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「噂には聞いてましたけど、本当なんですね」バジルが少し驚いた表情で口にした。
「まぁね。でも人間が狐世界に行くのはレアケースだよ。ほとんど、狐が化けて人間の世界に行くんだ。それで……いつだっけ、昭和五十年、とかだっけ」
何か計算しているのか、サインは指で数を数えるような仕草をしてみせた。
「別に正確じゃなくてもいいか。たぶん、昭和五十年だったと思うんだけど、俺はこの狐嫁神社の神主の持ち物に宿ってたんだ」
「そもそも」水蓮が口を挟んだ。「サインは何の付喪神だ?」
「分からなかった? インク壺の付喪神だよ」
何通も手紙を送ってるんだから、だいたい想像つくでしょ、とサインは付け足した。
いやいや、それだけじゃ分かりづらいだろう、と具詩は思った。
まだ脳内では、インク壺の付喪神と、狐嫁神社にどんな関係があるのか、予想がつかなかった。
「俺が宿ったインク壺は、普通の物とは違った。インクが永久に枯れない、不思議なものなんだ」
「それは凄い」
具詩は純粋に感心して呟いた。
「うん、ありがと。それでさ、神主になかなか大事にしてもらってたわけ。そんなある日、神主の元に、人間に化けた狐の女が相談に来たんだよ」
「それ、サインも見てたの?」
「そりゃ、見るでしょ。そんなことはいいから」
サインが話す横で、またぞろぞろと狐の女性たちが現れたが、サインも狐も、お互い気にも留めていなかった。どうやらこれが本当に日常的な光景らしい。
「狐の女は、人間の男に恋心を抱いてたんだ。それは、人間の男の方もそうだった。つまり両思いだった」
「ふむふむ」
「ただ問題は二人が異種族だってこと。そんな二人はこれから先、どうしたらいいのかって悩んで、狐の女は相談しに来たんだ」
それは悩むのも当然だな、と具詩は思った。好き同士なら結婚しちゃえばいいよ、と簡単に結論付けることが出来るわけがない。
「添い遂げるつもりなのか、と神主が訊くと、そうしたいけれど迷っている、と狐の女は答えた。その狐の女に、神主は俺の宿ったインク壺を差し出した」
「それは、どうして?」
「まぁまぁ、先を聞いてみてよ。このインク壺から取り出したインクで、今の率直な思いを紙にしたためてみなさい、って神主は狐に言ったんだ。狐はそのインク壺を持って、一度狐世界へと帰ったんだ」
「てことは、サインは狐世界を見たことがあるんだね」
「当然だよ、というか今も基本的には狐世界にいるけど」
「え、そうなの?」
「うん。狐の女は神主に言われた通りに、人間の男をどれだけ好きか、とかこれから先どうしたいかとか、不安とか、全部紙に書きだしていったんだよ。その紙に書かれた文字は、オレンジ、黒、青、黄、の四色になってた。狐の女はすっごい驚いてたよ」
「いえ、あの」バジルが小さく手を上げる。「僕たちの方も、ちょっと驚いて、話に付いていけてないです」
「あれ、そうなの」
「そういえば届いた手紙も、いちいちインクの色が変わっていたが……」
水蓮が考えるような仕草を見せて言った。
「俺の宿ったインク壺は、人の喜怒哀楽に応じて色が変わるんだよ。なんだ、気付いてる前提で話してた、ごめん」
ぺろっと舌を見せてサインは言った。
「今知ったよ。確かに、へらへらしてる女性と、怒ってるパン屋の店主、泣いてる女性、楽し気な子供、喜怒哀楽揃ってるね」
具詩は今日のことを振り返りながら言った。
「そう、もうこれは分かると思うけどインクの色は、喜→オレンジ色、怒→黒色、哀→青色、楽→黄色ね」
「うん」
「狐の女は紙に色々書いて、もちろん内容は悲喜こもごもあるから、文字は四色に分かれた、と」
「それで、狐の女性はどうしたの?」
「結婚したよ」
サインは形容しがたい笑みを浮かべたて言った。
「どうやって?」
「まー、ちょっと力を使っちゃったんだよね。ほら、化け狐が人間の男のところに嫁に行くとなると、戸籍の問題とかあるからさ」
「サインが手伝ってあげたんだな」
「そうなるね」
「嫁入りした狐さん、幸せにやってるのかな。知ってる?」具詩は気になってサインに尋ねた。
「知ーらない」
サインは上を向いて肩をすくめた。結婚した後どうなったか、興味がないのだろうか。わざわざ結婚する手伝いまでしてあげるくらいだったというのに。
「ただまぁ、嫁入りしていって、かなり時間が経った後に、狐の女が書いた紙を見てみたんだよね、そしたらさ」
「変わってたの?」
「うん。四色になってたはずの文章が、一色になってた」
「それって……」
「オレンジ色になってたよ」
オレンジといえば、喜怒哀楽の喜びの色だったはず。四色のインクで書かれていたはずの文章がオレンジ一色だけに変化していた。それはつまり。
――怒りたくなるようなことも、哀しいことも、ついでに楽しいことも、結局最後は喜びに昇華されたってことかな。
具詩はぼんやりと灯った赤提灯を眺めた。
どうして化けた狐はこの鳥居を抜けて、人間と出会おうとするのだろう。人間代わりと好きなのだろうか。古都は妖怪にとって居心地が良いのだろうか。
「まー、狐の嫁入り? 天気が良いときに雨が降ってさ、その後虹が出てたりすると、なんとなくあの狐の女は幸せにやってるんじゃないかな、とか思うけど……実際のところは分かんない」
サインが穏やかな笑みを浮かべて言った。
「何か、良い奴だね。サイン」
「はー? もう身の上話は終わり。これで契約成立。付喪神世界に行ってやってもいいよ」
「その前に」黙って話を聞いていた水蓮が口を開く。
「サイン、俺達を騙しただろう」
「へっ?」
目を開いて、サインは素っ頓狂な声を上げた。はて騙したとは一体何のことだろうか、と具詩は首を傾げた。
「そうですね。騙されましたよ。あの幼稚な文体はわざとですよね」
バジルが額に手を当てて言った。してやられた、なんて言葉が顔に書いてあるかのような仕草だ。
「あっ、すげーはやくはしるやつ、だっけ」
具詩はハッとした。言われてみれば、今目の前にいるサインは手紙の文面から受ける印象とかなり違う。狐の嫁入り話を聞いていても、幼稚なところは全く感じられなかった。
「あー、子供ぶってるってことか。そりゃ、俺もう昔から化け狐の世界にいるんだから、それくらいのことは許してよ。子供のふりをして騙した、ってね」
サインは悪びれず、開き直って言った。
「そんな面倒なことしないで、普通にしてくれて良かったのに」
具詩がそんな不平を漏らしていると、人間の女に化けた狐妖怪が、赤提灯を持ってこっちに歩いてくるのが見える。
その狐は人間の少女の姿をしていて、パステルカラーの着物を着ていた。
「はい」
その子は、サインの前で立ち止まり、何かを手渡した。日が落ちて、すっかり暗くなっでいるので、何を渡したのか、具詩にはよく分からなかった。
「それが、サインが宿っているインク壺だな」
水蓮の声がした。
「凄い色ですね」
次いでバジルの声も聞こえた。
「うーん、見えない」
具詩が言うと、狐の子が赤提灯をわざわざ具詩の前に掲げてくれた。
「あっ、ありがとう」
「いえ」
明かりに助けられて、サインが手にしている物を見る。そこには、玉虫色のインクで満たされた小さなインク壺があった。バジルの言う通り、色がかなり特徴的だ。喜怒哀楽を表現するための四色を混在させているために、こんな奇異な色をしているのだろうか。
「インク壺を狐の世界に置いてるんだけど、タイミング見計らって持ってきてって、頼んでおいたんだ。狐の子、エミルっていうんだ」
サインがその少女のような狐を紹介した。
「よろしくお願いします」
「あ、俺が普通に人間の千載具詩で……こっちが付喪神の水蓮とバジル」
具詩もエミルに二人のことを紹介した。
「はい、分かりました」
「ふむ、本当に人間と大差ない見た目だな。妖気がなければ分からん」
水蓮が興味深そうに顔を近付けてエミルを見た。
「嬉しいです」
エミルはニコッと笑った。人間とほとんど同じ、と言われることが褒め言葉になるのか、と具詩は少し衝撃を感じた。
「これからどこかへ行かれるんですか?」
バジルがエミルに質問した。
「はい」
エミルがぽっと頬を赤らめて小さな声で答えた。
「別の神社のとこの息子だっけ。あ、それは別の狐か。エミルは確か、絵描きの男がいるんだよな、日本画の……」
あっけらかんとサインは言った。その通りです、と示すかのように、エミルの肌はますます紅潮していった。
「人間の男?」
こんなこと掘り下げていいのか分からなかったが、具詩は訊いていた。




