今日もします。毎日の日課なので」
「じゃあ今日は家の裏の方をやろうか。昨日は玄関周りをやったから」
「いえ、今日もまずは玄関周りからです」
その言葉に驚きを覚え、思わず大きな声が出た。
「なんで。昨日やっただろ? まだ足りないのか?」
「……食事が終わったあと、一緒に外に出ましょう」
❄❄❄
「なんだこれ……」
「ほら、私が言ったとおり、今日もまた玄関からやらなければならないでしょう?」
「いや、でも……こんなことって……」
玄関の戸を開け、目の前に飛び込んできた光景を見て言葉を失った。その光景は驚愕そのものであった。昨日雪かきをしたはずのところには雪かきをする前と変わらない雪が堆積しており、家の周りは白い海に飲み込まれていた。
「このあたりでは一晩にメートル単位で雪が積もることも珍しくありません。だから、毎日雪掘りをしなければなりませんし、時間も限られているので毎日同じ場所しか出来ません」
「そんな……それじゃあ昨日やったことも何も意味がないじゃないか。せっかくやっても雪が積もるなら昨日の雪かきは無意味じゃないか」
動揺と落胆の入り混じった気持ちで呟く。
「いえ、毎日やらなければその分雪も降り積もり、玄関が塞がり全く外にでることも叶わなくなります。そうなってしまっては雪解けまで閉鎖された空間の中に閉じ込められてしまうことになるので、毎日の雪掘りは欠かせません。家が雪に埋まってしまうのです」
「毎日雪かきをするために君はこの家で留守番しているのかい?」
「ここが私の家ですから。父と母の不在の間家を守るのが私の役目です。では今日も雪掘りを始めましょうか」
ユキはスコップを取り出し、雪に突き刺し、雪の山を切り崩す。積もったばかりの雪は柔らかく、スコップの入ったところから崩れ落ちた。
僕も彼女に続き、スコップを手に取り、黙々と白い塊を突き崩した。雪片が舞い、風に乗せられキラキラと輝いたが、その美しさが憎く、恨めしくもあった。
あくる日の朝、玄関を開けると目の前には驚愕の光景が広がっていた。降り積もった雪が一夜にして雪壁を作り上げていたのである。雪かきをしたところも例にもれず雪に埋もれていた。家の周囲は白く染め上げられ、雪の海の中に深く沈んでいた。昨日と唯一違うことはあいにくの天候で、朝でも薄暗く空は蒼鉛色で雪の欠片ふわふわと漂っていることだけである。
「では、今日も始めましょうか」
ユキがにっこりと微笑む。僕はスコップを大きく振りかぶり雪に突き刺した。雪の舞う中、何度も、何度も。突き刺し、崩した。
次の日の明朝、戸を開くと目の前の光景に愕然とした。一夕のうちに降り積もったゆきは立派な砦を築き上げており、昨日のゆきへの侵攻の証はどこにもみられない。あたりはただ一面の雪原が広がるばかりだった。白銀の波は屋根までも飲み込まんとするが如く押し迫ってきていた。まだ日の出ていない時間帯であったためか、空は鈍色で薄ら明るく、陰惨な雲から降るゆきは体の熱を無慈悲に奪ってゆく。
ユキは軒下で微笑を浮かべている。
「では、始めましょうか」
ゆきにスコップを突き立てる。ゆきは脆く崩れ去った。ユキに教わったゆき掘りの仕方などとうに忘れ、ただ眼前にあるゆきを本能赴くままの獣のように侵し、冒し、犯した。形をもたないゆきはおかされるがままその存在を消していった。
翌日の朝方、玄関の扉を開けると目に飛び込んできた光景に茫然自失とした。夜半降り続けたユキは背の丈以上の巨大な城塞として立ちはだかり、ユキへの侵攻を堅く拒んだ。家は完全にユキの中に埋もれ、屋根はユキの重みに耐えかね悲鳴を上げている。ユキはさらさらと雪崩れ込み、土間までその勢力を広げる。傍若無人なユキは全てを飲み込もうとする荒れ狂う海のようだった。
ユキは玄関で薄い笑みを顔に貼り付け佇んでいる。
「始めましょうか」
スコップを大きく振りかぶり、ユキに突き立て、突き刺し、抉り出した。何度も、何度も、繰り返し、ユキにスコップを叩きつけ、突き刺し、抉った。何度も、何度も。繰り返し、繰り返し。ユキは脆く崩れ去り、その形は一片の結晶すらも残さず、消滅した。眼前に何者の存在を認められなくてもなお、僕はスコップを振りかぶり、空に突き立て、虚空を裂いた。繰り返し、そして何度でも。
ユキの上を空虚に歩き、意味も無くスコップを振り回しているうちに世界が反転した。わずかな浮遊感を感じたあと、叩きつけられるような鈍い衝撃が全身を襲った。僕は目を閉じ、ゆっくりと意識を手放した。
❄❄❄
温かい。最初に感じたのは肌を包み込む優しい温かさだった。ゆっくりと目を開き、ぼやける視界でとらえたのは木製の天井。自分の体の方へ目をやると、布団がかけられていた。僕にぬくもりを与えてくれていたのはどうやらこれらしい。
「ここはいったい……」
「気がつきましたか」
枕元から凛と澄んだ声が聞こえた。
振り向くと同時に鋭い痛みが全身を刺し思わずうめき声がもれる。
「無理をしないでください。私は怪しいものではありません。安心してゆっくり休んでください」
声の主は少女だった。真っ白な服に身を包んだ、背が高くほっそりとした少女。年のころは自分より五つほど下、というところだろうか。彼女は凍てつくような冷たい笑みを浮かべていた。
一番最初に書いた怪談小説です。
現在連載中の明治怪談もよろしければご覧ください。