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3話 もう笑うしかありません その4

 七月五日。夕方。

 中学二年生になるあおいは、学校から少し離れたところにあるスーパーへと買い物にやってきていた。

 飯村葵いいむらあおい。一三歳。

 半そでのブラウス・膝丈のスカートには丁寧にアイロンがかけられているために、まるで四月の新入生のように、「しゃきっ」っと引き締まるような身なりをしている。

 髪はセミロングで鎖骨さこつのあたりまで伸ばし、この日はクリーム色のカチューシャをつけている。だいたいいつも通りの髪型だが、彼女は好んでやっているというわけでもない。

 物事にこだわりが少ないのだ。

 こだわりは少ないが、好き嫌いはハッキリとしている。頭にきたときには「おらぁっ!」と怒り、直後には「あっははは」と笑っているような、サバサバとした、気持ちの切り替えがとても上手な少女。

 それが葵という人間だった。

 だったのだが、

「はぁ……」

 スーパーの中を、どんよりとした暗い目つき、ずーんと沈んだ肩、しょぼしょぼと歩く彼女の姿からは、すべての『生気・活気』が失われつつあった。

 彼女らしくもない。

 買い物かごを片手に、陰気いんき面持おももちで歩いている、その理由とは――、

「あたしも、さーちゃんの家に行きたかったのにな……」

 この一言に尽きるだろう。

 大月さくらから「今夜、ご飯を食べに来てよ」と誘われたのだが、断ることになってしまったのだ。

 兄貴の『下らない先約』のせいだった。

 夏休みで帰省きせいしてやってきた大学生の兄貴が、さくらよりも先に「メシ食おうぜ!」と誘ってきていたのだ。

 しかも、ただの『メシ』ではない。


 家で『宴会えんかい』である。


 どうやら彼は、二十歳はたちになったとたんに『酒』を覚えてしまったらしいのだ。

 葵は、「えぇー。あたし飲まないし酒臭いの嫌だから、外で飲んできなよ」と露骨ろこつに嫌な顔をしたのだが、父親、母親は「よっしゃ! 鍋やりながら飲むぞ!」と乗り気になってしまったのだ。

勘弁かんべんしてよ……あたしは絶対飲まないから」

 と兄貴に伝えたのだが、

「分かってるって。とにかく葵はメシだけでもいいから参加してくれよ。三人じゃなんとなく寂しいじゃん。頼むよ」

 などといわれてしまい、参加せざるをえなくなってしまったのだ。いや、参加するもなにも、家で晩ごはんを食べるだけではあるのだが……、

 葵の災難は、それだけではなかった。

 しぶしぶと了解してやった葵に対し、兄貴は、とんでもない『お使い』を命じたのだ。

 その、お使いの内容が――、

 買い物かごの中。

 ビール。焼酎。ワイン。ウィスキー。レモン汁に炭酸水。

 葵は、ちらっ、とそれを見て、イラッ、とこめかみに青筋を立てた。

「くそくそくそっ……」

 思わず悪態あくたい

 未成年の妹に、こんなものを買いに行かせるバカがどこにいるものか。いや、律儀りちぎにも応じている時点で文句を言えるような立場ではないのだが、「マジで覚えてろ……、バカ兄貴のくそアル中……」と悪態は、いくらでも口をついて出てくる。

 全身から禍々しいオーラを放ちながら、スーパーのレジへと向かって歩いた。

 その途中、

「……あ」

 見知った同級生の男がいた。

 少しだけ背が高く、日焼けをした、中学生にしてはやや筋肉質の男。

 立浪たつなみだった。

 彼は制服姿で、『夏だ! をやっつけろ!』とでかでかと文字が書いてあるポップのすぐ側で、様々な殺虫剤さっちゅうざいが並べてあるたなを見ながら、「うーん、うーん」と悩んでいるようだった。

 葵は近寄り、

「よっ。あんたなにしてんの?」

「……あっ」

 彼はふり返り、目をまん丸にした。嬉しげな顔つきになる。

あおいじゃん! なんでいるんだよ。っていうか丁度よかった」

「うん? なによ」

「うちのねーちゃんにさぁ、蚊取かと線香せんこうを買って来てくれって頼まれて来たんだよ。でもまさか、こんなに種類があるとは思わなかったから悩んでいたんだ。ほら――」

 そう言いながら、立浪は棚に目を向けた。

 葵もつられて見た。

「……へぇ、蚊取り線香って、いろいろ種類があるのね……、森の香り、バラの香り、フローラル、アジサイ、ラベンダー、ゆず、……イチゴ? バナナ? メロン? おいおいなんだこりゃ。カブトムシでも寄せつける気なのか?」

 さまざまな企業が、さまざまな匂いのする商品を出しているようだった。

「種類、ありすぎるだろ? だから『女』のお前に意見を聞いてみたいと思ってよ」

「なるほどねぇ。意外とあんた、細かいこと気にして生きてんのねぇ……。繊細せんさいだったのねぇ……」

「お、おう。まあな。……っていうかお前がめてくるなんて珍しいな」

 立浪は照れたように笑った。

 ――褒めてねーよ。

 というツッコミは、心の中だけにとどめておいた。

「けどあたしだって、あんたの姉貴の好みなんて分からないわよ?」

「ああだからさ。二つに絞ったんだよ。いかにも『女が好きそう』な二つなんだけど、はたしてどっちを買うべきなのだろうかってな」

「なにとなによ?」

「バラと、ローズだ。どっちがいいかな?」

「…………は?」

「だから! 『バラの香り』と、『ローズの香り』だよ」

「……………………」

「どっちがいいと思う?」

「……………………………………いやあの」

 葵は――、

 深く、深く、沈黙した。

 重たいかごを両手で持ったままの姿勢しせいで、真顔になる。立浪たつなみ横顔よこがおを見て、たなをみて、もういちど立浪の横顔を見て……、天を仰いだ。

 ――アホだ。

 バラは英語でローズだよ、と一言。指摘してきしてやろうかと思ったが、放っておいたほうが面白そうだと考え直した。

 ニヤリと笑い、

「あたしは、どっちも『同じ』くらいに好きだから、決められないなぁ」

「……うーん。ならやっぱり、俺が選んでみるか」

「そうねぇ、まあ、どっちも『同じ』ような、良い匂いがすることだけは間違いないわよ。もうこれは、あんたのセンスで選ぶしかないわねぇ」

「……そうか?」

「そうそう。頑張って考えなさい」

 葵はニッコリと、底意地そこいじの悪い笑顔を浮かべているのだが、やっぱり立浪には気がついた様子もない。

「……でも今日のお前、妙に親切だな。いつもなら、『どっちでもいいわボケ』とか言いそうなもんだが」

「おほほ、今日のあたくしは『機嫌きげん』がよろしくてよ。それはもう、とてもとても」

「ところでお前、何を買い――」

 ちらっ、と立浪たつなみの視線が下に向くよりも先に、あおいは背中を向けていた。

「じゃーあたし急いでるからっ!」

「おっ? おう? ……ありがとよ」

 立浪はきょとんとしながら礼を言った。




 ――あぁまったく。思わず逃げちゃったわ。

 今さらながら、逃げずとも説明すれば済むだけのことだと思い直した。しかも、レジとは反対方向に逃げてしまったのだ。

「まぁいいか」

 よく考えてみれば、正しい判断だったのだろう。

 あの『アホ』のことだ。

 たとえば「あたしは一切飲まないんだ――」、「これは兄貴に頼まれて――」などと説明をしたところで、すぐに理解してくれるかどうかは怪しい。口論にでもなって大きな声を出されてしまえば、さらにめんどくさいことになってしまう。

 だから、これでよかったのだ。

 立浪がいなくなった頃を見計らって、レジに行こう。

 そんなことを考えながら、鮮魚せんぎょのコーナーをぼんやりと見ていると――、

 進行方向。

 葵の両目が、『見てはいけないもの』を鋭くキャッチしてしまった。

 ぎょっとした。

 全身の毛穴という毛穴から、ぶわっ、と冷たい汗が噴きだしたのを知覚した。

 この場所に、いてはいけない人物がいたのだ。というよりは、このタイミングで、絶対この場所には居てほしくない人物。そのあまりにも『存在感の大きな人物』が、遠くからこちらのほうへと歩いてくるのを察知さっちして、

 ――うぎゃああああああああああああああああああああっ!

 胸のうちで絶叫。


 青のジャージを着た『学校の先生』。四八歳。和田豪雷わだごうらい


 身長が二メートル弱。筋肉質で、体重も一〇〇キログラムをゆうに超えている。

 良く言えば豪傑ごうけつ。悪く言えばゴリラ。彼はどこか物々しい雰囲気で、大股おおまたで歩いてやってくる。

 クラスメイトの大月さくらは、今朝、彼のことを『二足歩行ができるほど賢い先生』、などと表現していたため、大笑いしてしまったのだが――、

 この時ばかりは笑えない。

 大量の酒を買いこもうとしているところだったのだ。

 立浪どころではないあの筋肉バカ――二足歩行ができるほど賢い先生――のことだ。葵の説明を理解してくれるかどうかは、さらに怪しいところだろう。

 のしっ、のしっ、と歩いてやってくるその一歩一歩が、葵の心胆しんたんをみるみるとさむからしめる。

 しかし現状げんじょう、彼はこちらに気がついていない。

 葵は、ハッ、と我に返った。すぐさま表情ひょうじょうを殺し、いきを殺し、気配けはいを殺した。

 そして逃亡とうぼう

 すぐそばにある通路へと入った。

 バーベキューのタレ、めんつゆ、しょう油、香辛料こうしんりょうなどが並んでいるコーナーだった。

 瞬間、

 葵は自分の選択を、ひどく後悔こうかいした。

「――――っ!」

 思わず悲鳴をあげてしまいそうになった。

 通路には、女子中学生が二人――同じ学校の生徒が二人いたのだ。

 お話をしながらこちらへと近寄ってくる。

 一人は、ほおのあたりで髪をゆるくウェーブさせている少女。どことなく大人しそうな雰囲気のする、品性のただよう女の子だった。

 そしてもう一人は――、

「……あっ」

 よく見てみれば、葵の友人だった。

 危険人物のたぐいではない。どちらかというと守らなきゃいけない感じのする、どこか抜けたところのあるクラスメイトだ。

 かみは肩にギリギリ触れる程度の長さ。目つきはどことなく子どもっぽいのだが、同時に大人のような静けさも秘めている。いかにも思春期といった感じのする中学二年生。

 大月さくら。

 彼女は、葵の存在にすぐに気がついた。

「あっ! あおいちゃんだっ」

 ぱっ、と両目を大きく広げ、いかにも嬉しそうな声で言った。葵も、目を丸くして答える。

「……さーちゃんだ……びっくりした」

「うん!」

「……さーちゃんで良かったぁ」

「え?」

「あっ。なんでもないの。こっちのこと」

 と、首をって答えたあおい背後はいごでは、『大きな人間』が、のしのしと歩いて通過していくような気配があった。

 さすがに身長が二メートルに届きそうなほどの大男ともなれば、さくら、それからもう一人の女子中学生も、その『存在』にはすぐ気がついた。ぎょっ、と目を大きくした。

 やがて気配がなくなり、葵は、ほーっ、としながら口を開く。

「さーちゃんたちは、カレーの買い物?」

「……あっ、そうそう!」

 さくらが、はっ、と我に返ったようにして答えると、隣にいる少女が、控えめではあるが人見知りしないような笑顔で、ぺこり、と会釈えしゃくした。

 するとこの少女が、さくらが言っていた「一年生の女の子」なのだろうか。

 たしか名前は――、

 などと考えていると、

「ねえ、葵ちゃん、そのかごの中ってさ――」

 さくらに指摘してきされて、はっ、とした。

 彼女はいちはやく『酒』に気がついてしまったのだ。言い訳、というよりは説明をしなければと思った瞬間に、

「あ、でもなるほど。『お兄さんとご飯』ってそういうことか。買い物まで頼まれちゃったんだ?」

 とさくらが、確認をとるように訊いてきた。

「……えっ、分かったの? っていうか、分かってくれたの?」

「うん。だって葵ちゃんがお酒なんて飲む訳ないし」

 信頼されているところは嬉しかったのだが、あの『鈍感どんかん大月さくら』が、まさか、ここまでするど推理すいりをしてみせるとは。

 葵は嬉しげに、にやっ、と笑い、

「なんか今日のさーちゃんはえてるね。あたしさっきから、びっくりしっぱなしだよ」

「そ、そうかな? それほどでも……」

「普段はなにも考えていないのにね」

「一言、余計だね……」

「ね。内田ゆり子ちゃんも、そう思うでしょ?」

「えっ、あ」

 ゆり子は、いきなり話をふられたことに驚いて――、というよりは、自己紹介もしていないのにいきなり名前を呼ばれたことに驚いてしまったのだろう。

 きょとんとして答える。

「……えと。初めましてでは、ないんでしたっけ……?」

「ううん。初めましてだよ。あたしが、あなたのことを一方的に知っているっていうだけ」

「……そうなんですか?」

「さーちゃんが話してくれたからね。さすがに覚えるよ。今日。あんなにいっぱい話をされれば」

「……あんなに、ですか?」

「そうそう。あんなに」

 ゆり子はちら、と横目でさくらを見ながら、いったい何を話されてしまったのだろうかと、くすぐったそうな顔つきで笑った。


「クミン、クローブ、シナモン、コリアンダー、ブラックペッパー。今日はこんな感じで作ってみよう」

 と、大月さくらは、三〇種類以上は置いてあるだろう香辛料こうしんりょうの中から、迷いもせずに五つの小瓶こびんを抜きとり、かごにいれた。

 内田ゆり子は、目を丸くした。

「さくらちゃん。これだけでカレーができるの?」

「うーん。厳密にはこれを入れたあとに、牛乳でまろやかにして、塩で味をととのえて、ってやるんだけど、調味料はこれだけでもいいかな。……あ。あくまでも一例だよ?」

「……なるほど。そうなんだ」

 ゆり子は納得しながら、さくらのかごの中を覗き込んだ。

 あおいも、目を丸くして言う。

「さーちゃんっていつも、こんな難しそうな感じでカレー作ってるの?」

「ううん。今日は『未来ちゃん』のリクエストでこんな感じで作ってみるけど、だいたいは市販のルーで作っているよ。――あ、でも難しくなんかないから。ほんとうは、これ一つ一つにちゃんとした『分量』があるらしいんだけど、私の場合はぜんぶ同じ量を入れちゃうの。適当てきとうなの。適当だけどおいしいの。固形のルーを、どぼん、って入れるのとなにも違いはないよ」

 なにも違わない。

 そうは言うものの、葵の感覚からしてみれば未知みちのことである。

 それをさも当たり前のように語る大月さくらは、しかし自慢をするときの口調で言ったわけではなかった。むしろ、「簡単かんたんだからぜひやってみてよ」みたいな感じの、きすすめるような口調だった。

「わたしも――」

 と、内田ゆり子がしみじみと言う。「カレー、作れると言えば作れるんだけど、スパイスを混ぜるだなんて、いかにも難しそうで、やる気にさえならなかったわ……」

「そうだよねぇ? 難しそうだよねぇ?」と葵が同意した。

 すると大月さくらは、悲しげに肩を落とした。

「そ、そうかなぁ……。でも、これを食べてくれたら、自分でも混ぜて作りたくなっちゃう……かもしれないよ?」

 と、自信もなさそうに言った。

 葵は、けらけらと笑ってしまった。

 大月さくらが考えていることは、非常に分かりやすい。いまの口調は、『仲間が欲しいときの口調』だ。


 これ以上ここで立ち話をしていたら誘惑ゆうわくに負け、さくらの家に遊びに行ってしまいそうだ――、と考え直し、あおい断腸だんちょうの思いでバイバイをした。



 ☆



 葵が次にやってきたのは、青果物せいかぶつコーナーだった。

 兄貴が、「ピーナッツ買ってこい」と言っていたのを思い出したのだ。葵の記憶が確かならば、その付近に並べてあるはずだった。

 通常、おつまみといえば『おつまみコーナー』を探すものなのだが、中学二年生の葵にとっては馴染なじみのないコーナーだ。

 馴染みのないコーナーだったからこそ、青果物コーナーに来てしまった。

 青果物コーナーに来てしまったからこそ……、

 変なおじさんに遭遇そうぐうしてしまった。


「いやぁ! うんめーなこれっ! このブルーベリー、並外れてうめえなオイっ!」


 と、はめを外した歓声かんせいを――ほとんど狂喜きょうきの声をあげながら、もぐもぐ、もぐもぐと、遠慮えんりょもせずに試食のブルーベリーを食べつづけている七〇代程度のおじさんが居た。

「国産かコレッ?」

「国産です……」

 試食をすすめている担当のおばさんも、「いくらなんでもおめぇ食い過ぎだろう!」とでも言いたげな渋面じゅうめんを浮かべているのだが、そんなことにも気にせずにおじさんは、これから購入予定であるだろう日本酒の大瓶おおびんを右手に持ち、左手では、試食のブルーベリーを次々と口へ運んでいた。

 ひと目みて分かる。

 ――うわあーっ、うざい客だ。

 身なりは、いたって普通。

 薄いピンクのポロシャツに、白のロングパンツ。身長はそれほど高くないが、肩幅かたはばが広い。シャツのそでからは、細い感じのするうでが伸びていた。

 いや、おじさんの腕は、細く見えるだけなのかもしれない。

 よく見れば腕の筋肉が、ボコボコと不自然ふしぜんなほどに隆起りゅうきしているのだ。まるでチンパンジーのように力強そうな腕で、身動きに合わせて筋肉のたばが、ぐりっ、ぐりっ、と動いているのが見えた。

 髪はほとんどが白くなっているが、ごく短髪で、妙にれぼったくてごつごつとした耳がむきだしになっている。いかにも『喧嘩ばっかりやっていました』みたいな、きな臭い感じのする耳だった。

 とにかく全体的に、危なっかしい感じのする男。

 それが葵の印象だった。


 ――酔っぱらっているのかな? 近寄らないでおこっと。


 葵は、くるっ、と向きを変えた。

 レジへと向かって一直線で歩き出す。

 ピーナッツなどはどうでもいいだろう。『兄貴のリクエスト』には、もう充分に答えてやったのだ。もし「ピーナッツが無いじゃないか!」みたいにさわぎだしたら、庭に落ちているドングリでも与えてやればいい。

 そんなことを考えながらレジへとやって来た。

 レジのおばさんは、大量の酒を見るなり不審ふしんな顔になったが、

「おつかいなんですよ……あはは……」

 あおいが気まずそうに伝えると、しぶしぶレジを打ちはじめてくれた。

 そうして、ぴっ。ぴっ。と音を立てて通過つうかしていくお酒のボトルを見ていると、


「――そうそう。おねえちゃんはなんでも食べちゃうから」


 という大月さくらの声が、遠くのほうから聞こえてきた。

「ああ……、分かる気がするわ。いつでもお腹を空かせているみたいだし」

 同意するような内田ゆり子の声も、聞こえた。

 姿は見えないのだが、たなの向こう側から、二人は青果物せいかぶつコーナーのほうへと歩いていくような気配があった。

 青果物コーナー。

 依然いぜんとしてあの『変なおじさん』は、上機嫌じょうきげんでブルーベリーの試食をしているところである。

 ――あっ……。あの二人、からまれたりしないよなぁ?

 と、内心であせる。

 やがてたなの影から、二人の姿が現れた。

「――じゃあこのカレーは、さくらちゃんの好みなの?」

「ううん。私はなんでもいいんだけどね。未来ちゃんが、甘いカレーが苦手って――」

 二人の話し声に――、

 ぴくり、と変なおじさんが反応した。

 なぜだかは分からない。分からないのだが、そのおじさんは食べるのを中断し、くるっ、と後ろをふり返った。

 変なおじさんの両目が、しっかりと、大月さくらの姿をとらえていた。

 あおいは、「おや?」と首をかしげた。

 ――もしかしてあのおじさんって、さーちゃんの知り合い?

 などと考えながらも見守っていると、

 一年生、内田ゆり子が、その変なおじさんの存在に気がついた。

 しかも、おかしなことに彼女は、「げっ」と引きつったような表情になり――、即座に顔をそむけた。

まるで、『知っているけど知らないふり』をしたような反応だ。

 だがその変なおじさんは、内田ゆり子には目もくれず、じーっと、『大月さくらだけ』を見つめている。

 そして、歩き出す。

 大月さくらの元へと。

 ――あっ!

 と葵の警戒心けいかいしんが高まるのだが、

「せんよんひゃくにじゅうえんです」

 とすぐ側で声がした。レジのおばさんだった。あおいあわてて前に向きなおり、会計をする。

 その背後では、変なおじさんが声を張りあげる。

「おおおっ! 久しぶりだなぁっ!」

「……えっ?」

「うんうん。いやー久しぶりだ。大きくなったなぁ」

「……いやあのっ……ええと?」

 大月さくらが返事をしていた。

 見ずとも分かる。彼女はこまっている。あれは、知らない人に声をかけられたときの反応だ。

「そう。たしか、えー、さくら……?」

「……えっ!」

「そうそう、さくらクンだ!」

「――っ!」

 さくらがいきなり名前を呼ばれ、息をのんだような気配があった。「どうして私の名前を知っているの?」と驚いているのだろう。

 いや、驚いているというよりは、戦慄せんりつ

 先ほど葵も、内田ゆり子に向けていきなり名前を呼んでみせ、彼女をわざわざ驚かせてみたのだが、それは同じ制服を着ていたから通用する『冗談』だ。

 実際に、内田ゆり子には冗談で済んだ。

 しかしこれは――、

「なんとっ? さくらクンはワシのことを忘れたとっ? ああっ、悲しいっ! 悲しいぞさくらクンっ!」

 と、変なおじさんはかなり大げさに悲嘆かんたんしてみせ、大月さくらはみるみると動転どうてんしてしまう。

「あっ、あのっ、ご、ごめんなさいっ。忘れちゃってごめんなさいっ。私どうにも忘れっぽくて――、あ、知り合いの方なんですよね? 私の名前を知っているんですもんね?」

「もちろん知り合いだとも。さくらクンよっ」

 と、何度も執拗しつように、「さくら」という名前を口にだし、ワシは知り合いなんだぞ! というアピールをする変なおじさん。

 葵は、直感していた。

 冗談ではなく、真剣だ。真剣に『おかしな人』なのだ。

 ――あれはさーちゃんの知り合いなんかじゃない!

 さくらの名前も、今知ったばかりであるはずだ。

 つい先ほどの二人の会話――、内田ゆり子が「さくらちゃん」と呼びかけて、大月さくらが「私は」と返事をしてしまっていたのだが――。彼はそれを聞いていたのだろう。


 ――『不審者が出没しゅつぼつしているようだ』


 そんな情報を思い出した。「まさか」と葵は不安になる。

「ありがとうございました」

 とレジのおばさんが言った。

 葵は、会計の済んだかごを両手でもち、荷造にづくり台へと移し替えた。そしてビニール袋を上にかぶせ――、放置。

 歩き出す。

 青果物コーナーへと。

 葵の両目が、三人の姿を捉えた。

 日本酒にほんしゅ大瓶おおびんを右手に握りしめた、嬉々として喋る変なおじさん。困惑顔こんわくがおで応対する大月さくら。それから、ドン引きしたように表情を引きつらせ、カチコチに硬直してしまった内田ゆり子。

 しかし――、

「あっ……」

 葵は、思わず足を止めてしまった。

 ぼそっ、と独りごちる。

「こ、これはすごいことになりそうだ……」


 大月さくらの元へと、『頼りになる存在』が近寄って行くのが見えたのだ。


 身の丈は二メートル弱。体重も一〇〇をゆうに超えているような『大男』。

 肩を怒らせ、双眉そうびを吊り上げ、ずしっ、ずしっ、と心なしか義憤ぎふんに燃えているような足どりで歩いていく。

 和田豪雷わだごうらい

 彼の目には、炎が宿っている。

 よく考えてみれば、彼がここにいる理由とは『そういうこと』なのだろう。

 不審者の目撃情報もくげきじょうほうがあったというのは、やはりこのスーパーのことだったのだ。だから彼はここにやって来ていたのかもしれない。

 とにかく葵は、

 ――和田豪雷わだごうらいが来たああああっ! 行けええええええっ!

 とプロレスでも観戦かんせんしているときのような心境しんきょうで見守った。

 変なおじさんも、その『存在感』にはすぐに気がついた。

「――むっ!」

 と警戒けいかいしたような声をあげると、和田豪雷も驚いたように、

「――むっ?」

 と驚いたような声を発した。

「あ」

「あ!」

 とお互いに声を発したのち――、

「豪雷クンじゃないか」

「センパイじゃないっスか!」

「奇遇だなぁ」

「ハイ! こんにちはっス!」

 偶然ぐうぜんにも、二人は知り合いだったらしい。再会を喜ぶように喋りはじめた。

「えっ?」とさくらが驚き、

「はっ?」とゆり子が困惑、

「――はあああぁぁ?」とあおいも、すっとんきょうな声をあげて肩を脱力させた。

 変なおじさんは、とたんに機嫌の良さそうな顔つきになり、

「豪雷クン、いまは勤務中きんむちゅうじゃないのか? なにしてんだこんなとこで」

「自分ッスか? なんだか不審者ふしんしゃが出たとかいう噂があったので、パトロールみたいなもんッス」

「不審者が出たとな?」

「不審者ッス」

「ははははっ。豪雷クンみたいな男に目をつけられちまったら、不審者もたまったもんじゃねえなあ!」

「いえいえそんな……自分なんかセンパイに比べれば甘いもんッスよ。なんせ鬼の――」

「おいおい。そんな仰々しい異名いみょうで呼ぶんじゃねぇよ」

 それからも二人は、親しげに語らい合っていた。

 それを見守るのは、言葉を失ってしまった三人の女子中学生。

 大月さくらは慎重しんちょうに、「さてこの人は誰だったのか」と考えるような目つきを『変なおじさん』へと向け、

 内田ゆり子は、「この役立たず」と物恨ものうらみするような目つきを『和田豪雷』へと向け、

 飯村葵いいむらあおいは――、思考停止しこうていし

 女子中学生三人は、三様に立ちつくしてしまったのだが、

 ふいに、

「――じゃあセンパイ。もう柔道を再開する気はないんッスか?」

「おうよ。そのつもりはねぇな。それどころじゃないからな」

 という会話があった。

 大月さくらが、ぴくっ、と反応。

 そして独り言。

「『柔道』……あれ? そういえば『鬼』って……、最近どこかで聞いたような……」

 するとなぜか内田ゆり子が、ぎくり、と硬直こうちょくした。

 彼女は口を開いて――、

「ごほんっ!」

 と咳払い。毅然きぜんとした口調で言う。

「ではわたしたちは急いでいるので、これで――」

 内田ゆり子は、「これで失礼します。さようなら」、のつもりで言ったのだが――、

 裏目うらめに出た。

 なぜか和田豪雷が、気まずそうな顔になってしまったのだ。

「おおっ、スマンスマン。内田ゆり子。『水入らず』のとこを邪魔じゃましちまったな。俺は別のところにパトロールに行く。――じゃあセンパイ。自分、失礼します」

「おうよ。またどこかで」

「ハイッ」

 きびすを返した和田豪雷は、そそくさとスーパーの玄関へ向かい――、薄暗くなりつつある外へと出て行ってしまった。

 内田ゆり子は、「うそぉーっ! 置いていくのぉーっ?」とでも言いたげな驚いた顔で、和田豪雷の背中を見つめる。

 葵も呆気にとられていた。「なにしに来たんだ、あのデクノボウは……」と、もはやそんな言葉だけしか思い浮かばない。

 変なおじさんが、「さて」と、仕切り直しでもするかのように言う。

「ワシの知り合いの、さくらクンよ」

「あ、はい?」

「その買い物かごを見るからに、今夜はカレーを作るようだな?」

「そうです。今夜はカレーを作ります」

「なるほど。じゃあ『ワシも』、『今夜』、さくらクンのカレーをごちそうになりに行こうかな。なんたって知り合いなんだからな」

 信じられないようなことを提案ていあんした。

 葵は、耳を疑った。

 いまこの不審者は、「さくらの家に行き、ご飯をごちそうになる」と言ったのだろうか。そんなバカな。いや、言った。たしかに言った。ずうずうしいとかそういう次元の話ではない。さすがは変なおじさん。頭のネジがぶっとんでいる。しかもあの、日本酒の大瓶を持ったまま家に上がり込むつもりなのだろうか。

「……」

 葵は、歩きはじめた。

 ズン、ズン、と怒気どきをはらんだ足どりで。変なおじさんの元へと。

 ――おいこのエロジジィ、もういい加減にしておけよ!

 などと言って、追っ払うつもりだった。

 しかし、大月さくらの返事は、

「はい。どうぞ、いらしてください」

 承諾しょうだくしていた。

 葵は思わず、左足を右足に引っかけてしまった。

 つまづいてバランスを崩し、隣にんであった荷造にづくり用の段ボールの山へと――、まるでお笑い芸人のリアクション芸さながらの勢いで突っ込んだ。

 どがしゃっ、と音を立てて空の段ボール箱がひしゃげ、積み上がっていた箱が、ごろごろと崩れ落ち――、

 葵の上半身は、もれて見えなくなった。

「……えっ? あれっ? 葵ちゃんかな……、葵ちゃんだよね!」

 と気がついたさくらが、駆けよってきた。

「だいじょうぶ?」

 葵は、がばっ、と勢いよく上半身を起こしながら、大声で、

「それはこっちのセリフだぼけえええええええええ!」

「うわっ!」

 さくらは驚いて委縮いしゅくした。

「さーちゃんあんた正気かっ? なに考えてんのっ! むしろさーちゃんの頭がだいじょうぶなのかっ? そもそも本当に知り合いなのかっ? なぜそこで了承しちゃうんだっ!」

 葵は質問を重ねながら立ち上がり、自分の制服についてしまったホコリを、ばしばし叩き払った。

「えっ? あー。『あのおじさん』のこと……?」

「それ以外になにかあんのっ」

「あのね、あのおじさんは多分――」

 さくらが何かを説明しはじめたその瞬間しゅんかん

 ぼそっ、と小さな、とても小さな声がした。


「余計なことは言わんでもいいからな」


 変なおじさんの声だった。

 隣に突っ立っている内田ゆり子に向けて、なにやらおどすようなことを言ったのだ。

 さくらは、あのおじさんの『正体』についての説明をはじめてくれていたのだが、その話の内容は、あおいの耳にはまったく届かなかった。

 それどころではないのだ。

 二人が、小さな声で物騒ぶっそうな会話をしているのだ。

「――な、なにを考えているの?」

「余計なことを言ったら『アレ』はわたさん」

「意味分かんない。そんなつまらないことが脅迫きょうはくになるとでも――」

「なにをいっておる。『交渉』だ」

「――だから一体、あなたはなにを考えて――」

「いやなに。久しぶりに女子おなごの手料理が食いたいと――」

「――バカなの?」

「おや? さくらクンは快諾かいだくして――」

「――だから」

 あまりにも小さな声だった。

 葵には、ほとんど聞き取れなかった。なんとなく変なおじさんは、内田ゆり子と知り合いであるかのような雰囲気をみせたのだが――、同時に、彼女を『脅迫きょうはく』しているような雰囲気でもあったのだ。

 ひょっとするとあの変なおじさんは、内田ゆり子の知り合いなのだろうか。それとも大月さくらの知り合いなのだろうか。分からないが、いずれにせよ剣呑けんのんな匂いがすることだけは確かだ。

 葵は、『すべての考え』を後回しにすることにした。

「さーちゃんっ!」

 とさくらの話をさえぎり、声を張りあげた。

「――えっ?」

「あたしも今夜、さーちゃんち行く。良い?」

 一瞬、さくらはぽかんとして、

「…………おおおっ、葵ちゃんも来られるの?」

「もちろん。いい?」

「大歓迎だよっ! 嬉しい! でも、お兄さんとの約束は?」

「あー、だいじょうぶだいじょうぶ。あたし、買い物を頼まれていた『だけ』だから!」

「そっ、そうなんだっ! やった!」

 明らかなうそだったのだが、さくらはそれに気がついた様子もない。彼女は胸の前で、両手でガッツポーズ。


 そこで葵の視界の中に、ふと、一人の男の姿が映りこんだ。


 クラスメイトの男子生徒。

 彼は、殺虫剤さっちゅうざいのコーナーで腕を組み、なにかを決めかねているようにウンウンと声をらしていた。

 ――どんだけ悩んでんだよあのアホはっ!

 と脳内ツッコミを入れるとともに、「よくぞまだ居てくれた!」と少しだけ感謝した。あのアホも誘っておこうと思ったのだ。少なくとも男子だ。ボディガードとして役立ってもらおう。

「ねえ、さーちゃん。突然だけどさ」

「うん? なに?」

「もう一人、誘ってもいいかな?」

「おおおっ、もちろんいいよ! でも誰っ?」

 さくらのテンションは、確実に高まっているようだった。

 嬉しげに「もちろん」と返事をしてから「でも誰?」と訊いてくるあたりは順序がおかしいというか、警戒心がないというか、なにも考えていないというか、ひょっとすると葵への信頼感しんらいかんの現れなのかもしれないが――、

 とにかく『変なおじさん』を家に招待してしまうくらいならば、『アホ』が一人増えたところでどうということはないだろう。

「あのね、あたしがいま誘おうと思っている人は――」

 彼の名前を出すと、さくらは快く承諾しょうだくした。


 許可が下りた。

 あとは、『本人』に直接交渉だ。

 いや、こうなればなにがなんでも来てもらうつもりだった。葵は、まっすぐに歩いて彼に近づいた。

「立浪!」

 大きな声で呼びかけた。

 殺虫剤のコーナーの前で突っ立っていた立浪は、びくっ、としながらふり返った。

「……なんだ。葵かよ」

「なんだ、って……、失礼ね。葵ちゃんのお出ましよ。悪いの?」

「悪くはねーけどよ。びっくりするだろ。いきなり大きな声出すなよ」

「乙女みたいなこと言ってないで、どっちを買うのか早く選びなさい。今からさーちゃんの家に行くわよ」

「わ、わかったよ。決めりゃいいんだろ。っていうかもう決まってるけ――」と言いかけ、立浪は言葉を失った。

 ぽかんとした顔つきで、「えーっと……」と言いながら、葵に正面を向けた。

「……なに? 今どこへ行くって言った?」

「さーちゃんの家に決まっているじゃない」

「え? 俺も行くの?」

「そう」

「なんで?」

「カレーを食べに行くの」

「いやだから、なんでいきなり?」

「ボディーガードが必要なの」

「ぼでぃ……は?」

 立浪は、盛大せいだいまゆをひそめた。

 まるでバカを見るかのように目を細め、腕をぶらんと垂らし、脱力。

「お前がなに言ってるのか、さっぱり分かんないんだけど。なんでカレーを食べるのにボディーガードが必要なんだ? ひょっとするとさくらの家ってジャングルの奥地おくちにでもあるのか? カレーの匂いにつられて野生動物とか山賊さんぞくが襲ってくるとか」

「あんたこそなに言ってんのよ。バカなんじゃないの? ――いやまてよ。……うん。そういうことでいいや」

「は?」

「あんたは山賊さんぞくからカレーを……じゃない。未来ちゃんたちを守るの。いい? そのつもりで来てほしいの」

「………ちょっとまて」

 立浪は、考える時間をくれ、とばかりに手のひらを向けた。

 目をつぶり、眉根まゆねせ、もう一度腕を組みなおした。

「えっとだな……。カレーを、食べに行くんだよな?」

「そうよ」

「さくらの家で、食べるんだよな?」

「そうね」

「俺はボディガードなのか?」

「そうそう」

「誰を守るんだ?」

「さくらと、未来ちゃんと、一年生の女の子と、真緒姉さんと、それから余力があれば、あたしを守るの」

「誰から守るんだ?」

「山賊から」

「さくらの家の食卓には、それが出るのか?」

「今日は出るのよ」

「いや……そんな……今日のゲストは山賊ですよーみたいな軽い感じで言われても……」

「お願い。来て。頼む」

 あおいは、両手を顔の前で合わせた。

 お願いしますのポーズ。

 だんだんと葵は、なりふり構っていられないような態度になってきた。自覚もしていた。立浪に「頼む」などと言ってしまったのも初めてのことだった。

 立浪も驚いている。

 ぽかーんと口を開けている。

 やがて彼は、

「……よ、よく分からんが、まあ分かったってことにしておく。さくらはなんて言ってるんだ? 俺が行ってもいいのか?」

「もちろん。歓迎かんげいするってさ。来てくれんの?」

「じゃあ行くよ」

「――うっし! だったら買い物! さっさと買い物! 早くどっちを買うのか決めちゃいなさい!」

 葵はてるように背中を叩き、立浪がしぶしぶしたがった。

「わ、分かったから。もう決まっているから。焦らすなよ」

「そうなの? ちなみにどっちを買うのよ」

「両方」

「…………んっ?」


 葵の頭の中で、時が止まった。


 本日何度目になるのかは分からない、思考停止。

 いまなんと言ったのだろうか。両方買うとぬかしただろうか。バラの香りのやつと、ローズの香りのやつと、どっちを買おうかでずいぶんと真剣に考えていたようだったのだが、まさかあんなにウンウンと悩んで叩きだした答えが――、

「俺は両方買う」

「……なんだって?」

「いやだから、両方買うことに決めたんだよ」

「……………………」

「バラの香りと、ローズの香りと、どっちも買うことにしたんだ」

「………………………………いやあの」

 立浪は、清々とした顔つきで言った。スランプから脱した画家のような、なにかを悟ったようなスッキリとした顔つき――、

 というよりは、太陽のような笑顔だった。

 葵は思わず、うつむいた。

 ぶるぶるぶる、と肩をふるわせて。

 ――ああくそっ! コイツ、いちいち面白すぎるっ!


 緊急事態だというにも関わらず、葵は、うっかりと大事な目的を忘れかけてしまった。

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