1話 初仕事は盗み聞き? その2
「ただーいまあ」
高校二年生になる大月真緒の、どこか間の抜けた声が玄関に響いた。
返事はない。
当然だ。
先ほどドアを開けようとした際、鍵がかかっていたのだ。つまり妹――さくらは、まだ家に帰ってきていないはずである。
真緒は小走りで廊下を進み、リビングルームの扉をスライドさせて開けると、セーラー服のままソファへと飛び込んだ。
うつ伏せで寝転がり、「ふぅー」と一息。
それから自分の鞄に手を入れてごそごそやり、三冊の少年漫画を取り出した。クラスメイトから借りてきた漫画である。この日はずっと読みたくてそわそわしていたのだ。
表紙を見てみると、少年がフライパンを握りしめ、天高く掲げているようなイラストが描かれていた。背景には炎。……いかにも「熱血・料理漫画」という感じで、ひどく古くさい。
だがこの、真面目にふざけているような感じの漫画は、はっきり言って真緒の好みである。
胸が高鳴った。
鼻歌を歌いながら読みはじめる――わずか三ページあたりで、転校してきたばかりの小学六年生の主人公が「この学校の給食うんめえええええ!」と言いながら食事中の教室を飛び出し、学校に併設されている給食センターへ全力疾走。どうやら給食の味に感動して、料理人の顔を拝みに行ったようだ。期待を裏切らないほどのバカな主人公だ。
ちなみに給食センターに飛び込んだ直後、主人公は、真っ白い制服を着たおばあちゃん職員による渾身の一本背負いを食らってしまった。賊の襲撃だと勘違いされたようである。
「ださすぎるっ」
思わず漫画につっこみを入れてしまった。
いつの間にか夢中になって読んでいた。真緒はセーラー服のままソファーにうつ伏せで、ページをめくりながらけらけら笑った。
真緒の髪は、肩甲骨のあたりまで届くようなロングヘアだ。
だが現在その髪は、ソファの下へ向けてだらしなく垂らしっぱなしである。妹のさくらからは「おねえちゃん、髪はゴムでまとめたりしたら?」などと言われたりもするのだが、真緒としてはその必要性も感じていなかった。
漫画を四〇ページ読んだあたりで、リビングルームの扉がスライドする音がした。
「あ、いた。おねえちゃんおかえり」
廊下の向こうから、中学二年生の妹――さくらが現れた。
「おお、ただいまあ。さくらもおかえりい」
「ただいま」
どうやら彼女も帰ってきたばかりのようである。ブラウスに膝丈のスカート姿だ。
さくらの髪は、わずかに肩に触れる程度の長さなのだが、自転車に乗ってきたせいなのだろう、すこし乱れていた。
なぜか突然、さくらは呆れた表情になった。
「もう……おねえちゃん……」
と咎めるような口調で言う。
「えっ? ま、また私、なにかやっちゃった?」
「制服のまま寝っ転がったら、しわになっちゃうよ。着替えないとだめだよ」
「あはは、そういうことか。面倒くさくてさぁ」
「もう……」
さくらはそれ以上は言わず、リビングルームに置いてある物干し竿に近寄っていく。途中で、その足がピタリと止まった。
「あれっ? おねえちゃん、今日はバイト休みになったんだ?」
「そうそう。言ってなかったっけ」
「うーん、聞いてなかったかも」
「とにかく今夜はゆっくりできるから、じっくりとさくらの料理を味わうつもり!」
「……そんなに意気込まれちゃうと……なんだか作りづらいけど」
「あはは、今夜のメニューはなあに?」
「勇作さんに貰ったシジミが沢山あるから、それで何か作ろうかなって思ってるの」
「じゃあボンゴレにしよう!」
真緒が提案すると、さくらも一瞬だけ「なるほど」と肯定的な顔になったが……、その顔が、みるみると困っていく。
「でもシジミって小さいから、パスタと一緒だと食べづらくないかな? おねえちゃん間違って『ガリガリ』って噛んじゃいそうだし」
「やらないよ。絶対。だからボンゴレにしよう!」
「……ぜ、絶対って……余計に説得力がなくなった気がするけど」
「ボンゴレ食べたい! ボンゴレがいい!」
「……わかった。そこまで言うならそうしよう」
「やったああ!」
高校二年生になる真緒は、上機嫌で鼻歌をうたい、漫画へと視線を落とす。うつぶせのままバタバタと足を動かしはじめたが、その姿はまるで尻尾を振って喜んでいる犬のようだった。
「ふふっ」
さくらが突然笑った。
「えっ? なに?」真緒が顔を向ける。
「なんだか今日のおねえちゃん、犬みたいだなって思って……」
「えへへ、ありがとう」
「あ、お礼を言っちゃうんだ……」
たった二人だけで住んでいるこの家だが、ここは真緒のおかげでずいぶんと賑やかであり、そして、さくらのおかげで家庭という形を保っていられるような場所だった。
それでも三年前、両親の死後は、ずいぶんとドタバタした。
岡山県に住んでいる祖母は「この家を売って私たちのところへ来なさい」と提案した。だが、当時小学五年生だったさくら・中学二年生だった真緒は、猛反対した。
「どうしても、思い出の詰まったこの家で住みたい」と声を合わせるようにして言った。
これがもし、古代・西暦二〇〇〇年の頃だったら「バカをいうな」と一笑されて聞き入れてなどはもらえなかっただろうが……ここは西暦に換算して三五〇〇年のこの現代。人々が生活をするための常識などが若干違うのだ。
中学生でもバイトをすることが認められているし、未成年だけでの生活も『許可』が下りれば可能となるような世の中である。それでも、現在のこの生活に落ち着くまでには、祖母がやってきてあれこれと面倒を見てくれたり、政府から審査官がやってきたりと大変だったのだが、
現在、二人は、二人だけの生活を手に入れるまでに至ったのだ。
「ねえさくら」
「うん?」
さくらが物干し竿に手を伸ばして洗濯物を回収していると、真緒が首を後ろに向けて言った。
「今日は私もなにか手伝おうか?」
「ううん、ないよ。おねえちゃんはゆっくりしていて。その漫画も読んでいる途中でしょう?」
「うーん? そうかなぁ……」
妹が家事をやっているすぐ隣で、自分だけ漫画を読んでげらげら笑っているのも決まりが悪い。真緒はそんなことを考えてしまったのだが、さくらは首を横に振った。
「おねえちゃんは毎日バイトを頑張ってくれているんだもん。家事は私の仕事だよ」
「そうだけどさぁ」
「どうしてもと言うなら、宿題をやってほしいかな」
「……えげつないこと言うね」
「どこがえげつないのか分からないけど。ほら、明るいうちにやっちゃったら?」とさくらが、腰に手をあてながら言う。
「あ、今は私、手が離せないんだった」
真緒は焦って漫画を読みはじめた。
「もう……調子いい……」
「うへへ」
宿題という言葉を出されて内心ひやっとした真緒だった。漫画を読むふりをして、ちら、と横目でさくらを見る。彼女は正座をして、カーペットの上で洗濯物をたたんでいる。
――なんだか、みるみるお母さんっぽくなっていくよね。さくらって。
さくらは、小学二年生のころから、一応家事はやっていた。
だがここ最近、さくらは一気に成長して母親のようになってしまった。
しかも真緒は『姉』という立場にありながら、妹のさくらに説教をされてしまうことがよくある。「漫画を出しっ放しにしちゃだめだよ」「ああ、また服汚した」「またお菓子食べ散らかしてるし!」
しかしさくらは、口うるさく言いながらもすすんで面倒を見てくれるのだ。口を動かしながらせっせと手も動かすようなタイプである。
そんな彼女が、ひとりごとを言う。
「うーん……今夜はパスタで……ご飯を炊かなくてもいいなら……いまのうちに漬け物……ああでも……」
洗濯物をたたみおえるなり、なにやらぼそぼそと言いながらリビングルームを出て行ってしまった。
最近、さくらはひとりごとが多い。
指摘してやったほうがいいのだろうか……と迷いながらも、真緒は漫画に目を向けた。
するとそこで、
こそこそ、と小さな物音がした。
リビングルームの隅っこ。ゴールデンハムスター『賢太』が目を覚ましたのだろう。真緒は目を向けた。すると金網のケージの中、手のひらサイズの賢太はきょろきょろと辺りをうかがっているところだった。
「賢太、起きたなあ」
読書は中断。
真緒は漫画をテーブルに置き、ケージに近寄った。――金網製のケージの扉を指でつまんで引っ張って開けると、賢太が出てきて手の上に乗ってきた。
甘えん坊気質のあるハムスターである。
真緒は、フローリングの床に下ろした。賢太は逃げたりはしない。
手のひらで包み込むように背中を撫でてやると……賢太はひっくり返ってお腹を見せてくる。「もっと撫でて」と言わんばかりにアゴもぴーんと伸ばした。なんともだらしのないポーズだ。
だらしないが、可愛い。ますます撫でた。
やがて賢太はウトウトしてきた。ただでさえ脱力していたポーズが、さらに脱力していき……撫でているうちに完全に眠りについてしまった。
「こっ……このずんべらぼうめが……」
起きたばかりなのにあっさり寝てしまうとは……なにか釈然としない真緒だった。両手でそっと抱え上げ、ケージの中に戻した。賢太はそのままの姿勢――だらしのない仰向けで眠り続ける。
「……私に似ちゃったのかな?」
と呟きながらケージの扉を閉めると――リビングルームの入り口に、私服のさくらが現れた。
白いTシャツに、ベージュのハーフパンツ姿だ。そういえば以前、「料理をすると匂いがついちゃうから、制服ではやらない」みたいなことを言っていたかもしれない。ちゃっかりと髪も梳いてきたようで、サラサラのミドルヘアになっていた。
彼女は、パタパタ、とスリッパの音を立てながら冷蔵庫に近寄った。その扉に手をやったところで、ピタリ、と停止。
「あっ……」
なにかを思い出したような声をあげた。
「うん? どうかしたの」真緒は首を後ろに向けて訊いた。
「今日ね、スーパーに行こうと思っていたの。忘れてた……」
とさくらが困ったような顔で言った。
「もしかしてパスタもないの?」
「パスタはあるんだけど、冷蔵庫がスカスカになりかけているの。牛乳もないし」
「あら」
「だから私、今から行ってくる」
さくらは、ちら、とリビングルーム壁のアナログ時計を見る。真緒の視線もつられて向いた。五時ちょうどだった。日が落ちるまでにはまだしばらくかかるだろう。
「分かった。行ってらっしゃい。気をつけてね」
「あ……うん……」
さくらは急に寂しそうな声で頷いてから「……行ってきます」と呟いた。
――おや?
真緒はきょとんとした目をさくらに向けた。彼女は「行ってきます」と言うわりには、キッチンから動こうともせずに棒立ちだった。
目が合う。
「……」
「……」
さくらは、言外になにかを訴えるような眼差しで見つめてくる。そしてもじもじしながら言う。
「あ……あの……」
「うん?」
「その……あれ……」
「……」
「……ううん。やっぱりなんでもない……行ってきます」
さくらは、しょんぼりとした様子でキッチンを離れた。
なにを言おうとしていたのかはもう明白だった。「一緒に買い物に行きたい」と訴えたかったのだろう。だが先ほど「おねえちゃんはゆっくりしていて」と言ってしまったばっかりなのだ。きっと、訴えたくても訴えられなくなってしまったに違いない。
真緒は複雑な気持ちになった。
――そうだよね……、お母さんなんかじゃないのにね。
両親がいなくなってからというもの、なにかと母親のように振る舞うようになってしまったさくらだったが、結局は背伸びをしているだけの中学二年生なのだ。もしかすると「お母さんのようにならなきゃ」という変な役割意識でも持っているのかもしれない。だとするならば、大人っぽくなってしまったのも納得だ。
ついでにいうならば、『元のさくら』に戻ってしまったことも。
さくらは小さな子どものころ、家族の他には、なんにも興味をしめさなかった。
家族がいればなんでもいいや。
当時の価値観だったに違いない。それが急に変化してしまったのは、さくらが小学三年生のころだったかもしれない。真緒は良い変化だと思った。
歳相応の好奇心を身につけて、人間観察帳みたいなノートも作っていたほどだった。もしかするとそれは他の人からみてみれば変態的な趣味だったのかもしれないが、さくらにとってそのノートは『人間になるため』に必要なものだったに違いないのだ。人間は、よく鏡に例えられる。人は、人を見つめて我が身をただすものである。そのはずなのに、さくらはそのときになるまで、他人になんかこれっぽっちも興味がなかったのだ。だからこそ、彼女には必要なノートだった。
彼女自身は絶対に意識などしていないはずだったが、いままで手に入れることができなかったものを、一気に取り戻すためのノートでもあったのだ。
それを証明するかのように、さくらはその頃、内面が急成長した。
人の痛みも分かるようになったし、気遣いもできるようになったのだ。
すばらしい変化だと、姉心に思っていた。
そんな変化が、ぴたり、と止まってしまったのは、やはりというか、突然両親がいなくなってしまったあの頃からだった。
これを両親のせいにしてしまうつもりはかけらもない。
生きる環境などは、目まぐるしく変化するものであり、むしろ変化がないほうが不自然なのだ。その変化をどう受け止めるのかという個人の問題でしかない。
人間の身体だってそうだ。たえず細胞分裂をくりかえして新しい身体がつくられてゆき、古くなってしまった細胞はお風呂の排水溝にながされて消えていくものなのだ。古い身体にしがみついたまま生きていくことなどはできやしないのだから、みるみると新しくなっていく自分の身体を受け入れながら生きていくほかに、すべはないのだ。
どうしても身体の変化をとめてみたいのならば死ぬしかないし、それがいやならば、生きるほかに選択肢はない。生きているからにはやっぱり環境も変化していくものであるし、人間ひとりが環境の変化をとめられるわけもないのだ。
だから、両親のせいではまったくない。
だが、自分のせいではあると、真緒は少しだけ思う。
もしも両親の死後、祖母に逆らわずに岡山県に引っ越しをしていたならば、さくらはもしかしたら、あの良い兆候のまま、良い変化をし続けて、歳相応の中学二年生になっていたかもしれないのだから。
さくらも強い意志をこめて「行きたくない」と逆らっていたのだが、やはり、姉である自分が逆らっていたのも大きかっただろう。
さくらは、「この家に住みつづけたい。ぜったいに住み続けたい」、と言った。
真緒だってそうだった。
しかし真緒には、それに加えてもう一つ、引っ越しをしたくない理由があった。「あの家だけにはぜったいに行きたくない」、と思っていたのだ。
――あの『外道』のことは、真緒は許すつもりがない。
だから逆らった。
しかし、それは自分の都合であって、さくらのことを古い環境にとどまらせてもいい理由にはならないだろう。
だから真緒は、自分のせいかもしれないとも思うのだ。
もしかしたらさくらが好奇心を失ってしまったのは、両親の死、そのものにあったわけではなく、そのあとにあったのかもしれないのだから。
こんな古い家にとどまることを選んでいなかったならば。
真緒は想像する。
パラレルワールドに住んでいる、もうひとりの自分たちのことを。
岡山県に引っ越しをしてしまった自分たちのことを。
きっと、さくらは、人生経験がとても豊富な祖母に育てられ、叱られ、今よりももっと沢山の愛情をそそがれながら生きているのかもしれない。家事からも解放されたことにより、やっぱり歳相応の中学二年生になっているのかもしれないのだ。
だが、パラレルワールドに住んでいる現在の真緒は、
あの顔を見続けることに、耐えているのだろうか。
あの顔に、さくらを育てられてしまうことに、耐えているのだろうか。
さくらと同じで、まだまだ自分だってガキなのだ。
さくらのことを思えば色々なことに耐えられるのは当たり前だが、人生経験の少ない、大人にはなりきれていない自分がどうなるかなどは、飛び込んでみないと分からないことである。ひょっとすると、もう一人の自分はやさぐれている可能性だってある。
なぜならば、ガキだからだ。
許せない人間のことはいつまでも許せないままだし、漫画の本がなければ生きていけないし、さくらにとっていいかどうかだけではなく、自分にとってもいいかどうかも計算しなければ、結論がだせないようなガキなのだから。
だからあのときは、わずかに迷いもあった。
自分のわがままに、さくらのことを巻き込むわけにはいかないのかもしれないと。
しかし――、
私は絶対におねえちゃんとふたりで、ここに住むから! 私はもう家事だってできるんだから!
絶対にと、くりかえしくりかえし言っていた。
さくらの目つきには、まったくの迷いがなかった。真緒の目には、眩しく映った。
あのとき、わずかにでも迷っていた真緒の屈託は、あっというまに霧散してしまったのだ。むしろ霧がはれてしまったことによって、眩しすぎてさくらの顔しか見えなくなってしまったほどだった。それは今にして思えば、盲目的な決断をしてしまうことに繋がっていたのかもしれない。
祖母は、意地のわるい顔をして言った。
「そこまで言うなら仕方ない。――けどね、あんたたちは学生なんだよ。家事やバイトをやりながら学校に行くことが、どれだけ難しいのかぜんぜん分かってない。漫画なんて読むヒマもなくなるんだよ。もしも成績が下がったら、家を売っぱらって、あたしの家に来てもらうからね。それが条件だよ」
時間の問題。
祖母はそう思っていたに違いない。
だが真緒は、その台詞によって、さらに強い反発心をやどすことになったのだ。
――なにを偉そうに。
いったいなぜ、どうして、今さら、どの面をして、祖母はそんなことが言えるのだろうか。
私が知らないとでも思っているのだろう。
知っているぞ。
知ってしまったぞ。
あなたは昔、次男であるお父さんのことを捨てたんだ!
勢いで言いそうになってしまったが、けっきょく言わなかった。憎たらしかったが、「うん! 頑張る」とバカのような顔つきをして祖母を見送った。
学校の成績は、下がるどころか急激に上がった。
私を舐めるな。
その一心だった。
部屋の漫画も、少なくなるどころか増える一方だったのだが、これは反発心ではなくて単純に好きだったかだ。ただのコレクションではない。あくまでも読むために買っていたのだ。忙中閑あり。どんなに忙しくても、漫画を読む暇くらいは作れたのだ。そして漫画の本がさらに増えてしまった部屋を見て、真緒は勝ち誇ったこともあった。ざまぁーみろ! あはははは。
やっぱりただの反発心だったのかもしれないが……、とにかく真緒は、今、あらためて思う。
私は、今の家で良かった。
私は、やっぱり満足しているのだ。
だから次は――、
とぼとぼ、と明らかに肩を落とした様子で、妹のさくらは廊下へと歩いて行くところだった。彼女の左手にはお財布がある。
真緒は、その姿を追って、こっそりと忍び寄った。