アヒルの子 その3
真緒が、桜の花を見ながら泣いていた。
お姉ちゃんが、泣いていた。
――あのおねえちゃんが?
それが事実だとするならば、さくらにとっては驚愕的だった。
まったく想像がつかないのだ。
太陽のようにいつも笑ってばかりいる真緒は、いったい、なにがあれば泣くというのだろうか。
「そういや真緒は、あれ以降はまったく泣かなくなったな」
父親は、ふと思い出したように言う。
さくらは、瞳をぱちぱちとしばたたかせて、ぽかんとするばかりだった。
「……えっと」
――それって本当に?
もはや、宿題のことは頭のなかからすっ飛んで行ってしまった。
さくらの視線は、ちらっ、とレースのカーテンごしに差し込んでくる西日の方へと向いた――あと一時間もすれば沈んで消えてしまう太陽は、すべてをオレンジ色に染めあげている。すでにカラスの声も聞こえてはこない。そこらへんで遊びまわっているガキたちも『秋の合戦』をきりあげ、血まみれになりながら巣に帰っている頃だろう。
さくらは目を細め、ぼんやりと夕焼けを見ながら考える。
――おてんこおねえちゃん。
さくらがそう呼んでみたことがあったのだが、真緒は「あははーっ、なんだか、おたんこなすみたいだね」と他人事のように笑った。
あの笑ってばかりいる真緒。――彼女の泣き顔を、どうしても想像することができなかった。
さくらは視線を父親に戻し、
「…………おねえちゃんが、泣いていたの? 本当に?」
「本当だ」
「どうして泣いていたの?」
「分からない」
「……おねえちゃんって、絶対に泣かないんだと思ってた」
「なに言ってんだ。泣かない子どもなんているもんか。さくらが産まれてくるまえなんて、真緒はよく泣いたぞ。泣き虫だったぞ」
「……あ……そうか。私が生まれてくるまえだったら、おねえちゃんだって小さな子どもなんだから……、あたりまえか」
桜の花を見て泣いていた。
どうして泣いていたのかは分からないが、「子どもだったら泣いても当然だ」というところには納得した。
「そうそう。たとえば、真緒が二歳の頃だ。おれが手を滑らせてラーメンのどんぶりを落として、ごちーんっ! って真緒の頭にぶつけちまったとき、ぎゃあぎゃあと、そりゃあもう、この世の終わりとばかりに泣かれちまったもんだ」
「……それは、……だれだって泣くよ」
ばか。
そうつけ加えたかったが、やめた。
その代わりに、父親をじとーっと睨みつける。
しかし父親は、そんなさくらの圧力にはかけらも動じることがなく、「ひょいっ、ぱくっ、ばりぼり、超うまい」と変態行為に夢中である。きっと今、その時のことを咎めたとしても、悪びれもせずに笑ってごまかされるに違いない。……先ほど謝ってみせたことなどは、奇跡のような出来事だったのだ。いつもの父親には、何を言っても「のれんに腕押し」なのだ。
というよりは、バカに説教。
言うだけ徒労に終わってしまうということわざである。
ふと父親は、
「なぁ、さくら」
と呼びかける。
「うん? なに?」
「さっきから思っていたんだが、さくらのその目つき、だんだんお母さんにそっくりになってきたな」
「……おかあさんの目つきは、こんなに悪くないと思う」
「おーっと? 今のはさくらの失言だねぇ。俺はあくまでも似ているって言っただけで、お母さんの目つきが悪いなんて、ひとことも言ってないぞ」
「あっ……、う、うそうそ、うそだよ。ごめんなさい」
さくらは失敗してしまったという表情をうかべ、横目でキッチンのほうをうかがった。
リビングルームとキッチンは繋がっており、その境には、背の高いカウンターテーブルが設置されている。さくらの視界には誰もうつりこみはせず、薄暗いキッチンでは冷蔵庫がウンウンとうなっているだけであった。
幸いにして無人だった。
さくらがほっ、と一息吐きだしたところで、父親が、
「桜ばな、いのちいっぱいに咲くからに生命をかけて我が眺めたり」
突然よく分からないことを言った。
「え?」
「そういう歌があったんだよ。昔」
「さくらばな……なに?」
「桜の花が一生懸命に咲いたのだから、私も全身全霊をもって桜の花を眺めたのだ。……と、そんな意味の歌だ」
「いきなり言われても……、よくわかんない」
「この歌を作ったのは、女性だ。『おかもとかのこ』という日本を代表するような作家だったらしい。……で、この歌が生まれた背景には、とても大きな災害があったためだと言われている。前年のことだ」
「そうなの?」
「ああ」
――『関東大震災』
さくらが知らないくらいほどの、大きな地震だったんだ。
父親はそう言った。
「まあ、これは、今から考えれば、ずっとずっと昔の出来事だ」
「ずっとずっと? ……って、どのくらい昔なの?」
「古代だよ」
「……こだい」
いまから一六〇〇年も昔の出来事だったらしい。
この世界の人々は、その頃のことを『古代』と呼んでいる。
そう呼ぶ理由は、二つある。
一つは、単純に、時間が経ちすぎているためだった。
現在、西暦に換算すれば三五〇〇年である。
さくらが住んでいるこの奈良県桜井市は、西暦二〇〇〇年の頃と比べれば、まるで別の様相をしていた。
あたりいっぱいに畑や田んぼが広がり、にわとりや山羊が徘徊し、野鳥もかなり多い。さくらの家のすぐ目の前には、古代では『近鉄大阪線』という線路が走っていたのだが、現在はどこまでも見わたしのいいような四車線がのびている。
田舎。
そんな様相が、奈良県だけではなく、世界中のいたるところで見られるような時代へと変遷しているのだ。つまりこの世界からみて、西暦二〇〇〇年の頃を『古代』と呼ぶ理由の一つは、ただ単に時間が経過しすぎているためであった。
そして、二つ目の理由。
これは――、
「あっ……、おとうさん」
「うん?」
「私、気がついちゃった」
「どんなことに?」
「『世界がほろんじゃった理由』だよ。世界は、かんとうだいしんさいのせいで、ほろんじゃったんだよ」
さくらは名推理でもしてみせるかのように、自信たっぷりに言った。
「あれ? さくら。そのころに世界がほろんじまったこと知ってたのか。……大人だってあんまり知らないようなことだぞ」
「え? だって、お父さんがそう教えてくれたんでしょ?」
「……そうだったっけ?」
と遠い目をする。
さくらは、小学三年生にしてはそこそこ物知りだった。
それは、父親と母親が、あるいみ『教育熱心』だったおかげである。教育といってもそれは、さくらにとっては国語だとか算数だとか、そういうことを教えられていたわけではない。
たとえば母親は、毎朝さくらのことを朝の六時にたたき起こし、「いっしょに家事やろう」と誘っている。
家の掃除、洗濯。
そのくらいならば小学生低学年でも簡単に覚えてしまうのだが、それだけではなく、さくらはすでに『料理』を覚えるまでに至っている。腕前はなかなかのものだった。ある程度ならば一人でも料理をこなせる。ご飯を炊き、おかずを作り、翌日のためのお漬物などという下準備でさえ覚えはじめている。ただ一つ、お菓子作りだけはどうにもうまくいかないようで、母親も教えることを諦めてしまっているようだったが、そこは愛嬌というものだろう。
そして、父親からの『教育』。
雑学である。
ただの雑学だが、内容が濃い。
なぜ濃くなってしまうのか。
さくらは、アニメや料理番組にも興味はしめさないし、漫画も読まないし、友だちと遊ぶことも少なかった。
さくらは暇さえあれば父親や、母親や、真緒に話しかけてばかりいる。とくに父親はそれを喜んでしまうふしがあり、熱心に話をしてしまう。会話がはかどってしまのだ。だからさくらは、余計な知識だけではなく、語彙にも長けるようになってしまったし、ますます父親の話にもついていけるようになっている。父親の話についていけるということはつまり、父親のテンションは天井知らずになってしまうということも意味し、最近、『英才教育』には歯止めがきかなくなっているほどだ。
母親は頭をかかえていた。
やりすぎてしまうのである。困っていた。
さくらは無邪気な顔つきで、「どうして女のひとっておっぱいが大きくなるの」などと訊ねたことがある。
模範的な回答としてはこんなところだろう。「赤ちゃんは物を食べることができない。だからミルクを飲んで成長する必要があるんだが――」うんたらかんたら。しかし父親は、「だって大きなほうが揉――」ただしそのセリフは最後まで言えなかった。母親の鞄が、父親の顔面にめりこんでいたのだ。
「どうして子どもって産まれてくるんだろう」などと訊ねてしまったこともある。父親は迷うこともなく「それはせっ」ただしそのセリフも最後までは言えなかった。母親の鞄が、父親の顔面にめりこんでいたのだ。
とにかくさくらは、普通の子どもとは少しだけ違うような知識には恵まれていた。
「そういや、俺が教えたんだっけな。去年だったか?」
「なに言ってるの……先週でしょ。おとうさん酔っぱらっていたけど」
「あはは、そうだったかも」
「もう……」
さくらは呆れたように笑った。
しかしその顔は突然、不安そうな顔になり、
「……ねえ、お父さん。もしかして、それもウソだったの?」
「いやいや、それは嘘じゃない。本当に世界は滅んだらしい」
「……ふうん? で、ほろんじゃったきっかけって、その『かんとうだいしんさい』のせいなんでしょ?」
「いやいや、そんな訳ないだろう」
父親は苦々しく笑いながら答える。
「いくらなんでも、その地震のせいで世界が滅んだわけではないよ」
「……そうなんだ?」
「世界は広いんだ。たとえ日本が海の底に沈んでしまったとしても、他のところに住んでいる人たちは、なーんにもなかったかのように生き続けることができるはずだ。日本なんてものは、世界全体から見てみれば、ほんの一部にしか過ぎない。……もしも日本が滅んでしまったとしても、世界が滅んだことにはならないよ」
「うーん。それもそうか。……じゃあ、どうして世界はほろんじゃったの?」
「それは俺にも分からない」
「おとうさんでも知らないんだ?」
「分からないな」
推定、西暦二〇〇〇年の頃だったらしい。
世界は滅びた。
それは、文字通りになにか致命的な『破壊』によってもたらされてしまった滅びなのか、はたまた細菌やウイルスの進化によってもたらされてしまったために沢山の人間が死に、もしかすると絶滅まではしなかったまでも、文明や文化を維持することができなくなってしまったという比喩表現なのか。
知る人は、世界中を探してもごく一部に限られる。
というよりは、あまり関心がない。
現在、この世界に住んでいる人々は、ある意味で『さくらと同じ』なのだ。
過去には関心が薄いようである。
たとえば西暦二〇〇〇年の頃ならば、中学生になれば『歴史学』を習い始める。
だがこの世界では、中学生では習わない。高校生になっても習わない。大学生になって自分で学びたい事を選択して、ようやく習うことが出来る科目なのだ。
もしかすると教育委員会でさえも、「歴史は学ぶ必要がない」などと考えているのかもしれない。
いつの時代であろうとも人間は、歴史を学べば学ぶほどに、歴史からはなにも学んでいないことがよく分かるものである。――ならばいっそ、今を生きるためにはもっと優先度の高いことを学ぶべきであり、歴史学などというものは後回しにしてしまってもよい。
そんなところであろうか。
もしくは、「やぶをつつけば蛇を出す」、「好奇心は猫を殺す」などと言われるように、歴史は、もとい、古代の知識はタブーなのであると……それは学んでしまったが最後、知識が欲をうみだし、やがて欲は暴走し、人々を狂わせてしまう麻薬になるのだと考えられているのかもしれない。
――隠されているならば、暴いてみたい。
そんな人間もいるにはいるし、古代を調べる専門機関――<PRF研究所>などというものも存在はしているのだが、そこに働く人々はあくまでも『趣味』として活動をしているだけのことであって、研究対象としての『古代』とは、現在を生きていくためのスパイスみたいなものでしかないのだ。
たしかにその研究のおかげで、失われてしまったはずの科学的発明品――ディーゼルエンジン、インターネット、高次元エネルギーの抽出方法などは、あっというまに再現することが出来てしまっている。ということはつまり、この『現代』でも、世界のサイエンステクノロジーは高い水準で維持されているし、だからこそ人々にとって『古代』とは、面白い知識の宝庫でもあるのだが……、やはり、そんなものは現代を生きるための『嗜好品』でしかないようである。
求めているものは利便性ではなく、面白さなのだ。
証拠は、この時代の、あちらこちらを走り回っている『車』を見ればよく分かる。
化石燃料を使ったディーゼルエンジン車から、大型バッテリーを搭載した電気自動車から、高次元に巻き取られてしまっている重力エネルギーを低次元へと『降ろして』使うHDPL発電自動車など、さまざまなものがある。
古代では、エネルギーとは限られた資源を消費することであり、またその資源は、限られているからこそ奪い合い、戦争にまで発展したこともあった。また古代では、フリーエネルギーなどというものを発表するのかしないかでも、たくさんの血が流れた。……だが、この『現代』ではそれがない。文明に物心がついたその瞬間には、フリーエネルギーなどというものが世にあふれだしてしまったおかげなのかもしれない。さらには国境線もあいまいなために、戦争をするのもバカバカしいのだ。そして、いわゆるエネルギー問題が解決されている『現代』にとっては、化石燃料はただの嗜好品であり、やはりオーバーテクノロジーも嗜好品でしかないのだ。
普通ならば、新しいものが現れれば、古いものは消えていくはずである。
だがこの世界のなかでは、原始的なものは消え去らずに残っている。
人々は手放そうとはしていない。
だからもし、古代の人間が、この世界をみたときには「なんとちぐはぐな世界なのだろうか」と困惑してしまうかもしれないが、要するにそういうことなのだ。
――面白ければなんでもいい。
この『現代人』の価値観である。
この日本を見わたしてみれば、畑道にはニワトリが徘徊し、家々を見てみれば木造建築物が多く、電柱や電線などというものも――エネルギー送信において電線は必要でないために――、一切ない。まるでそれは、かつての明治時代の田舎を思わせる風景がひろがっているかもしれないのだが、時代を先取りしてしまったようなオシャレな西洋風の家――それはさくらの住んでいる家でもあるのだが――そんなものが点在していたり、家の中を見てみれば、やけにハイテクなパソコンが置いてあったりもする、かと思いきや、薪を燃やして暖をとるような原始的な暖房器具があったりもする。
つまり、趣味。
面白ければなんでもいいという価値観に基づいて生きているからこそ、こんな世界の姿になってしまったのだ。お金もあまり必要ではない。
能天気なのだろう。
古代が滅んでしまった原因などは、どうでもいいことなのかもしれない。
その一方で、やはり<PRF研究所>みたいなところが過去のことを調べたりはしているだけあって――それはどんな手段なのかはさくらには分からないことなのだが――古代の情報は少しずつ分かってきてはいる。
関東大震災の情報も、そういうことなのだ。
とにかく、この世界の人々は、『滅びの前後の世界』を区別するときに『古代』という言葉を使うのであった。
「じゃあ、かんとうだいしんさいも、あんまり大きな災害じゃなかったんだ?」
「……」
普段からあまり真面目な顔をしない父親だが、このときばかりは真剣だった。
「さくら」
「……なに?」
「それは誤解だぞ。……すごく沢山の人が亡くなってしまったんだ」
「……そうだったの?」
父親は説明をはじめた。
大地震がおきてしまったちょうどその頃も、あたりには木造建築が非常に多かった。
そして、家々が密接している東京・神奈川でそれは起きてしまった。建物の倒壊によって人々は押しつぶされ……、それだけでなく、丁度お昼どきだったためにあちこちから火災が発生し、火の手はみるみる大規模になり、人々はあっというまに逃げ場を失ってしまった。どこへ逃げても大きな火事。そして火の手はますます激しさを増し――、
凄惨な話だった。
すっかりと青ざめてしまったさくらは、ごくり、と生唾をのんだ。
それを見た父親は、いつのまにか前かがみになっていた身を起こし、
「……おっと」
気まずそうな表情。
「ここまで踏み込んだ話をするつもりじゃなかった。話を戻そう。……とにかく、おかもとかのこだ」
「……うん?」
父親は、右手をのばしてさくらの頭を、ぽんぽん、と軽くたたいた。
「わっ……なに?」
「なんでもない。宿題のお話をしよう」
「……うん」
「おかもとかのこは、沢山の苦労を経験した人だったんだな。だから彼女は地震があった翌年、桜を見たときに、その花の生命の美しさを感じ取った。そして生命力のあふれる歌ができあがった」
「生命力?」
「そう。その字のごとく、生命に宿っている力強さのことだ」
「桜に……、生命力……?」
自信満々に言う父親だったが、さくらにはいまいちピンとこない話だった。思わず首をかしげてしまう。
「うわっ……ポテトがすっかり常温にもどっちまった」
と父親が、残念そうに肩を落とす。
さくらは、ぼんやりと天井を見つめる。
――『桜花いのちいっぱいに咲くからに生命をかけて我が眺めたり』
その歌はたしかに、「力強い」という印象はあった。
しかし、それがどうして桜と繋がるのだろうか。
弱々しい花だと思っていた。
桜の花。生命力。
どうしてもイコールで結びつかない。どうせだったら野に咲く花とか、山に咲く花とかのほうが、生命力はみなぎっているような気がするのに。
「……桜に生命力なんて、あるのかな」
「そりゃ、あるだろ」
「だってさ、桜の花って、すぐにちっちゃうから、私はぜんぜんそうは思えな……あっ!」
さくらは途中で気がついた。
――これは言ってはいけないことだった!
自分の名前が好きではないということが、バレてしまうかもしれないのだ。
さくらは慌てて、両手で口を抑える。
しかし、そんな大げさなリアクションをとってしまったのは更にまずかった。いかに『おばか』な父親であっても、勘づいてしまわない訳がないのだ。
「――ひょっとしてさくら」
「……な、なに……」
さくらは口を抑えたままの姿勢で、恐る恐る応じる。――だから彼女は、嘘や隠しごとがへたくそなのだ。
「さくらって、自分の名前、あまり好きじゃなかったのか?」
「――っ!」
図星をつかれて硬直した。