3話 もう笑うしかありません その5
七月五日。火曜日。
この日の天気は下り坂だった。
朝はからっと晴れていたはずだったのだが、昼になると雲が現れ、むしむしとした風が吹きはじめたかと思いきや、夕方にはすっかりと曇り空になってしまった。
一七時二〇分。
小学六年生、皆川未来は、リビングルームの大窓から空を眺めているところだった。
レースのカーテンを片手で開けたままの姿勢で、じろり、と目を鋭くする。
「いまにも……、しけりそうな空模様だ……」
ぼそっと呟いた。
意味もなくシリアスな口調だった。
腰まで届くような黒髪は、自然に垂らしたまま左右へと分け、それぞれをブルーのリボンで結んでいる。白のTシャツ。黒のショートパンツというシンプルな服装がよく似合う少女である。
雲を見つめるその瞳は、なにやら意味ありげに細められていた。
意味ありげ。
まったく意味はない。
だが彼女は、どこか楽しそうだった。ニヤリ、と不敵に笑いながら言う。
「嵐の前のしずけさか……。く、くくくっ。……静かに雨が降りはじめ、風が吹き惑い、大地の鳴動とともに魔王がよみがえる。あの約束の日が、ついに訪れたのだ……。そして、『我』の助けを呼ぶ声が、あちらこちらで――」
皆川未来は、雰囲気に酔っていた。
というよりも彼女は、カッコイイ台詞を言っている自分自身に陶酔しているのだ。
ぐっ、と拳を握り、決めゼリフ。
「……魔王。来るならば来るがいい。我は――」
「おなかすいたぁ……」
「そう。我はどれだけお腹がすいても――」
「おなか……すいたよぉぉぉ……」
「……あ」
悲痛な声がして、皆川未来は我にかえった。
くるっ、と後ろをふり返って見た。
すぐ側にあるソファー。
一人の女子高生が、うつぶせで、力尽きたように倒れていたのだ。
長い髪は、ソファーの上にだらしなく広げっぱなし。脱力した腕は、テーブルの上に投げっぱなしだった。まるで行き倒れにでもあってしまったかのような、あられもない姿の高校二年生。
大月真緒。
「……ま……まおねえちゃん……。だ、だいじょうぶなの?」
「ううぅ……だいじょうぶ。まだ……だいじょうぶ」
強がるように言い、彼女はゆっくりと顔を上げた。
乱れたロングヘアの間からは、わずかに潤んだ瞳が見えた。
「い……いや、とてもじゃないけど、大丈夫そうには見えないかも……」
「おなか、すいたよおおぉ……」
「……あの」
「ううぅ……うううう……」
まるで泣いているような声をあげながら、真緒はふたたび顔をうずめてしまった。
会話にならない。
もしかすると、かなり深刻な状態なのだろうか。
――ど、どうしよう……。
皆川未来は、途方に暮れた。こんなときはどうすればいいのだろうか。
たしか、道ばたで倒れているような人がいるときには、「意識があるかどうかをチェックするのだ」と、授業で習ったような覚えがある。
なんとなく、それを思い出しながら問いかけてみる。
「えっと、ま、まおねえちゃん?」
「…………はい」
「ここがどこだか、分かる?」
「……ここは、私と、……妹のさくらで、二人暮らしをしている家……。リビングルーム……」
「じゃあ、自分の名前と、生年月日は言える?」
「私は大月真緒……好物はカレーです……。チキンカレー……。できれば奈良の地鶏を使ったものが食べたいです……」
「い、いや……自己紹介じゃなくて……」
「奈良県出身……にわとり小屋……」
「だ、だから。お相撲さんの紹介みたいに言われても」
「ううううううううぅ……」
やはり会話にならない。
意識が混濁しているのだろうか。
皆川未来は、一瞬だけ、本気で救急車を呼んでしまおうかと悩んでしまった。――だが、こんなつまらない理由ではだめだ。救急隊の人や、ほんとうに救急隊を必要としている人たちに迷惑をかけることになってしまうだろう。
電話のオペレーターから、
『救急ですか? 火事ですか?』
などと問われてしまっても、
「空腹です。チキンカレーを食べたいと言っています」
くらいのことしか伝えられないのだ。『出前でも呼びなさい!』と言われてしまうのが関の山だろう。
「あっ! 出前と言えば」
大きな声を上げてしまった。
ぴくっ、と真緒が反応し、顔を上げた。
「……どうしたの。未来ちゃん」
「あ、あのね。今日の放課後、一つだけやっておかなくちゃならない『おしごと』があったの」
「……え? おしごと?」
「うん。昨日の夜、カレーを食べたでしょ? あの『出前のお皿』を、ぼくがお店に返しにいくことになっていたの」
「あぁ。そういえば、今朝、そんな打ち合わせをしていたね。さくらと」
「うん。……だから、今から行ってくるね」
「そういうことなら、私も行くよ」
と真緒が、こころなしかシャキッとしたような口調で言いながら、顔を上げた。
皆川未来は、首を横に振った。
「ううん。……まおねえちゃんは、お留守番」
「えぇ。でも」
「だ、だって、走ればすぐの場所だから。……それに、『賢太』が、また脱走しちゃうかもしれないでしょ? だからまおねえちゃんは、監視役」
「あぁー。そういえば……」
真緒は、ちら、とリビングルームの角を見た。
やや大きめの、ハムスターケージがある。そこに住んでいる一匹のゴールデンハムスター、『賢太』が、なにやら脱走癖を身につけてしまったらしいのだ。
そして、今朝。
大月さくらが、それについて推理をしてみせたのだ。
『きっと賢太はね、ケージの扉を内側から、ぼかーん! って蹴り飛ばして、むりやり開けちゃったんだと思うの』
真緒と未来は、『そんなわけないじゃーん』と笑ってしまったのだが、とにかく脱走してしまったことは事実だ。
「とにかく近いし。すぐだから、行ってくるね」
「……あ。じゃあ、念のために傘を持って行きなよ」
「うん。そうしようかな?」
キッチンテーブルには、新聞紙でくるまれた三枚の食器が用意されていた。それをビニール袋に入れ、皆川未来はリビングルームを出た。
☆
一七時三〇分。
空は灰色で、重たそうな雲が漂っていた。
中学一年生、内田ゆり子は、頭痛に苛まれながら自転車を走らせているところだった。
――あぁ……もう。どうしよう。
――こんなことになっちゃって、本当にいいのかしら。
と、そんな言葉しか浮かんでこなかった。
「ねえ、ゆり子ちゃん」
「……」
「ゆり子ちゃん。大丈夫?」
「……あっ」
隣の人間に話しかけられ、ハッとした。
自転車を並走させている中学二年生、大月さくら。真っ白なヘルメットを被り、心配そうな顔をしていた。
「う……ううん。わ……わたしは、大丈夫よ」
「そう?」
スーパーで買い物を済ませた二人は、さくらの家へと向かっているところだった。
奈良盆地の東西をつらぬく、大きな四車線。
その歩道を進んでいた。
車道には、会社帰りであろう車――電気自動車やガソリン車――が、スモールランプを点灯させながら行き交っていた。日中は静かな道路なのだが、夕方は、それなりに車通りが多くなるような四車線である。
殺風景で見わたしがいい道路だ。
先ほどまでいたスーパー付近は、民家、集合住宅などが立ち並んでいたために、明るくて賑やかな風景が広がっていたのだが、すでに二人は、のどかな田園地帯に入っていた。
大月さくらの家が近づいてくるにつれ、さくらは、うきうきと楽しそうな笑顔になっていったのだが、内田ゆり子の表情は、申し訳なさそうにしょんぼりとしていった。
当然かもしれない。
二人で買い物をしているときに、いろいろあったのだ。
思いがけない会偶があった――、というよりは、いまとなって考えれば『遭遇』、もしくは『エンカウント』とでも言ったほうが正しいだろう。
スーパーの中で、ゆり子は、自分の『祖父』と、ばったり出会ってしまったのだ。
祖父。
内田豊。七五歳。
今年、後期高齢者にカテゴライズされてしまったわりに、グラビア雑誌を好んで読んでいるような、『エロジジィ』。
そんなエロジジィでも、基本的には無害な人間である。
であるはず。
だったのだが――、
なにをとち狂ったのかは分からないが、彼は、おそらく見ず知らずであろう大月さくらに突然声をかけ、まるでナンパでもするかのように絡みだし、「さくらクンの家にカレーを食べに行く」などと言いはじめたのだ。
身内のとんでもない行動に、ゆり子は絶句した。止める暇もなかった。
そうやって呆然としているうちに、内田豊は、ひそひそ話をするような小さな声で、内田ゆり子を脅してきたのだ。
――「余計なことを言ったら『アレ』は渡さん」
意味が分からなかった。
要するに彼は、
「ワシは女子の手料理が食いたいんだ。だから邪魔だけはするな」
と、『アレ』を人質にして威迫していたつもりなのだろうが――、そもそも『アレ』とは、大事なアイテムではあっても、必要なアイテムではないのだ。ゆり子にとってそれは、人質にはなりえない。
だからゆり子は、さっさと大月さくらに『変なおじさんの正体』を打ち明け、退場してもらおうと思っていたのだが、
だが――、
なにしろその大月さくら本人が、「どうぞいらしてください」、などと承諾していたのだ。正体を打ち明けたところで、その決定は覆らないだろう。
「……ねえ、さくらちゃん」
「うん?」
一つ思いつき、ゆり子が呼びかけると、真っ白のヘルメットを被った大月さくらは、くるり、と首を動かして目を向けた。
「ひょっとして……、ひょっとして、なんだけどね……」
「なに?」
「さくらちゃんって、あの『バカエロジジィの正体』、分かっちゃっていたり……、する?」
「あー。うん。ゆり子ちゃんのお爺ちゃんでしょう?」
「…………あぁ。…………やっぱり。分っちゃっていたのね」
あっけなく正解を言われてしまった。
昼間、大月さくらのことを『どんくさい』などと称してしまったが、なかなか鋭いところはあるようだ。
しかし、そうやって勘付かれてしまったのも、元はというと自分のせいなのだろう。前日、大月さくらと一緒に帰宅しているときに、お爺ちゃんがどんな人物なのかを説明してしまったのだ。
ヒントを与えてしまったのは、自分だ。
「……正解よ……」と答えてやった。
するとさくらは、安心したように表情をほころばせた。
「よかったぁ」
「……なにが、よかったの?」
「だってさ。もしも間違っていたら、私は知らないおじさんを家に招待しちゃうことになっていたわけでしょ? そんなのって怖いし」
「……ま、まぁ。そうなんだけど……」
「だけど?」
「……」
大月さくら。
危なっかしい中学生だ、とゆり子は戦き、内心で冷汗を垂らした。
思い込みだけで知らないお爺さんを家に招待してしまうような、危なっかしい中学生。
「さくらちゃん。あなた……。危なっかしいわ……」
「え? な、なにが……」
「えっと……」
「うん?」
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、内田ゆり子は、「この子はしばらく、近くで見守る必要があるのでは?」などと考えてしまった。
「……でも、ほんとうにいいの? あんなエロジジィ、招待しちゃって」
「うん。私は、ゆり子ちゃんのお爺ちゃんだったら歓迎だよ。それにあの人は私のことを『知り合いなんだ』って言ってたし。どこかで出会っていたんじゃないかな? ――私にもよく分からないんだけどね」
「……」
ゆり子は、確信した。
――やっぱりこの子はだめだ。警戒心がないにもほどがある。近くで見守っていないと危ないのかもしれない。
ゆり子が、そっとため息を吐きだした、そのとき。
「あっ!」
と、さくらが大きな声をあげた。
おや? と思ってゆり子が顔を上げると――、
進行方向。歩道の隅っこを歩いている少女のうしろ姿が見えた。
小柄な少女だった。
白いTシャツ、黒のショートパンツに、男子が履くようなスポーツタイプのシューズを身に着けている。髪は長く、腰まで届くようなロングヘアを、左右に分けてそれぞれをブルーのリボンで結んでいるような女の子。
彼女の右手には、たたまれた一本の傘があった。
「おーいっ! 未来ちゃーん!」
さくらが呼びかけると、少女は後ろに振り向き――、
内田ゆり子は、思わず息をのんで見てしまった。
くりくりとした大きな瞳。長いまつ毛。すらっと伸びた鼻。整った顔つきをしている――無色透明な印象をあたえるような少女。
未来ちゃん。
それはつまり、前日、あの『銀色の甲冑』を身に着けていた人間だ。
彼女は、ぱぁ、と笑顔になった。
「あっ、さ、さくらおねえちゃんだ」
「うん! ただいま!」
さくらがブレーキをかけ、ゆり子も同じように自転車をとめた。すると未来ちゃんは、「おや?」と表情を変化させた。
ゆり子の存在に気がついたのだ。
「あっ! き、昨日の、人だ……」
「――あ」
「……昨日の、こ、小癪なおねえちゃんだ」
「こしゃくって」
ゆり子は、思わず笑ってしまった。
「……じゃなくて。ええと、き、昨日の、おねえちゃん……」
「うん。あなたが未来ちゃん?」
「……はい」
「わたしはゆり子。敬語なんかいらないわ。『はじめまして』、未来ちゃん」
「う、うん。は、はじめまして」
怯えたような顔つきで、未来ちゃんは小さく会釈した。
というよりは、照れているだけなのかもしれない。顔がやや赤い。そして未来ちゃんの視線は、あちらこちらへさまよいながらも、ちら、ちら、とゆり子を向いた。
――ああ。なるほど。『こっち』が素の未来ちゃんなのね。
銀色の甲冑を身に着けていたときは、ずいぶんとキャラクターを作っていたようだったが、なるほど、こちらのほうはずいぶんとお淑やかで、無垢な感じのする少女、むしろ保護欲をかきたてるような少女だ――、
と、ゆり子は感心しながら見つめてしまった。
俄然、ゆり子のテンションが高まった。
もっと話しかけてみようと、口を開きかけたその途端――、
「ああっ! 良かった。追いついたっ!」
と、女の声がすると同時に、ブレーキ音。
背後から聞こえた。
ゆり子とさくらが振り向くと、そこには、先ほどスーパーで出会ったばかりの中学二年生、飯村葵が現れていた。
学校指定の半そでブラウス、膝丈スカート姿。ヘルメットの下からは、セミロングの髪が鎖骨のあたりまで伸びている。
自転車のかごには、大きめのリュックが収まっていた。
「あっ。葵ちゃん。早かったね!」とさくらが応じ、
「――もちろんよっ!」
と、息をぜーぜーと切らせながら葵は、自転車のハンドルに突っ伏すようにもたれかかった。
さくらは、不思議そうな顔つきで話しかける。
「……えっと、葵ちゃん、そんなに急いで来なくてもよかったのに」
「な、なに言ってるのよ……」
「え?」
「だ、だって、不審者なのよ。ストーカーなのよ」と声を張りあげながら、葵は自分の自転車のハンドルを、バシバシと叩いた。
「え……ふ、不審者? ストーカー?」
「そうよ。ストーカーが、さーちゃんの家に上がり込もうってときじゃないの!」
「えーっと。もしかしてあの、お爺さんのこと?」
「そ、それ以外に誰が居るっていうのよ!」
二人の話し声には、温度差があった。そばで聞いている内田ゆり子としては、どことなく間の抜けたようなやりとりに感じられたのだが――、
たった一人だけ、その会話を聞き、ひどく緊張した人物がいた。
未来ちゃんだ。
『ストーカーが家に上がり込む』
その言葉に怖くなってしまったのだろう。彼女は身体を硬直させてしまった。
――あああっ。しまった……。
ゆり子は、未来ちゃんの視線に気がついた。怯えたような目つきを向けてくる。
「あっ、あのっ、葵さん」
「――うん? ゆり子ちゃん。――なに?」
ゆり子がたまらなくなって口を挟み、葵は、息を乱しながらも早口で応じた。
「ええと……。非常に、申しにくくて、申しわけない話なんですが……」
「え? どうかしたの?」
「あれは不審者のたぐいではなくて、私の――」
「……え?」
ゆり子は、身内の恥を暴露した。
あの人物は、愚か者ではあっても不審者ではないのだ――。ということを、未来ちゃんの耳にもしっかりと届くように、そして安心させるようにと説明した。
するとさくらも、ハッ、と気がつき、「未来ちゃん。ごめんね。今日、お客さんふえちゃったの。いいかな?」と確認をとる。
「あ。うん。ぼくは別にいいけど……」
未来ちゃんは、とくに嫌そうな顔はしなかった。
飯村葵も、しばらくぽかーんと呆けたような顔をしていたが、やがて納得した。
「――あぁ。なるほどね……」
「そ、そういう訳なんです……。だから、不審者とかではないんですけど、でも、うちのお爺ちゃんが、みんなに迷惑をかけに来ることだけは間違いないから……。その、ごめんなさい」
ゆり子が深々と頭を下げると、葵は、肩から力を抜いた。
「あー。なるほど。なーんだ。そういうことか」
「ほんとうにごめんなさい……」
「あー、いいのいいの。ゆり子ちゃんがしょんぼりすることなんてないんだから。あたしが勝手に『不審者』もしくは『ストーカー』って、勘違いしていただけだし」
「……はい」
「でもそういうことなら納得できたよ。色々納得できた。とにかく、『さーちゃんはあのお爺ちゃんと知り合いだった』ってことなんだよね?」
葵は、さくらへと話を向けた。
さくらは、不思議そうに目をパチパチとしばたたかせて、
「うん……。たぶんだけどね。私は、あのお爺ちゃんと知り合いなんだと思う」
「知り合いだよ。きっとね」
葵の口調には自信があった。
その言い方があまりにも不思議だったため、さくら、ゆり子は、
「えっ?」
「えっ?」
と口を揃えて言い、ぽかんとしてしまった。
「あたしの予想でしかないけどさ――」と葵は、話を続ける。「あのお爺ちゃんは、さーちゃんのことを知っているはずだよ」
「……」
「……」
なぜ、葵はそのようなことをハッキリと言い切れるのだろうか。さくら、ゆり子の疑問が高まった。
「えっと……」とさくらが口を開く。「……葵ちゃんは、どうして、そんなことが分かっちゃったの?」
「うん? だってさ、あのお爺ちゃん、さーちゃんの家がどこにあるのかを知っていたじゃない?」
「……あっ」
今になって気がついたとばかりに、さくら、ゆり子がハッとした。
全員の買い物が済み、スーパーの駐車場へと出たときのことだった。
ゆり子のお爺ちゃんは、日本酒の大瓶を握りしめたまま、たいした打合せをすることもなく車に乗り込んでしまったのだ。
そして彼は、窓を開けて言った。
「さて、さくらクンたちは先に帰っているといい。ワシはちょっと寄るところがあるからな。後で向かうことにする。まぁ、一八時ごろには行けるだろう」
結局彼は、さくらの家がどこにあるのかを訊ねようともせず、エンジンをかけ、車を発進させて駐車場を出て行ってしまったのだった。
「だからさ――」
と葵は、説明を続けた。
「あたしは、あのセリフを聞いて、これは不審者どころじゃない。ストーカーかもしれない! なーんて誤解しちゃったけど、でも、ゆり子ちゃんのお爺ちゃんだっていうなら、まあその線は薄そうだし――」
「……う……」
ゆり子は気まずそうにうつむいてしまった。
葵は、ふっ、と柔らかく笑いながら続ける。
「だからさ、さーちゃんとあのお爺ちゃんが、お互いに知り合いなのかどうかは分からないけど、少なくともあのお爺ちゃんは、さーちゃんのことを知っているんだよ。あたしの予想だけどね」
「……そうだよね。言われてみれば、そうかもしれないね」
さくらもうつむいて、少し考えたような顔をした。
未来ちゃんも、無色の眼差しをさくらへと向けていた。
そして――、
「……んん? ……あれ……?」
と、葵が、なにかに悩みだした。
「なんか、あたし、忘れちゃいけないことがあったような……」と、なにかを思い出そうとするように首をかしげた。
自転車のハンドルから両手を離し、腕を組み、「んーっ?」と一人で悩みだした。
「うん? どうかしたの? 葵ちゃん」とさくらが反応した。
「なんだっけな。大事なことなんだけど」
「なんだかさ、このやりとりって、朝もあったよね。――もしかして和田先生のこと?」
と、さくらは冗談交じりに言った。
「うーん。ちがうかな……。あっ! でも思い出した!」
葵は、ポン、と両手を打った。
「立浪だ! あたし、立浪に余計なこと言っちゃったんだよ」
「……立浪くんに? なんて言っちゃったの?」
「あたしさ、駐車場でのやりとりを聞いて、てっきり『あのお爺ちゃんはストーカーに違いない』って確信しちゃったから、立浪を激しく焚きつけちゃったの」
「……焚きつけたって……どんなふうに?」
「アハハ……えっと……。――山賊どころの話じゃなくなった。大変だ。あれはぜったいにさーちゃんのストーカーだ。容赦はするな。武装して来い――って」
「ぶ、ぶそう……」
「あ、アハハ……」
未来ちゃんはなぜか『武装』という言葉に反応し、わくわくと目を輝かせてしまったが、さくらは呆気にとられ、葵は気まずそうに頭をかきながら笑った。
ゆり子は、ニヤリ、と黒い笑みを浮かべながら言う。
「わたしは良いと思いますよ。なんなら一発か二発くらい、あのバカエロジジィにかましてやるべきなんです。わたしも手伝いますから」
「――ハハ……。ま、まぁ。本当に『かます』ような展開にはならないように、あたしが立浪にちゃんと説明するからさ……あはは……あははは……」
さすがの葵も、苦々しく笑った。
未来ちゃんは、心なしかうきうきとした顔で「武装……どんなのだろう……」と独りごち、ゆり子は、ますます邪悪な笑みをうかべてしまった。
さくらは、ポン、と両手を合わせ、「とにかくさ」と話をきりかえる。
「ここで立ち話をしていてもなんだし、私の家はもうすぐそこだから――」
そのときだった。
うおおおおおお。
男の叫び声が、どこからか聞こえた。
最初に気がついたのは、ゆり子だった。
「えっ?」
と言いながら、きょろきょろと辺りに視線を巡らした。遅れて気がついたさくら、葵、未来ちゃんまでもが、「なんだろう」と不思議な顔になり、声の発生源を探す。
うおおおおおお――っ、どけどけええええ――っ
自転車に乗った三人の、背後のほうから聞こえてくるようだった。
スーパーのある方面だ。怒声のような、悲鳴のような、鬼気せまる声。
全員の視線が、歩道の先へと向いた。
やがて、姿が見えた。
「どけえええええっ! っていうかどいてくれえええええええええっ!」
自転車に乗り、ものすごいスピードで迫ってくる男。
いや、男なのかどうかは定かではない。
ただ単に、男の声がするから男なのだと判断できるだけであって、彼は、その姿を見ただけでは男だと判断できるような外観を、およそ持ち合わせていなかった。
全身が黒い。
なにか防具のようなものを身につけていたのだ。一見すると『鎧』のようなもの。
彼は自転車を立ちこぎしながら、背中についた火から逃げるかのような勢いで、まっすぐに突進してくる。歩道はかなり広めに作られているのだが、それでも『四人』全員が――、
「――きゃあああああああああっ!」
と悲鳴をあげながら道をどけた。
ゆり子と葵は、車道のほうへと避けた。さくらは歩道側へと自転車を投げ出し、未来ちゃんを庇うかのように抱きついた。
直後。
その中央を――、
獣のような咆哮とともに、一台の自転車が通り抜けた。
「うおおおおおおおおおおおおおおお――――おおおおおおおおおおおおぉぉぉっ」
ドップラー効果というやつなのだろうか。前半の「うおおおお」は高音で聞こえ、後半の「おおおおお」は低音で聞こえた。つまり、それほどまでのスピードが出ていたということだ。
一瞬遅れて、ばしゅっん! と風が通り過ぎた。
そして認識した。
彼の全身を覆っていたもの。
剣道着。
黒い袴を着て、その上に頑丈そうなプロテクターを重ねているようだった。
顔には、格子状に金属が張り巡らされたメット。腕には、分厚そうな籠手。胴体には、黒光りするような樹脂製の胸当て。さらには腰と局所を覆うように垂がかけてあり、はかまの裾からは、ちらり、とすね当ても見えていた。
極めつけなのが、背中だった。
そこには、細長く、緩やかにカーブしている、プラスチック製のケースがあったのだ。間違いなく『木刀』が一振り入っているのだろう。
――なぜ剣道着で全力疾走?
と、ゆり子が訝しんだ直後。
またんかこらああああああっ!
声がした。
そして彼を追いかけるように、もう一つの大きな影が近づいてきたことに気がついた。
大きな人間だった。
走っている。
二本の足で走っている。早い。冗談抜きで早い。大きな足音を立て、全力疾走で近づいてくる人間。
いや、ただの人間にしてはサイズが大きすぎるだろう。身長が二メートルに達しそうなほどの大男だ。
それが誰であるのか、その場にいた中学生三人には分かった。
体育教師。四八歳。和田豪雷。
弾丸のようなスピードで通り抜けた。
「止まらんかああああああああああこの――――不審者がああああああああああぁぁ」
またしてもドップラー効果が発生していた。セリフの前半の「止まらんかあ」が高音で聞こえ、後半の「不審者がああ」が低音で聞こえた。つまり彼は、恐るべきことに、自転車と同じくらいの速度で走っているということだ。
そして一瞬遅れて、ばびゅんっ! と風が通り抜け、全員の前髪が揺れた。
「……」
「……」
「……」
「……」
四人全員が、呆気にとられてしまった。
言葉を失ってしまったまま、しばらく彼らの背中を見つめていたのだが――、やがて四人は、互いの無事を確かめるかのように視線を交わし合う。
最初に口を開いたのは、さくらだった。
「未来ちゃん。だいじょうぶ?」
「……うん。大丈夫だよ」
さくらの腕に抱かれたまま、未来ちゃんはケロッとしたような声で答えていた。
次いでゆり子が、口を開く。
「な、なに今の……」
「あー……あれは……なんと説明すればいいのやら……」
なぜか葵には、いまの出来事がなんであるのか、正確に把握できているようだった。
彼女は続けて言う。
「あー。えっと、さーちゃん」
「うん? なに?」
「あたし、『アレ』、追いかけてくるから」
「……う、うん。そうだね。そのほうがいいかもね。行ってらっしゃい」
なぜかさくらも、『状況』を理解できているようだった。さらには葵の『意図』までも理解しているような反応だった。
そして葵は、自分の自転車にくくりつけてある傘を外し、カゴのリュックを持ち上げ、それをさくらに押し付けた。
さくらは、無言でそれを受け取った。
ゆり子には、なんとなくだが、その行動の意味は理解できた。きっと葵は、少しでも速く走れるようにと、余計な荷物を下ろしているに違いない。
「あたし、骨くらいは拾って来るよ」
葵が半笑いで言いながら、ペダルに力を込めた。
さくらも、苦々しく笑いながら答える。
「あはは……できれば、骨になるまえに拾ってあげてほしいかな」
灰色の雲が低くたちこめる夏の夕方。ヘッドライトを点けた車が、西へ東へと行き交う四車線。
街灯が一斉に、ぱっ、と点いた。
それはまるで、バイクレースなどでスタートを知らせる合図のようだなと、ゆり子には感じられた。




