2話 家族のかたち 了
さくらの家からわずか七〇メートルのところに、木造建築の公民館がある。
物心ついたころから印象の悪い場所だった。
季節の節目などに大人たちが集まって、「がははは」と笑いながら食事をしたり、難しい顔をしながら相談をするような場所なのだ。
――よくわからないけど、へんなばしょ。
そんな漠然とした印象は、さくらが小学一年生のときに、はっきりとした嫌悪感へと変わった。
正月のことだ。
親に連れられて、新年会に参加するために公民館へと訪れた。
まだ人も少ないうちから中に入り、広い座敷のいちばん隅っこで、姉と一緒にストーブで温まりながらお喋りをするところまでは楽しかったのだが、やがて三〇人以上の大人が集まり「かんぱーい」という謎の合唱があってから――、
部屋の中はめちゃくちゃになった。
鼻にツンとくるようなアルコール臭がしはじめたと思いきや、タバコの煙が天井を伝ってきては息苦しくなり、野蛮な笑い声があちこちで発生する始末だ。
極めつけに見知らぬ大人が、
「さくらちゃーん、おめぇもこっちきて一杯どうだよ? がっははは」と呼びかけてきた。
悪魔の勧誘だと思った。
さくらは全力で首を横に振って答えたが、その首振り運動のせいでさらに体調が悪化してしまった。目が回り、意識がもうろうとしてきて、胸の奥のほうから「おええ」という嘔気がみるみると迫ってきた。
しばらくは横になって我慢していたのだが、ある瞬間に限界を迎えた。
――ここにいたら、しぬ。
そんなことを考えた次の瞬間、さくらは近くの窓を開けて、外へと飛び出していた。
地面まで一メートル二〇センチ。ぼんやりとした頭でも、「あれっ、これってあぶないよね」ということは悟ったのだが、時すでに遅し。着地の勢いが強すぎた。どたっ、ごんっ、と激しく音を立て、身体と顔面を打ちつけてしまった。鼻血が出て、顔や服が泥だらけになり、じんじんと身体じゅうが痛みはじめると――、みじめで恥ずかしくなってしまい、大泣きしてしまったのだ。
ある部分では自業自得でもあるのだが、とても苦々しい思い出を作ってしまった。
以来、そんな場所には近寄ることもなくなってしまったのだが――、しかしそんな嫌な思い出も、ある時をきっかけに払拭されてしまった。
小学五年生の夏休み。
セミがあちこちで鳴いていてうるさく、むしむしとして湿度も高い、不快な昼下がりのことだった。
「ちょっと頼みがあんだよ」
と、家に現れるなり第一声を放ってきたのは、近所会のリーダーを務めている七〇歳くらいの男。勇作だった。
「靴を履いて、ついてきてくれ」と言った。
頼みとはなんなのか説明もしないまま、勇作はさくらを連れて裏門を出た。畑道を少し歩き、公民館へとまっすぐ向かっていく。
さくらにとっては近よりたくもないような場所だったのだが、その瞬間には、そんな『つまらない』ことを気にしている心の余裕などはなかった。
両親の事故死――。
そして、葬式。
そんな出来事と向きあってから、二週間ほどのことだったのだ。
投げやりな心境で勇作のあとを追った。
勇作がなにを頼もうとしているかとか、どう対処しようとか、そんなことに関心は持てなかった。ただ、言われたからついてきただけだ。
今のさくらにとって重要な課題は、両親が残した家を売っぱらわれたりしないように、姉と二人だけでも暮らしていくこと――守ること。それだけだ。岡山県から面倒をみにやってきてくれている祖母に向かって、「絶対に私たち、ここで暮らすから」と、毎日のように伝えていたために、「そこまで言うなら仕方ない」とようやく認められたばかりだ。
ただ、認められたというだけで、生活能力が伴っているわけではない。小学五年生のさくらと、中学二年生の真緒。たったの二人だけで生きていくためには、いかにも姉妹は幼すぎた。
大変なのはこれからなのだ。
先のことを考えると、頭が痛くなってくる。
ここ最近、頭痛と胸焼けがとまらない。精神と骨とが、やすりで削られていくような毎日を送っていた。そんなところに、いきなり勇作がやってきたのだ。
――人のたのみごとなんて、どうでもいい。
――てきとうにいいわけをして、無理です、ってことわっちゃおう。
そんな心持ちだった。
その勇作は、公民館の敷地へと入ったところで立ち止まり、背中を向けたまま訊いてきた。
「やっぱりさくら、おめぇ、じいちゃんばあちゃんの家には行くつもりがないんだな?」
断定するような言い方に、さくらは驚いた。
「……どうしてそのことを、もう知っているんですか?」
「あっはっは、田舎は噂がはえぇつーだろ。まあ、そういうことだ」勇作は顔だけを向けて、笑った。
「……」
さくらは、近所同士の助け合いとか、近所の人同士での距離感がやけに短いこととか、そういうのはどちらかというと好きなほうだが、このときばかりは煩わしかった。黙っているつもりもなかったし、考えがまとまったらこちらから伝えるつもりだったのだが、心の中にあるものを勝手に噂話にされてしまうのは、不愉快だった。
はっきり言ってさくらは、むかついた。
「私はここでくらしたいです」目は合わせずに、素っ気なく答えた。
「そうかそうか。ならいい」
会話はそれきりで、勇作は歩きはじめた。
公民館の敷地いっぱいに茂っている芝の間から、沢山の雑草が元気よく伸びている。なんとなく憎たらしくて、わざわざ踏みながら歩いた。
やがて建物が近づいてくると――、
さくらは息をのんだ。
玄関に、天使のような少女がいたのだ。
見知らぬ少女だった。
小学二年、もしくは三年だろうと思った。まったく日焼けのしていない肌に、真っ白のワンピースが非常によく似合う、なんとなく都会の感じのする少女だ。腰のあたりまで伸びている髪は、自然に下ろした状態のまま左右に分け、それぞれをブルーのリボンで肩のあたりで結んでいた。
なぜか足には男子物のスポーツシューズが履かれていて、ワンピースとはまったく合わない。だが、全体的に見てみると、そのアンバランスさがかえって面白かった。
「おう、待たせたな」
勇作が呼びかけると、少女はおどおどとした様子で、ちらっ、とさくらに目を向けた。
「まずは妹同士でのご対面だな」と勇作が言った。「まあ、明日乃ねーちゃんも、真緒ねーちゃんも今はいねーようだから仕方ないけどな。――さて、さくらよ、この子は昨日、ここに引っ越しをしてきた未来ちゃんだ。お前と同じなんだよ。だからお前が面倒をみてやってくれ」
勇作は一気に言ってから、さくらの背中を軽くたたいた。
――お前と同じ?
どういう意味なのか分からなくて、ぽかん、としてしまったが、とにかくさくらは挨拶をしなければと思った。近寄れば近寄るほど女の子は落ち着きをなくしてしまったが、手を伸ばせば触れられる程度まで近づいて――、
さくらは、その少女から『ある匂い』を感じ取った。
ほとんど気のせい、というほどにまで希薄な匂いだったが、さくらにはしっかりと感じ取ることができた。
お線香。
死の匂いだった。
「あ……あ、あの……」
口を開いたのは少女のほうが先だった。
「み、未来と言います……。皆川未来です。あすねえちゃんと、ふ、二人で、ひっこし、してきました……よ、よろ、しくおねがいします」
練習をしてきたような挨拶だった。少女は一瞬だけ怯えたような目を向けてから、深々と頭を下げた。
「……おねえさんと、二人……だけで?」さくらがびっくりした声で訊いた。
「はっ、はい」未来ちゃんは慌てて答えた。
勇作が、「お前と同じ」と言った意味は、つまりはそういうことなのだろう。
さくらは納得するとともに、よく分からない気持ちになった。
胸の奥のほうから羞恥心がわいてきて、いたたまれない気持ちになってしまったのだ。
いや、それどころではない。もっと強烈な感情だ。自分自身に「恥を知れ!」と怒鳴りつけたくなるほどの忸怩たる思いがせり上がってきて、全身が熱くなってしまった。まさに穴があったら入りたい――墓穴を掘って入り込みたいくらいの気分だ。
ごまかすようにさくらは口を開く。
「こっ、こちらこそ、よろしくお願いします。私は大月さくらです。あの、未来ちゃん――」
「……はいっ」
未来ちゃんは小さく身をすくませて、ちら、と瞳を向けてきた。
「私も、お姉ちゃんと二人ぐらしなの。だから、仲良くしてくれたらうれしい……です」
と言ってさくらが手をさしだすと、未来ちゃんは恐る恐る手を出して、握手に応じた。すると彼女は、小さくて、体温の低い手のひらで、しっかりと手を握り返してきた。
その手の感触は、なにかにしがみつこうとするような、助けを求めるような意思が込められいるような気がした。
――私、しっかりしなきゃ。
――私、この子のお姉ちゃんにならなきゃ。
そんな気持ちが自然とわいた。
それから、さくら・未来ちゃんは、あっという間に仲良しになった。
お互いに、まったく趣味のないような二人だったが、喉がカラカラになるまでお喋りをしたり、公民館の一階で飽きることなく隠れんぼ、トランプ、宿題などをやってたりして、一緒の時間を楽しんだ。
仲良くなったのはもちろん、さくら・未来ちゃんの『妹ペア』だけではない。
真緒・明日乃の『姉ペア』も、あっというまに意気投合してしまった。漫画が大好きだという点で共鳴したことがきっかけで、まるで双子かというほどに仲良しになってしまったのだ。
それからというもの姉妹たちは、お互いに、お互いの家を、『第二の家』と呼べるくらいに自由に出入りするような交流を繰り返すようになった。
☆
さくらは、リビングルームのソファで目が覚めた。
「……あれ」
どうやらおかしな場所で眠ってしまったようだ。完全に横になっていた。
天井を眺めると、電気が点いていることに気がついた。自分で点けたのだろうか? 分からない。
タオルケットを一枚、羽織っていることにも気がついた。自分でかけたのだろうか? これも分からなかった。
さくらはひどい混乱に陥った。
昔の夢を見ていたせいなのか、変な場所で目が覚めたせいなのかは分からないのだが、朝夕の感覚もつかめなければ、自分が何者かについてもハッキリと思い出せなくなってしまった。完全に寝ぼけた状態だ。
――私はさくら。中学二年生、だよね?
――あれ、あれっ? っていうか、いま何時だ? 今から学校なんだっけか? それとも放課後なんだっけ?
タオルケットをめくってみると、身体には学生服をまとっていた。ブラウスと膝丈のスカート姿だ。
目線をあげて壁の時計をみると、六時半を指していた。
リビングルームの大窓には、白いレースのカーテンがかけられている。目を向けると、その先が透けて見えた。西の空はぼんやりと明るさがあるものの、これからもっと暗くなるのか、それとも明るくなるのかが分からない。七〇メートル離れたところにある二階建ての公民館は、消灯しているようだった。
ということは朝なのだろうか。
「いや、ちがう。夕方ってこともありえるよね……。あすのさん出かけてるかもだし」
だんだんと最近の記憶をとりもどしてきて、ぼそっと呟いた。するとその声に反応したのは、未来ちゃんだった。
「……あっ、さくらおねえちゃん」
囁くような声だった。
ミラ、と名乗った時と比べてまったく調子が違う。むしろ、いつも通りの未来ちゃんの声だった。さくらが振り向くと、彼女はキッチンのほうから近寄ってきた。
白いワンピース、黒のハイソックス姿。腰まで届くような長い髪は、自然に垂らしながら左右へと分け、それぞれを青いリボンで結んでいた。肩のあたりに結ばれたそのリボンは、昔のものとは少し違う、もっと濃い青色をしていた。
とにかく、さくらが良く知っている『未来ちゃん』の姿だ。
彼女は控えめに笑いながら、
「起きたんだ?」
と、小さな声で訊いてきた。
さくらの見当識が、ようやく現実とかみあった。
「あっ、うん。いま夕方だよね? ごめんね、せっかく泊まりに来てくれてたのに。私、いつの間に眠っちゃったんだろう?」
「さくらおねえちゃん、お話をしながら、そのままスーッとねむっちゃったんだよ」
「あらら……そうだったのか。ゴメン。起こしてくれてもよかったのに」
「ううん……、疲れていそうだったし」
たしかに、そこそこ疲れが溜まっている。
大変な一日だったかもしれない。
朝から寝不足で、クラスメイトの葵、立浪の二人には、ずいぶんとからかわれてしまった。教室では悪目立ちしてしまったし、廊下でゆり子を見つけたときにも大はしゃぎして赤っ恥をかいてしまったし、幼稚園では全力で走り回って、放課後は真面目なお話をしたり。……甲冑がいきなり動いて、悲鳴をあげてしまったり。
「でも、こんなので疲れたなんて言ってたら、あすのさんに怒られちゃうね」さくらは苦笑いでソファから立ち上がり、「うーんっ」と背伸びをした。
早くも足からは、筋肉痛の気配がしていた。
「あすねえちゃんね、今日はいつの間にかいなくなってたの。……たぶん、夜にならないと帰ってこないかも」
テーブルの反対側のソファへと、未来ちゃんは腰かけた。手にはコーヒー牛乳の入ったコップが握られていた。
「うん、やっぱりそうか。あすのさん忙しいみたいだったし」
「あすねえちゃん、ゾンビみたいな顔……してた?」
「あははっ、そうそう。酔っ払いみたいにふらふらして大変そうだったけど、未来ちゃんのことを心配していたよ。『どうしても仕事が忙しくなっちゃうんだけど、さくらちゃん、妹のことをお願い』みたいな感じで」
「……心配する必要、ないのにな」
未来ちゃんは、喜び半分、困惑半分の表情で、コーヒー牛乳を飲んだ。
なにかにつけては遠慮がちな未来ちゃんではあるのだが、さくらの家ではそのような態度もだんだんと見られなくなってきた。出会った頃から、しょっちゅう家にあげていたためだろう。冷蔵庫も開けるし、さくらの部屋には、とくに遠慮もせずに入ってくる。
そんな未来ちゃんが、ふと、テーブルの上に置いてある一枚の紙切れに気がついた。
『ときをあらためてふたたび参上する。ミラより』
と書かれた、例の紙だ。
彼女自身が残していったものだった。
未来ちゃんはすばやくその紙を回収し、右手でグシャッと握りつぶした。
ちら、と棒立ちしているさくらに目を向け、なにかを訴えるように見つめてから、恥ずかしそうに背けた。
「やっぱり、いつも通りの未来ちゃんだよねぇ……」
と、思わずさくらは呟いてしまった。心の中で呟いたつもりだったのに、つい言ってしまった。本当にしつけの悪い口なのだが、言ってしまったものは仕方がない。
たちまち未来ちゃんの白い肌が、かあぁっ、と赤く染まり、うつむいてしまった。
「……」
「……」
二人で沈黙。
さくらには、一連の、未来ちゃんの振る舞いが不思議だった。
自分で「わっはっは、我はミラだ」みたいなことをやっておきながら、今は「そのことには触れないで」と言わんばかりに、目も合わせようとしない。
――ま、まぁ、いいか。
――どっちにしろ、未来ちゃんは未来ちゃんなんだし。
思い直して、忘れてあげることにした。
「ねえ未来ちゃん、今日、なにか食べたいものはある?」と訊きながらキッチンへと歩く。
「――うん? あ、きょ、今日の晩ごはんは、出前をたのんじゃった」
「え? 出前、もう頼んじゃったんだ」
さくらは驚いて、足を止めた。
未来ちゃんは決まりの悪い顔になってしまった。
「あっ……だめだった? なんだかさくらおねえちゃん疲れているようだったし。お金もぼくが払うつもりだったから、めいわくをかけるつもりはなかったんだけど」
「あっ、迷惑なんかじゃないよ。私、出前ってやったことなかったから、ちょっと驚いただけで。それにお外のご飯を食べるのも、たまにはいいなって思――」
お外のご飯。
自分の言葉で、ふと思い出した。
コンビニのご飯を、二食分買っていた内田ゆり子。彼女は今ごろ、あのお弁当を食べているのだろうか。一人で? それとも、おじいちゃんと二人で?
「――とにかくお金も、私が払うからいいよ。私だってたまには、らくをしてご飯を食べたいし」
「そ、そうかな?」
「ひとつだけ思ったことがあるんだけど」さくらは、未来ちゃんの向かい側のソファへと座り直した。
「うん? なに?」未来ちゃんはコップをテーブルに置いて、顔を向けた。
「そういう出前って、あすのさんも未来ちゃんも、よく頼んだりするの?」
「ううん……。さっき電話番号を調べて、はじめてやってみた」
「……なるほど。そうか」
さくらは納得して、ニコニコと笑った。
「え……? うん」未来ちゃんも、あいまいに笑った。
「ありがとう」
と伝えると、彼女は恥ずかしそうに俯いてしまった。
さくらは、だしぬけに嬉しくなってしまい、笑顔を止められなくなってしまった。ソファに置いたままのタオルケットをたたみはじめたのだが、つい――、
「ふふっ、ふふふふ」
口から笑い声が漏れた。
すると未来ちゃんの顔から恥じらいが消え、ハッキリと怯えるような顔になってしまった。
「あっ、ゴメン。私、嬉しくて笑っちゃっただけなの」
「……そ、そう?」
「そうそう。そうだよ」
「……うん」
未来ちゃんは釈然としない表情で、コーヒー牛乳を手に取って、飲んだ。
さくらが嬉しかったのは、タオルケットをかけてくれたこととか、疲れた自分のために出前を頼んでくれたこととか、そういった行為に対する喜びだけではなかった。胸の奥のほう、もっともっと深いところにある『欲求』が満たされて、嬉しくなってしまったのだ。
だがその気持ちを、うまく言葉にして伝えることはできそうになかった。
できそうにないから、率直に思いついたままを言った。
「私、今日はへとへとになって、ラッキーだった」
「……どういう、意味?」
「私にも分からない」
「……むう?」
未来ちゃんはますます困った表情を浮かべてしまった。「からかわれているのだろうか?」と訝しむような目だ。
そこで丁度、家の呼び鈴が鳴った。「こんばんはー」と知らない男の声がしたので、出前だろうと思った。二人は立ち上がり、「お金は私が払うからね」「いや、ぼくが」などと言い争いながら玄関へと向かった。
疲れてへとへとになってしまったせいで、うかつにもソファで眠ってしまった。
眠ってしまったせいで、未来ちゃんが自分のために、あれこれと思いやりの気持ちを示してくれた。
そのおかげで、未来ちゃんと自分との関係は、『家族なんだな』と再認識することができた。
私には家族が沢山いる。嬉しい。
さくらが満たされたものとは、要するにそういう事だった。




