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アヒルの子 その5

 おとうさんが「うお、綺麗きれいだ」って思ったときって、どんなときだったの?

 その質問に、

 ふっ、

 と父親は小さく噴きだして笑ってしまった。それは、さくらの声マネが面白かった……というわけではないのだろう。嬉しそうな顔つきをしている。

「――?」

 よくあることなのだが、さくらが質問をすると、父親はいつも嬉しそうにする。

 ――きっとお父さんは、お喋りをすることが大好きで大好きでしょうがないんだなぁ……。

 などと、さくらは予想していた。

 たしかに父親は、喋りはじめると止まらなくなるし、脱線だっせんしてばかりだし、いきなり漫画の主人公のセリフを言いだしたり、哲学者てつがくしゃの言葉を引用してみたりもして、あらゆる知識ちしきをおりまぜながら会話を楽しんでいるようだった。それは娘から見ていても、「お喋りだいすきお父さん」でしかないのだが――、ただ単純に、お喋りが大好きなだけではないのだ。

 会話の相手が「さくらだからこそ」なのである。

 あらゆることに興味をしめさないさくらだが、お喋りだけはいくらでも付き合ってくれるのだ。

 父親はうれしそうな顔つきをしながら、ポテトチップスの袋を口に寄せ、ひっくり返した。ざざーっと音がしてすべてが口内にながし込まれた。ばりっ、ぼりっ、と大きな音をたてて咀嚼そしゃくする。

はほえば、ほうだなぁ」

 もぐっ、もぐっ、

 ごっくん。

「お腹がいっぱいのときにお菓子を食べても、美味しくないだろ?」

「……その食べ方も、あんまり美味しそうには思えないけど」

「そもそもポテトチップスは凍ってないとうまくないだろ」

「……へんたい」

 父親は空っぽになってしまったビニール袋をくしゃくしゃに丸め、リビングルームの角に置いてあるゴミ箱へと向けて、ぽい、となげる。しかしそれは、空中で、ばっ、と形が元に戻ってしまい、ふわっ、とパラシュートのように床に落ちてしまった。

「ああっ」

 さくらが「なんたる暴挙ぼうきょ」とでも言いたげな目つきをして立ち上がり、ととっ、と歩いてゴミ箱へと捨ててやる。

「とにかく、お菓子はお腹が減っているからこそ、ありがたみが良く分かる」

「おとうさんがなにを言っているのか全然わかんない……」

「まあまあ」

 さくらは歩いて元の位置にもどる。テーブルとソファーの間にすっぽりとはまりこみ、困惑の顔つきを向ける。

「さくらはすごくお腹いっぱいのときに、『へい! おまち!』なんて言われながら、目のまえに山盛りのラーメンを置かれてみろ。食べたいなんて思うか?」

「ううん。思わない」

「もうひとつ例えば、夏のあつーい時期、パチパチと燃える暖炉だんろに近寄りたいなんておもうか?」

「思わない」

「だから当たり前のことなんだがな、暖炉だんろの温かさが分かるのは、身体が冷えているひとだけなんだよ」

 さくらはきょとんとしてしまう。

 父親はなんの話をしているのだろう。

「桜の美しさが分かるのも、それと同じときに違いないんだよ。自分のまわりにに綺麗きれいなものがあふれていたら、それが本当に綺麗きれいなのかどうかも分からなくなるだろ? だから、理解するためにはいっかい『外』に飛び出してみないとだめなんだ。満たされた世界――つまりは暖房だんぼうのついた世界だ。もしも地球全体が満たされた世界だったら、地球から外に出てみないと分からないかもしれないし、もしも地球から外に出ることができないんだったら――、もう、じーっと見つめてみるとか、いったんその場から離れて、色んな経験をしてみたりとか、そんなことをする他にないだろうな」

「……」

 ぽかん。

 と、さくらはまるでほうけるように聞いていた。

「あ、ええと、難しかったか? もうちょっとゆっくり話そうか?」

「…………だいじょうぶ」

 さくらは虚空こくうへと目をむけ、少し考える。

 分からない、というわけではない。

 父親は、「どんなときに桜が美しく見えるのか」、その話をしていたのだ。

 さくらは、国語はどちらかというと得意である。テストでは百点ばかりとっている。

 小学三年生のさくらにとっては難しい話がつづいているのだが、父親と「このような日常会話」を繰り返しているだけはあってか、この程度の話ならばついていけるのだ。そして、いつか母親から言われたこと――「人の話を聞く時には、相手にしっかりと目を向けて、真剣に聞かなきゃだめよ」といういいつけをしっかりと守っているおかげでもある。人の話にはしっかりと耳を傾けるし、また考える習慣もある。

 たまに、国語のテストで百点をとれないときもあるのだが――、それは、人の気持ちに鈍感どんかんなせいである。……素直で一生懸命ではあるのだが、こればかりは生まれ持った性質というもので、すぐにはどうともならないだろう。

 鈍感どんかんなのだ。

 ひどいくらいに。

 つい先日、さくらがうけた国語のテストで、こんな問題があった。


 ぼくの名前はしゅんたろうと言います。ぼくは走ることが苦手です。足がおそいので、運動会のかけっこでは、いつもビリばかりとってしまいます。くやしいです。でも、サッカーは好きです。ドリブルは下手くそですが、なかまにうまくパスができたときには、「やったー」とガッツポーズをやってしまいます。また、ぼくが失敗をして敵にボールをとられてしまったときでも、なかまが助けてくれるとがあって、とてもうれしい気持ちになります。


 問題。しゅんたろう君は、どうしてサッカーが好きなのですか? 彼の気持ちになって答えてください。

 文章問題だけはあって、配点は二〇点。

 たとえ回答が拙いものだったとしても、内容によっては先生に斟酌しんしゃくされ、五点だったり一〇点だったりを貰えた生徒もいて、とにかくクラス全員が点数をもらえていたようだった。

 さくらを除いた全員が。

 さくらは、一点ももらえなかった。

 そのときの回答とは、

 ――「なにもしなくても、なかまがかってに戦ってくれるから」

 身もふたもない。

 しかしこの回答も、なにも考えずにパッと書いてしまったというわけではない。

 さくらは時間いっぱいまで、根気こんきづよく考えつづけていたのだ。むしろ、あまりにも考えきすぎてしまったために疲れてしまい、なにがなんだか分からなくなり、「もういいか、あれで」と書いてしまったのだ。

 他人の気持ちは、まったく分からない。

 だが、考えるクセだけはついている。

 クラスメイト達が直感的ちょっかんてきに分かってしまうようなことさえも、人一倍考えないと分からないさくらではあるのだが、考える習慣だけはついているのだ。

 そして、だからこそたまに、

「つまり」

 さくらは、まとめた考えを口にする。

「お父さんは、きれいな世界から出たり、いろいろな経験をしたり、じーっと見つめてみたりしたから、桜がきれいに見えた……っていうこと?」

 さくらが喋った内容は、父親の言葉をトレースしたものでしかないのだが、彼がこれから喋ろうとしていたことをほとんど言われてしまったようだった。

 にんまり。

 父親は嬉しそうに笑いながら、

「そうだ。俺は、地球から外に出たことだってあるんだぞ」

「……それは、さすがにウソだよね?」

「ほんとほんと」

 父親のテンションは確実に高まっていた。

 テンションが高まるということはつまり、頭も口も、ゆるくなってしまうという訳で、

「じゃあ、地球の外にどうやって行ったの?」

「ロストテクノロジーだ。どうやって作ったのかは分からないが、古代人の作ったエレベーターだよ。あっという間だった。重力加速度じゅうりょくかそくどの十分の一ほどで加速かそくしながら地面を離れていたんだが、一〇分もしないうちに宇宙へと飛び出してしまったね。だが、そこから目的地にたっするまでが長くてな。安全のために最高速度さいこうそくどは制限されているからマッハ三程度だ。地球と宇宙のはざまが高度こうど一〇〇キロメートルなんだが、目的地のホテルは高度こうど三万六〇〇〇キロメートルもあった。やがて景色に飽きてしまって、ひと眠りするくらいの時間があった。そのホテルは静止軌道せいしきどう、つまり地球の重力じゅうりょく遠心力えんしんりょくとが相殺そうさいされているポイントに設置されているから、物がぷかぷかと浮かぶ。タオルなんか、ぽいって放りなげても地面に落ちない」

 さくらは直感した。

 父親は、なにかの理解をもとめて喋っているわけではない。

 理解を超えたむずかしい言葉を並べて、しかも具体的な数字を言ってみたりして、作り話に引きずり込もうとしているのだ。父親が詐欺師さぎしのように思える。油断してはいけない。最後にはいつものように「信じちゃったの?」とばかにしてくるに違いないのだ。

 さくらは、ぶんぶん、と頭を振って、

「……ウソだ。エレベーターなんかで行けるわけない」

「行けるんだな。そして俺はホテルで、ラーメンを食べてきたんだ」

「……ぜったいウソ。ぷかぷかうかんじゃったら食べられない」

「そのホテルは回転しているんだよ。ほら、水の入ったバケツを思いっきりぐるんぐるん回しても、水はこぼれないだろう。だからラーメンもこぼれない」

「そんなにラーメンが食べたかったら、地球にもどればいいのに」

「それじゃ面白くないだろう。ピクニックと一緒だよ。せっかくお弁当を作っても、家で食べちゃったらつまらないのと同じだ。宇宙にとびだして、地球を見ながらラーメンを食べるから面白いんだよ。ホテルの従業員もそれをよく分かっているからこそラーメンなんかを準備してくれる」

 さくらは、努めて胡散臭うさんくさそうな顔つきをした。

 努めてめんどくさそうな声で、

「……じゃあ、地球ってどんな形をしていたの?」

「丸かった」

「どんな色をしていたの?」

「ピンク色」

 そこでようやく確信をもって、

「……そんなわけないよ。空は青いんだよ。ぜったいウソだ」

「ほんとほんと。地球ではさくらが満開だったんだな。だからそのときはピンク色に見えたんだ。同行者が『綺麗だ』って感動して泣いていた」

「……そうかなぁ」

 嘘もここまでぺらぺらと出てくるならば、かえって大したものである。

 だからさくらは、ひょっとして……、という気にさえなってきていた。

 しかし、

「ま、嘘だけど」

「……そうだよね。やっぱり」

 もう少し話を続けられていたら騙されていたかもしれない。さくらは自分の頭をのろった。

「さくらは騙されやすくて面白いな」

「……いや、ぜんぜんだまされていないけど」

 ぜんぜん、を強調して言った。

「そうそう、これはいまの話で思い出したことなんだが」

「……今度はなに」

 どんどん呆れていくさくらとは対照的たいしょうてきに、父親のテンションは重力加速度的じゅうりょくかそくどてきに上昇していく。

 すでに彼のあたまは、地に足がついていなかった。

 はしゃいで我を忘れていた。

 だから、

「『おかもとかのこ』と、同じ時代を生きた作家で『たにざきじゅんいちろう』っていう人がいたらしいんだが」

 喋らなくてもいいことを喋ってしまう。

 それは父親にとっては些細ささいな失敗だったが、家族にとっては大きな失敗だった。

「その人はな、自分の小説のなかでこんなことを言っていたらしいぞ。――『悲しいときには、桜の花が咲くのを見たって涙が出るんだ』ってな」

「……桜の花が咲くのを見たって、涙がでる?」

 さくらがその言葉を反芻はんすうした。

 すぐに、ハッ、として気がついてしまった。

 ――おねえちゃんが、桜を見ながら泣いていた。

 あれはきっとなにか、

「ねえ、おねえちゃんが泣いていたのって、悲しいことがあったからなの?」

「あっ」

 ぎくり、と、

 父親は青ざめ、ピタリと喋るのをやめた。

 饒舌じょうぜつになりすぎていたようだ。

 喋らなくてもいいことだった。

 しかも父親にとって失敗だったのは、先ほどは、おねえちゃん――真緒が泣いていたことに関して、「分からない」ととぼけてみせたくせに、今回は驚いてしまったことだ。

 これでは、せっかく『隠そうとしていたこと』もバレてしまう可能性があるだろう。

 秘密ひみつ

 墓場まで持って行くはずだった秘密ひみつ

 だが、たとえ国語能力はあったとしても、人の心には鈍感なさくらだったからこそ、

「あはっ、アハハーっ」

 と、父親があからさまに誤魔化ごまかすように笑いはじめたことを、『いつものおばかな父親だ』とくらいにしか思わなかった。

「あはは、なにがあったんだろうなぁ。きっと、そうなんじゃないのかなぁーっ」

「……」

 さくらは、じとーっと鋭い目を向ける。

「……ねえ。おとうさん。おねえちゃんのこと泣かせたんでしょ」

 ほとんど断定したようにさくらが言うと、父親は「アハ、そんなとこかな、アハハ」と露骨ろこつに笑う。

 こうなってしまったら話はおしまいだ。

 自己正当化を図るときの父親の口は、いい加減でありながら巧妙こうみょうだ。いままでに何度も、おかしな詭弁きべんをどうにかしてひねり出し、はぐらかされてしまったことがある。嘘をつくことも見抜くことも苦手なさくらだったが、父親がこのような態度にでるときには、本当のことは聞けそうにない――それだけは分かっていた。

 とにかく今のさくらの優先事項ゆうせんじこうは、宿題である。

 いつまでもお喋りをしていたら、晩ごはんを作るのが遅れてしまうのだ。

 さくらはようやく鉛筆を握りなおし、

「まあなんでもいいか……。お父さんがおかしいのはいつものことだし」

「おいおい」

「えっと、私の名前のゆらいは……、まず、私のおねえちゃんが、桜の花を見て泣いていたから……って、こんなこと書いちゃっていいのかな?」

「うん? まぁいいだろう。そこに『おかもとかのこの歌』を添えておくといい」

「さくらばな……なんだっけ?」

「桜ばないのちいっぱいに咲くからに生命をかけて我が眺めたり。……まぁ、俺もこんなことを言ってしまったら不謹慎ふきんしんなのかもしれないが、桜を見ながら泣いている真緒がとても絵になったというか――、いじらしく思えたというか、ああ、ひとことで言うと美しかったんだよ。ほら、お姉ちゃんって、美人だと思うだろう?」

「うん。美人」

「それでピンときたんだよ。桜の花をみつめる真緒は、とても美しく見えた。そして桜とは、生命力の象徴しょうちょうだ。ならば真緒の妹は、『さくら』、もうこの名前しかないなって思って」

 真緒まおが桜を見て泣いていた。

 ということはつまり、十月十日に産まれてきた自分の名前が『さくら』になってしまったのは、その少し前の四月頃に、真緒が桜の花を見ながら泣いていたためであり、そのときには自分の名前はさくらになってしまう運命うんめいにあったのだ。――さくらは小さな疑問をついでに解決かいけつさせた。

「……ふうん」

 さくらは、カリカリ、と音をたてて鉛筆を走らせる。

 その字は綺麗きれいで――やや丸文字ぎみではあるのだが――書くのも早い。

「――じゃあ」

 書ききったさくらは、顔を上げて問いかける。次の質問に移らなければならない。

 宿題の内容は二つ。

 一つは、どうしてその名前にしようと考えたのか。

 一つは、

「私の名前にこめられた『意味』はなに?」

「うーん。意味は、なんとでも言えるな。今カッコイイ理由を考える」

「え?」

「今考える」

「………ええええええっ」

 さくらは思いっきり眉根まゆねを寄せた。

 不満そうな声で、

「……やっぱり、なにも考えていなかったんだ」

「何言ってるんだ。名前の意味なんて、みんな後付けに決まってる。……いや、ちゃんと意味はあったんだよ。思い出す」

「忘れないでよお……」

「ははは、人間はみーんな忘れっぽい生き物なんだよ」

「そんなの言い訳……」

 反論しようとしたが、さくらは脱力だつりょく

 急にどうでもよくなって机に突っ伏した。ばさっ、と広がってしまった髪の毛の間から、父親を睨みつける。

 そのとき、この場にはいないはずの別の女の声がした。

「まったくこのスカポンパパは」

「えっ」


「……おかあさんいつのまに」

 さくらは、自分の声で目が覚めた。

 気がつけばベッドの上だった。


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