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「みんな今日は来てくれてありがとう」
千載具詩は誰もいないライブハウスの、ステージの中央に立って言った。
ステージ上部に取り付けられた、オレンジとブルーの照明が意味もなく光る。
ホールの前から後ろまで全くの無人。猫の子一匹通らない、がらんどうのホールの床板は薄茶色で、その深い溝までやたらはっきり見えている。
こんなライブがあっていいのだろうか。
今日は具詩にとって最後のライブだった。金を貸したバンドメンバーに逃げられ、立った一人でバンドを続行させてきた具詩にも、ついに限界が訪れたのだった。
「ゴメン……」
具詩はストラップで臍あたりの高さに吊っているギター、1960年代製のジャズマスターに話し掛けた。もちろん返事が返ってくることなどありえないが、謝らずにはいられなかった。
今日のライブでチケットが売れず、資金を回収できなかったために、具詩は窮地に立たされることになった。明日の、いや今日の飯にさえ困っている状況なのだ。明日にはこのジャズマスターを売却し、生活の足しにするつもりだ。それを考えると泣きそうだった。
どうして、バンドのメンバーに金など貸したのだろうか。信用できそうだったから、なんて言い訳はどうしようもない。背に腹は代えられぬ、という言葉もあるが、ジャズマスターを売ることを考えると、身がもがれるような辛さだった。
必死にバイトしてためた金でようやくギターを買えた時は、本当に嬉しかった。そんなジャズマスターを売却しないと生きていけないくらい、窮地に立たされている自分が情けなかった。
具詩は斜め後ろに設置してあるアンプの電源を切って、ジャズマスターをソフトカバーの中に仕舞い込んだ。
そしてそれを背負うと、無人のライブハウスを後にした。
午後十一時、すっかり暗くなった道を、等間隔に並べられた街灯だけを頼りに具詩は歩く。
街燈は省エネモードなのか、灰色っぽくなっている白熱灯で、控えめに周りの景色を浮かび上がらせていた。
全貌の見えない、人の家のガレージ。文字を読むことの出来ない、店の看板。
「あいつら、どこ行ったんだろうな」
あいつら、とは言うまでもくバンドのメンバーのことである。
メンバーと出会ったのは数年前、まだ具詩が大学三年生の時のことだった。インターネットのバンドメンバー募集用掲示板で、ある書き込みに具詩は目を奪われた。
――日本のミュージックシーンを変え、世界を席巻しませんか。
具詩はその時、ずいぶんな夢想家だったことも手伝って、まんまとその書き込みに引っかかった。実際に、書き込みをしたメンバーと会ってみた時、メンバーが放った第一声は「今日いくら持ってきた?」だった。
「いくらって?」
具詩は訳が分からずに訊き返した。
「財布さ、どのくらい入ってるの。いやさ、スタジオ借りたりすると結構かかるから」
「あぁ、今日スタジオに行くってことですか」
「それでもいいんだけどさ、いくらある?」
「一万五千円です」
具詩は素直に言った。
全くメンバーのことをこの時点では疑っていなかったのだ。何故か音楽の話ではなく、金の話から始まったことを、もっと怪しむべきだったな、と今になって具詩は思う。
それ以降、顔合わせのたびに金のことを聞かれ、ようやくちゃんとスタジオに入って楽器の練習をしたのは、四回目の集合の時だった。
最初は、それぞれの楽器の腕前を確認し、褒め合ったり、アドバイスし合ったりなど、ごく普通のバンドらしい会話をしていた。
しかし、ボーカルのメンバーが放った一言で、場の空気は一変した。
「具詩、一万円貸して! 今月ピンチでさあ」
具詩は頷き、素直に金を貸してしまった。困っているのだから、と親切心を働かせたのがいけなかった。この後、ボーカルの奴に、何回もピンチが訪れるということも知らず、具詩は財布から万札を引き抜き、奴に与えた。そんな金が返ってくるわけもなく、ついに今日、音信不通になった。
ライブの予定があるにも関わらず、現場にも来ない、電話にも出ないと来た。こうなると、自分は金を貸してくれるだけの都合の良い友達だと思われていたのだと、諦めるほかない。
「もう、真面目に生きていかないとなあ」
ライブ活動をして、CDをオンラインショップで売って、それでメジャーデビューを目指し続ける、そんな生活をそう何年も維持し続けていくことは出来ない。
もう、今日で終わりだ、明日からは真面目に職探しをしよう。具詩は諦念を抱いて考えた。
具詩は辺りを見渡した。
ふと目に入った電信柱には、甘栗都中央区甜崎と記してある。
具詩がさっきまでいたライブハウスは、この甜崎にたった一つだけあるライブハウスだった。なぜ、この近くにはライブハウスが一つしかないのか、それはこの都市の雰囲気によるものとしか言えない。
かつて国の首都として栄えていた都市、甘栗都。甘栗都には国の重要文化財として指定されている建造物が大量にある。歴史ある寺院も数多い古都、甘栗の街並み。
もちろん和風の古い店ばかりあるわけではない。しかし古都の趣ある景観を損ねない限度を考えて、現代的な店は配置されている。
この古都にロックのライブハウスがずらりと立ち並ぶことは、これからもないだろう。
「やべ、迷子になったんじゃ?」
具詩は将来への不安を考えながら歩いていたところ、いつもなら迷うはずのない駅までの道を、どうやら迷子になったらしいことに気付く。
通り一本、間違えたのだろうか。
古都らしい町並みも、毎日のようにいる観光客の姿が少しも見えてこない。
ただ通り一本、通り間違えただけなら、ちらほらと観光客の姿くらいは見えそうなものだが、と具詩は首を傾げた。
「あれって、何だろう」
具詩はふと右を向き、風景の一点に焦点を絞った。
街灯に照らされ、おぼろに見えているのは、オレンジと白のストライプの屋根。その下から濁ったショーケースが見える。肉屋か、それとも和菓子屋か。具詩は初めて見たその店を、腑抜けた表情で眺め続けた。
その時、聞き覚えのある曲が具詩の耳を貫いた。
「この曲は……!」
店の屋根に見えている薄汚れたメガホンから、かろうじて聞こえる程度の音量で流れているその音楽は、なんと具詩の曲だったのだ。具詩がオンラインショップで数十枚だけ販売したっきりの、メジャーでも何でもない、そんな曲だった。
「どうして、どうして俺の曲が流れてるんだ?」
頭に疑問符を浮かべながらよろよろと具詩は店に近付いた。
近付くにつれて、ショーケースの中に並べられている物の輪郭がはっきりしてくる。白熱電灯に照らされた下、ケースの中にはこんがりと小麦色に焼けたコロッケが並んでいた。
普通なら、ハムカツやらとんかつやら、揚げ物が一緒に並んでいるだろう。しかし、この具詩の曲を流す謎の店には、一体どんな商業戦略があるのか分からないが、コロッケしかない。
コロッケと言っても、かぼちゃコロッケとか、かにクリームコロッケとか、バリエーションがあるのならいいと思うのだが、目の前にはこれでもかというほどシンプルで、小ぶりなコロッケが並んでいる。
ジャガイモを叩いて潰して成形しただけの簡素なコロッケが、油でべちゃべちゃになってそこに置いてある。まじまじとコロッケを眺めつづけていた具詩の鼻に、ようやくコロッケのこんがりとした匂いが届いた。
風向きの関係だろうか。今の今まで、具詩はこの匂いを知覚していなかった。
こんなに執拗に商品を眺めている客がいたら、気になって話しかけてきそうなものだが、どうも店頭に従業員が立っていないらしい。
ショーケースの向こう、店の奥の方へと具詩は声をかけた。
「こんにちは、あの、誰かいますかー」
店の奥から返事が帰ってくる気配は無い。
まさか、無人コロッケ屋なのだろうか。そんな店が、古都のメインストリート・蓬莱通りから少し外れているとはいえ、経営が成り立つのだろうか、と具詩は疑問だった。
次の瞬間、店の奥からいそいそと人が駆け寄ってくるのが見えた。
「はーい?」
奥から出て来たのは60代くらいの女性で、白い割烹着を身に纏っていた。なんだか急かしたみたいで悪いな、と具詩は思った。
「ここから、流れている曲名って教えてもらっても?」
具詩は頭上のメガホンを指差して訊いた。
「はいはい、卵さんの曲ね」
女性はニコニコと愛想の良い笑みを浮かべながら言った。
「卵さんの、曲……」
具詩は固まった。
――卵さんの曲って何だ?
具詩が作った曲名は、ジャズ・レモネード・オン・ザ・ロックというタイトルだった。つまり、メガホンから流れている曲は、自分の曲ではない可能性がある。
具詩はもう一度メガホンから零れる音楽に耳を澄ました。