5-2
「七万二千円、です」
具詩の内心はざわめいた。七万二千円は大金だ。ああそうですか、と金を払えるのは、かなり生活に余裕のある人だけだろう。古道具は実際に使うために買うよりも、干渉が目的の人が多いはずだ。高校生がそんなものにお金を払うわけない、と具詩は失礼ながらも高をくくっていた。
「あ、払える……!」
少女は胸の前でぱちんと手を叩き、歓喜の表情を浮かべた。払える? 具詩は顔を顰めた。まさか、本気で買うつもりでいるのだろうか。
「これが欲しいの? お嬢さん」
菊美も信じられない、というような表情で訊いた。
「はい! デザインが気に入ったんで。お年玉持って来たら、買えちゃうし」
「ま、まぁ……嬉しいわ」
ひきつった顔で菊美が言った。具詩はそれを見逃さなかった。付喪神世界にずっといるより、誰かに買われていく方が良い、なんて菊美は言っていたが、どうやら本心でもなかったらしい。菊美が動揺していることが、具詩には手に取るように分かった。
何年も売れ残っているために、安心しきっていたのだろう。七万二千円という値段も、この水滴に買値は付かないだろう、と油断していたようだ。
「ほら、言ったでしょう」
「え、えぇ。でも本当にそんな大金、お嬢さんが持ってこれるのかしら……」
こそこそと具詩と菊美は話した。少女本当に七万二千円もの金を持っているかどうか、具詩もまだ半信半疑だった。
――お年玉って、どんなに羽振りが良くても三万くらいじゃないか?
具詩はもう四年以上前にお年玉をもらえなくなっている。代わりに食料品の仕送りがたまにあるわけだが。
もしかすると、良家のお嬢様か何かか、と勘繰りながら具詩は少女を見た。
「お金、明日持って来るので、売ってくれますか?」
「明日……」
菊美が言いよどんだ。あまりの急展開に言葉を失っているようだった。
「もしかすると、家に帰ってから、親にダメって言われるかもしれませんよ」
具詩は小声で菊美に言った。たいてい良家の親は子供の買うものに目を光らせているはず。いくらお金持ちの家庭でも、七万二千の買い物に即答でOKは出さないだろう。
「そうね。お嬢さん、親御さんに許可を取ってきてね。大きな額の買い物だから」
「あっ、はい!」
少女は屈託なく笑って、はきはきと返事した。ぺこり、と会釈する少女の背を小さくなるまで見送ると、具詩たちはまた話し出した。
「どう思います? 本当に買っていくつもりですかね」
「うーん、どうかしら」
菊美はそう言いながらも、あまり少女のことを本気にしていないようだった。
たぶん大丈夫、と思っているのだろう。
――さて、水蓮にはこのことを教えておくべきか、伏せておくべきか。
迷った挙句、具詩は黙っておいた。なんだかんだ言って、具詩もあの少女が水滴を買っていくとは到底思えなかったのだ。
「えっ、本当に持ってきたんだ」
翌日の午後。具詩は少女と対峙していた。少女は古道具店に入るやいなや、水色の封筒から万札を出してみせた。
「はい、あれ下さい」
「ま、まぁまぁ少し触ってから決めたら?」
ようやく少女の本気さが分かり、具詩と菊美はあからさまにあたふたしていた。菊美はガラスのショーケースから水滴を取り出し、インク壺などが並べてある、木の台の上に置いた。
「じゃあ、触ってみます」
そんなことしなくても、買うって決めてるんだけど。少女の瞳から、そんなメッセージを受け取った気がした。
少女は木の台の前に来て、おずおずと水滴を触った。少女は蓋を外し、取っ手の部分を持ち上げた。そして、水が出る部分を傾けて、何かイメージを膨らませているようだった。
――もしかして、書道家の娘さんとか?
そもそも、この少女が親の許可を取ってきたのかどうか定かではないが、もし。この道具に七万二千円を出すことを、親が許可していたとして。親は一体どんな職業なのか。決まっている、書道家だ、と具詩は思った。
「むむむ! 一体なんだ?」
驚愕の表用を浮かべて、ガラスケースから水蓮が飛び出してきた。自分が宿っている古道具がいきなり見ず知らずの他人に触られているのだ。驚くのも無理はない。
「あの、水滴が欲しいんだって言うんだよ」
具詩は水連にだけ聞こえる様な小声で事情を説明した。ぽかん、と口を開けて水連は固まっていた。水蓮は初対面の時に、自分もいつかは付喪神世界からいなくなる、と言っていたが、覚悟は出来ていなかったのだろうか。心底ショックを受けているように見える。
「む、む」
眉をしかめたまま、水蓮は「む」としか音を発さなくなってしまった。菊美は水蓮たちを付喪神世界に縛られている、と表現していたが、この様子を見ると、好きであそこに居続けているのではないかという気がしてくる。
――あらら……どうしたらいいんだろう。事情を話して、諦めてもらうか?
少女が信じてくれるか分からないが、付喪神世界のことを話せば、やっぱりいいです、と言ってくれるかもしれない。これだけ菊美も水蓮も戸惑うのだ。
強がりをやめて、素直になればいいのに、と具詩は思う次第だった。
「触りました。買います。見た目が気にいったんです」
少女が顔をこちらに向けると、明瞭な声で言った。一切迷いの感じられない瞳だった。早く会計にしてよ、そんな心の声が聞こえそうだった。
「むっ」
複雑そうな表情で水連が呟いた。
「見た目が良いって褒められてるよ、水蓮。四君子の植物柄を」
「それは、そうだろうが……」
水蓮がもごもごと口を動かした。
「え、えぇ。これは何に使う予定なの?」
引き延ばし作戦に、菊美がかかった。少女は一瞬不思議そうな表情をした後に、
「文化祭で使うんです。部活の出し物で」
「こんなに高いものが必要なの?」
会計の場所へと足が向かないまま、菊美が言った。
「いえ、これは私のこだわりですけど……ダメですか」
「ダメじゃない、全然ダメじゃない。ただ、凄くお金がかかって大変かと思って。ほら、他にももう少し安いものもあったり」
「いいんです」
菊美の提案を少女は遮る。もっと安い物があったとしても、私はこれがいい、と。とても自分の意見をしっかりもっているようだ。具詩には不可解だった。たかが、とまでは言うつもりはないが、部活のために七万二千円。用途は、墨の濃さを調整するための水差し。コップでもスポイトでも、代わりになるものがごまんとある。それを選ばないでこの水滴が欲しい、と言っているのだ。少女の意思を覆すのは難しいだろうな、と思った。
「――そ、そう。それじゃあこちらへどうぞ」
とうとう菊美が少女を会計に誘導しようとした。具詩は菊美の横に立って、
「良いんですか、本当に水蓮いなくなっちゃいますよ」
と耳打ちした。
「えぇ。道具は人の手に渡っていくものだから、仕方ないのよ。えぇ、えぇ」
菊美が自分に言い聞かせるように呟いた。なるほど、割りと強情なんだな、と具詩は今度は水連の横に立った。
「いいの? 売れちゃいそうだけど」
水蓮に言うと、
「む、いつかはこんな日が来ると分かっていた。いまさら動揺などしなななななな」
「これが動揺じゃ無かったら何だって言うんだよ……」
具詩は呆れ気味に呟いた。会計の方を見ると、順調に進んでいる。すでに、水蓮の宿った水滴はクッション材を挟み込まれ、黄緑色の包装紙を巻かれている。少女が水色の封筒から札を出し、不器用な手つきで数えた。
ふと具詩は些細なことを水連に訊いた。
「あのさ、物は売れたとしても、水蓮は付喪神世界に残れるの?」
「それは、出来るが……」
水蓮が泣きそうな表情をして地面に座りこんだ。
「自分が宿った道具の、その持ち主の傍にいるというのは当たり前ではないか」
いじけた口ぶりで水連は言った。
少女は支払いを終えたようだった。つまり水蓮は、あの少女を持ち主として認めたのだ。確かに、自分が宿った道具が近くにないというのは不安だろう。
豆黒を捕まえに行くのも、アークがこちらに出向いてきたのも、例外なのだ。結局、自分の宿った道具が置いてある場所に戻る。それが付喪神の生き方というか、本能なのかもしれないな、と具詩は思う。
「ありがとうございました」
「え、えぇ。気を付けて」
包みを大事に抱え込んで、少女は具詩体に背を向けた。菊美が扉を開けて、そこを少女はゆっくりと出ていく。
水蓮は具詩を小動物のような瞳で見て言った。
「……さらばだ、具詩。付喪神世界を頼んだ。たまに見に来るかもしれん。ふう……」
「分かったよ。水蓮も元気で。みんなにお別れは言いに行かないの?」
「いいのだ。付喪神の世界も一期一会。ふう……」
「最後のため息はどうしたのさ」
具詩は眉を下げて、からりと笑った。たまに戻ってこれるのなら、そんなにショックを受けなくてもいじゃないか、と思った。好きな時に好きなだけ戻ってくれば良いだろうに、強がってるからそうも出来ないのだろうか。
――うーん、損な性格してる。
「それじゃ」
名残惜しそうに何回も振り返りながら、透けた体で水連は古道具店を後にした。
――古道具との別れ、付喪神との別れって、こういうものか……。
あっけないな、なんて具詩は考えてしまった。古道具は人から人の手に渡っていく。そんなことは当たり前だが寂しい。
これから先、付喪神を引き抜くとき、具詩の横に水連はいないのだろうか。それを思うと、少し切なくなる。まだ出会ってそんなに日は経っていないけれど、なんとなく寂しい。寂しい。




