3話 もう笑うしかありません 了
家の玄関は、すさまじく混雑した。
姉妹が二人暮らしをしている家に、いきなり九人もの人間が集まってしまったのだ。
わいわいがやがやと、ひどい騒ぎである。
小学六年生の未来ちゃんは、いったん家へと帰ってしまったのだが、それでも『八人』もの人間がいる。
とにかくさくらは、『全員』をリビングルームへと案内した。
男たち三人は、失神している和田豪雷をリビングルームへと運び、ソファへと座らせた。
中学一年生の内田ゆり子は、玄関で靴をととのえたり、荷物を運んだりとなにやら働いてくれたのだが――、
リビングルームへと全員が集まるなり、八人のうち『二人』が、声を大きくしてぎゃーぎゃーと騒ぎはじめてしまった。
さくらのクラスメイトである中学二年生の葵と、同じくクラスメイトの、剣道着を着た立浪である。
「こらっ! 立浪あんたっ、その物騒な剣道着、いいかげん脱ぎなさいよ! さーちゃんちのソファーが傷ついちゃうでしょ!」
と葵は、両手を手をあてながら、説教じみたことを言う。
先ほどまで彼女は、全速力で自転車をこいでいたものだから、制服のブラウスとスカートは、若干ヨレヨレになってしまっていた。――だが、いつのまにか髪だけは梳いていたらしい。サラサラのセミロングヘアになっていた。
「おいおいっ、ちょっとまてこら葵!」
と、剣道着の立浪が反論。
ケンカがはじまった。
「なによ。あたし、間違ったこと言ってる?」
「だから、元はといえば葵が『武装してこい』って言ったんだろうが!」
「あ……。それは謝る。ごめんなさい。だからさっさと脱げ」
「ぜ、全然悪びれてねえだとっ? だいたい、ストーカーだのなんだのも、全部お前の誤解だったんだろうが。幻覚でもみていたんじゃねえのか。この脳内ケシの花畑!」
と、悪態をつきながらも、立浪はしぶしぶ後頭部に手をまわし、面紐をほどきはじめた。
しかし、『そのセリフ』はさすがに言い過ぎだったのだろう。
頭にきた葵が、剣道着の胴体にむけて――、パンチ。
ばこっ、
と樹脂製の胸当てから音が鳴るが――、殴った彼女のほうが、たちまち涙目になってしまい、
「い、いったあああ!」
と、わざとらしいくらいの悲鳴をあげながら、手を抑えた。
「お前……なにやってんだよ。しかも大げさだし」
「痛かったのよ! 乙女の柔肌なめんじゃないわよ!」
葵は涙目になりながら怒るのだが、その理不尽っぷりには、さすがの立浪も目をむいた。
「しらねえよ。っていうか自分で乙女とか言うなっ」
「治療費よこせ」
「お前、ホンットにむっちゃくちゃ。さすがの俺でも面食らいっぱなしなんだけど」
「……なにそれ? 面白いこと言ったつもりなの?」
「は? なにが?」
「剣道着で面食らって――って! さりげなく説明させるんじゃないわよ! あたしが言ったみたいになっちゃうじゃない!」
「ほぼ言ってるんだけどな……。しかしすっげぇつまんねえな、それ――――、うわっ! 木刀はやめろマジで!」
「だって乙女なんだもん! 拳で殴ったら痛いんだもん!」
「もん! じゃねーよっ! っていうかお前の乙女像って本当になんなんだよ! 戦乙女かよっ!」
ケンカというよりは、コントだった。
クラスメイトの大月さくらにとっては、見慣れた『いつもの二人』でしかないのだが、それはあくまでも学校の中での話だ。
内田ゆり子は、「あれ? この二人は止めなくても平気なの?」とでも言いたげな瞳を、さくらへと向けていた。その祖父である内田豊は、にやにやとしながらケンカを見守っていた。
そして、
「あっはははっ。葵ちゃんはいつも元気で面白いよね」
と、さくらの姉――セーラー服の真緒が、おかしそうに笑いはじめた。
彼女は先ほどまでスヤスヤと眠っていたおかげなのだろうか、空腹のことをすっかりと忘れてしまった様子である。
真緒はニコニコと笑いながら、
「その剣道着ってさ、立浪くんだよね? 久しぶりだねぇ」
すると立浪は、いそいそと面を脱ぎ、顔を露出させた。
髪を覆うようにタオルがかけられてあり、暑そうに汗をかいている。緊張気味の面持ちだった。
なんとなくだが、さくらには、どうしてそんなに立浪が緊張しているのかは理解できた。
身内自慢みたいになってしまうため、あまり人には喋らないようにしているのだが、姉の真緒は、はっきり言って美人なのだ。
すらっとした細い身体つき。肩甲骨のあたりまで伸ばしているストレートロングヘア。大きな目。しかも、いつもニコニコと笑顔を絶やさないものだから、その存在感は、妹のさくらからしてもバツグンなのだ。
自慢の姉だった。
そんな自慢の姉――真緒に向けて、立浪は引きつったような笑顔を向けながら、話しかける。
「ま、真緒ねえさん、お久しぶりっす。覚えててくれて嬉しいっす」
「うん? そんなにかしこまらないでいいのに」
「そ、そうっすかね……」
「そうそう。私と立浪くんとの仲じゃないか」
「はっ、はは……」
立浪が嬉しそうな顔つきになると、その横に立っている葵が、目を鋭くして指摘する。
「なにデレデレしてんのよあんたは……。っていうか真緒ねえさん、コイツ調子よすぎなんですよ。聞いて下さい」
「調子よすぎ? どういうこと?」
「コイツ昨日、真緒姉さんってハムスターの賢太にそっくりだよなぁー、とか言って――」
げっ、と慌てた立浪が、口を挟む。
「おっ、おい! あれはなんというか、言葉のあやというかっ!」
あたふたと言い訳をするのだが、なぜか真緒は、
「えへへぇ……、そうかぁ、私がハムスターみたいなのかぁ……、照れるなぁ……」
何を思ったのかはさっぱり分からないのだが、本気で照れてしまったらしい。ぽりぽりと後頭部をかきながら、緩んだ笑顔になってしまった。
「……」
「……」
立浪も、葵も、閉口するほかになかった。
さすがは、さくらの姉――大月真緒だ。
ズレっぷりが堂に入っている。
ひょっとするとわざと言っているだけなのかもしれないが、十中八九、素で喜んでいるのだろう。――何を喜んでいるのかは不明だが。
妹であるさくらは――、おねえちゃん、立浪くんにバカにされたんだよ? などとつっこんでみようかと思ったのだが、水を差すのもどうかと考え直した。
やがて、
「ん……?」
と、それまで気絶していた和田豪雷が、声を発した。
全員の視線が、一斉にソファーへと向いた。
身長が二メートル弱、体重が一〇〇を超えるようなジャージの男は、ソファーを大きくゆがませて座りながら、ぼんやりとした視線を天井に向けていた。
さきほど彼は、さくらによる渾身の一撃――、未来ちゃんを守るためのとっさの一撃を食らい、気を失ってしまったのだ。
「ん……なんだ、ここ? ……俺はどうしてこんなところにいるんだ?」
だれに言うでもなく、和田豪雷はつぶやいた。
いつもの野獣のような雰囲気ではなくなっていた。しかも見当識まで狂っているらしい。彼は寝ぼけた様子で、ゆっくりとソファの背もたれから離れた。
さくらは、とっさに前に出た。
「ご、ごめ――」
ごめんなさい! 私が殴っちゃったんです!
と言いかけたのだが、ピンクのポロシャツの内田豊が、
「――ごほんっ!」
とわざとらしく咳払い。
さくらの行動を制するかのように、眼前に立ち塞がった。
さすがに柔道をやっていたというだけのことはある。一見すると細い男なのだが、肩幅が異様に広く、また腕の筋肉は、ボコボコと不自然なまでに隆起していた。
七五歳だ、と、孫である内田ゆり子は説明していたが、とてもではないが老いを感じさせないような、若々しい身体つきをしていた。
「豪雷クン、目覚めたか?」
と、彼は呼びかけた。
「……あ、内田センパイ。……ここ、内田センパイの家っすか?」
「違うぞ。キミは大月さくらクンの家に来たとたんに、疲れて気を失ってしまったんだ」
「……俺、気を失っていたんすか?」
「走り疲れたんじゃないのかね? どうやらさきほどまでキミは、『剣道着クン』を必死に追いかけていたみたいだが」
「――――あぁ……」
和田豪雷は、リビングルームに集まっている人たちをそれぞれ眺めた。
剣道着クン――立浪は、
「うっ……」
と驚いてうめき声をあげたのだが、さすがの和田豪雷も、襲いかかるような真似はしなかった。
「そういえば、そうだったかもしれないっすね……」
「だろう?」
内田豊は、ニカっ、と、しわだらけの顔で笑った。
なんとなく釈然としない顔つきの和田豪雷だったが、「まぁ内田センパイがそう言うのなら、そうに違いないのだろう」とでも考えたのだろうか、すぐに納得したようだった。
それから和田豪雷は立ち上がり、「邪魔をしたな」と言いながらリビングルームを出て行ってしまった。
さくらは追いかけ、「せっかくなのでご飯を食べて行きませんか」と声をかけたのだが、彼は「いや……」と、首を横に振った。
二人は玄関までやってきてしまった。
それから大きな身体の和田豪雷は、大きな靴を履きながら言う。
「悪いが、ご飯を作って待ってくれている『家族』がいるんだ。――それに俺は、『学校の宿直』をやったばかりだったんだよ。月曜日は俺が泊まることになっている日だ。だからまあ……眠くてな。さっさと帰って休みたいというのが正直なところだ」
「……あ。和田先生は、宿直、だったんですね?」
「そうだ」
先生たちは、誰かしら学校に『常在』している。
と、今朝、葵から説明をされたばかりだった。
さくらはすぐに理解した。
なるほど。だからこそ、この日の和田豪雷はどことなくぼんやりとしていて、おかしかったのだろう。まともに眠れなかったのだ。
二人が玄関で話をしていると、リビングルームのほうから、もう一人の男が近づいてきた。
「んじゃ、ワシが豪雷クンを家に送ってくるかな。雨降ってるしな」
先ほどフォローをしてくれた男。
ピンクのポロシャツ。内田ゆり子のお爺ちゃんである、内田豊だった。
「あ。すみません内田センパイ。お願いしていいっスか?」
「もちろんよ」
それから二人は、挨拶もおざなりにして、外へと出て行ってしまった。
なんとなくしょんぼりとしたさくらの背中に、もう一人のお爺さんの声がかかった。
「俺も失敬するわ」
と言いながら現れたのは、近所会のリーダーを務めている男――勇作である。
「えっ……。勇作さんも、帰っちゃうんですか?」
「女房がメシ作って待っているからな」
「そうですか……」
さくらは、ますます寂しくなってしまった。てっきり、あの大勢のメンバーと一緒にご飯を食べられるんだ、と考えていたのだ。
「――あっ!」
と、さくらは突然思い出した。
「ま、待ってください、勇作さん」
「ん?」
勇作はしゃがみこんで靴を履いているところだった。
「たしか勇作さんには、『悩み事』があったはずです」
「ああでも、さくらは今、ご飯の支度とかで忙しいんだろ? こんなにいっぱい客がいて」
「……えっと、それはそうかもしれませんが……。勇作さんのことも気になるし。それに、勇作さんの悩みって、『明日乃さん、未来ちゃん姉妹』に関わることですよね?」
すると、勇作は目を丸くした。
「分かっていたのか?」
「だって勇作さん、川シジミを持ってきてくれた日に、自分で言ってたじゃないですか。『ある意味家族の問題だ』って」
「そういや、言ったかもなぁ……」
「だから私、気になって気になって、不安でしょうがないんです」
「あぁ……。そうか。……しかし、不安になるような話ではないんだ。全然ない」
「そう、ですか?」
「だからいつでもいいんだ。さくらに暇ができたときに――」
勇作がなにか言いかけたところ、キッチンのほうから声が聞こえた。
クラスメイトの飯村葵の声だった。
「さーちゃーん! 真緒ねえさんに教わりながら、出来るところまで進めちゃうからねーっ!」
「……あっ、はーい! お願いね!」
さくらも大きな声で答えた。それから勇作をふり返って、
「と、いうことだそうです。だから、いま教えてくれませんか?」
「……はは。そうか」
ならば話すしかないだろうな、と、勇作は諦めたような顔をした。それから、「外で話そうか」と言わんばかりに、彼はあごで扉を示した。
さくらが靴を履いていると、キッチンからは、きゃーきゃーと楽しそうな声が聞こえてきた。
「ちょっ! ちょっとまって、野菜を洗うときには洗剤はいらないの――――た、タワシもいらないよっ――――うおっ、シャンプーもリンスもいらないかなぁ!」
さくらは驚いた。
自分の姉、あの真緒が、なんと、つっこみ役にまわっているようなのだ。
キッチンでは、非常に珍しい光景が広がっているのだろう。くすくすと笑いながら、さくらは外に出た。
☆
雨は、ざーざー降りだった。
時刻は、六時一〇分といったところだろう。ただでさえ薄暗かったのだが、降り出してしまった雨のせいか、余計に暗く感じられた。
塀のすぐそばで咲き誇っている青色アジサイは、雨に叩かれてリズミカルに揺れていた。
アジサイ。
雨がよく似合う花である。
さくらは、ひょっとすると『桜』よりも『紫陽花』のようが好きなのかもしれなかった。
じめじめとした梅雨は、昔からあまり好きではなかった。
だがさくらは、アジサイのおかげで、いつの間にかこの時期も心待ちにできるようになってしまったのだ。
なぜか妙に、アジサイの性格が可愛らしく思えてしまうのだ。
というのも、アジサイはきっと、雨が多いこの季節を狙いすまして咲いているに違いないのだ。温かい時期になると花を咲かせるわりに、太陽の光が苦手な花である。
いじらしく、奥ゆかしくも、瑞々しい花だ――、というのが、さくらの印象だった。
そしてひとたび雨が降れば、アジサイは嬉しそうに小躍りをはじめる。
梅雨の雨は、ときに激しい。
だからアジサイも、激しく踊る。
一日中見ていても飽きないくらいだった。
――あ、そういえば、お母さんもアジサイが好きだったな。
などということを思い出した。
というよりは、アジサイを好きなのは、きっと母親の影響なのかもしれなかった。
ぼんやりとしながら、さくらがアジサイを見ていると――、
「まぁたいしたことはないんだけどな……」
と、白いシャツ、グレーのパンツ姿の勇作は、ぽりぽりと短髪をかきながら、さてどこから説明するべきかと、悩んだ素振りをみせた。
さくらも、はっ、と我にかえった。
勇作は、ちら、と西のほうを見た。
壁沿いのアジサイの、さらに向こう側――七〇メートル先の木造建築を見ながら、続けて喋る。
「まあ、要点から言うとな?」
「はい?」
「あの公民館を、壊すことになった」
「…………」
さくらは絶句した。
衝撃だった。
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。
あの公民館。
あの木造建築。
すなわちそれは、未来ちゃん・明日乃姉妹の、二人の家なのだ。「それを壊す」と、勇作は、さも決定したかのように言い放ったのだ。
さくらは思考停止。
まるで脳みそへとやってくる血液が空転しているかのようだった。
頭が真っ白。
言葉が浮かんでこない。
「あーさくら、だから、そんなに驚くなよ。――いや、俺の言い方がわるかったか」
と、勇作は反省したように苦々しく笑うと、
「あくまでも建て直すっていうだけの話だよ。四か月後には新しくなるから、大丈夫だ」
「……そ、そうなん……ですか。建てなおすっていうだけの話なんですね?」
「そうだ」
それから、彼は説明した。
ここら辺一帯の老朽化が進んだ建物を、「新築しよう」、という計画がある。未来ちゃんたちが住んでいる家。――『公民館』も、そのうちの一つであるようだ。
すでに、その計画は始まっているらしい。
小さな病院、図書館、公園などといった、あらゆる施設が対象となっているらしく、すでにいくつかの建物が、新しく作られているようだった。
「……へえ……、そんな話が、いつの間にか出ていたんですね」
とさくらが言うと、彼は、ポケットから二つ折りになった封筒を取り出した。
「まぁ。これをあとで読んでみろ。新築予定の『一覧』、『工事日』が載っている」
「……あ。はい……」
呆然としながらも、さくらはそれを受けとり、スカートのポケットへとしまった。
内心で、ほっと一息ついた。
どうやらあの姉妹は、『家を追い出されてしまう』などと言う訳ではないようだ。一時的な『不便』を強いられるというだけの話だ。
「でも、建物を作っているあいだの四カ月間は、未来ちゃん、あすのさん、どこに住むんですか? そういう場所は確保できているんですか? それとも――」
それとも私の家で預かりましょうか?
と言いかけたのだが、勇作は言葉を重ねた。
「――さくら。あの二人はな、俺個人が預かっているわけじゃない。『近所会』全体で預かっているんだ。それは分かるか?」
「……えっと。詳しくは分からないですが、なんとなくは分かります」
今朝。
クラスメイトの葵が、それらしきことを説明してくれていたのだ。
親が亡くなったり、または捨てられてしまったりと、行き場を失ってしまったような子どもたちは、公民館や、学校に預けられるのだと。
――児童養護施設。
という謎の名称もでてきたのだが、とにかく、未来ちゃんたちは公民館で保護されているのだということだけは、飯村葵の説明によって、理解できていた。
「んー、言わば……」
と勇作が説明をつづけた。
「あの姉妹は、『近所会』が保護しているっていう感じなんだ。だから近くに住んでいる大人たちは、みんなが保護者だ。――ちなみに今回は、『和子ちゃん』が、預かってもいいって言ってくれたからな。四カ月間、姉妹は和子ちゃんの家に住む予定だ」
和子ちゃん。
さくらもよく知っている。五〇代ほどの、近所の面倒見のいい婦人だった。家も近い。
何も問題がないように思えた。
問題がない。
ならば――、
なぜ、勇作はこうして相談をしにやってきたのだろうか。不思議だった。とてもではないが、「相談事」を持ちかけてくるような雰囲気ではないのだ。
「えっと、それじゃあ、勇作さんの悩みっていうのは、一体なんなんですか?」
「そうだな。俺はいま、『姉妹のねーちゃん』のことで悩んでんだ」
姉妹のねーちゃん。
つまり、皆川明日乃。高校一年生でありながら、プロの漫画家として活躍している、未来ちゃんの姉のことだ。
「あすのさん……、のことですか?」
「そうだ。明日乃がな、『なにがあっても絶対にあの部屋は動かない』と言い張っているんだよ。困っちまってな」
「……」
「おかしいだろ?」
と、勇作は苦笑しながら同意を求めたのだが、さくらは、どんな反応をすればいいのかで困ってしまった。
「……えっと、おかしいというかなんというか。よく分からないというか」
「なんだか、あの場所は、『あたしの聖地なんだ』、『あたしの命と同じくらいに大事な場所なんだ』とか言っててな。あの部屋以外では生きていけないらしい」
「せ、聖地……命より……ですか。それは――」
それはまた大げさな。
と言いかけてしまったのだが、さすがに言葉をのみ込んだ。
「意味がわかんねぇんだよ。具体的に教えてくれって頼んでみたんだが、ごめんなさい教えられません、の一点張り。しかも、『せめて三年間だけでもいいからこの部屋に住みつづけさせて下さい』って頭を下げられちまった」
「三年……ですか?」
なんの数字なのだろうか、と疑問になった。
「だからよ?」と勇作が続ける。
「はい?」
「明日乃も年ごろの女だ。いろいろあるんだろう。男の俺にゃ話せないこともあるのかもしれない。――だからこそ、さくらに相談なんだよ」
「……はい」
「それとなく、明日乃から話を聞いてきてくんねぇかな? どうしてあの部屋から動きたがらないのか」
「……」
なるほど。
と、ようやく勇作の意図を把握できた。
しかし、さくらも頭を悩ませた。
勇作の言葉を、もっと簡潔に言い直すならば、「明日乃がなにを考えているのかスパイしてこい」、ということになるのだろう。
いくらなんでも、やりにくい。
「あの、勇作さん……。私、嫌です。……そんなことやりたくないです。というか、やれません」
さくらはハッキリと断った。
勇作には沢山の『恩』がある。できることならば答えてやりたいのだが、さくらにも、出来ることと出来ないことはあるのだ。
「ああ。まあ、断られることは予想していた」
「……え?」
さくらは、パチパチと目をしばたたかせて勇作を見た。
てっきり、期待を裏切ってしまってがっかりされてしまうのだろうと思っていたのだが、勇作は、とくに落胆した風でもなかった。
「ただ、覚えていてくれたらいいんだ。――で、なにか『問題』があったときにだけ報告してくれれば、それでいいんだ」
「……はい」
「ただ、これだけは言っておくが……」
と、勇作は口調をやや重くして続ける。
「あの木造建築は、確実に老朽化が進んでいる。数年前には白アリも出ちまった。――当然、白アリ駆除は済んでいるし、地震にも何度も耐えているような、頑丈な建物でもある。だから今すぐ倒壊だなんていうことにはならないだろうが――、物事に絶対はない」
「……」
「まぁ。新築の話は、どうせいつかはやることなんだ。どうせいつかはやることならば、早く済ませておいたほうがいい。俺はそう考えている」
「……そうですね」
たしかに。
たしかにその通りだ。
いくら明日乃が、「命よりも大事な場所だから」などと言い張っていたとしても、それは彼女の都合であって、さくらの都合ではない。ほんとうに命を落としてしまうリスクがあるならば、話は変わってくる。
さくらは、二人を守るためにならば、心を鬼にする程度のことは、できる。
「あの、ひとつ疑問なんですけど」
「なんだ?」
「あすのさんにはちゃんと伝えてあるんですよね? 『老朽化が進んでいるんですよ』っていうお話を」
「もちろん」
と、勇作は頷いた。
「わかりました。できることなら私も説得してみたいんですが……でも、すぐには難しいと思います。私も、うまく話せるかどうかは分かりませんから……」
なによりタイミングが重要だ、とさくらは感じていた。
明日乃は、リスクを認識してなお、「そこに住みたい」と訴えているのだ。今更さくらが説得を試みたところで、耳を傾けてくれるとは考えにくい。
むしろ、逆なのだ。
まずはさくらが、明日乃の訴えに耳を傾けなければならないのだ。彼女の訴えに傾聴することが、説得をするうえで大事なプロセスであるはずなのだから。
物事には、順序がある。
順序が欠けたコミュニケーションでは、軋轢が生じる。
さくらには、勇作と明日乃の間で、日和見をするようなつもりは一切ないのだが――、このケース、なにかと時間がかかりそうだとは思った。
だからこそ、曖昧に答えてみたのだが、
「それで充分だ」
と勇作は、にっこり笑った。
するとそこにタイミングよく――、
小学六年生。未来ちゃんが現れた。
家の裏庭のほうから、ビニールの傘をさして歩いてくる。
白いシャツ、黒いショートパンツに、男子が好みそうなスポーツタイプのシューズを履いていた。
やがて彼女は、おや? と気がついて顔を上げた。ロングヘアの間には、不思議そうな顔つきがあった。
勇作は、「じゃーな」と右手を上げて挨拶をすると、雨の中へと飛び出し、裏口のほうへと消えて行った。
未来ちゃんはちょっとだけ驚き、
「えっ……? 傘、あげたのに……」
と呟きながら、その背中を見送った。




