ブランコ
一日で一番怖い時間はいつか、と聞かれれば、僕は黄昏時と答えるだろう。昼でもない、夜でもない時間。薄暗くて、灰色で、橙色で、藍色で、全てが曖昧になる時間。遠くに見える人影、葉擦れの音、犬の鳴き声、冷えた空気の匂い、湿った肌触り。
夜が怖いというやつは素人だ。あんなものは、暗くて、人がいないというだけのこと。暗いのは地球が回っているからだし、人がいないのはもう眠る時間だからだ。何も不確かなことはない。わかりきって、理解できて、だから構えようのある時間。夜にあるのは人の手による恐怖だけだ。
けれど、黄昏時は違う。想像してみてほしい。角を曲がった途端、人気の消えた町の気配を。さっきまではいたのに。さっきまではあったのに。それが消えてしまった恐怖を。偶然? たまたま? そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。不安定で、曖昧な時間。
だから、僕はそんな時間にブランコを揺らす。
僕の住む部屋は、マンションの五階にある。放任主義というか、干渉してこない僕の両親は、僕が小学生の頃にはもう自分の部屋を持たせてくれた。その部屋の窓からは、マンションの前にある公園がよく見える。入り組んだアスレチック部分からのぼって滑るローラー滑り台が人気の公園だった。だった? そう、過去形。僕が中学生になる頃、近くにもっと大きな公園ができてしまったのだ。簡易的なサッカーコートがあって、ローラー滑り台なんて危険な遊具はなくて、確かに子どもにも大人にも好かれそうな、いけ好かない公園だ。だから今、僕の住むマンション前の公園――東公園には、散歩するお年寄りがベンチで休憩するくらいしか用途がなかった。
その東公園のブランコを、僕はたまに揺らしていた。別に、ブランコで遊ぶことをかっこよく言ってるわけじゃない。僕ももう中学生だ。一人でブランコをこいで素敵な気持ちでいられるほど子どもじゃない。文字通り、僕はブランコを揺らすだけ。人気のない、寂しい公園で、ただブランコを揺らすだけ。
ただし、自分の部屋から。超能力で。
……急に突飛な冗談を言い始めたと? そうじゃない。これは、紛れもない事実で、現実なんだ。僕は、超能力が使える。いわゆる、テレキネシスというやつだ。僕は離れた位置にあるものに物理干渉できる。遠くにあるものを手元に持ってきたり、あとは、誰も乗っていないブランコを揺らしてみたり。
曖昧な黄昏時に、人気のない公園のブランコを揺らす。こんなに恐ろしいことがあるだろうか? びっくりするとか、目を背けてしまうとかいう怖さじゃあない。現実みたいで、でも不思議で、違和感があって、つい見てしまう、けれど理解できない。黄昏時に揺れるブランコほど、そんな生々しい恐怖を表現できるものが他にあるだろうか。
始めは、話題になって人が戻ってくればいいと思った。怪異! 人知れず揺れる公園のブランコ! なんて、小中学生の好きそうな怪談だ。けれど、僕の目論見は外れた。僕が浅はかだった。確かに、一時的に人は増えた。でも、そんな怪談の噂がある公園で日常的に遊ぼうと思うだろうか? 答えは、否だ。なんて、当たり前のこと。
だから、今はもうそんな崇高な目的もなく、ただただ人を驚かして遊ぶだけになった。学校帰り、一人で公園を横切る男の子。買い物袋を両脇に置いてベンチでタバコを吸う疲れた感じの主婦。人気がないからとベンチでいちゃつき始めるカップル。全部、僕の部屋からは見えていて、その驚く様が見たくて僕はブランコを揺らす。最初はキイキイと軋む程度に。ターゲットがそれに気づいたら、少し大胆に。大事なことは、リアリティという曖昧さだ。明らかに人為的なものだとわかると、人はかえって怖がらない。風で揺れているのかもしれないという隙を与えるくらいの方がいいのだ。だいたい皆、しばらくブランコを眺めた後で足早に立ち去っていく。それを見て、僕は自分の部屋でほくそ笑む。ああ、なんて素敵な時間!
しかし、最近そんな素敵で怖い黄昏時が変なことになってきた。きっかけは、一週間ほど前の、やっぱり黄昏時だった。その日、僕がいつも通り部屋の窓から公園を覗くと女の子が一人、項垂れてブランコに揺れていた。足は地面につけたまま、ゆらゆらと。着ている制服は、見慣れないものだった。白い運動靴を履いているようだから僕と同じ中学生だと思うのだけれど、紺色のセーラー服は僕の学校のものではなかったのだ。
ただまあ、相手が誰であれ僕がやることは同じ。いつものように、女の子が乗っている隣のブランコを軋む程度に揺らしてみた。キイキイという微かな音が人気のない公園に響く。女の子もすぐに気づいて、けれど頭は持ち上げないまま首をひねって隣のブランコを見たようだった。見たところ髪は肩の辺りまで伸ばされているようだけれど、あんなのできちんと見えているのだろうか。勝手に心配になったけれど、そうしているってことは、まあ見えているのだろう。僕はまたいつも通り、少しその揺れ幅を大きくしてみる。風は吹いていなかった。あれくらいの長さの髪なら、そんなことはすぐにわかったろう。女の子はとうとう顔を上げた。肩がすくんでいる。さあ、逃げ出せ!
けれど、彼女は逃げ出さなかった。ほとんど耳にくっつきそうなほど持ち上げられていた肩も、徐々に所定の位置へと戻っていく。さらには顔を突き出すようにしてブランコを凝視し始めた。おかしい。そう思ったけれど、揺らすのをやめるという選択肢はない。それは僕の敗北だから。でも、じゃあどうすれば怖がるのか。それは、わからない。結局、どうするのか決めかねたまま僕はブランコを揺らし続けていた。
すると、女の子が何かを言ったようだった。揺れるブランコに向けて、話しかけるみたいに。人気がないとはいえ、静まり返っているとはいえ、僕は五階にいるのだ。女の子の声が聞こえたのはわかったけれど、何と言っているかは不明瞭だった。ただ、とにかく女の子が怖がっていないどころか、むしろ徐々に明るいテンションになっていくのだけはわかった。
一人で勝手に喋り始めたその不気味さと、僕のブランコを怖がらない悔しさとに、僕は奥歯を噛みしめた。一通り喋り倒したあと、やがて女の子は去っていった。足取りも軽い背中を見つめながら思った。あいつは敵だ。その日から、僕の目的は、公園に人を呼び戻すことでも、誰かを怖がらせてほくそ笑むことでもなく、この敵に勝つことになった。
再戦の機会は、思いの外早くやってきた。というか、次の日だった。
前日と同じくらいの時間に、前日と同じ姿でやってきた彼女は、しかしスキップをしていた。そして、その勢いのまま、お尻からブランコに飛び乗った。大きく揺れたブランコに突っ張った足でブレーキをかけるのを見て、僕はまた隣のブランコを揺らした。昨日よりも不気味に、怪しげに、リアルに。けれど、女の子はもう隣のブランコを見もしないで、その軋む音が聞こえた途端にしゃべくり始めた。恐る恐るなんて様子はなく、むしろ揺れたことを喜ぶかのように。声のトーンが高い。女の子は一人で勝手に喋って、勝手に笑っている。
――一体、何なんだ……?
いつの間にか、その様子に僕の方が恐怖を感じ始めていた。そう気づいて、必死にその感情をかき消す。違う違う。怖いわけがない。あの子は、あいつは、ちょっと痛いやつなんだ。いくら人気がないからと言ったって、周りをマンションで囲まれた公園だ。あんなに大きな声を上げているのだから、僕のようにあいつに気づいている人も多いだろう。恥ずかしくないのだろうか。窓から覗かれれば一発でわかるし、そうでなくても聞こえる声が一種類なのだから、一人で喋って一人で笑っていることなんてすぐわかるだろう。本当に、恥ずかしくないのだろうか。
負け惜しみのようにそう思って、結局、僕はその日も負けた。女の子はまた一通り勝手に喋って、しばらくすると満足した様子で去っていった。昨日と同じように軽い足取りで、昨日と同じ姿で、昨日とは違う方向へ。次こそは、と僕は拳を握りしめた。
しかし、翌日も翌々日もやってきた彼女を、やっぱり僕は怖がらせることができなかった。いっそのこととブランコをガッチャガッチャなるほど激しく揺らしたり、ブランコがダメならとローラー滑り台のローラーを回してみたりといろいろやった。けれど、彼女にはもう怖がる気配すらなかった。激しく揺らせばキャッキャッと手を叩き、ローラーを回せばわざわざ滑り台まで近づいてきて、そうして延々と話し続けた。一体何がそんなに楽しいのだろう、笑いながら。
彼女は毎日のようにやってきて、毎日のように一人で喋ってはやがて去っていった。僕の方はといえば、もう手札は出し尽くしていた。揺らせるものはもう揺らし尽くした。一瞬だけ頭をかすめた直接彼女にテレキネシスを当てるという考えは、すぐに振り払った。僕にだって矜持があるのだ。
だから、僕は今日、公園の生け垣にいた。いつも彼女がやってくるよりも少し早い時間から、ブランコ裏の生け垣の中で息をひそめていた。無論、目的は情報収集だ。彼女を驚かせるための、情報収集。ブランコが揺れたとき、彼女が一体何を話しているのか。その中に、彼女を驚かせるヒントがあるような気がした。というかぶっちゃけそれくらいしかもうできることがなかった。
彼女はやっぱりいつも通りの時間にやってきた。彼女がブランコに近づいてくる一瞬だけはさすがに緊張したが、僕に気づかずブランコに座ってしまえばもうバレる心配もない。彼女は鼻歌を歌いながら、肩まで伸ばした髪とブランコとを揺らしていた。近くで聞くと、五階で聞いていたときよりも幼い声をしているように聞こえた。
とにかく、ブランコを漕ぐ彼女の後ろ姿を凝視しているわけにもいかない。僕はいつもとは違う距離感に探り探りでブランコを揺らした。が、思いの外出力が強かったようだ。ブランコは何かに蹴飛ばされたみたいに激しい音を立てて前へと揺れた。さすがの彼女もびくりと身体を震わせて、隣のブランコを見つめている。見つめている? どうしてか、一瞬のはずのできごとが妙にゆっくりに見えている。彼女の視線の先には、高く持ち上がったブランコ。位置取りか、あるいは力加減か、斜めに上がったブランコは大きくうねりながら、その位置エネルギーを彼女にぶつけようとしているように見えた。敵ではあるけれど、僕の目的は敵を驚かせることだ。怪我させることじゃない。僕にだって矜持があるのだ。
「――危ない!」
叫ぼうとしても、声までスローモーションだ。咄嗟に僕はもう一度ブランコに念を飛ばす。さっきよりも少し弱めに。戻ろうとしていたブランコはまた、しかしさっきよりは弱く、蹴り上げられたみたいに前へ振れた。その間に僕は生け垣から飛び出してブランコを囲う柵を飛び越えた。また戻ってくるブランコに三度念を飛ばしつつ、彼女の横に走り込む。そうして三度戻ってきたブランコを両手で受け止め――ようとして失敗し、額を打たれた。
「ぴぎゃっ!」
情けない悲鳴を上げてその場に倒れ込む僕。勢いを殺され、ぐにゃぐにゃとその場で燻るように揺れるブランコ。ぽかんと口を開け僕を見つめる彼女。
「……幽霊くん?」
「…………はい?」
そうして僕は彼女に見つかった。敵に、見つけられてしまった。最高にかっこ悪い形で。
「何だ、普通の人間か! びっくりしたよお!」
敵の隣で、自分の額にたんこぶを作ったブランコに座りながら、僕は項垂れていた。どうしてこうなった。隣では、敵であるはずの彼女が、今日は独り言ではなく、僕に向かってあれこれ話しかけていた。
「私真知子っていうの。君、名前は?」
「照ッス……」
「テルくんいくつ? 中学生くらいだよね?」
「中一ッス……」
「あ! 私中二! いえーい、私の方が年上ー!」
何が楽しいのか、彼女はよく笑い、大げさな身振り手振りで話した。一年先輩らしいけれど、雰囲気にはまるで年上らしさがない。正直、苦手なタイプだった。
「何、ブランコ揺らしてたのってテルくん? どうやって?」
「あ……えっと……」
どうしよう。テレキネシスで動かしてましたー、なんて言えない。確実に痛い人だと思われる。まだ中一なのに、中二病だー、なんて。でも、どう嘘をつこうか。いや、ブランコとか知らないッス、そういえば揺れてましたね、不思議ッスね。これか? でも僕は今当たり前な顔をしてその揺れてたブランコに座ってるわけで、一人でにガッチャガッチャ揺れるようなブランコに座るか? 普通。どのみちアホっぽいな、僕。
決め兼ねて、隣をチラリと見る。彼女――真知子さんはくりっとした瞳で僕のことを見ていた。色で喩えるなら、真っ白。疑うことを知らなそうな、百パーセントの善意でできているような、そんな瞳だった。何となく嘘をつきづらくて、まあ真知子さんも真知子さんで、黄昏時の公園で一人しゃべくり倒すような人だ。中二病だと思われても、どっこいどっこいだろう。
そう考えて、僕は正直に話すことにした。物心ついたころからテレキネシスが使えたこと。最近はブランコで人を怖がらせて遊んでいたこと。真知子さんが怖がらないのでムキになって生け垣にひそんでいたこと。
真知子さんは、どうやらそのまま信じてくれたらしい。すごい人だと思った。
「え? じゃあ何、私テルくんに勝ったってこと? いえーい!」
いい意味でも、悪い意味でも。
それから話は、中学校のことになった。僕が東中だと言うと、真知子さんは驚いた。
「えー! 東中、よく知ってるよ私! そっか、まあ確かに、このへん学区だもんね」
僕はと言えば、この状況から抜け出す方法をずっと考えていた。勝負は負けた。正体がバレた以上、もうそれは認めるしかない。けれど、問題はそこじゃなかった。黄昏時の公園で、ブランコに乗って隣同士、中学生の男女が話している。そのことが問題だった。だってこれじゃ、まるで、付き合っているみたいじゃないか! 真知子さんは、眉は少し太いけれど、美人だった。いや、どこかで今は眉が太いのが流行りだとかと聞いたから、もしかしたら流行の最先端をいく、かなりイケてる系の人なのかもしれない。正直、真知子さんみたいな人が彼女だったら、鼻高々だろう。
でも、事実はそうではなくて、僕たちは今日が初対面なわけで、それを誰かにそんな勘違いさせるのは真知子さんに申し訳ないような気がするし、何より僕だって恥ずかしい。学校の友達が万が一この状況を見て、さすがにこの場で話しかけてはこないだろうから、明日学校でその話題になって、何だよあの人、彼女? いや、違うんだ。おい、何だよ照れるなよ。違うんだって、あの人はその……みたいな。彼女だと勘違いされる恥ずかしさと、本当はそうじゃないんだと訂正してがっかりされる恥ずかしさと。あるいは、もし両親――特に母さんにこんな現場を見られようもんなら!
「テルくん、家どこなの?」
「へっ?」
と、そんなことを考えていたから、真知子さんのその台詞で急に現実に引き戻されて、深く考えもせずに答えてしまった。
「そこのマンション、の五階」
僕は自分が住んでる部屋のあたりを指す。黄昏時も更けて、ほとんど夜になりつつあった。電気がついていない五階の部屋を探すのは簡単だった。
「あの電気が消えてるとこだよね? テルくんの家」
「うん。うち共働きだから、今誰もいなくて」
「ふうん……」
真知子さんが、意味深に笑った。その表情に、僕は少し鳥肌が立った。さっきの、純真無垢といった感じの瞳の色が、何だか妖しい光りを帯びていた。何か、よくないことが起こる。そんな僕の予想は当たってしまった。
「じゃあさ、今からテルくん家に――」
「あんた何やってんの?」
「うわあッ!?」
突然、意識の埒外から声をかけられて僕は飛び上がった。ブランコをガッチャガッチャ鳴らして振り向くと、すぐ近くに母さんが立っていた。公園の時計を見ると、母さんが仕事から帰ってくる時間だった。
一番見られてはいけない人に見られてしまったと、そう思った。
「母さん、違うんだよ、僕は今日たまたまここにいただけでさ、そう、本当にたまたま、ちょっとブランコでもこいでみよっかなーって」
「はあ? うん……?」
「そういう気分になるときって、あるじゃん? 何かさ、ほら、ブランコ乗りたいな~って、ね? それでブランコ乗ってたらたまたま! たまたまだよ!? こちらの真知子さんと一緒になって」
「……真知子さん?」
「ああ、紹介してなかったね、僕も今日が初対面なんだけどさ、こちらの女の子が真知、子……さん……?」
振り返って、僕は唖然とした。さっきまで真知子さんが座っていたはずのブランコが、風に揺れていた。小さく軋みながら、寂しげに。そこに、真知子さんの姿はなかった。どこにも、真知子さんはいなかった。
「……あれ?」
「真知子さんて誰よ」
母さんが訝しげな視線を投げかけてくる。けれど、僕はそれよりも真知子さんのことが気になった。いつの間に、帰ってしまったのだろうか?
「ねえ母さん、今、中学生の女の子がどっか行かなかった?」
「はあ? あんたさっきから何言ってんの?」
母さんは呆れたようにため息をついて言った。
「ここにはずっとあんたしかいなかったでしょ」
風が、強く吹いてきた。
釈然としないまま、僕たちはマンションへと帰った。母親と一緒に乗るエレベーターも結構恥ずかしいな、とそんな発見をし、母さんが鍵を開けて、僕が鍵を閉めた。寝室に荷物を放り投げると、母さんはすぐにキッチンへと向かっていった。
「あんたが料理覚えてくれると楽なんだけどねえ」
「あーあー聞こえなーい」
僕はやっぱり釈然としないまま、けれど母さんに見られなくてよかったという安堵も感じながら、洗面所で手洗いうがいをし、夕飯ができるまで漫画でも読もうと自分の部屋へと向かった。ドアを開けて、手探りで壁のスイッチを探す。パチンと小気味いい音がして、部屋の電気がついた。
「ばあ!」
「ぴぎゃあああああああああああああああああッ!?」
心臓が口から飛び出るかと思った。僕は部屋の中に入れず、廊下に尻もちをついた。悲鳴を聞きつけた母さんがすぐさま駆けつけてくる。
「どうしたの!?」
まずい、これは非常にまずい。僕はすぐさま立ち上がると、通せんぼするように廊下に立った。
「なっ、何でもない!」
「何でもないわけないでしょ! そんな声出して……」
「やっ、本当に大丈夫! ほらっ、あれ! ゴキブリが出ただけ! 一人で退治できるから!」
「はあ? もうびっくりさせないでよ……ちゃんと始末しといてね! こっち来させないでよ!」
「はいはい、もちろん!」
母さんの背中をキッチンの方へと押しながら、半開きの自室のドアをテレキネシスで閉める。音を立てないよう、ゆっくりと。公園では上手くいかなかったのに、妙に冴えた僕の頭は容易にそれを成功させた。
母さんをキッチンに戻して、改めて自室の前に立つ。もう、電気はつけてある。大丈夫。僕は構えて、部屋のドアを開けた。
「ばあ!」
「…………」
部屋の中に入り、無言でドアを閉める。それから、射殺すつもりで視線を投げた――真知子さんに向けて。
「何やってるんすか!」
小声で、しかし叫びながら僕は問う。本当に、どういうことなのだろう。僕の部屋に、真知子さんがいた。鍵は閉まっていたし、玄関に靴はなかったのに……って、よく見たら土足だった。なおさら思う。何やってるんすか、まじで。
けれど、真知子さんには全く悪びれる様子がない。
「えー? 聞いたじゃん。今からテルくん家に行っていい? って」
「聞いてねえ!」
「聞いたよ? テルくんが聞いてなかっただけで」
「それじゃ聞いてないのと同じだッ!」
肺の空気を全て吐き出してしまって、深く息を吸い込んだ。それで思いの外落ちついて、僕はため息と一緒にもう一度息を吐き出した。顔を上げて、口を尖らせた真知子さんを見る。何だこいつ、可愛いな。
「とにかく、母さんに見つかったらやばいです。俺が先導するんで、外出ましょう」
「えー? やだよめんどくさい」
何だこいつ、可愛くねえな!
「あんたねえ! 中二でしょ!? 道徳観くらい僕よりしっかりしててくださいよ!」
「どうとくかん?」
「こんな時間に、男子中学生の部屋に、女子中学生がいたらいけないの! 二人きりでいたらいけないの!」
「テルくん、どうどう、どっかのオカンみたいになってるよ、どうどう」
「ヒヒヒーンッ!!」
再び昂りだした僕の気を静めようと、真知子さんが両手のひらを僕に向けて上下に揺する。何でこの人はこんなに余裕なんだろう。少しは危機感を共有してほしい。母さんに見つかったら、怒られるのは僕だけじゃないぞ。
けれど、真知子さんはけたけたと楽しそうに笑って、
「大丈夫、ダイジョーブ! 私はお母さんには見つからないから」
「その根拠のない自信はどこからわいてくるんすか!」
「根拠はなくないよ、だって」
それから、心底嬉しそうに言った。
「私を見つけてくれたのは、テルくんが初めてだもん」
「…………は?」
真知子さんが手を伸ばしてくる。僕の、頬に。その雰囲気に、カアッと頬が熱くなるのを感じて、でもそれはすぐ、強烈な違和感にかき消された。真知子さんの手が、僕の頬を、すり抜けていた。
「私、幽霊だから、普通の人には見えないんだよ」
言われたことが突拍子もなくて、でもすり抜けていく手は本物で、僕は呆然と真知子さんの足元を見た。そう、足はある。二本とも、しっかりと。けれど確かに、よく見れば影がなかった。土足のまま上がられたはずの僕の部屋には、砂一粒も落ちていない。
「ね? だから、一緒にいて、話し相手になってよ」
風が強く吹いている。公園から、ブランコの軋む音が響いてきた。