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「レモネード、レモネード、ロック、ロック。いややっぱりこれ、俺の曲だろ」
具詩は呟いた。
具詩が作った旋律に合わせて、金持ち逃げボーカルの声が乗っかっている。聞き間違えるはずがない、これは俺の作った曲だ、と具詩は確信した。
「これ、実は俺が作った曲なんです。それで、卵さんって何ですか?」
具詩は女性との会話の中で引っかかったことを訊いた。具詩の身の周りに、卵さんと呼ばれるような要素を持ち合わせた人物はいない。
「曲を作られるんですか、凄いですねえ」
「あぁ、いえ」
「卵さんっていうのは、もうすぐ生まれてくる神様ってことなんだけど、ほら赤ちゃんって呼ぶのも、しっくりこないわあ、と思いまして」
「……?」
具詩は意味が分からず、戸惑いながらコロッケを見つめた。脳内に疑問符とコロッケが共演して具詩を混乱させていく。まるでシナリオの出来が悪いゲームみたいだ。Aボタンを押して進めても進めても、謎は解決するどころか、逆に深まっていく。
具詩は話を整理するために、もう一度メガホンを指差して女性に訊いた。
「あの、これの曲名は知らないんですか?」
「ごめんなさい、難しくて忘れちゃったんです」
「それで、この曲のことを卵さんの曲、って呼んでるんですか」
「えぇ、えぇ、そうです」
――卵さんの曲って何だ?
具詩の疑問はループし続ける。
「この曲は、オンラインショップで買ったもの、ですか?」
さっきから質問攻めをしているみたいだ、と思いながらも、気になって仕方がないのだった。ジャズ・レモネード・オン・ザ・ロック、という横文字を覚えられないおばあちゃんが、果たしてインターネットで買い物が出来るのだろうか。
「卵さんの息遣いを感じる曲を集めるのが好きでね。わざわざ孫に頼んで、色々と探してもらうんですよ。そしたら、この曲と出会って……凄く気に入ったんですね」
「ほ、本当ですか」
文章の端々に不思議な単語が挟まってはいるが、曲を褒めてもらったようで、小躍りしたいほど具詩は嬉しかった。最後のライブが無人だったために、ファンなんて一人もいないと思ったが、そんなことなかったんだな、と気持ちが綻んだ。
具詩はこのコロッケたちを全部家に連れて帰りたいような気になった。
「えぇ本当です。孫がパソコンなんかを使って曲を買ってきてくれまして、もうそれ以来、毎日店で流してますよ」
「毎日ですか」
具詩はぎょっとした。このコロッケ屋、さっきから女性と話し込んでいるにもかかわらず、他の客が一人も現れないのだ。まさかその原因は、ひっきりなしにヘビーローテーションするレモネード・オン・ザ・ロックのせいではあるまいな、と具詩は眉を曇らせた。
曲を気に入ってくれたのは嬉しいが、少し違和感もある。ライブの客入りゼロの自分が作った曲が、どうしてこんなにコロッケ店の女性の心を捉えたのだろう。
「えぇ。卵さんの曲は、世界中のみんなもお気に入りで、しょっちゅう聞いてますよ」
女性は相変わらず微笑みを湛えて、ごく自然に言った。
具詩はふと、バンドメンバーの募集板に書かれていた文言を思い出した。ミュージックシーンを変え、世界を席巻しませんか。それが、ただの夢物語でしかなかったことを、具詩はついさっき理解したばかりだ。
それが、この女性の頭の中では、具詩の作った曲は世界で人気、ということになっているのだ。具詩は少し涙ぐむような心持ちになった。
「そうですか……とんだ世界があったもんですね。あの、コロッケください」
「はい、はい」
女性は身を屈めてショーケースの中にトングを差し入れた。
その時、具詩はハッとした。
自分の財布の中には、たった千円しかなかったはずだ。
帰りの電車賃を引いたら、大して残らない。コロッケを食べている場合でもないのだ。
「ごめんなさい、やっぱりいいです」
慌てて具詩は言った。
「あれ、いりませんか」
「お金がないこと、思い出して」
具詩は恥ずかしさを包み隠して答えた。
「あら。……それなら、こういうのはどうですか。卵さんの曲を貴方が演奏してくださる代わりに、コロッケをご馳走するというのは?」
「えっ、いいんですか?」
具詩は驚愕を禁じ得なかった。
そんなかっこいい取引、生まれて初めてだった。自分の演奏が食べ物と交換できるなんて、そんなことがあるだろうか。貧乏バンドマンには願ったり叶ったりの提案ではないか、と目を輝かせて具詩は飛びついた。
「えぇ、えぇ。皆に聞かせてあげてやってください」
「みんな? えっと、たくさんの人の前で、ですか?」
一体どこで演奏を頼まれているのだろう。無人ライブを終えた後に、まさか武道館レベルのライブを頼まれるんじゃないのか、なんて馬鹿みたいな妄想を繰り広げた。
「少し歩きますけど」
「全然大丈夫です!」
負っているギター、ジャズマスターの重さなど全く気にはならない。具詩が元気よく答えると、女性はコロッケを三つもパックに詰めて具詩にくれた。
「わあ、ありがとうごいざます」
「いえ、何の。良い音楽を生で聞くのは、本当に貴重なことですから」
女性はそう言うと、店内の電気を消し、ショーケース横の通路から表に出て来た。そしてシャッターに手をかけたので、急いで具詩は彼女の横に並んだ。
「俺やりますよ」
「すいません」
具詩は片手でコロッケを持ち、もう片方の手でシャッターを地面まで下げた。すると女性は、ありがとうございます、と礼を述べてからゆっくりとどこかへ歩き始めた。
具詩がその後を付いて行くと、徐々に古都のメインストリート・蓬莱通りが見えてくる。
「そっか、この道をこうやって進めば良かったんだ」
迷子になっていた具詩は、ようやく自分がどこにいたのかを理解した。
古都の有名料理店の表に掲げられている提灯の灯りで照らされた道は、幻想のオレンジ色で、歩み進めていくほどに夢のような気分になる。
この街にロックは似合わないのかも、と少し前まで考えていた具詩だが、この街のコロッケ屋の親切な女性は、具詩の作った曲をとてもいいと褒めてくれた。なんだか、この古都に自分を認めてもらえたような気がして、具詩は嬉しかった。無人ライブの寂しさが、どこかへ飛んでいった気さえする。
「はい、入りますね」
古都の料理店の並びをしばらく進むと、やおら女性は路地裏へと回った。その後を付いて具詩も路地裏に入ると、そこには古びた木製の引き戸があった、近くにあった看板を目を凝らして見るが、雨風で掠れていて文字が上手く読めなかった。
「ここは?」
具詩が訊くよりも先に、女性は鍵を開け、引き戸を開けた。ガラガラ、と音を立てて開いた戸の先に、物置のような光景が広がっていた。とても、大勢人が揃っているような場所とは思えない。
――無人ライブの次は、物置ライブか? それとも、また金を貸せと言われるのか?
具詩が貧乏なことはバレてしまっているのだから、それはないのでは、と思うのだが、もしかすると連帯保証人の捺印を押せ、なんて言われるんじゃないかと、急に怖くなってきた。
「ここは、たん……じゃなくておじいさんが生きていた時に一緒に営んでいた古道具屋なんです。もう私一人だけど、今でもたまに開きます」
「へえ……」
具詩はうわの空で女性の話を聞いていた。この店の詳しい説明よりも、誰に向けて演奏してほしいと言われているのかが気にかかった。
「はい、上がってくださいな」
「あ、はい」
一瞬土足で上がってはいけないのでは、なんて考えが頭をよぎったが、ここは物置部屋ではなくて古道具屋なのだ。店なのだから土足で大丈夫なのか、と納得しつつ具詩は店の中に足を踏み入れ、後ろ手で引き戸をしめた。