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3話 もう笑うしかありません その6

 一七時四〇分。

 静かな一軒家の、薄暗いフローリングの廊下。

 セーラーの女子高生が、一人で倒れていた。

 虚ろな目。半開きの口。脱力しきった身体。――さらには、自慢のストレートロングヘアも、だらーんとフローリングに広がりっぱなしという、あられもない姿。

 まるで行き倒れだ。


 大月真緒おおつきまお。一六歳。自宅の廊下(ろうか)で、行き倒れである。


 きゅううぅぅぅ――

 とお腹が鳴り、じわり、となみだを浮かべた。

 本気でお腹が空いているのだ。そろそろ我慢の限界かもしれなかった。

「みんな……、遅いよ……。お腹すいたよおおぉぉぉ……」

 今すぐにでも、なにかしらの食事にありつきたいところではあるのだが、『妹のさくら』が帰ってこないことには何も始められない。

 こうやって待っているほかに、することがないのだ。

 予定では、彼女はそろそろ『内田ゆり子ちゃん』を連れて帰ってくるはずなのだが、なかなか現れる気配もない。

「……そうだ……。さくらに、ばつを与えよう……。帰りが遅いんだもん……。仕方ないよね……。遅いのが悪いんだから……ふふ。ふふふふ……」

 真緒まおは不吉に笑いながら、ほふく前進をはじめた。

 薄暗いフローリングの廊下を、ずりずりとうようにして進んでいく。――セーラー服が汚れてしまうような心配は、まったくしていなかった。妹のさくらが、毎朝丁寧まいあさていねい掃除そうじをしてくれているのだ。

「……玄関で死んだふり……驚かせてやる……。ふ、ふふふ……」

 真緒は玄関口げんかんぐちのほうまでやってきてから、うつぶせのまま停止する。

 それから彼女は、あたかも『倒れてしまった』、という感じを演出えんしゅつするために、片手でストレートロングヘアを、ばさり、と廊下に広げ――、

 うつぶせのまま、

「ふぅ……」と一息つく。

 すると、

「あ……。このままじゃ……寝ちゃうかも……」

 急に睡魔すいまが襲ってきた。

 身体がだるくて力が入らない。しかも、硬くてひんやりとしたフローリングの床が、みょうに心地いいのだ。

「まぁいいか……。このまま眠っちゃおうか……」

 真緒は目を閉じた。

 そして考える。

 ――さくらは一体、どんな反応をするのかな。……なあんて、考えるまでもないか。

 素直でだまされやすく、心配性しんぱいしょうな彼女のことだ。「眠っているのかな?」と考えるよりは、「倒れている!」と考えてしまうはずだ。

 きっと、

「うわああああっ! お、おねえちゃん! だいじょうぶっ?」

 などと叫びながらけつけてくるのだろう。

 しかし、何事もなかったかのように真緒まおが目を覚ましてしまうと――、さくらは目を吊り上げて、説教せっきょうをはじめてしまうに違いないのだ。

「もうっ! まぎらわしいんだから! っていうかなんでこんなところで寝ているのっ! 制服せいふくがしわになっちゃうでしょ!」

 それを想像して、真緒まおは、ふふふっ、と笑った。

 楽しみだった。

 真緒にとっての日常にちじょう

 それは、妹にしかられてしまうこともふくめての日常である。

 もしも妹が、もっと臆病おくびょうで、もっとやさしくて、なにも叱ってくれないような物静かな女の子だったならば、それは今の真緒にしてみれば味気あじけない、不十分な日常になっていたに違いないだろう。

 とにかく真緒は、今のさくらでなければ、ダメなのだ。

「…………でもなぁ」

 ふと、悩んだ。

 たしかにさくらには、今のままでいてほしい。変わってほしくはなどはない。

 だが、変えたほうがいい部分もあるのだ。こんな子どもだましのような『死んだふり』でも、絶対にひっかかってしまうほどに、彼女はだまされやすいのだから。

 いつの日か、悪い人につけ込まれたりしてしまわないだろうか。

 もうすこし普段から、人を疑うことを覚えたほうがいいのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、

「…………あ」

 真緒の眠りかけの頭に、下らないアイディアがひらめいた。

 せっかくだ。

 せっかくだから今日は、さくらの警戒心けいかいしんきたえるためにも、もっと派手なイタズラを仕掛けてやるべきかもしれない。

 たとえば、ただ死んだふりをするだけじゃなく、トマトケチャップを廊下にぶちまけて、白目しろめをむいて倒れているとか……。

「……いや、微妙かな」

 思い直した。

 そんなことでは、さくらの警戒心けいかいしんにはつながらないだろう。

 さくらに「ケチャップがもったいない!」、「こんなに汚して!」などと、派手に叱られてしまうことは間違いないし、廊下の掃除そうじも大変だ。

 だからもっと、手軽てがるにできて、最大限に驚くようなことがいい。

 どうすればいいのだろうか。

 いっそのこと仮装かそうでもして、仮面でもかぶって、玄関の上がり口のところで『おの』を握りしめてかまえているとか。

「………………いやだから……。こんなんじゃ警戒心けいかいしんにはつながらないし……、意味がないし。……むしろ」

 むしろ危ない。

 これはだめだ。

 やってはいけない。真緒はそのアイディアを振り払った。

 大変危険たいへんきけんである。

 具体的には、『真緒自身まおじしん』が危険なのだ。

 たとえばさくらは、不審者ふしんしゃ遭遇そうぐうしてしまったときには、こしを抜かしてしまうようなことは絶対にありえない。彼女は、『瞬時しゅんじに』二者択一にしゃたくいつするのだ。

 逃げるか。

 戦うか。

 さくらは、普段は大人しくて、どことなくのんびりとしていて、守ってあげなくてはならないような小動物的しょうどうぶつてき性質せいしつを持っているのだが――、彼女は、身に危険がせまったときには、『とっさの行動こうどうができるタイプの人間』なのだ。

 即決そっけつ

 即行動そくこうどう

 実際のところ、さくらがどんな『行動』を起こしてしまうのかはその時になってみないと分からないだろう。逃げるのかもしれないし、かばんを投げつけてくる程度かもしれない。――だが、窮鼠きゅうそネコをむという言葉があるように、たとえ小動物でも追いつめたりしてしまうと、予想もできないような行動をおこしてしまうものなのだ。

 しかも本日、ドアを開けて入ってくる可能性のある人物は、さくらだけではない。

 内田ゆり子はどんな反応をするかは分からないが、未来ちゃんは、ほぼ確実かくじつに腰を抜かしてしまうはずだ。そして、きゃあああ、などと絶叫するだろう。

 するとさくらは、そんな未来ちゃんを助けるために――、

「…………うわ」

 想像してしまった。

 どう考えても、『そのイタズラ』は、ハイリスク・ノーリターンである。得られるものが皆無かいむであるばかりか、真緒まお自身が危険にさらされるだけだ。

 未来ちゃんの身に危険きけんせまっていると知れば、さくらは、「とっさに戦う」に決まっているのだ。

 だから今、このタイミングでは、そのイタズラはシャレでは済まない。死んだふりをしているくらいが丁度いいのだ。

「……むぅ……今日は『ただの死んだふり』で勘弁かんべんしてやるか……」

 妥協だきょうした。

 そして、考えるのをやめてしまうと、一気に眠気に襲われた。

 うつぶせのままだ。

 眠っているうちによだれを垂らしてしまうかもしれない。それはさすがにみっともない。「せめて仰向あおむけになっておこうかな?」とも考えたのだが、あまりにも睡魔すいまが気持ちよく、動く気にはなれなかった。

 それから一分もたたないうちに、真緒まおは玄関の上がり口のところで、スヤスヤと寝息を立てていた。


 真緒は、まだ知らない。

 玄関を開けて入ってくる『可能性のある人物』は、この日、ほかにも沢山いるのだということを。



 ☆



 一七時四五分。

 いまにも降りはじめそうな、灰色の梅雨空つゆぞらだった。

 大月さくらは、そんな空をぼんやりと眺めながら、内田ゆり子と『二人だけ』で、自宅へとやってきた。

 さくらは、暗い車庫しゃこへと入っていき、ゆり子と並べて自転車をとめた。

「……なんだか、ここまでやってくるのに、すごく時間がかかった気がするわね」

 と、しみじみとした口調で言うのは、中学一年生、内田ゆり子。

 ヘルメットを脱ぎ、わずかにウェーブのかかった髪を露出ろしゅつさせた。

「あ……あはは……、そうかも」

 苦々しく笑いながら、さくらもヘルメットを脱いだ。

 肩にギリギリ届く程度のミドルヘアが露出ろしゅつする。彼女は手ぐしで、ささっと外観がいかんをととのえた。

 ゆり子の手には、大きな買い物袋。

 さくらの手には、かばんと、大きなリュックと、二本の傘。

 二人で、砂利じゃりがたくさん敷かれた庭に出ると、湿気まじりのひんやりとした風にあてられた。

 わずかにいねの匂いがした。

 というのもこの付近は、ほとんどが田園地帯でんえんちたいである。

 古くから続いているような『屋敷やしき』があったり、木造建築もくぞうけんちく、または神社じんじゃがあったりして、個人経営こじんけいえいの雑貨店が繁盛はんじょうしているような、ど田舎と言ってもさしつかえないような一帯なのだ。

 だからこそ、『さくらの家』は、ここら辺では少しだけ浮いているようだった。

 薄くベージュ色に染められた外壁がいへきと、オレンジ色のかわらという、なかなかオシャレな感じのする、西洋風せいようふうの家なのだ。

 少しだけ珍しかった。

 この珍しさを、『古代の日本』――いまから一五〇〇年前の日本――で例えるならば、戦後の高度成長期こうどせいちょうきに、次々と木造建築もくぞうけんちくが建てられていくなかで、一軒だけ、時代を先どりしたような家が建ってしまった。――と、そんな感覚である。

 さくらは、目立つことはあまり好きではないのだが、両親が残してくれたこの家は気に入っていた。

「あ……、さくらちゃん」

「うん?」

 庭を歩いていると、ゆり子が後ろから話しかけて来た。

「あのね、未来ちゃんのことなんだけど。あの子、きっと『よろい』を着て、ここにやってくるわよ」

「……あっ。……なるほど。だから妙にウキウキとしながら、走って行っちゃったんだ」

「そういうことだと思うわ」

 つい、先ほどのことだった。

「さ、さくらおねえちゃん。ぼく急用を思い出したから、いっかい家に戻るね。すぐ来るから」

 と、未来ちゃんはそわそわとしながら言い、持っていた傘をさくらへと預けると、たたたーっ、と走って行ってしまったのだった。

 急用とはなんなのかは分からなかったが、言われてみれば納得だ。

 あの、『立浪たつなみよろい』を見てしまってからというもの、なにやら未来ちゃんは興奮こうふんしはじめたようなのだ。

 立浪。

 あの和田豪雷わだごうらいに追いかけられていた、剣道着けんどうぎを装備した立浪たつなみ

 その姿を思い出し、さくらは急に心配になった。

「ねぇゆり子ちゃん。……立浪くんは、大丈夫かな?」

立浪先輩たつなみせんぱい……? まあ、大丈夫じゃないかしら? あの先生だって、いくらなんでも捕まえる以上のことはしないはずよ。いくらゴリラでも、仮にも教師なんだし」

「そうだよねぇ……」

「それに、葵先輩あおいせんぱいも、うまく説明してくれるんじゃないかしら」

「そう……だといいなぁ……」

 立浪を、全速力で追いかけていたゴリラ――和田豪雷わだごうらい。さらに、その二人を追いかけて行った飯村葵いいむらあおい

「……いまはとにかく、葵先輩あおいせんぱいを信じましょう。うまく説明してくれるわ」

「うん。そうかもね」

 とさくらが返事をした、その矢先――、


「おっ。さくら、帰って来たみたいだな!」


 としを重ねた男の、野太のぶとい声が聞こえた。

 おや? と思い声の出所でどころを探す。――すると二人は、家の裏手うらてのほうから、男が近づいてくることに気がついた。

 七〇代ほどのせた男。

 短髪たんぱつ、白い半そでのシャツ、グレーのパンツ姿。足には足袋たびき、首には白いタオルを巻きつけている、いかにも『畑帰り』といった感じの男。

 近所会のリーダーを務めている、勇作ゆうさくだ。

 彼は、未来みらいちゃん・明日乃あすのさん姉妹の、保護者的ほごしゃてきな人物でもある。

「あっ! 勇作さん!」

「おう。さくら、今日はトマトを持ってきてやったぞ」

 彼は、しわだらけの顔でにこやかに笑い、手に持っていたビニール袋を持ち上げた。

 さくらは、目を輝かせた。

「ああ、こんなに沢山……。あの、私、このまえの『大量のシジミ』のお礼も、まだできていないのに」

「いいってことよ。俺だってまあ、たのみごとがあって来ただけなんだからな」

「あっ……やっぱり。『この前の話の続き』ですよね?」

「おう。まあな」

 勇作は申し訳なさそうに笑い、トマトが沢山入ったビニール袋を、さくらへと押し付けた。

「あ……ありがとうございます。でも、一体なにが――」

 とさくらが訊ねようとしたのだが、すでに勇作は、別のほう――ゆり子のほうを見ていた。

「そっちのじょうちゃんは、見ない顔だな。さくらの友人か?」

「はい」

 突然話しかけられたゆり子だったが、すぐに応じた。買い物袋を両手に持ったまま、ぺこり、と頭を下げ、

「さくら先輩せんぱいのお世話になっています。内田ゆり子と申します」

「おぉ。俺は勇作だ。よろ――」

 よろしく、と言いかけたのだろう。

 その言葉が止まった。

「ん? 内田? おめぇ、内田さんか?」

「……え? はい。わたしは内田です。内田ゆり子です」

「中学一年か?」

「……はい。一年生です」

「ふうん?」

 二人は、お互いに不思議そうな顔をしながら、しばし見つめ合った。

 やがてゆり子が口を開く。

「……あ、あの……。失礼なことをうかがいますが、勇作さんは、わたしのことを知っていらっしゃるのでしょうか?」

「あぁ。いやな、俺の知人に『内田』っていうやつが――」

 その瞬間だった。

 車が近づいてくるような気配に、三人は気がついた。

 目を向けると、民家と畑に囲まれたせまい道を、一台の白い乗用車が、ぐらぐらと車体を揺らせながら近づいてくるところだった。

 さくらは、「あっ、ゆり子ちゃんのお爺ちゃんだ」と気がついて手をり、内田ゆり子は、「げ! 本当に来やがった」といやそうな顔をした。

 車は、砂利じゃりかれた庭へと入ってくると、適当なところで停止した。

 エンジンが止められると、すぐに扉が開いて――、

「よお、さくらクン、来たぜぇ! 待ったか?」

 などと言いながら現れたのは、陽気ようきに笑うお爺さん。

 内田ゆり子の祖父そふ

 内田豊うちだゆたかである。

 薄いピンクのポロシャツに、白いロングパンツという、若々しい感じの服装をしている。一見すると、線の細い男のように見えるのだが、肩幅かたはばが広く、腕の筋肉はボコボコと不自然なほどの隆起りゅうきしている。

 柔道じゅうどうを本気でやっていたというだけはあって、ガタイが良い。どうやら過去には、『鬼の内田』などと呼ばれていたこともあったらしい。

「いやぁーっ。予定よりはやく着いたみてぇだ」

 内田豊うちだゆたかは、白髪の混じった短髪たんぱつに、右手をあてながら笑った。

 すると最初に反応したのは、彼のまご――ゆり子だった。

「……なにが、はやく着いたみてぇだ、よ」

 まるで猛虎もうこうなり声だった。

 さらに彼女は、わずかにウェーブのかけられた髪の間から、ぎらり、とするどい目を覗かせて、

「しかもあなた……、まさか、『そんなもの』をにぎりしめたまま、さくらちゃんの家に上がり込むつもりなの?」

「へっ? そんなもの? これのことか?」

 と、内田豊うちだゆたかは目を丸くして、自分の左手を見る。

 日本酒の、大瓶おおびん

「それ以外になにがあるっていうの?」

「だめなのか?」

 と、まったく悪びれる様子もなく、内田豊うちだゆたかは首をかしげた。すると内田ゆり子の声は、ますます怒りをはらんだ。

「だめに決まっているじゃない。それ、お酒でしょう……。まさか、さくらちゃんの家で飲むつもりじゃないでしょうね?」

「おーっといけねぇ。よく見たらこりゃ酒瓶さかびんじゃねえか。サイドブレーキと間違って持ってきちまったようだ。がっはははっ」

「あなたは普段、サイドブレーキを持ち運びするの……? ボケはじまったのかしら?」

「とにかく、さくらクン、そういう訳でワシは今晩、『メシだけ』をご馳走ちそうになることにするわ」

「えっ、あ、はい。ど、どうぞです」

 内田豊うちだゆたかは、『孫の攻撃』を無視。さくらへと話を振った。

 しかし彼は、微妙びみょうに、カチン、ときていたらしい。

「いやーっ。久しぶりの女子の手料理ってやつで、ワシも楽しみでよぉ――。ウチの孫は、めったに料理なんかしないからなぁ。しかもヘッタクソだし」

「――へいへい。悪うございました」

「おや? どうして『キミ』が機嫌きげんを悪くするんだね? ワシは『自分の家庭』に不満を言っただけなんだが?」

「――べつに。わたしは生まれつき、こういう仏頂面ぶっちょうづら、こういうとがごえなものでして。機嫌きげんが悪そうに感じられたならば、それはあなたの性根しょうねが腐っているからではないでしょうか? 頭の中に納豆菌なっとうきんでも入り込んでいるかもしれませんよ?」

「ははははっ、なんだかやけに毒毒どくどくしい女だなぁ。まるでフグじゃねえか。どこで陸揚りくあげされて――」

 いきなり険悪けんあくな二人である。

 どれだけ鈍感どんかんなさくらであっても、二人が本気で喧嘩をしているのだということには、すぐに気がついた。

「……あの」

 さくらは、おずおずと口をはさんだ。

 全員の視線しせんが集まってしまったが、さくらは「こほん」と咳払いをして続ける。

 なるべく毅然きぜんとした口調で、

「あの、内田豊うちだゆたかさん。お孫さんを挑発ちょうはつするようなこと言っても、手料理は出てきませんよ? それどころかむしろ、一生、作ってもらえなくなっちゃいますからね? ――それからゆり子ちゃんも。いくら仲のいいお爺ちゃんでも、ひどい言葉もほどほどにしてね。大事にしないとだめだから。老いさきだって短いんだし」

 さくらは堂々とした口ぶりで説教せっきょうをした。

 すると、それまで傍観ぼうかんしていた近所会のリーダー、勇作が、「ククっ」と笑いをこらえた。きっと『さくらの最後のセリフ』が面白かったのだろう。ニヤニヤと笑い始めたのだが、そんな気配に気がついている者はだれもいなかった。

 ゆり子は、

「……お爺ちゃん。ごめんなさい」

 と素直にも頭を下げた。

 しかし、

「は……?」

 と、そのお爺ちゃん。内田豊うちだゆたかは、驚いたような顔をさくらへと向けた。

「……さくらクン、……ワシが、ゆり子の爺ちゃんだっていうことに、気がついてたのか」

「はい。気がついていました」

「いつから?」

「えっと。スーパーの中で気がつきました」

「へぇ……。なんでだかは知らねぇが、さくらクン。おめぇ、思っていたより賢い子だったんだなぁ」

 と、内田豊うちだゆたかは、感心したように言ったのだが、さくらはゆるさぬ口調で続ける。

「そんなことより、ゆり子ちゃんが謝っているのに無視しちゃいけないとおもいます」

「――ぐっ!」

 内田豊は、分かりやすいくらいにたじろいだ。

 さくらがまさか、こんなにも強い口調で自分のことをとがめてくるなどとは思いもしなかったのだろう。

 内田ゆり子も、若干驚いて目を丸くしていた。

「……ぬうう……」

「……」

「…………わ」

「……」

「……………………わりぃな。ゆり子」

 右手を後頭部こうとうぶにあてがい、内田豊は、目をそむけながら謝った。

 ゆり子は、ポカンと口をあけて――、

「……」

 絶句ぜっくである。

 驚いて言葉もない。

 このように彼が、誰かに謝るような姿を、少なくともこの一二年間、内田ゆり子は目撃もくげきしたことがなかったのだ。

 やがて彼女は、感心したように言う。

「……なるほど。目には目を、と言うように、鬼には鬼なのね。……さすがは『鬼のさくらちゃん』。恐るべしだわ……」

「ゆっ、ゆり子ちゃん。その名前、もうやめてよ……」

「……嫌よ。ふふっ」

「うう」

 ゆり子がくすくすと笑い、さくらがバツの悪そうに笑うと、

「ぶはっ――」

 と、いよいよこらえきれなくなった男――近所会のリーダーである勇作が、せきをきったかのように笑いはじめた。

 しかも、かなり豪快ごうかいに。

「はははっ! さすがの『鬼の内田』も、若い女の子にゃあタジタジか! はっ、ははは――」

「――クソ……。勇作てめぇ……」

 大声で笑い続ける勇作ゆうさく

 若干顔を赤らめながら、決まりの悪そうに毒づく内田豊うちだゆたか

 どうやら二人は――、

「あの、ひょっとして二人は知り合いですか?」

 さくらが驚いて訊ねると、

「フン……まあな……」と、内田豊が答えた。

「へええ……。世間って、けっこう狭いんですね……。二人はどんな――」

 二人はどんな関係なのか。

 さくらが訊ねようとしたその瞬間、言葉が止まってしまった。


 ずしり。


 という、重々しくて、どこか剣呑けんのんな感じのする足音が、大地にひびいたのだ。

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