第86話 皇太子廃位、そして‥‥
ノルディン王国での戦いが終わり、将兵が帰還したロマルク帝国。宮廷においては今回の戦における功績を称える祝勝会が行われようとしていた。だが、そこには戦勝に沸き立つ熱気は無い。静寂と緊張感漂う空気の中で、玉座に座るミハイルは土下座をしている息子ボリスを冷ややかに見つめている。
「こ、この度は大使という責務を負いながら、任を全うする事が出来ませんでした。ですが、これは‥‥」
「ノルディン王国の内乱のせいと、お前は言いたいのか? 確かに余も想定外であったわ。バロル大公がここまで愚か者である事がな。そして、愚か者はもう1人おった。ボリス、その方だ。お前には皇太子の座は重すぎたようだな。故に皇太子を廃位する事に決めた」
ミハイルの言葉に皇太子派の人々は騒ぎ出す。失神する者や泣き出した者、頭を抱える者が続出する。可能性は高かったとはいえ、皇帝に言われてしまうとやはり堪える。ボリスの転落は、自分達の転落とイコールだからだ。
「ち、父上。お待ちください。私を廃位するとは本気でありましょうか? 確かに私は非才の身、ですが‥‥」
「黙れ! この愚か者がああ」
ボリスの言い訳をミハイルは立ち上がるや、怒声で止める。その迫力たるや、獅子の咆哮のようであった。その迫力に、ボリスは無様に床へと崩れ落ちる。
「戦争の最中に娼館に入り浸る馬鹿がどこにおる。貴様の幕僚たるスダール少将にブレディエフ大佐の醜態。さらには、妖精狩りと称した破廉恥な遊びによる皇族にあるまじき所業。最早看過出来る状況ではない。ボリスよ、貴様は廃位する。これは皇帝としての決定だ。近衛兵、あれを持って参れ!」
ミハイルの命令を受け、近衛兵の1人がボリスの下へやって来た。持っていたのはワイングラス、既に中身は入っている。この意味を知っているボリスや貴族達は青ざめていた。
「ボリスよ。お前は病で亡くなった事にしよう。なに心配するな。お前の借金等は精算してある。心置きなく毒酒をあおると良い」
顔は笑っているが、目は笑っていないミハイル。その恐ろしさに誰も助命嘆願など出来る訳もない。慌てたボリスは、額を床に打ち付ける程の土下座を見せる。プライドの高いボリスが、ここまでやるのは生まれて初めての事だった。
「ち、父上。これからは真面目に皇族としての務めを果たします。女遊びも致しません。ですから死を賜るのだけは‥‥」
「そう言って、何度も余を裏切って来たな。宰相や皇后の嘆願もあって許して来たが、今回ばかりは許せぬわ!! 最後は、皇族らしく潔く死ぬが良い」
「い、嫌だあああ。私はまだ死にたくない。死にたくないんだああ」
立ち上がったボリスは、一目散に謁見の間からの脱走をはかる。剣を抜き、立ちはだかる者を切り捨ててでも進もうとするその気迫と勇気。しかし、その行動も現れた2人の女性によって止められた。
「‥‥ボリス様、大人げない。さっさと戻って下さい」
「種馬皇子様、諦めて死んで下さいませ」
ドアの前にいたのは、エルザとリースだった。死神と魔女という最悪最強のコンビの前に、ボリスも一瞬、足を止めてしまう。だが、それでも彼は前へと出る。
「うおおお、退けい!! 皇太子ボリスが押し通る!」
「仕方ない、足を狙って撃つ」
「待って、エルザ。それだと死ぬ可能性があるわ。私が手と足を凍らせるから。氷よ、かの敵の自由を奪え」
リースの魔法で、たちまちボリスの四肢は凍りつく。身動き1つ取れない状況に陥った。必死に手足を動かすが、氷は分厚く身動き1つ取れない。
「離せ、離さぬか! 宰相、母上お助けを!! 者共、何をしている。私を助けよ」
ボリスの声に誰も反応しない。皇后と宰相は顔をうつむけ、取り巻きの貴族達は目をそらす。味方は誰もいないと気づき、絶望するボリス。そこに更に追い打ちをかける者が現れた。
「ふん。兄上、いい加減諦められよ。貴方の失態が、今回の結末を呼び寄せたのだ。こうなれば、皇族として見苦しくない死に様を見せて欲しいものだな」
「き、貴様、イワン! 同腹の弟であるのに何で‥‥」
イワン=マリダ=ロマルク。帝国陸軍少将にして、第2軍団団長である。兵数4万を指揮し、今回のノルディン遠征では帝都の留守を任された。ミハイルの軍事面の才を引き継いだのは、彼だと国民も認める程の名将だ。イワンもまた、ボリスを冷ややかに見ていた。しかも、侮蔑の表情を隠そうともせずに。
「やれやれ、兄上のような愚兄を持って私は辛かったんですがね。貴方と取り巻きの醜態のオンパレードで、アレクセイ派の台頭を許してしまったのですから。フォンターナ中佐を筆頭に、随分と人材を弟に取られてしまった。ご安心を、貴方の派閥は私が引き継ぎます。無能や愚者は排除してね。だから、さっさと退場してくれ」
「おのれええ! 弟の分際で皇位を狙っていたか。そうは‥‥ウグッ」
ボリスの言葉は、エルザによって止められた。無理矢理ワインを口に入れ、彼の口を手で強引に閉ざす。その力は強く、体を激しく動かし、口から毒酒を吐き出そうとするボリス。だが、いくら頑張ってもどうする事も出来ない。我慢できず飲み込んでしまったボリスを見て、ようやくエルザは手を離す。
「何で、何で死なねばならない! 俺はロマルク帝国の正統な後継者なんだぞ。何をしても許されるだろうが! たかだが‥‥グハッ」
血を吐き、言葉を詰まらせるボリス。毒が体中を回り、痙攣した後で首が力無くうつむく。
「わが息子ながら情けない死に様よ。リース、すまぬが準備していた棺に転移してくれぬか?」
ミハイルの命令に頷いたリースは、氷を消すとボリスの体を転移魔法で彼の部屋に送った。そこには皇族に相応しい立派な棺が準備されている。彼の死は既に決定されていたものだった。転移が終わるのを見届けるや、ミハイルは立ち上がってその場にいる全員に告げる。
「愚か者は始末した! 今回、罰を受けし者は1人だけである。これより、ノルディン遠征が勝利した故に祝勝会を行う。遠征において大功をあげた者は多い。皆でその功績を称えよう!!」
ミハイルの言葉に貴族達は、歓声をあげる。今起きた事を忘れようとするかのような熱量を帯びた叫びだ。中には涙を流す者やうつむく者もいたが、それはごく少数に過ぎない。ボリスの人望の無さが浮き彫りになる状況に、エルザはため息をつく。
「はあ、自業自得とはいえかわいそう。しかし、これでイワン皇子が出てきたか。アレクセイ様にとっては、厄介な敵になりそうね」
皇太子ボリスの死とイワン皇子の登場。アレクセイとの皇位継承争いが始まります。