3話 もう笑うしかありません その2
西暦に換算して、三五〇〇年。
奈良県、桜井市には広大な田んぼが広がっていた。
七月五日。
今朝は、すっきりとした梅雨晴れだった。
空は高く、雲は呑気にもぷかぷかと浮いている。
田んぼで青々と伸びる稲たちは、膝の高さにまで成長しているようだった。
太陽に照らされた水面が、鏡のように澄んだ光を反射させ、夜露をあびた稲葉がキラキラと光る。
南のほうから風が吹きつけると、サラサラと音を立てながら、稲葉に波紋が広がった。
風を遮るものは何もない。
わずかに泥の匂いが混じる白南風が、どこまでもどこまでも駆けぬけていく。早くも桜井市には、梅雨明けの兆しがあらわれているようだった。
その、涼やかな田園地帯のどまんなか。
小川と、田んぼに挟まれた細いアスファルト。
一人の少女が自転車を走らせていた。
肩にギリギリ触れる程度のミドルヘアには、真っ白のヘルメットを装着している。ブラウス、膝丈のスカート、真っ白の運動靴はどれも清潔感があり、少女の内面を映し出すかのように瑞々しい姿だ。
彼女の顔つきにはどことなく学童期の名残があるのだが、同時に、大人びた雰囲気も持ち合わせている。
おそらく、家事を一人でこなし、『姉』の面倒をみているうちに、なにかを達観したような、落ち着いた雰囲気を身につけてしまったのだろう。
ただそれは、『にわか仕込み』でしかない。
大きな瞳の裡では子どものような好奇心をたぎらせているのだが、それを理性がたしなめているような、いかにも思春期といった感じのする中学二年生。
大月さくら。
彼女はいま、登校中に『寄り道』をしているところだった。
とはいえ、別に遊んでいるわけではない。『自分たちで植えた田んぼ』に、なにか異常がないかどうかをチェックするために、見回りに来ているのだ。
「あ……、カモだ」
呟き、さくらはそっとブレーキをかけ、自転車をとめた。
田んぼの中、二羽のカモが水面を波打たせながら、優雅に泳いでいるようだった。稲の間を、まるで迷路を楽しんでいるかのようにすいすいくぐっている様は、非常に愛らしい。
ただ、カモたちも、遊んでいるというわけではないのだろう。
ザリガニかなにかを狙っているのだ。目を光らせ、神経をとがらせているのが、気配で分かった。
「……ザリガニ、……か」
さくらは目を細め、苦々しくつぶやいた。
思い出してしまったのだ。
つい先日。
さくらが管理している田んぼの縁に、大きな穴が空いてしまったこと。豪快に水漏れを起こしてしまったことを。
――犯人は、ザリガニだ。
そういう習性があるのだろう。
彼らは田んぼのなかで穴を掘り、身体を隠して息をひそめるのだ。そしてその穴は、たびたび水漏れの原因になってしまうことがある。穴をあけられてもすぐに気が付けばいいのだが、たまに、水の勢いによってはどんどん穴が拡大してしまい、たったの一日で水が空っぽになってしまうこともあるのだ。
だからザリガニとは、さくら達にとっての天敵だ。
そして、その天敵を食べてくれるカモが、いままさに、さくらたちの田んぼの中で『仕事』をしてくれているところなのだ。
泳ぐ姿は愛らしく、もう少し観察していたかったのだが――、邪魔をしてしまわないように、さくらはこの場を離れることにした。
自転車のペダルに力をこめながら、カモを応援する。
「カモさん、むしゃむしゃ、ザーリガニ」
少々、残酷な歌で。
さくらは、裏門から中学校に入ることにした。
ヤブラン、ヤツデ、アジサイなどといった日陰向きの植物が、壁の裏側に植えられているような門を入っていくと――、
「うわっ!」
驚き、ブレーキ。
ぼんやりとしていたために直前まで気がつかなかった。
門をくぐってすぐの場所――ど真ん中――に、青のジャージを着た、『巨人の先生』が立っていたのだ。
「……ん?」
と彼は不思議そうにさくらを見た。
身の丈は二メートル弱、筋肉質で、体重が百を超えている。
ただそれだけでも物々しいのだが、短髪、太い眉毛、角ばったあご、大きくて男らしい目つきには、燃えるような眼光が常に宿っているような、豪傑。
四八歳になる体育教師、和田豪雷。
彼は門をくぐってすぐの場所。どことなく殺気立った雰囲気で、まるで学校を守るかのように仁王立ちで構えていた。
「――おはよう?」
と彼は、腕を組んだままのポーズで挨拶した。
「え、あ、はい。おはようございます……」
さくらは、まるで魂でも抜かれてしまったかのように、呆然としながら返事をした。
「大月さくらか。どうかしたか?」
「……えっと……どうかしたというか、和田先生こそ、どうかしたんですか?」
「俺か? 俺は別にどうもしていないぞ」
「……どうもしていないのに、こんなところにいるんですか?」
「これも仕事のうちだからな」
「……」
いまいち会話がかみ合わない。
和田豪雷は、それきり、視線をどこかへと向けた。
遠くのほうを見つめはじめたのだが、その焦点は定まっていないようだ。
ひょっとするとこの先生は寝ぼけているのかもしれない。――とは思うのだが、なにか、ただならぬ気配がある。
やはり、なにかあったのだろう。
「あの……そうじゃなくて。おかしな事でもあったのかと思って」
「俺の頭が、か?」
「いえ……そうじゃなくて」
「ならいいが」
――だめだ、会話にならない。
普段からこんなにバカっぽい先生だっけかな? とさくらは疑問になる。
和田豪雷は、ふたたび視線をさくらへ向けた。きょとん、と不思議そうな顔つきだ。
その反応に、ますます困惑顔になってしまったさくらは、しかし自転車のペダルを踏むことができない。
その背中から、一台の自転車が入ってきた。
「あれ? おはようございます」
三年生の、男子生徒だった。
彼も、『門番』の存在は不思議に思ったようだったが、そのまま通り過ぎていく。
「おう、おはよう」
と和田豪雷も挨拶を返した。
「……」
なんとなくさくらは、逃げ出すタイミング――、というよりは、動き出すタイミングを逃してしまい、硬直。
和田豪雷は、わずかに首をかしげた。
「ええと、大月さくら」
「……あ、はい」
「なにか俺に、用事か?」
「……あ、いえ。べつになにもないです。ただ、どうして和田先生がここに立っているのか……、『門番』みたいに立っているのか……不思議だったんです」
「門番。……門番か。なるほど。その通りだな」
「やっぱりなにか、問題でもあったんですよね?」
と、さくらは断定したように訊いてみた。
「問題。 ……問題か。なんだっけな」真顔で言った。
さくらの意識は、すーっ、と空に向かった。
頭に浮かび上がるのは、疑問ばかり。
――なぜだろう。
こんなに簡単な言葉のキャッチボールも出来ないのは、なぜだろう。どうして空は青いのだろう。どうして鳥は飛べるのだろう。どうしてカモはザリガニを食べるのだろう――、美味しいのかな?
和田豪雷は、「あ」となにか思い出したように言う。
「いや、まだ具体的に問題が起きたわけではないんだ。ただ付近で、不審者の目撃情報があってな」
「ふ、不審者ですか?」
「この学校に侵入してくるつもりなら、投げ飛ばしてやろうと思っていたところだ」
「……へーそうなんですかー」
さくらは、できるだけ関心がなさそうに答えた。
関わるべきではないと思った。
和田豪雷はいつだって頼もしいのだが、同時に物々しく、仰々しく、悍ましい。 そして、さくらはようやく気がついた。
和田豪雷の瞳孔が開いている。焦点が定まっていないのではなくて、あえて、焦点をどこにも定めていないのだ。
戦闘態勢の武士の瞳。というよりは、飢えた野獣の瞳かもしれない。全神経を集中させてあたりの気配を探っているのだ。そしていつでも戦えるように、身体じゅうの筋肉という筋肉に、ドクドクと血を巡らせているのだ。
だからきっと、会話にならなかったのだ。脳みそにまで血がいきわたっていないのだろう。
要するに、
――ただのバカじゃない。筋肉バカなんだ。
さくらは結論を出した。
近くにいるだけで巻き添えを食って死ぬかもしれない。この男が理性を保っているうちに、この場を離れるべきだろう。
前々から恐ろしい生き物だとは思っていたが、今日ばかりは近づくべきではないと思った。
ただでさえ、全校生徒が恐れる男だ。
伝説があるのだ。
それは一年前の、授業中のことだった。
学校の敷地のなかにバイクで、けたたましいエンジン音を鳴らしながら侵入してきた男がいた。彼は一人で、グラウンドを八の字運転をして、ドリフトをして、慣れたような手つきでハンドルをぎゅんぎゅん動かし、ぶおぶおとエンジンをふかし――、いわゆる暴走行為を行っていたのだが、
やがて、職員室の窓から、弾丸のようなスピードで飛び出した男がいた。
和田豪雷。
彼はなんと、慌てて逃げるバイクにダッシュで追いつき、男を引きずり下ろし、バイクを持ち上げ、そのまま担いで校外へ出て行き、――川へと投げ捨てたのだ。
さくらは教室の窓から、ぽかーんと口をあけて見ていた。
開いた口が塞がらなかった。
もしかすると和田豪雷は、なにか重いものでも持ちあげられるような『超能力』をもっているのではないか――、と、さくらは考えたのだが、そういうわけでもないようだった。
彼は、あくまでも自力で――あくまでも筋肉で、バイクを持ち上げたのだ。
あまりに異常。和田豪雷。
あまりに非常識。和田轟雷。
もはや、彼が二足歩行をしているのが不思議なくらいだった。
「そっ、それじゃあ私、急用を思いだしたので――」
と、さくらは意味もなく言い訳をして、ペダルを力強く踏んだ。
「おう。気をつけろよ」
「はっ、はいい」
さくらは元気よく答えた。
――なにが?
とは言えなかった。
☆
「あっはははは――、はははは――、はははは――――」
大月さくらのクラスメイトであり、隣の席でもある少女。
葵。
彼女はただでさえ、ちょっとしたことでも大笑いするような女子なのだが、今回もさくらが和田豪雷の『報告』をすると、お腹を抱えて、涙を流して、肩を痙攣させながら笑いはじめてしまった。
八時三〇分。
ホームルームがはじまるまでの、ひとときの憩い。
――にはならなかった。
さくらの席とは、クラスのど真ん中にある。
生徒の七割ほどが教室に集まっているのだが、その視線のほとんどが、中央にいる葵へと向けられていた。誰もが「やれやれ」とでも言いたげな、生暖かい微笑をうかべていた。
その視線に気がつき、さくらは少しだけ焦った。
「あ、あの……笑いすぎだよ。葵ちゃん。みんな見てるよ」
「いやあっ、ああもうっ、ごめんごめん」
葵は、両腕をクロスさせてブラウスの端を握りしめ――なんとか我慢しようとしているのだろう――、ぎゅうっ、と力を込めながら、首だけを持ち上げた。
大きな瞳からは、涙が流れていた。
髪はさくらよりもやや長い。鎖骨のあたりまで伸ばし、この日はクリーム色のカチューシャをつけていた。
「だってさぁ。さーちゃん、朝っぱらから笑わしてくるんだもん」
「……私がなにかやらかしたみたいな言い方しないでよ」
不服です。と言わんばかりに、さくらはねめつけた。
「いやいや、和田豪雷があの通りなのは、もちろん面白いんだけど、さーちゃんも意外と毒を吐くことがあるよねって思ってさ」
「えっ……、そ、そうかな? 毒なんて吐いたかな」
なにを言ったのだろうか。
もう思い出せない。
もしかしたら、うっかりと変な独りごとを言ってしまったのかもしれない。さくらは決まりの悪い顔になり、口に手をあてた。
脳裏でよみがえるのは、中学一年生の、『毒舌・内田ゆり子』の姿。
――私、ゆり子ちゃんみたいな毒は、言わないと思うんだけどなぁ。
と思うのと同時に、あ、カレーのお誘いをしなきゃ、ということを思い出した。
「いやぁ、お前、ときどきボソっとすごいこと言ってるぞ」
と、すぐそばで男子生徒が呟いた。
さくらのすぐ後ろの席。
スポーツ刈りで、日焼けをした、中学生のわりにはそこそこ筋肉質な男。
立浪だ。
「いま、お前って言った……」
さくらは、不満げに立浪を見た。
「あ、わりぃわりぃ」
立浪は謝るが、悪びれた様子がない。ごまかすように「アハハ」と笑い、ワイシャツの間で腕を組んだ。
「それよりさぁ。不審者ってなんなんだろうな」
と立浪が言うと、
「あ、もしかしたらあたし、知ってるかも」
と、ようやく『発作』の治まった葵が、人差し指で目尻をぬぐいながら返事をした。
立浪が驚いたような顔つきで、
「えっ、そうなの? お前、不審者見たの?」
「あ、いまお前って言った」
「葵に言われるとムカつく!」
立浪が、ぐっ、と拳を握るが、葵は無視して話を続ける。
「あたしだって見たわけじゃないわよ。聞いた話なの」
「ふうん。なにを聞いたんだ?」
「それが『不審者』なのかどうかは分からないんだけどね。ただ、『銀色の鎧』が、小学校の近くを『猛ダッシュ』していたっていう噂があったからさ」
さくらが、ピクリ、と反応。
「へぇ、なんだか物騒だな。なんだよ鎧って」
「知らないわよ」
「刀とか、剣とかも持っていたのか?」
「うーん、分かんない」
さくらは、そーっ、と顔をそむけた。
黒板のあたりを見ながら、
――み、未来ちゃん、『あの鎧』で、外をうろついちゃだめだよおおおおっ……。
胸中で、悲痛な叫び声を張りあげた。
「まぁあたしは、なにかの間違いだと思うけどね」と、葵が言い、
「ふうん? まぁそりゃそうだろ」と立浪も同意した。
二人は関心がなさそうだった。
「あれ? さーちゃん、顔色悪いよ? どう――」
「なんでもないっ!」
即答。
「……」
「……」
さくらがあまりにも素早く返事をしたものだから、立浪、葵は、ぽかん、と口を丸くしてしまった。いくらなんでも不自然だっただろう。そんなことに気がついて、さくらはますます焦った。
「――あ、あの、――えっと、それより葵ちゃんにまた報告したいことがあって」
「報告?」
「うん。またハムスターの『賢太』が脱走しちゃったんだけど」
「あちゃー、またか」
葵は、あはは、と笑った。
話を逸らすためにも、さくらは内心で焦りながら説明を重ねる。
「ケージは、絶対にしっかりと閉まっていたはずなの。だからたぶん、葵ちゃんがこの前言ったように、自力で『ぼかーん』ってこじ開けちゃったのかもしれないんだけどね。おねえちゃんも未来ちゃんも、『そんなわけないじゃーん』って信じてくれなくて――」
「――あっ、未来ちゃん!」
と、葵が声を大きくして反応した。
「あの子、いま泊りに来ているの?」
「そうそう! 泊りに来ているところなの。もう可愛くて可愛くて、家に帰るのが楽しみで」
あっというまに話が逸れた。
「だよねー可愛いよねぇ。なんかもう、いかにも薄幸の美少女って感じでさあ」
「そうなんだよね。なにをするにも一生懸命っていうか」
「そうそう。あの子ってなにをやらせていても、健気っていうか、いじらしく見えてくるから不思議なんだよねぇ。なんでだろう」
「今朝なんかね、私より早起きして――」
さくらは両手を合わせ、満面に喜色を浮かべて喋りだした。
葵も、興味深そうに話をうながした。
話はみるみる脱線していくが、すでに『話を逸らす』という目的も、さくらの頭の中からは綺麗さっぱりなくなっていた。
「――ああ、さーちゃんち遊びに行きたいなぁ。ハムスターも気になるし」
「ねえ葵ちゃん、だったら今日の放課後、ぜひ遊びに来てよ。もう一人、一年生の女の子も誘うつもりでいるんだけど。みんなでカレーを作って食べようって思っているの」
「ああ……行きたい……、行きたいけどあああ……」
葵ちゃんはいかにも悔しそうな顔つきで頭を抱え、そのまま机に突っ伏した。がたんっ、と音が出るほどの勢いだった。
そして、「ううう……」と呻る。
「ど、どうかしたの?」
「……あたしね、今日、兄貴にご飯誘われちゃったから、……行けないの」と泣きそうな声で言った。
葵の、兄貴。
そういえば歳の離れたお兄さんがいたっけな、とさくらは思い出した。
たしか大学生だ。大阪のほうに出ていると言っていたかもしれない。大学生といえばこの時期は夏休みだ。今日は七月五日。なるほど。きっと兄は、久しぶりに家に帰って来ているところなのだろう。
「そうか。葵ちゃんのお兄さん、帰って来ているんだ?」
「うん……。そうなの」
葵は、机に突っ伏したまま悲しげに答えた。
「でも未来ちゃんは、あと二日間くらいはうちに泊まっていると思うし、たとえ泊まっていないとしても、家だって近いんだから、いつだって会えるし」
さくらが伝えると、葵は首を、くるっ、と動かして顔を向けた。
微妙に涙目だった。
「……明日。明日は水曜か。行く。絶対行く。死んでも行くから。嫌って言っても行くから」
と、静かだが迫力のある口調で訴えた。
さくらは、あはは、と曖昧に笑った。
「未来ちゃん。か……」
立浪が、ボソッと言った。
すると葵が、むくり、と身体を起こして立浪を見た。
「そういやあんた、未来ちゃんの事、知らなかったっけ?」
「ん? 少しは知ってるよ。さくらの口から聞いた程度だが」
「あんたも一度は会っておいたほうがいいわよ。もうっ、超っ! かわいいから。――でも、手を出したらいろいろな意味で『さばかれる』と思うから、そのへんは覚悟しておいたほうがいい」
「へー……なんだろう。さばかれるって。ちなみに誰に?」
立浪は棒読みするときの口調で言った。
さくらも、きょとん、としてしまったが、葵は脅すように低いトーンの声で、
「……そりゃあさ……、『社会的』に裁かれるのは当然のこととして、そのあと絶対、『さーちゃん』が……、自分の家のキッチンから、刃渡り三〇センチの――」
「ちょ、ちょっと葵ちゃん! 私、そんなことしないよ!」
「じゃあさ、もし立浪が、未来ちゃんに魔手を伸ばしたら、さーちゃんは黙っているの?」
「えっ」
「想像してごらんよ」
「……」
さくらは沈黙。
虚空を睨み、なにかを想像する。
やがてその表情からは、温度が、すーっと消えた。同時に、その瞳には底冷えのするような眼光が、静かに宿った。
それを見た立浪が「ひっ」と怯えた声を出す。
「お、おいおいおい、ちょっとさくら、なんでおっかない顔をして黙るんだよ! っていうか俺は手なんかださねえよっ! だいたい俺の好みは年上で――」
立浪が焦って弁明した。
すると葵が噴きだして、さくらはハッと我にかえった。
「と、とにかく俺、さくらの親戚だかなんだかに手を出すなんて、ありえないからな!」
「へいへい、大丈夫だよ必死にならなくても。あとその子、親戚っていうわけじゃないから」
「あ、あれ? そうなのか?」
「そうなのよ。ね、さーちゃん」
「うん。親戚じゃないよ。あのね――」
不思議そうな顔をする立浪に、さくらは説明した。
未来ちゃんには親がいない。
そして、四歳年上のお姉さんと一緒に、近所の『公民館』に引っ越しをしてきて、そこで暮らしている。さくらと未来ちゃんとの関係は、ただのご近所さんでしかないのだが、姉妹とまったく変わらないくらいに仲良しだ。
「――あぁ、なるほどな」と立浪は納得したように言う。「つまりあれか、未来ちゃんって孤児だったのか」
すると、葵が目を鋭くした。
拳で、立浪の机をコンコンと叩いて指摘する。
「あんた。もうちょっと言葉を選びなさいよ。このとうへんぼく」
「あ……ああ、スマン……。悪気はないんだ」
バツの悪い顔で立浪が頭を下げ、さくらは不思議そうに首をかしげた。
「ううん? べつに。いまは違うし」
正直なところさくらには、立浪の発言にどんな問題があったのかは分からなかった。
「……えっと、あのね」とさくらが説明をつけたす。
「近所の『勇作さん』っていう人が、未来ちゃん姉妹の面倒をよく見てくれているし、その人は父親っていう訳ではないけど、でも父親代わりみたいな感じだし。――それに、最近思ったの。未来ちゃんは私の家族も同然だから。いまは孤児なんかじゃないよ?」
さくらは、立浪に対してなにかフォローをしようとするのだが、言葉はうまくまとまらなかった。
しかし、言わんとしていることは通じたらしい。
立浪は安心したような顔つきになった。
「そうか。とにかくよかったよ。未来ちゃんは、お前みたいな『良い奴』と仲良くなれたんだからな」
「……またお前って言った」
「ああもうっ」と立浪が苦笑して言う。「さくらの怒りどころがわかんねーよ」
「確かにね」
と、葵も同意して笑った。
二人は顔を合わせて笑うのだが、さくらだけが、きょとん、とおかしな顔を浮かべてしまった。
頭の中では、ただ疑問。
――それを言うならば、立浪くんの謝りどころも分からなかったんだけど……。
口には出さないように気をつけて、さくらは胸中で呟いた。
たしかに未来ちゃんは、大変な目にあってしまったことだけは間違いない。
未来ちゃん姉妹は、たった一人の父親に面倒をみてもらってきたらしいのだが、その父親の死後、一時的にとはいえ、本当の意味で孤児になってしまったのだ。
きっと、親戚などのような引き取り先がいなかったのだろう。
だからこそ、勇作が引き取ったのだ。きっと彼と『父親』との間には、なにかしらゆかりがあったはずであり、そして勇作は、姉妹を『公民館』に住まわせて――、
「あれ?」
と疑問が、さくらの口をついて出た。
「ん? どしたの?」
と葵が反応した。
さくらは顔を向け、疑問を口にする。
「……いや、なんとなく。そもそもどうして未来ちゃん姉妹は、勇作さんの家とか、そういうところじゃなくって『公民館に』住んでいるんだろうなぁ、って。いまさらだけど気になったから。」
「あ、それ」と葵は、ちょっとだけ得意げな顔になって言う。
「それに関しては、中学校じゃ勉強しないもん」
「え? そうなの? 葵ちゃんは知っているの?」
「あたしは兄貴と話をしているうちに覚えたんだけどね。ええと、あたしらの学校が、ただの『教育現場』じゃないってことはだいたい知っているよね?」
「あー、うん。自信ないかな……」とさくらは、萎んだ声をだす。
なぜかますます葵は、得意げな顔つきになった。
「話がずいぶん寄り道しちゃうんだけどね、まず――」と説明をはじめた。
まず、『学校』について。
そもそも小・中学校とは、子どもたちがなにか「心理的」、「肉体的」、「社会的」な苦しみを抱えていないかどうかを常にチェックし、なにか問題があれば親身になって寄りそい、解決策を一緒になって探すべきである――、という基本理念をもとに機能している。
具体的になにをしているのかと一つ例を挙げれば、学校への宿泊が可能だということだ。
この中学校も、許可を出せば、簡単に宿泊することが出来てしまうし、そのための部屋も用意されている。また学校には、誰かしらの先生が必ず『常在』しているし、夜でも門は開けっ放しになっている。
学校は、二四時間、『駆け込み相談所』として機能しているのだ。
お手軽な避難所である。
この、『手軽』というところがなにより重要であるらしい。
つまり子どもたちは、「ぼくたちには逃げ場所があるんだ」という安心感を得られることになるのだ。
逃げる場所が存在している。いつでも自分の見方をしてくれる大人が存在している。そういった実感が、子ども達には必要らしいのだ。
具体的には、非行を未然に防いだり、トラブルの早期発見につながっているようだった。
たとえば、些細なことで親と喧嘩をして、ひと晩だけ学校に逃げてくる生徒もいるのだが、そんな小さな出来事であっても、先生たちは目を光らせ、子ども達の身の回りにトラブルがないかどうかをチェックする。
もちろん、根ほり葉ほり訊いてくるような真似はしないのだが、生徒が必要とあらば、先生たち――大人たちは、どこまでも親身になって相談にのってくれるような姿勢でいる。
「えっ、……そうなの?」
と、説明の途中だったが、立浪が驚いた声をあげた。
「俺さ、とーちゃんに派手に怒られたことがあって、夕方に家から放り出されたことがあったんだよ。そんときに小学校に逃げ込んだんだけどさぁ……」
「あー、あんたの父親、怖いもんねぇ」
「だろ?」と立浪は引きつった顔をして言う。「結局、学校の飯も美味かったしベッドも気持ちよかったから、朝まで眠っちゃったんだけどさ。学校にそんなもくろみがあったなんて、知らなかったよ……。俺、監視されていたのかな?」
「なによ、もくろみとか、監視とか」
と葵は、苦笑しながらつけ加える。
「あくまでも学校は、生徒達にとって身近な場所だっていうことだよ。それ以上は深く考えなくていいと思うよ? でも、それだけじゃなくてね――」
それだけではなく小・中学校は、親が亡くなってしまった子どもの『受け入れ先』としても、機能しているのだ。
つまり、学校自体が、『児童養護施設』として子どもたちを受け入れている、ということだ。
ただ、それはあくまでも最終手段であるようだ。
親が亡くなり、親戚などでも受け入れ先が見つからない子どもが現れると、まずは近辺の『公民館』が受け入れ候補地として上がる。
近所に住んでいる人たちが、みんなで面倒をみようとするためだ。――だが、近くに適切な候補地が見つからない場合、子ども達は『学校』に直接預けられるのだ。
「あぁ……」
と、立浪は感心したように言う。
背もたれに体重を預けて、腕を組み、ぼんやりと天井を見ながら――、
「そういや、この中学校にも、『保護』されて住んでいる女の子がいたっけな」
「あ……うん……。まあ、……そうね。こういう形で話題にしちゃうのは、よくないと思うんだけどね……」
葵は、声のトーンを落として言った。
ここまでハキハキと説明しておきながら、急に気まずくなってしまったらしい。葵は、決まりの悪い顔で後頭部に手をあてて、
「あー……、まあ、『学校』って、そういう感じになっているし、『公民館』もそういう風に機能しているのよ。それをさーちゃんに説明しようとしたんだけど。……ごめん。話はここまで」
と、なぜか、葵は泣きそうな顔になって、両手を、パチン、と合わせた。
ごめんなさいをするときのポーズ。
「へっ?」
それまで、完全に聞き入っていたさくらが、いきなりの変化に動揺した。
「……葵ちゃん、ど、どうして謝るの?」
「あたし、なんだか自慢げに喋っちゃったけど、こういう話って、あんまりすべきじゃないよね? 少なくともこの学校にだって、そういうふうにして『住んでいる女の子』がいるんだもん」
「……あ……でも、私は全然しらないことばっかりで、ためになったよ。それに、未来ちゃんに関わることを知ることができたから、よかったよ。教えてくれてありがとう」
「うーん。そうかぁ」
葵は、手は合わせたままのポーズで、なんとなく納得できないのか、首をかたむけた。
「そうそう。そうだよ」とさくらが言い、
「うんうん。そうだよ。葵ちゃん、きにするな」と立浪が続けた。
「……なんでだろう。あんたに『ちゃん』ってつけられると、なんとなくバカにされたきがする……」
葵が、すーっと目を細めて言うと、
立浪は、かっ、と両目を見開き、わざとらしくも驚いたような顔つきになり――、
「い、いま、あんたって言ったわね!」
と、気持ち悪い感じの声を出した。
葵は、無視。
「あ、さーちゃん、最初の授業ってなんだっけ」と言いながら顔を向け、
「数学だよ?」とさくらが答えてやった。
「……」
丁度、チャイムがなった。
ホームルームを告げる鐘の音だ。
しばらく会話に夢中になっているうちに、二年二組は全員が集まっていた。それぞれの生徒が、おのおの着席しはじめた。
さくらも前を向きなおり、壁の時計を、ちら、と見る。
八時五〇分。
机の隣にかけてある鞄の中をごそごそとあさり、冷たいお茶の入ったボトルをとり出した。ずいぶんと喋ってしまったため、喉が渇いてしまったのだ。ボトルは、そのまま口をつけて飲めるタイプのものだった。傾けて、こくこくこく、と三口飲む。
隣を見やれば、同様に喉が渇いてしまったのだろう、葵もペットボトルの炭酸飲料を一気飲みしているところだった。やがて「ぷはっ」と、気持ちよさそうな声をだす。
そこに担任が現れたのだが――、
「あれ、なんか忘れちゃいけないことがあったような……」
とさくらが呟いた。
「うん? どした?」と葵が反応。
「なんだっけな。大事なことなんだけど」
「和田豪雷のこと?」
「ううん、ちがうかな……、あ、でも思い出した。私、放課後までに、一年生の『ゆり子ちゃん』に、絶対に、会わなくちゃいけないんだ」
「手の甲にでもメモしておいたら?」
「うん。そうする。ありがと」
「どういたしまして」
顔を見合わせて笑っていると、担任が喋りはじめた。
二人のすぐ後ろ。
泣きそうな瞳で、天井を見ている男子生徒がいた。




