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間章 嵐のまえのお泊り会

 さくらはうっかりと、人生初、激辛カレーなるものを口に含んでしまった。

「ん! んんんんーっ!」

 信じられないほどの辛さだ。

 全身から、ぶわっ、と汗が噴きだしたのを知覚した。のみ込もうとしたが失敗。むせてしまい激しい咳をする。しばらくゴホゴホとやってから、震える手でコップを掴み、お水をごくごく飲んだ。

「ご、ごめん。……それきっと、ぼくのぶんだ」

 と、キッチンテーブルの向かいに座っている未来ちゃんが手を伸ばし、さくらのカレーのお皿を引き寄せた。スプーンですくってひと口食べる。もぐもぐと、平然としたまま食べてから「やっぱり」と呟く。

 彼女は、二人のお皿を交換した。

 さくらの目の前には、少しだけ色素の薄いカレーが置かれた。きっと、これが普通の辛さのものだろう。

 二人は今、未来ちゃんが出前として注文したカレーライスを食べていた。

 真緒のぶんを含めて三つ届いたが、そのうち一つは激辛だったようだ。それは未来ちゃんが自分で食べるつもりだったらしいのだが、さくらは知らずに食べてしまった。

 まるで罠だ。

 完全に油断していた。

「うっ……ううう……?」

 涙目になったさくらは、ビリビリとする口をおさえながら、未来ちゃんを見た。

「……大丈夫?」

 と、囁くような声で彼女は訊いてきた。

「し、したが、おかしく、なったよ」ようやくまともに口が動いた。

「ご、ごめんね?」

「だっ、だ、大丈夫。……っていうか未来ちゃん、よくそんな辛いもの、食べられるね」

「うん」

 未来ちゃんは、スプーンにたっぷりとお米とルーをすくい、口へと運んだ。「辛い」と呟きながらも平然と食べている。汗を噴きだしたり、顔を真っ赤にしたりするような反応はとくに見られない。

 さくらはコップに口をつけたまま少しずつ水を飲み、舌を落ち着かせた。

「……未来ちゃん、そんなに辛いものが好きなんだっけ?」

「うーん。確かに辛いものは好きなんだけど、カレーにかぎっては、もっと辛くしないと食べられないというか」

「うん? つまり、辛いカレーが大好きだっていうこと?」

「ちょっとちがうかな……ええと……」

 未来ちゃんは、お皿のうえに一旦スプーンを置いた。遠いどこかに目やって、考えこむ。微妙なニュアンスを伝えるのに困っているのかもしれない。

「日本のカレーって甘くていやだから、辛さでごまかして食べている。そんな感じ」

「……」

 キミは一体どこの国の人だ? とつっこみたくなったが、さくらはぐっとこらえた。

「ぜんぜん分からないよ。どういうこと? ハチミツとか、リンゴ、じゃがいもみたいな甘さがだめってことなの?」

「そうなのかな? ちょっとだけうまく伝わっていない気もするけど。ええと……」

 未来ちゃん自身も、満足のいく説明ではなかったようだった。

 彼女はコップの水をごくんと一口飲んでから、「あ、分かった。もっとうまい説明ができるかも」と言った。さくらが続きを促すと、未来ちゃんは自信のこもった口調で説明する。

「ショートケーキにとうがらしをかけても、結局、甘い部分は甘いよね? そんな感じ」

「……うん?」

 それはうまい説明になっているのだろうか。それともただの前置きなのだろうか。まったく意味が分からなくて、さくらは返事に困った。というか、そもそもなんの話題だったのだろうか。会話が迷子になってしまったかもしれない。

 未来ちゃんはかまわずに続ける。

「海の水はしょっぱいけど、どれだけ砂糖を入れても、結局、甘くてしょっぱい。うん。そんな感じ」

 ――だからどんな感じっ?

 と、さくらは脳内ツッコミ。

 会心の説明ができたとばかりに、未来ちゃんは食事を再開した。満足げな表情でスプーンを動かして食べ始まってしまったので、なんとなくつっこんで訊けるような雰囲気でもなくなってしまった。彼女は「はふっ」「ふうっ」と時々舌をクールダウンさせながらも、夢中で食べる。真っ白のワンピースが汚れたりしないだろうか? と気になったが、綺麗に食べているので問題はないだろう。

 さくらもスプーンを使って、カレーを一口食べた。

 よくある感じのカレーだった。家庭的で美味しい。市販のルーを溶かして作ったものなのだろう。小さくカットされたにんじん・ジャガイモは、よく火が通っているようで、舌の上でとろけた。なんとなくトマトケチャップの風味がするのだが、これは出前に応じてくれた店の作り方なのだろう。しばらく食べ続けて――、

「あっ、そうか。なるほど」とさくらは突然気がついた。

「どうかしたの?」

 未来ちゃんは表情も変えないまま、静かな声で訊いた。

「そういえば未来ちゃん、最初から日本のカレーは甘くて嫌って言ってたもんね。ようやくなにが言いたいのか分かったよ。インドとかタイとか、そういうカレーのほうが好きなんじゃない?」

「そっちのほうが好き」静かな口調で頷いた。

「日本人の舌に合うように調節されたスパイスが嫌なのかな。それが甘く感じるのかも」

「あ……ぼくも今、よく分かった。犯人はスパイスだよ」

 と、明らかになった真犯人にむけて、未来ちゃんはスプーンを突き刺す。ルーをすくって、ごはんにかけて、口へと運んでもぐもぐとそしゃくする。途中、したり顔で目を向けてきた。

 さくらはそれを見て、自分でもなにがおかしいのかは分からないのだが、こらえきれずに「フフッ」と笑ってしまった。

「ねえ未来ちゃん」

「うん?」

「今度、甘くないカレーの作り方、教えようか? スパイスはオリジナルで混ぜるの」

「……おおっ、教えて」

 未来ちゃんは瞳をキラキラと輝かせて、話に乗ってきた。

 ――やった!

 さくらは内心でガッツポーズ。

 前々から、未来ちゃんと一緒に料理をやってみたかったのだ。

 さくらはずっと「漫画の仕事で忙しそうなあすのさんを助けるためにも、未来ちゃんは料理を覚えるべきだろう」みたいなことを考えていた。

 いや、それは綺麗ごとかもしれない。ありのままの気持ちをさらけ出すならば、さくらは単純に、お料理仲間が欲しいのだ。姉――真緒との料理はもちろん楽しいが、未来ちゃんとの料理も楽しいに決まっている。

 それに、もう一つの願望がある。それは、「さくらおねえちゃん、ぼくね、夕飯作りすぎちゃったの。だからおすそわけしてあげるね」などと言われてしまうような展開だ。さくらは最近、そんなことを夢見ていたのだった。

 うきうきとした気分でさくらが訊く。

「じゃあ、いつ作ろうか?」

「明日の放課後がいい」

「えっ、明日? ……いまカレー食べているところなのに?」

「うん。明日作ろう。明日もカレー食べよう」

 未来ちゃんの大きな瞳の奥に、炎が立ち上がったのが見えた。静かな声ではあるのだが、はっきりと熱のこもった喋り方だった。どうやら、さくら以上に燃え上がってしまったみたいだった。

「わ、わかった。じゃあ、明日作ろう!」

「うんうん。そうしよう」

「明日の放課後になったら私、さーっと買い物行ってくるから、そのあと家で、二人で一緒にカレーを――――、あっ!」

「え?」

「……」

「……」

 さくらはしばし黙考。

 ひとつ、思いついたことがあったのだ。やがて「うん」と頷いて、言う。

「ねえ未来ちゃん」

「なに?」

「これはあくまでも私の希望みたいなものなんだけどね。明日、私のお友達を一人、家に招待したいなって思っているの。いいかな?」

「お友達?」

「うん。でもまだ、その子に話をつけてあるわけでもないし、その子の都合を訊いてみないとなんとも言えないけどね……、バイトだって言われちゃったら無理だし」

「だれ? ……あっ」

 訊ねたその直後、未来ちゃんは思い当ったような顔をした。

「うん。たぶん今、頭に浮かんだ女の子で合ってると思う。内田ゆり子ちゃんだよ」

「……むっ、むう……夕方に会った、こ、こしゃくな女の子だな……」

 未来ちゃんは急に『ミラ』と名乗ったときの口調で喋った。やがて、ハッ、とした未来ちゃんは、いつも通りの囁くような声で言う。

「じゃ、じゃなくて。あの、き、きれいなおねえちゃんのことだよね。すぐに分かった」

「そ、そう?」

「べ、べつに、連れて来てもいいよ」と、そっけなく言って、うつむいてしまった。

 照れているのか、それとも苦手意識があるのか。判別のつけられないような態度だった。

「未来ちゃん、やっぱり、ゆり子ちゃんを連れてきちゃったら、いやかな?」

「……えっ? ど、どうしてそうなるの?」

「あ、違うのか」

「む、むしろ……良いというか、べつにどうでも良いけど。連れてきても良いというか」

 ずいぶんと曖昧な言い方だが、なんとなくさくらには、再会を待ちわびてそわそわしているようにも見えた。

「あ、あ、あの、きれいなおねえちゃんは……」

「うん?」

「……ぼ、ぼくと、友達になりたいって、言ってくれたから」

「……」

「そんな感じ」

 と、会話を打ちきるかのように言ってから、未来ちゃんは空っぽのコップを握ってキッチンへと向かった。水道で水を汲み、その場で飲んだ。減ったぶんの水を水道で継ぎ足してから、キッチンテーブルへと戻ってくる。

 イスに座るのかな――、と思いきや、コップをテーブルに置いて、廊下の方へと出て行ってしまった。きっとトイレかなにかだろう。

「……そっか。なら、誘ってもいいよね。来てくれるかどうかは分からないけど」

 ぼそっと呟いた。

 さくらは自分のカレーを食べながら、『彼女』について考えをめぐらせた。

 内田ゆり子。

 中学一年生なのに、大人の女性のような雰囲気がある。

 バイト先が同じで、支部長に対しては毒舌を使うことがある。

 祖父と二人暮らしをしていると言っていたが、その祖父が忙しいようで、ゆり子はほとんど家に一人でいるらしい。この日の放課後、彼女はコンビニ弁当を二つ買っていた。あれは間違いなく晩ごはんの分、それからもう一つは、――たぶん、明日の朝ごはんの分。

 彼女がどんな食生活をしているのかについては、あまり口出しをすべきではないだろう。あくまでも他人の家庭のことだ。

 他人の家庭環境に対して、他人が口をだす。これほど煩わしいことはないだろう。

 そのくらいのことは、さすがにわきまえている。誰にでも踏み込んできてほしくない領域みたいなものはあるはずだ。

 だが、

 だが――、

 かといって、ほおっておけない気がする。

「明日の放課後は……、一緒に、ご飯を食べたいな」

 それがさくらの、素直な気持ちだった。

「そして、あわよくばお料理仲間がもう一人……ふっ、ふふっ」

 やっぱりこっちのほうが、もっと素直な部分だった。


 食事が終わるなり、二人はお風呂の準備をしながら歯磨きを済ませた。

 リビングルームへ戻ると、昔やった『かくれんぼ』の話で盛り上がった。

 公民館の一階部分だけを使ってよくやったものだった。一二畳部屋が、二間ある。そんなだだっ広い空間に大量の座布団を重ね、死角を作ったりして準備をととのえてから、押し入れ、廊下、キッチン、トイレなども使い、一分という制限時間を設けてやった。飽きることもなく、何度も何度も繰り返し遊んだ。

 たまにトランプをやったし、宿題も一緒にやった。

 さくらの姉――、真緒が、「むうう、私とも遊んでよおぉ」とちょっとだけ切実な声をあげながら混じってきたり、未来ちゃんの姉――、明日乃が、「さくらちゃん、あたしの宿題も全部やっておいてえええ」と半泣きで訴えてきたりもした。

 そんな思い出話をしているうちに、いつの間にか「おねえちゃんたちの精神年齢」という話題に変わり、さらに盛り上がる。やがて「うわっ、お湯止めるの忘れてた!」と気がついて、二人でお風呂にダッシュ。

 案の定、浴槽いっぱいのお湯が入ってしまった。

 未来ちゃんに「お先にどうぞ」と促したのだが、彼女はぬるくなってから入りたいようだったために、短い会話を交わしたあと、さくらは先に入った。

 湯船ではウトウトとしてしまったために、いつもより少しだけ早く上がった。


 さくらはパジャマ姿になり、身体からほかほかと湯気をだし、ドライヤーを持ってリビングルームへとやってくると――、

 髪のリボンをほどいた未来ちゃんが、部屋のすみっこでゴールデンハムスターの『賢太』と遊んでいるようだった。手に持って、背中を撫でている。

 思わずさくらは立ち止まり、あらためて、彼女の腰まで届くような髪を観察した。未来ちゃんはその視線に、すぐに気がつく。

「……どうしたの? じっと見て」

「未来ちゃんの髪って、うちのおねえちゃんより長いよね。手入れ、やっぱり大変そうだなあって思ったから」

 さくらは自分の毛先を触りながら言った。ぎりぎり肩に触れる程度の髪は、今はしっとりと濡れていた。

「なれたよ。……ずっとこうだったから、もう身体の一部」

 未来ちゃんは、賢太をケージの中へと戻して、扉をしっかりと閉めた。彼女は立ち上がり、部屋の隅に置いてあるバックから着替えをとり出すと、「じゃあ、入ってくるね」と言って背中を向けた。

「うん。どうぞ」

 リビングルームは、はたして無人となった。

 さくらはテーブルの上に置かれたままの、二つの青いリボン――、未来ちゃんのリボンをぼんやりと見ながら、ドライヤーの温風を自分の髪にあてて、クシを通しながら乾かしはじめた。


 数分。しばらくそうやっているうちに、ふと気がつく。


 ――このリボン、よく見ると、ヘアピンと一体になっていたんだね。

 ドライヤーのスイッチを切った。

 手にとってよく見てみる。リボンの内側に、金属製のヘアピンが縫い付けられているタイプのものだった。髪を、ぱちん、と留めたあとでリボンを結ぶと、ヘアピンが見えなくなる仕組みなのだろう。

「なるほど、こういうものがあるのか」

 まじまじ見ていると、もう一つ気がついたことがあった。

 ヘアピン部分とリボンの隙間に、なにかが小さなものがくっついている。――ボタンだ。木製の青いボタンが、青いリボンに縫い付けてあるのだ。少し雑な感じだが、しかし頑丈に、ぜったいに取れてしまわないようにと執拗に、何度も何度も針を通してあるようだった。

「……あれ? これって未来ちゃんが縫い付けたのかな」

 もう片方のリボンも手にとって、観察してみる。――どうやらボタンは縫い付けられていないようだった。

 どのような意図でボタンを縫い付けたのだろうか。

 まったく分からなかった。

 普通、ボタンがあるということはボタン穴も存在しているはずなのだが、それらしきものもない。するとただの飾りだろうか。しかし、隠すような位置に縫い付けてあるために、飾りとしての役割も果たしていない。

「……」

 さくらはテーブルの上へ、そっとリボンを置いた。

 何事にも理由があるはずだ。

 ――たとえばもっと別の、機能的な意味。

 ――または、おまじない。

 ――思い出。

 機会があったら訊いてみるのも良いかもしれないが、時と場所を選んで二人きりのときにするべきだ。

 そんなことを胸に刻みながら、ソファへと深く腰掛けた。





 またしてもさくらは、うっかりと眠ってしまったようだった。

 姉の真緒に「おかえり」を言うまでは、一日は終われないのだ。

 だが、

「え……」

 さくらは、目覚めた瞬間、自分の身に起きたことがすぐに理解できなかった。

 たしかに自分は、ソファに腰かけたまま眠ってしまったはずだった。しかしこれは一体、どういうことなのだろうか。

 自室のベッドだった。

 真っ暗で、殺風景な六畳間のフローリングだ。

 さくらのすぐ隣では、パジャマ姿の未来ちゃんが寝息を立てていた。ゆっくりと呼吸を繰り返しているために、完全に深い眠りの状態なのだろうと思った。眠りについてからそこそこ時間が経ったのかもしれない。二人は一枚の布団をかけていた。

 さくらはゆっくりと上半身を起こし、勉強机のデジタル時計へと目をやった。

 二二時を回ったところだった。

 ――うわぁっ、おねえちゃんが丁度帰ってくる時間だ。

 ――っていうか、分かった。おねえちゃんが私のこと、ここまで運んだんだ。

 申し訳ない気分で、静かにベッドを降り、部屋を出た。

 さくらがリビングルームへやってくると、すでに帰宅していた真緒がソファに座り、幸せそうにカレーを食べている横顔があった。


「おねえちゃんごめんなさいっ!」つい大きな声。


「――うおおっ!」

 真緒はビクッ、と動いてから、肩甲骨まで届くような髪を、左手でかきあげて背中のほうにまわしながら顔を向けた。「びっ、びっくりしたあ」と目を丸くする。

 セーラー服を着たままカレーを食べるという暴挙に出ている真緒だったが、いまはそんなことを責められるような立場ではない。

「な、なに? ごめんってどういうこと? あ、そんなことよりもただいま」

「お、おかえりなさい。あ、あの私、お風呂を出たらすぐに眠っちゃって、でもおねえちゃんのことを忘れていたとかそんな訳じゃなくって――」

 申し訳ない気分で目が合わせられない。真緒の紺のくつ下あたりを見ながら、さくらは早口で喋ってしまった。

「あははっ、なに言ってるの。誰にだって疲れているときくらいあるでしょ?」

「そ、それはそうかもしれないけれど、一番疲れているのはおねえちゃんだし……」

「気にしない気にしない。私、バイトが楽しいからさ。疲れているって訳でもないし。それに私は、そんなことでイジけたりもしないから大丈夫だよ」

「……そう、かな?」

「そうそう」

 たしかに真緒は、「寂しい」みたいな感情を外にだすことがあまりない。努めてそう振る舞っているだけなのかもしれないが。

 ――いや、ぜったい後者だよね。

 ますますバツの悪い気分だ。さくらは再び「ごめんね」と言いたい衝動にかられた。しかし、こちらが謝ってばかりでは、真緒もさすがに居心地が悪くなってしまうだろう。せっかくの食事がまずくなってしまうかもしれない。

 さくらは、「これはすこし落ち着く必要がある」と思い、こっそりと深呼吸しながら、真緒の対面のソファへと座った。

 テーブルの上には、青いリボンが見当たらなかった。ドライヤーもない。未来ちゃんが片づけてくれたのだろう。

 真緒は、さくらの表情を、ちらっとうかがってから言う。

「私だってね」

「うん?」さくらが目を向けた。

「私だって、さくらが家のお仕事をしているすぐ隣で、宿題もせずにぐうぐう眠ることがあるんだし、あんまり気にしすぎないほうがいいよ?」

「…………」

「あ、あれ? どうして無言なの?」動かそうとしたスプーンが、ピタリ、と止まった。

「……冗談を言っただけなのか、それともツッコミ待ちなのか、判断に困っちゃって」

「それ、どっちも同じ意味だよね!」真緒が鋭くつっこんだ。

「ばれちゃった」

「むぅ」と小さく唸り声をあげたが、彼女はすぐに立ち直り、笑顔でカレーを食べ始めた。

 ――おねえちゃんはまず、宿題をやってからぐうぐう寝るべき!

 と言ってみたかったが、今は決まりが悪すぎて言う勇気がない。さくらは、伝われ、伝われ、という意思を自分の目に込めて、じとぉっと悪戯っぽく睨んでみた。

「えへへ……そんなに見つめられると、食べづらいよ……」

 お皿を持ったまま横を向いて、真緒はスプーンと口とを動かし続けた。さくらは失笑してしまい、胸のうちで少し詫びた。

「あっ」と真緒が何か思い出したように言う。「そうだ。私の明日のバイト、休みになったからね」

 いきなりの報告だったが、さくらはすぐに喜んだ。

「ほんとう? じゃあ、明日の放課後は皆でカレー作ろう!」

「おおおっ! いいね! 面白そう!」

 今現在もカレーを食べている真緒だったが、少しも嫌な顔をせずに同意した。

「メンバーは、予想できる?」

「ん? 未来ちゃんでしょ? 靴があったから、泊まりに来ているんだなって思っていたよ」

「そうそう。それから――――」

 違和感。

 さくらは唐突に、なにか真緒のセリフがおかしいような気がして、言葉をのみ込んでしまった。

「それから?」と真緒が促した。

「あ、えっとね」さくらは気を取り直して続けた。「まだ声もかけていないんだけど……ゆり子ちゃん。明日、誘えば来てくれるかな?」

「ゆり子ちゃんを誘うつもりなの? バイトは休みだから来てくれるかもしれないけど、さくら、いつのまに仲良しになったの?」

 さらっと重要な情報が手に入った。

 明日は、ゆり子のバイトが休みの日らしい。

「えっと、仲良くなったというよりは、今日、もっと仲良くなりたいなって思ったの。ゆり子ちゃんが私のことをどう思ってくれているかは分からないけど、すごく良い人だし。だから誘いたい」

「たまに毒舌がでるけど、すっごく良い子だよね」

 真緒が同意して、カレーを口に運ぶ。もう残り半分というところまで食べたようだ。

「やっぱりゆり子ちゃんって、仲良くなればなるほど、毒舌がでる?」とさくらが訊いた。

「そうそう! でも、ゆり子ちゃんとマリンちゃん、二人くらいの仲にならないと、さすがに毒は出ないと思うよ? 私だって言われたことないし」

「あはは、私も、そのくらいの仲になれたらいいけどね」

「これから毎日、私が毒を吐いてあげようか? 色々と」

「……いや、一応言っておくけど、私が求めているのは『毒』じゃなくて『仲』のほうだからね? っていうか」さくらが半眼になり、「色々ってどういう意味? なにか言いたいことでもあるの?」

「あるある。さくらがいつも漫画を出しっぱなしにしたらダメってうるさーい、制服をしわくちゃにしちゃダメってうるさーい、宿題宿題ってうるさーい、おやつも心ゆくまで食べさせろーっ!」

「それ……、毒じゃなくて愚痴だね……最後なんてただのわがままじゃん」

「そうかも。アハハ」

 まったく意味の分からないことばかり言う。とさくらは胸中で呟いて、ソファへと深く腰掛けた。両足も乗せて、体育座りのような姿勢になった。

「まあとにかく明日は!」と真緒がスプーンを掲げなげら「ゆり子ちゃんを連れてくるがよい!」と偉そうに言った。いきなりのことに、さくらは少し笑った。

「なにそれ、王様みたい」

「ほっほほほ。みなで少ない知恵を合わせ、世が満足できるカレーを作るために、せいぜいはげむ――」

「おねえちゃんはカレー抜き」

「この世の終わりだぁ!」

 お互いに冗談を交わしながら、一日の締めくくりを楽しんだ。

 さくらは楽しい時間を少しでも延長させようと、ちょっとだけ悪いなとは思いつつも、意図的に食事の邪魔するつもりで話をした。


 だが、さくらの胸のうちには、先ほどの一ミリグラムの違和感がずっと淀んだままだった。


 違和感の正体に気がついたのは、食器を洗っているときだった。

「ねえ、おねえちゃん」

「うん?」

 お風呂へ入ろうとしていた真緒を呼び止めた。

「おねえちゃん、今日、眠っている未来ちゃんの姿くらいは見たんだよね?」

「へ?」

「……やっぱり、見ていないの? それとも、暗くてよく見えなかっただけかな」

「んん? だから、なんのこと? まだ見ていないけど」

「……」

「……」

 真緒はますます困惑顔にってしまい。さくらはみるみると確信を深めていった。

「……説明するとね、さっき私、ソファでうっかりと寝ちゃったんだけど、目が覚めたらベッドだったの。だから眠っている私を運んでくれたのは、おねえちゃんだと思ったんだけど」

「……私は運んでないよ?」

「……」

 という事は、状況的に間違いなく、未来ちゃんが運んだということになる。

 ――ほんとうに?

 ――未来ちゃんって、そんなに力持ちだったっけ?

 ありえない話ではないのだが、なかなかに信じがたい話だった。

 いや、身長差は五センチ弱。体重差も、たぶん、五、六キロ程度。なにより未来ちゃんは、成長期だ。なるほど、ならば『そう』なのかもしれない。

 とにかく、「いつのまにか未来ちゃんが成長していた」という事実は認めるしかないだろう。驚きだ。具体的にはどうやって運んだのだろうか。――おんぶ? それともまさか、お姫様だっこ? 出会った頃の、小学三年生のころの貧弱なイメージが強すぎるせいなのか、まったくイメージが出来ない。

 それからもうひとつ、考えたくもないような可能性も存在している。

「私、寝ぼけてふらふら歩いちゃったのかな……」つい、考えが口に出てしまった。

「ハハァン、なるほど」と真緒が鋭く反応した。

「なにが、なるほど?」

「おぬし、夢遊病ではないかね?」

「……」

 もしもそうだとしたら、病院に相談しに行ったほうがいいのだろうか。軽く悩んだ。

「……そっ、そうなのかなぁ。それは困る」

「私、前にも言ったけどさ。さくらよりも一日でも長く生きるつもりだから、なにも心配しなくていいよ」

「えっ、ど、どうしてこのタイミングで、そんなセリフを言うのかな……」

 先ほど、少しだけ意地悪なことを言ってしまった仕返しのつもりなのだろうか。真緒は、ニヤリ、と笑いながら言う。

「とにかく、さくらは安心して、しわしわのおばあさんになるといいよ」

「おねえちゃんはカレー抜き」

「この世の終わりだぁっ!」




 そのすぐ後。

 この日、最後のハプニングが起きた。真緒がお風呂に入っているときのことだった。

 キッチンの奥には、裏口がある。一日中涼しいため、漬け物のバケツを寝かせておくにはうってつけの場所なのだ。

 さくらがそこで漬け物の様子をみていると、なにか近くで動くような気配があって、後ろを振り向いた。すると――、

 ハムスターの『賢太』が、トコトコと早足で近寄ってきた。

「う、うそっ! また脱走したの? でもどうやって!」

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