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3話 もう笑うしかありません その2

 西暦せいれき換算かんさんして、三五〇〇年。

 奈良県ならけん桜井市さくらいしには広大な田んぼが広がっていた。


 七月五日。

 今朝は、すっきりとした梅雨晴れだった。

 空は高く、雲は呑気(のんき)にもぷかぷかと浮いている。

 田んぼで青々と伸びるいねたちは、ひざの高さにまで成長しているようだった。

 太陽に照らされた水面が、鏡のように澄んだ光を反射させ、夜露よつゆをあびた稲葉(いなば)がキラキラと光る。

 南のほうから風が吹きつけると、サラサラと音を立てながら、稲葉いなばに波紋が広がった。

 風を遮るものは何もない。

 わずかにどろの匂いが混じる白南風(しらはえ)が、どこまでもどこまでも駆けぬけていく。早くも桜井市には、梅雨明つゆあけの兆しがあらわれているようだった。


 その、涼やかな田園地帯のどまんなか。


 小川と、田んぼに挟まれた細いアスファルト。

 一人の少女が自転車を走らせていた。

 肩にギリギリ触れる程度のミドルヘアには、真っ白のヘルメットを装着そうちゃくしている。ブラウス、膝丈(ひざたけ)のスカート、真っ白の運動靴はどれも清潔感せいけつかんがあり、少女の内面を映し出すかのように瑞々しい姿だ。

 彼女の顔つきにはどことなく学童期がくどうきの名残があるのだが、同時に、大人びた雰囲気ふんいきも持ち合わせている。

 おそらく、家事を一人でこなし、『姉』の面倒をみているうちに、なにかを達観(たっかん)したような、落ち着いた雰囲気を身につけてしまったのだろう。

 ただそれは、『にわか仕込み』でしかない。

 大きな瞳の(うち)では子どものような好奇心をたぎらせているのだが、それを理性がたしなめているような、いかにも思春期といった感じのする中学二年生。

 大月さくら。

 彼女はいま、登校中に『寄り道』をしているところだった。

 とはいえ、別に遊んでいるわけではない。『自分たちで植えた田んぼ』に、なにか異常がないかどうかをチェックするために、見回りに来ているのだ。

「あ……、カモだ」

 呟き、さくらはそっとブレーキをかけ、自転車をとめた。

 田んぼの中、二羽のカモが水面を波打たせながら、優雅(ゆうが)に泳いでいるようだった。稲の間を、まるで迷路を楽しんでいるかのようにすいすいくぐっている様は、非常に愛らしい。

 ただ、カモたちも、遊んでいるというわけではないのだろう。

 ザリガニかなにかを狙っているのだ。目を光らせ、神経をとがらせているのが、気配で分かった。

「……ザリガニ、……か」

 さくらは目を細め、苦々しくつぶやいた。

 思い出してしまったのだ。

 つい先日。

 さくらが管理している田んぼの(へり)に、大きな穴が空いてしまったこと。豪快ごうかいに水漏れを起こしてしまったことを。

 ――犯人は、ザリガニだ。

 そういう習性があるのだろう。

 彼らは田んぼのなかで穴を掘り、身体を隠して息をひそめるのだ。そしてその穴は、たびたび水漏れの原因になってしまうことがある。穴をあけられてもすぐに気が付けばいいのだが、たまに、水の勢いによってはどんどん穴が拡大してしまい、たったの一日で水が空っぽになってしまうこともあるのだ。

 だからザリガニとは、さくら達にとっての天敵てんてきだ。

 そして、その天敵を食べてくれるカモが、いままさに、さくらたちの田んぼの中で『仕事』をしてくれているところなのだ。

 泳ぐ姿は愛らしく、もう少し観察していたかったのだが――、邪魔をしてしまわないように、さくらはこの場を離れることにした。

 自転車のペダルに力をこめながら、カモを応援する。

「カモさん、むしゃむしゃ、ザーリガニ」

 少々、残酷ざんこくな歌で。


 さくらは、裏門から中学校に入ることにした。

 ヤブラン、ヤツデ、アジサイなどといった日陰向ひかげむきの植物が、壁の裏側うらがわに植えられているような門を入っていくと――、

「うわっ!」

 驚き、ブレーキ。

 ぼんやりとしていたために直前まで気がつかなかった。

 門をくぐってすぐの場所――ど真ん中――に、青のジャージを着た、『巨人の先生』が立っていたのだ。

「……ん?」

 と彼は不思議そうにさくらを見た。

 身の丈は二メートル弱、筋肉質で、体重が百を超えている。

 ただそれだけでも物々しいのだが、短髪、太い眉毛、角ばったあご、大きくて男らしい目つきには、燃えるような眼光がんこうが常に宿っているような、豪傑(ごうけつ)

 四八歳になる体育教師、和田豪雷(わだごうらい)

 彼は門をくぐってすぐの場所。どことなく殺気立った雰囲気で、まるで学校を守るかのように仁王立ちで構えていた。

「――おはよう?」

 と彼は、腕を組んだままのポーズで挨拶した。

「え、あ、はい。おはようございます……」

 さくらは、まるで魂でも抜かれてしまったかのように、呆然としながら返事をした。

「大月さくらか。どうかしたか?」

「……えっと……どうかしたというか、和田先生こそ、どうかしたんですか?」

「俺か? 俺は別にどうもしていないぞ」

「……どうもしていないのに、こんなところにいるんですか?」

「これも仕事のうちだからな」

「……」

 いまいち会話がかみ合わない。

 和田豪雷わだごうらいは、それきり、視線をどこかへと向けた。

 遠くのほうを見つめはじめたのだが、その焦点は定まっていないようだ。

 ひょっとするとこの先生は寝ぼけているのかもしれない。――とは思うのだが、なにか、ただならぬ気配がある。

 やはり、なにかあったのだろう。

「あの……そうじゃなくて。おかしな事でもあったのかと思って」

「俺の頭が、か?」

「いえ……そうじゃなくて」

「ならいいが」

 ――だめだ、会話にならない。

 普段からこんなにバカっぽい先生だっけかな? とさくらは疑問になる。

 和田豪雷(わだごうらい)は、ふたたび視線をさくらへ向けた。きょとん、と不思議そうな顔つきだ。

 その反応に、ますます困惑顔になってしまったさくらは、しかし自転車のペダルを踏むことができない。

 その背中から、一台の自転車が入ってきた。

「あれ? おはようございます」

 三年生の、男子生徒だった。

 彼も、『門番』の存在は不思議に思ったようだったが、そのまま通り過ぎていく。

「おう、おはよう」

 と和田豪雷も挨拶を返した。

「……」

 なんとなくさくらは、逃げ出すタイミング――、というよりは、動き出すタイミングを逃してしまい、硬直。

 和田豪雷は、わずかに首をかしげた。

「ええと、大月さくら」

「……あ、はい」

「なにか俺に、用事か?」

「……あ、いえ。べつになにもないです。ただ、どうして和田先生がここに立っているのか……、『門番』みたいに立っているのか……不思議だったんです」

「門番。……門番か。なるほど。その通りだな」

「やっぱりなにか、問題でもあったんですよね?」

 と、さくらは断定したように訊いてみた。

「問題。 ……問題か。なんだっけな」真顔で言った。

 さくらの意識は、すーっ、と空に向かった。

 頭に浮かび上がるのは、疑問ばかり。

 ――なぜだろう。

 こんなに簡単な言葉のキャッチボールも出来ないのは、なぜだろう。どうして空は青いのだろう。どうして鳥は飛べるのだろう。どうしてカモはザリガニを食べるのだろう――、美味しいのかな?

 和田豪雷は、「あ」となにか思い出したように言う。

「いや、まだ具体的に問題が起きたわけではないんだ。ただ付近で、不審者の目撃情報があってな」

「ふ、不審者ですか?」

「この学校に侵入してくるつもりなら、投げ飛ばしてやろうと思っていたところだ」

「……へーそうなんですかー」

 さくらは、できるだけ関心がなさそうに答えた。

 関わるべきではないと思った。

 和田豪雷(わだごうらい)はいつだって頼もしいのだが、同時に物々しく、仰々しく、(おぞ)ましい。 そして、さくらはようやく気がついた。

 和田豪雷わだごうらいの瞳孔が開いている。焦点が定まっていないのではなくて、あえて、焦点をどこにも定めていないのだ。

 戦闘態勢せんとうたいせいの武士の瞳。というよりは、飢えた野獣やじゅうの瞳かもしれない。全神経を集中させてあたりの気配を探っているのだ。そしていつでも戦えるように、身体じゅうの筋肉という筋肉に、ドクドクと血を巡らせているのだ。

 だからきっと、会話にならなかったのだ。脳みそにまで血がいきわたっていないのだろう。

 要するに、

 ――ただのバカじゃない。筋肉バカなんだ。

 さくらは結論を出した。

 近くにいるだけで巻き添えを食って死ぬかもしれない。この男が理性を保っているうちに、この場を離れるべきだろう。

 前々から恐ろしい生き物だとは思っていたが、今日ばかりは近づくべきではないと思った。

 ただでさえ、全校生徒が恐れる男だ。

 伝説があるのだ。

 それは一年前の、授業中のことだった。

 学校の敷地のなかにバイクで、けたたましいエンジン音を鳴らしながら侵入してきた男がいた。彼は一人で、グラウンドを八の字運転をして、ドリフトをして、慣れたような手つきでハンドルをぎゅんぎゅん動かし、ぶおぶおとエンジンをふかし――、いわゆる暴走行為を行っていたのだが、

 やがて、職員室の窓から、弾丸のようなスピードで飛び出した男がいた。

 和田豪雷(わだごうらい)

 彼はなんと、慌てて逃げるバイクにダッシュで追いつき、男を引きずり下ろし、バイクを持ち上げ、そのままかついで校外こうがいへ出て行き、――川へと投げ捨てたのだ。

 さくらは教室の窓から、ぽかーんと口をあけて見ていた。

 開いた口が塞がらなかった。

 もしかすると和田豪雷(わだごうらい)は、なにか重いものでも持ちあげられるような『超能力』をもっているのではないか――、と、さくらは考えたのだが、そういうわけでもないようだった。

 彼は、あくまでも自力で――あくまでも筋肉で、バイクを持ち上げたのだ。

 あまりに異常。和田豪雷。

 あまりに非常識。和田轟雷。

 もはや、彼が二足歩行をしているのが不思議なくらいだった。

「そっ、それじゃあ私、急用を思いだしたので――」

 と、さくらは意味もなく言い訳をして、ペダルを力強く踏んだ。

「おう。気をつけろよ」

「はっ、はいい」

 さくらは元気よく答えた。

 ――なにが?

 とは言えなかった。



 ☆



「あっはははは――、はははは――、はははは――――」

 大月さくらのクラスメイトであり、隣の席でもある少女。

 (あおい)

 彼女はただでさえ、ちょっとしたことでも大笑いするような女子なのだが、今回もさくらが和田豪雷の『報告』をすると、お腹を抱えて、涙を流して、肩を痙攣(けいれん)させながら笑いはじめてしまった。

 八時三〇分。

 ホームルームがはじまるまでの、ひとときのいこい。

 ――にはならなかった。

 さくらの席とは、クラスのど真ん中にある。

 生徒の七割ほどが教室に集まっているのだが、その視線のほとんどが、中央にいるあおいへと向けられていた。誰もが「やれやれ」とでも言いたげな、生暖かい微笑びしょうをうかべていた。

 その視線に気がつき、さくらは少しだけ焦った。

「あ、あの……笑いすぎだよ。葵ちゃん。みんな見てるよ」

「いやあっ、ああもうっ、ごめんごめん」

 葵は、両腕をクロスさせてブラウスの端を握りしめ――なんとか我慢しようとしているのだろう――、ぎゅうっ、と力を込めながら、首だけを持ち上げた。

 大きな瞳からは、涙が流れていた。

 髪はさくらよりもやや長い。鎖骨(さこつ)のあたりまで伸ばし、この日はクリーム色のカチューシャをつけていた。

「だってさぁ。さーちゃん、朝っぱらから笑わしてくるんだもん」

「……私がなにかやらかしたみたいな言い方しないでよ」

 不服です。と言わんばかりに、さくらはねめつけた。

「いやいや、和田豪雷があの通りなのは、もちろん面白いんだけど、さーちゃんも意外と毒を吐くことがあるよねって思ってさ」

「えっ……、そ、そうかな? 毒なんて吐いたかな」

 なにを言ったのだろうか。

 もう思い出せない。

 もしかしたら、うっかりと変な独りごとを言ってしまったのかもしれない。さくらは決まりの悪い顔になり、口に手をあてた。

 脳裏のうりでよみがえるのは、中学一年生の、『毒舌・内田ゆり子』の姿。

 ――私、ゆり子ちゃんみたいな毒は、言わないと思うんだけどなぁ。

 と思うのと同時に、あ、カレーのお誘いをしなきゃ、ということを思い出した。

「いやぁ、お前、ときどきボソっとすごいこと言ってるぞ」

 と、すぐそばで男子生徒が呟いた。

 さくらのすぐ後ろの席。

 スポーツ刈りで、日焼けをした、中学生のわりにはそこそこ筋肉質な男。

 立浪(たつなみ)だ。

「いま、お前って言った……」

 さくらは、不満げに立浪を見た。

「あ、わりぃわりぃ」

 立浪たつなみは謝るが、悪びれた様子がない。ごまかすように「アハハ」と笑い、ワイシャツの間で腕を組んだ。

「それよりさぁ。不審者ってなんなんだろうな」

 と立浪が言うと、

「あ、もしかしたらあたし、知ってるかも」

 と、ようやく『発作ほっさ』の治まった葵が、人差し指で目尻をぬぐいながら返事をした。

 立浪が驚いたような顔つきで、

「えっ、そうなの? お前、不審者見たの?」

「あ、いまお前って言った」

「葵に言われるとムカつく!」

 立浪が、ぐっ、と拳を握るが、葵は無視して話を続ける。 

「あたしだって見たわけじゃないわよ。聞いた話なの」

「ふうん。なにを聞いたんだ?」

「それが『不審者』なのかどうかは分からないんだけどね。ただ、『銀色の鎧』が、小学校の近くを『猛ダッシュ』していたっていううわさがあったからさ」

 さくらが、ピクリ、と反応。

「へぇ、なんだか物騒だな。なんだよ鎧って」

「知らないわよ」

「刀とか、剣とかも持っていたのか?」

「うーん、分かんない」

 さくらは、そーっ、と顔をそむけた。

 黒板のあたりを見ながら、


 ――み、未来ちゃん、『あの鎧』で、外をうろついちゃだめだよおおおおっ……。


 胸中で、悲痛ひつうな叫び声を張りあげた。

「まぁあたしは、なにかの間違いだと思うけどね」と、葵が言い、

「ふうん? まぁそりゃそうだろ」と立浪も同意した。

 二人は関心がなさそうだった。

「あれ? さーちゃん、顔色悪いよ? どう――」

「なんでもないっ!」

 即答。

「……」

「……」

 さくらがあまりにも素早く返事をしたものだから、立浪、葵は、ぽかん、と口を丸くしてしまった。いくらなんでも不自然だっただろう。そんなことに気がついて、さくらはますます焦った。

「――あ、あの、――えっと、それより葵ちゃんにまた報告したいことがあって」

「報告?」

「うん。またハムスターの『賢太』が脱走しちゃったんだけど」

「あちゃー、またか」

 葵は、あはは、と笑った。

 話を逸らすためにも、さくらは内心で焦りながら説明を重ねる。

「ケージは、絶対にしっかりと閉まっていたはずなの。だからたぶん、葵ちゃんがこの前言ったように、自力で『ぼかーん』ってこじ開けちゃったのかもしれないんだけどね。おねえちゃんも未来ちゃんも、『そんなわけないじゃーん』って信じてくれなくて――」

「――あっ、未来ちゃん!」

 と、葵が声を大きくして反応した。

「あの子、いま泊りに来ているの?」

「そうそう! 泊りに来ているところなの。もう可愛くて可愛くて、家に帰るのが楽しみで」

 あっというまに話が逸れた。

「だよねー可愛いよねぇ。なんかもう、いかにも薄幸(はっこう)の美少女って感じでさあ」

「そうなんだよね。なにをするにも一生懸命っていうか」

「そうそう。あの子ってなにをやらせていても、健気けなげっていうか、いじらしく見えてくるから不思議なんだよねぇ。なんでだろう」

「今朝なんかね、私より早起きして――」

 さくらは両手を合わせ、満面に喜色きしょくを浮かべて喋りだした。

 葵も、興味深そうに話をうながした。

 話はみるみる脱線していくが、すでに『話を逸らす』という目的も、さくらの頭の中からは綺麗さっぱりなくなっていた。

「――ああ、さーちゃんち遊びに行きたいなぁ。ハムスターも気になるし」

「ねえ葵ちゃん、だったら今日の放課後、ぜひ遊びに来てよ。もう一人、一年生の女の子も誘うつもりでいるんだけど。みんなでカレーを作って食べようって思っているの」

「ああ……行きたい……、行きたいけどあああ……」

 葵ちゃんはいかにもくやしそうな顔つきで頭を抱え、そのまま机に突っ伏した。がたんっ、と音が出るほどの勢いだった。

 そして、「ううう……」とうなる。

「ど、どうかしたの?」

「……あたしね、今日、兄貴にご飯誘われちゃったから、……行けないの」と泣きそうな声で言った。

 葵の、兄貴。

 そういえば歳の離れたお兄さんがいたっけな、とさくらは思い出した。

 たしか大学生だ。大阪のほうに出ていると言っていたかもしれない。大学生といえばこの時期は夏休みだ。今日は七月五日。なるほど。きっと兄は、久しぶりに家に帰って来ているところなのだろう。

「そうか。あおいちゃんのお兄さん、帰って来ているんだ?」

「うん……。そうなの」

 葵は、机に突っ伏したまま悲しげに答えた。

「でも未来ちゃんは、あと二日間くらいはうちに泊まっていると思うし、たとえ泊まっていないとしても、家だって近いんだから、いつだって会えるし」

 さくらが伝えると、葵は首を、くるっ、と動かして顔を向けた。

 微妙に涙目だった。

「……明日。明日は水曜か。行く。絶対行く。死んでも行くから。嫌って言っても行くから」

 と、静かだが迫力のある口調で訴えた。

 さくらは、あはは、と曖昧あいまいに笑った。

「未来ちゃん。か……」

 立浪が、ボソッと言った。

 すると葵が、むくり、と身体を起こして立浪を見た。

「そういやあんた、未来ちゃんの事、知らなかったっけ?」

「ん? 少しは知ってるよ。さくらの口から聞いた程度だが」

「あんたも一度は会っておいたほうがいいわよ。もうっ、超っ! かわいいから。――でも、手を出したらいろいろな意味で『さばかれる』と思うから、そのへんは覚悟しておいたほうがいい」

「へー……なんだろう。さばかれるって。ちなみに誰に?」

 立浪は棒読みするときの口調で言った。

 さくらも、きょとん、としてしまったが、葵は脅すように低いトーンの声で、

「……そりゃあさ……、『社会的』に裁かれるのは当然のこととして、そのあと絶対、『さーちゃん』が……、自分の家のキッチンから、刃渡はわたり三〇センチの――」

「ちょ、ちょっと葵ちゃん! 私、そんなことしないよ!」

「じゃあさ、もし立浪が、未来ちゃんに魔手ましゅを伸ばしたら、さーちゃんは黙っているの?」

「えっ」

「想像してごらんよ」

「……」

 さくらは沈黙。

 虚空こくうにらみ、なにかを想像する。

 やがてその表情からは、温度が、すーっと消えた。同時に、その瞳には底冷そこびえのするような眼光が、静かに宿った。

 それを見た立浪が「ひっ」と怯えた声を出す。

「お、おいおいおい、ちょっとさくら、なんでおっかない顔をして黙るんだよ! っていうか俺は手なんかださねえよっ! だいたい俺の好みは年上で――」

 立浪が焦って弁明べんめいした。

 すると葵が噴きだして、さくらはハッと我にかえった。

「と、とにかく俺、さくらの親戚しんせきだかなんだかに手を出すなんて、ありえないからな!」

「へいへい、大丈夫だよ必死にならなくても。あとその子、親戚っていうわけじゃないから」

「あ、あれ? そうなのか?」

「そうなのよ。ね、さーちゃん」

「うん。親戚じゃないよ。あのね――」

 不思議そうな顔をする立浪に、さくらは説明した。

 未来ちゃんには親がいない。

 そして、四歳年上のお姉さんと一緒に、近所の『公民館』に引っ越しをしてきて、そこで暮らしている。さくらと未来ちゃんとの関係は、ただのご近所さんでしかないのだが、姉妹とまったく変わらないくらいに仲良しだ。

「――あぁ、なるほどな」と立浪は納得したように言う。「つまりあれか、未来ちゃんって孤児みなしごだったのか」

 すると、あおいが目を鋭くした。

 拳で、立浪の机をコンコンと叩いて指摘してきする。

「あんた。もうちょっと言葉を選びなさいよ。このとうへんぼく」

「あ……ああ、スマン……。悪気はないんだ」

 バツの悪い顔で立浪が頭を下げ、さくらは不思議そうに首をかしげた。

「ううん? べつに。いまは違うし」

 正直なところさくらには、立浪の発言にどんな問題があったのかは分からなかった。

「……えっと、あのね」とさくらが説明をつけたす。

「近所の『勇作さん』っていう人が、未来ちゃん姉妹の面倒をよく見てくれているし、その人は父親っていう訳ではないけど、でも父親代わりみたいな感じだし。――それに、最近思ったの。未来ちゃんは私の家族も同然だから。いまは孤児なんかじゃないよ?」

 さくらは、立浪に対してなにかフォローをしようとするのだが、言葉はうまくまとまらなかった。

 しかし、言わんとしていることは通じたらしい。

 立浪は安心したような顔つきになった。

「そうか。とにかくよかったよ。未来ちゃんは、お前みたいな『良い奴』と仲良くなれたんだからな」

「……またお前って言った」

「ああもうっ」と立浪が苦笑して言う。「さくらの怒りどころがわかんねーよ」

「確かにね」

 と、葵も同意して笑った。

 二人は顔を合わせて笑うのだが、さくらだけが、きょとん、とおかしな顔を浮かべてしまった。

 頭の中では、ただ疑問ぎもん

 ――それを言うならば、立浪くんの謝りどころも分からなかったんだけど……。

 口には出さないように気をつけて、さくらは胸中で呟いた。

 たしかに未来ちゃんは、大変な目にあってしまったことだけは間違いない。

 未来ちゃん姉妹は、たった一人の父親に面倒をみてもらってきたらしいのだが、その父親の死後、一時的にとはいえ、本当の意味で孤児になってしまったのだ。

 きっと、親戚などのような引き取り先がいなかったのだろう。

 だからこそ、勇作が引き取ったのだ。きっと彼と『父親』との間には、なにかしらゆかりがあったはずであり、そして勇作は、姉妹を『公民館』に住まわせて――、

「あれ?」

 と疑問が、さくらの口をついて出た。

「ん? どしたの?」

 と葵が反応した。

 さくらは顔を向け、疑問を口にする。

「……いや、なんとなく。そもそもどうして未来ちゃん姉妹は、勇作さんの家とか、そういうところじゃなくって『公民館に』住んでいるんだろうなぁ、って。いまさらだけど気になったから。」

「あ、それ」と葵は、ちょっとだけ得意げな顔になって言う。

「それに関しては、中学校じゃ勉強しないもん」

「え? そうなの? 葵ちゃんは知っているの?」

「あたしは兄貴と話をしているうちに覚えたんだけどね。ええと、あたしらの学校が、ただの『教育現場』じゃないってことはだいたい知っているよね?」

「あー、うん。自信ないかな……」とさくらは、(しぼ)んだ声をだす。

 なぜかますます葵は、得意げな顔つきになった。

「話がずいぶん寄り道しちゃうんだけどね、まず――」と説明をはじめた。

 まず、『学校』について。

 そもそも小・中学校とは、子どもたちがなにか「心理的」、「肉体的」、「社会的」な苦しみを抱えていないかどうかを常にチェックし、なにか問題があれば親身しんみになって寄りそい、解決策を一緒になって探すべきである――、という基本理念(きほんりねん)をもとに機能している。

 具体的ぐたいてきになにをしているのかと一つ例を挙げれば、学校への宿泊しゅくはくが可能だということだ。

 この中学校も、許可きょかを出せば、簡単に宿泊しゅくはくすることが出来てしまうし、そのための部屋も用意されている。また学校には、誰かしらの先生が必ず『常在じょうざい』しているし、夜でも門は開けっ放しになっている。

 学校は、二四時間、『駆け込み相談所そうだんじょ』として機能しているのだ。

 お手軽な避難所ひなんじょである。

 この、『手軽』というところがなにより重要であるらしい。

 つまり子どもたちは、「ぼくたちには逃げ場所があるんだ」という安心感を得られることになるのだ。

 逃げる場所が存在している。いつでも自分の見方をしてくれる大人が存在している。そういった実感が、子ども達には必要らしいのだ。

 具体的には、非行ひこうを未然に防いだり、トラブルの早期発見につながっているようだった。

 たとえば、些細ささいなことで親と喧嘩をして、ひと晩だけ学校に逃げてくる生徒もいるのだが、そんな小さな出来事であっても、先生たちは目を光らせ、子ども達の身の回りにトラブルがないかどうかをチェックする。

 もちろん、根ほり葉ほりいてくるような真似はしないのだが、生徒が必要とあらば、先生たち――大人たちは、どこまでも親身しんみになって相談にのってくれるような姿勢でいる。


「えっ、……そうなの?」


 と、説明の途中だったが、立浪が驚いた声をあげた。

「俺さ、とーちゃんに派手に怒られたことがあって、夕方に家から放り出されたことがあったんだよ。そんときに小学校に逃げ込んだんだけどさぁ……」

「あー、あんたの父親、怖いもんねぇ」

「だろ?」と立浪は引きつった顔をして言う。「結局、学校の飯も美味かったしベッドも気持ちよかったから、朝まで眠っちゃったんだけどさ。学校にそんなもくろみがあったなんて、知らなかったよ……。俺、監視かんしされていたのかな?」

「なによ、もくろみとか、監視とか」

 と葵は、苦笑しながらつけ加える。

「あくまでも学校は、生徒達にとって身近な場所だっていうことだよ。それ以上は深く考えなくていいと思うよ? でも、それだけじゃなくてね――」

 それだけではなく小・中学校は、親が亡くなってしまった子どもの『受け入れ先』としても、機能しているのだ。

 つまり、学校自体が、『児童養護施設(じどうようごしせつ)』として子どもたちを受け入れている、ということだ。

 ただ、それはあくまでも最終手段であるようだ。

 親が亡くなり、親戚などでも受け入れ先が見つからない子どもが現れると、まずは近辺の『公民館こうみんかん』が受け入れ候補地として上がる。

 近所に住んでいる人たちが、みんなで面倒をみようとするためだ。――だが、近くに適切な候補地こうほちが見つからない場合、子ども達は『学校』に直接預けられるのだ。

「あぁ……」

 と、立浪は感心かんしんしたように言う。

 背もたれに体重を預けて、腕を組み、ぼんやりと天井を見ながら――、

「そういや、この中学校にも、『保護』されて住んでいる女の子がいたっけな」

「あ……うん……。まあ、……そうね。こういう形で話題にしちゃうのは、よくないと思うんだけどね……」

 葵は、声のトーンを落として言った。

 ここまでハキハキと説明しておきながら、急に気まずくなってしまったらしい。葵は、決まりの悪い顔で後頭部に手をあてて、

「あー……、まあ、『学校』って、そういう感じになっているし、『公民館』もそういう風に機能しているのよ。それをさーちゃんに説明しようとしたんだけど。……ごめん。話はここまで」

 と、なぜか、あおいは泣きそうな顔になって、両手を、パチン、と合わせた。

 ごめんなさいをするときのポーズ。

「へっ?」

 それまで、完全に聞き入っていたさくらが、いきなりの変化に動揺どうようした。

「……葵ちゃん、ど、どうして謝るの?」

「あたし、なんだか自慢げに喋っちゃったけど、こういう話って、あんまりすべきじゃないよね? 少なくともこの学校にだって、そういうふうにして『住んでいる女の子』がいるんだもん」

「……あ……でも、私は全然しらないことばっかりで、ためになったよ。それに、未来ちゃんに関わることを知ることができたから、よかったよ。教えてくれてありがとう」

「うーん。そうかぁ」

 葵は、手は合わせたままのポーズで、なんとなく納得できないのか、首をかたむけた。

「そうそう。そうだよ」とさくらが言い、

「うんうん。そうだよ。葵ちゃん、きにするな」と立浪が続けた。

「……なんでだろう。あんたに『ちゃん』ってつけられると、なんとなくバカにされたきがする……」

 葵が、すーっと目を細めて言うと、

 立浪は、かっ、と両目を見開き、わざとらしくも驚いたような顔つきになり――、

「い、いま、あんたって言ったわね!」

 と、気持ち悪い感じの声を出した。

 葵は、無視。

「あ、さーちゃん、最初の授業ってなんだっけ」と言いながら顔を向け、

「数学だよ?」とさくらが答えてやった。

「……」

 丁度、チャイムがなった。

 ホームルームを告げる鐘の音だ。

 しばらく会話に夢中になっているうちに、二年二組は全員が集まっていた。それぞれの生徒が、おのおの着席しはじめた。

 さくらも前を向きなおり、壁の時計を、ちら、と見る。

 八時五〇分。

 机の隣にかけてあるかばんの中をごそごそとあさり、冷たいお茶の入ったボトルをとり出した。ずいぶんと喋ってしまったため、のどが渇いてしまったのだ。ボトルは、そのまま口をつけて飲めるタイプのものだった。かたむけて、こくこくこく、と三口飲む。

 隣を見やれば、同様どうように喉が渇いてしまったのだろう、あおいもペットボトルの炭酸飲料を一気飲みしているところだった。やがて「ぷはっ」と、気持ちよさそうな声をだす。

 そこに担任が現れたのだが――、

「あれ、なんか忘れちゃいけないことがあったような……」

 とさくらがつぶやいた。

「うん? どした?」と葵が反応。

「なんだっけな。大事なことなんだけど」

和田豪雷(わだごうらい)のこと?」

「ううん、ちがうかな……、あ、でも思い出した。私、放課後までに、一年生の『ゆり子ちゃん』に、絶対に、会わなくちゃいけないんだ」

「手のこうにでもメモしておいたら?」

「うん。そうする。ありがと」

「どういたしまして」

 顔を見合わせて笑っていると、担任が喋りはじめた。


 二人のすぐ後ろ。

 泣きそうな瞳で、天井を見ている男子生徒がいた。

 

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