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2話 家族のかたち その5

 コンビニへと足を踏み入れた途端、さくらは一人の女子高生とぶつかりそうになった。

「わっ……と。すみません」

 とっさに避けながら、さくらは謝った。

「……あ……あたしこそ……すみません……」

 彼女は、元気のない、消え入りそうな声で返事をした。

 見覚えのある半袖のセーラー服だった。

 さくらはすぐに「あ、おねえちゃんと同じ制服だ」と気がついた。そしてその服装は、どこか下ろしたてのような初々しさがある。きっと衣替えをしてからあまり着ていないのだろう。間違いなく高校一年生なのだろうと思った。

 さくらは視線をあげて、彼女の顔を見た。

 ぎょっとした。

 まるでゾンビのような女子高生だと思った。

 彼女のポニーテールこそ、よく梳いてから綺麗に整えてあるのだが……、一目見て分かる。この女性は何日もまともに眠っていないはずだ。両目には、禍々しくて深いくまが刻まれている。肌にもつやがない。さらに驚くことに、彼女が手にぶら下げているビニール袋には、ブラックコーヒー、栄養ドリンクが何本も入っていた。彼女はきっと家に帰ってから、まだまだ不眠活動を続けるつもりなのだろう。

 さくらは絶句した。

 すると、

「あれ……ゆめちゃんだ……」

 と、女子高生はさくらを見ながら言った。だがその目の焦点はずれている。

「えっ? わ、私が? ゆめちゃん?」

「アハハ……ゆめちゃん……どうして……私の原稿用紙から勝手に出てきちゃったの……」

「あ、あのー、私はゆめちゃんじゃないですよ」

「え……でも……あれ……」

 もはや彼女は、ゾンビと言うよりは酔っ払いのようだった。バランス感覚も狂っているようで、静止していられずに、ふら、ふら、と動いた。その深い酩酊状態(めいていじょうたい)の女性には、ゆり子も怯えたように顔をこわばらせた。

 さくらも困惑。

 これは関わり合いになるべきではない! と思った。それではさようなら! と言って逃げようかとも思った。……だが、さくらは一つ気がついたことがあって、踏みとどまった。

 ――あれ?

 ――もしかして……。

 この女子高生、ゾンビのような顔をしていたためにすぐには分からなかったのだが、よくよく観察してみると知っている顔だった。

 というよりは、仲の良いさくらのご近所さんだった。

 決して危険人物のたぐいではない。

「あっ! 誰かと思ったけど、あすのさんだ!」

 さくらは、女子高生に向かって呼びかけた。

「……へ……? あたしは明日乃だけど……ゆめちゃんが……あれ……」

 と、明日乃と呼ばれた女子校生は、ぽかーんとしてさくらを覗き込むように見た。寝不足の怖い瞳が近づいてきて、さくらは「うっ」と声を漏らしてたじろいだ。

「あ……あすのさん、あすのさーん。大丈夫? しっかりして。わたしはゆめちゃんじゃないよ。さくらだよ」

「さくら……ちゃん……?」

「うん。私はさくら」

「……あああっ!」

 ようやく明日乃は、なにかの催眠術がとけたようにハッとして、我を取り戻した。痴態を見せてしまったことが恥ずかしいのか、みるみる顔が赤くなり、両手を頬に当てて「あ……ああっ……あああ」と言葉にならない言葉を発した。

「知り合いだったんだ……よかった」とゆり子が安心したように言った。

「うん。私のすぐ近所に住んでいる、あすのさんだよ。怪しい人じゃないよ」さくらが説明した。

「あっ、ハッ、ハイ! あたし明日乃です! 驚かせてゴメンナサイ」

 明日乃が焦りながら自己紹介した。

 まるで新人サラリーマンのように、元気よく頭を下げ――――あまりに勢いよく頭を下げたせいなのだろう、そのまま倒れた。ごんっ、という音を立てて頭が地面に突き刺さり、さくらとゆり子が同時に青ざめた。レジカウンターの中にいるお兄さんも「うぉ」と声を漏らした。

 どうやら本当に、バランス感覚がおかしくなっているらしい。

「……いったあああぁぁ……い」

「あすのさん! だっ、大丈夫?」さくらがしゃがんで呼びかけた。

「だっ、だいじょうぶ、全然だいじょうぶ! 痛いって言ったのは嘘だし! それに今のでハッキリ目が覚めたから!」

 と言いながら素早く起き上がったのだが、明日乃は涙目だった。おでこも赤くなっていて痛々しかった。

 そして彼女は、「そうだ!」と何かを思い出したように言う。

「ちょうど良かった! あのね、さくらちゃんにお願いしたいことが二つあるの。だからいま、さくらちゃんの家に行こうとしていたところだったの」

「……お願いが、二つ?」

「うん。いきなりでごめんね。いいかな?」

「……もっ、……もちろん大丈夫だよ。……えっと」

 確かに色々な意味でいきなりだ。

 なかなか頭がついていかなくて、さくらはひるんでしまった。そんな様子を見ていたゆり子が、すかさずフォローを入れる。

「お店の外に移動しますか?」

「あっ、そうだね! 他のお客さんの邪魔になっちゃうね」と明日乃が気がついて、「そういえばそうだね」とさくらも応じた。

 三人で外に出た。

 日が暮れ始めたせいなのだろうか、道路には車が少しずつ増えてきて、広い駐車場にもちらほらと車が入っていた。

 間をとったおかげで、さくらの中で『お願い』とやらを聞き入れる準備がととのった。

「それで、あすのさん。どうしたの?」

「うん。あのね」

 さくらが訊ねると、明日乃はちょっとだけ申し訳なさそうな上目遣いで、言う。

「あたし、また仕事で忙しくなっちゃってさ……、家事とかぜんぜん出来そうにないの。だから二、三日の間だけでいいから、うちの妹を預かってほしいんだけど」

「やっぱり。一つは未来ちゃんのことかなって思ってた」

「アハハ……申し訳ない」

「あ、全然いいの!」


 女子高生、明日乃も、『姉妹で二人暮らしのような生活』を送っている。

 そして彼女は、普段ならば妹――未来ちゃんの面倒を一人でみているのだが、仕事で忙しくなってしまうようなときには、さくらの家に預けているのだ。

 小学六年生。皆川未来みなかわみらい

 さくらは未来ちゃんが大好きだった。

 家も近いため、一緒に遊んだり、宿題を教えたり、ご飯を与えたりと、未来ちゃんをまるで本当の家族のように可愛がっているのだ。


「むしろ私ね、いつも未来ちゃんが家に来てくれること、楽しみにしているんだよ。ご飯も作りがいがあるし、可愛いし。だから私、今回も喜んで預かっちゃうからね」

「よかったぁ……」

 明日乃は、セーラー服の胸のあたりに手をあてがって、ホッとしたように言う。

「あたしの晩ご飯は、編集さんが食べさせてくれるからいいとしても……、うちの妹は、自炊能力とかまったくないからさー。このままじゃ毎日、コンビニのお弁当を食べさせることになりそうだったよ」

「そ、そんなのってだめだよ」

 さくらがちょっとだけ不満げに言う。

「未来ちゃんだって育ち盛りなんだから、毎日コン――」

 言葉が止まった。

 毎日コンビニ弁当なんか、絶対にだめだよ! そう言い切るつもりだったのだが、ここはコンビニのすぐ店先だ。

 さくらは小さな声になって、言い直す。

「ぜったいにだめだよ……未来ちゃんだって育ち盛りの女の子なんだから。コンビニのお弁当とかよりも、ちゃんとした家のご飯を食べさせないと。わたしが絶対に許さないから……」

「そ、そうだよねぇ……アハハ」

 明日乃は頭に手をあてて、決まりが悪そうに笑った。

 すると店の自動ドアが開いて、お弁当の入った袋を下げた男性が出てきた。彼は自分の車へと乗り込み、エンジンをかけた。

 さくらは自分の言葉にちょっとだけ自信が持てなくなってしまった。バツの悪い気持ちになってしまい、ゆり子のほうを見た。

 ――あれっ?

 気がついた。

 ゆり子の様子が明らかにおかしい。

 気まずそうな表情で、地面をじーっと見つめているのだ。しかもその顔からは、うっすらと汗が噴き出しているようだった。

 ――どうしたんだろう。もしかしてゆり子ちゃん、体調わるいのかな?

「とにかくありがとうね! さくらちゃん」明日乃がお礼を言った。

「あ。うん」

 さくらは頷きながら、ちら、とゆり子に目を向ける。なんとなくその様子が気になってしまったのだ。不自然なほどに汗をかいている。

 さくらは思わず呼びかけた。

「ゆり子ちゃん、トイレでも我慢しているの?」

「ちっ、ちがっ!」

 とゆり子が驚いて、きょろきょろと辺りを見た。ウェーブのかかった髪が、ふわりと浮き上がった。それから彼女は、取り繕ったように平然とした表情になった。

「……わ、わたしはどこもおかしくなんかないから大丈夫よ。それにわたし、やろうとすれば自炊じすいも出来るし」

「え? なんのこと?」

「……そっ、それより今は、明日乃さんが困っているんでしょう。助けてあげないと」

「うん。それもそうだね」

 さくらが明日乃に目をやった。彼女は、セーラー服のリボンを指でいじりながら半笑いだった。その目の下に刻まれたくまは、痛々しいくらいに深かった。

 ――そうだよね。

 ――あすのさん、本当に大変そうだし。

 その顔がすべてを物語っている。さくらがじーっと見ていると、明日乃は「アハ、アハハ……」と苦々しく笑った。


 高校一年生の明日乃と、その妹――小学六年生の未来ちゃんは、三年ほど前、さくらの近所へと引っ越してきたばかりだった。

 きっかけは、父親の他界だったようだ。

 どうやらその父親は、生前はたった一人で明日乃・未来ちゃん姉妹を育てていたらしかった。

 彼がどんな人生をたどってきて、どんな人脈を持っていたのかは、さくらには知るよしもない。だが、この付近に住んでいる人間とはなにかつながりがあったのだろう。『近所会のリーダー』が、姉妹を引き取る形になったのだ。

 近所会のリーダーとは、以前、さくらの家に訪問して大量の川シジミを持ってきてくれた、七〇代くらいの男――勇作ゆうさくだ。

 勇作は、公民館――木造建築の二階の部分に、姉妹を住まわせはじめたのだ。

 ただ、勇作は『親』になったというわけではない。もちろん姉妹とは、血のつながりもまったくない。彼と姉妹との関係性は、『親と子』というよりはむしろ『大家さんとアパートの住人』といった感じなのだろう。

 だから姉妹は、勇作の世話になるようなことも少なく、事実上の二人暮らしをしていたのだが……、

 最近、どうやらその二人暮らしもギリギリのところで成り立っているようだった。こうやって明日乃が「さくらちゃん、助けて!」と言ってくる頻度ひんどが、ずいぶんと増えてきたのだ。彼女の『漫画を描くというお仕事』が忙しくなってきたせいなのかもしれない。


 ――あれ?


 さくらはいきなり思い出した。

 勇作のセリフだ。

『シジミの代わりって言う訳じゃーねーんだが、ちっと俺の相談にのって貰おうと思ってな』

 どうやら彼は、この姉妹のことで悩んでいるようだったのだ。あれは結局なんだったのだろうか。解決したのか、それともまだ解決していないのだろうか。

 気になってしまったが、「ま、今はいいか」と思い直した。


「やっぱり漫画のお仕事、前より忙しくなってきたの?」さくらが訊いた。

「そうなの。でも嬉しくて嬉しくて、ますます頑張っちゃうの。だってホラ、沢山の人が読んでくれるようになったんだもん」

 明日乃は、寝不足でゾンビみたいになっている顔を、ほころばせて答えた。

「それはそうなんだけど。でも、今にも倒れちゃいそうで心配だよ」

「えっ、そ、そうかな。アハハッ。でもね、大丈夫。今の私から漫画を取っちゃったらなにも残らないよ。これだけは絶対に、倒れてもゆずれないっていうか」

「うーん。言ってることがなんだか、うちのおねえちゃんみたいに滅茶苦茶だ……」

「だーいじょうぶ大丈夫! さくらちゃんは心配性だなぁ」

 明日乃はアハハっ、と快活に笑って、さくらの肩を二回叩いた。

 さくらは納得したのかしないのか、曖昧あいまいな表情で笑った。

「なるほど……」

 とゆり子が、なにかに気がついたように呟いた。

「うん? どうしたの?」さくらが顔を向けた。

「えっ……、あ、なんでもないわ」

「そうだ、さっき紹介しようとしていたのに、忘れちゃってた」とさくらが気がついて、二人の顔を交互に見ながら、あらためて紹介を始めた。

「こちらがゆり子ちゃんで、同じ学校の生徒なの。バイト先も一緒なんだよ」

 と、手で示してから、

「こちらがあすのさん。ご近所さんで、高校生なのに漫画家さんなの。ちょっと寝不足っぽい顔をしているけど、怪しい人じゃないからね」

 さくらが喋り終えるなり、明日乃は、にこーっと愛想の良い顔で、「ゆり子ちゃん、さっきは驚かせてほんとゴメンね」と右手を差し出した。

 一瞬ゆり子が面食らってしまい、焦りながら握手に応じた。

「えっ、あ、私こそ、変な目で見ちゃってごめんなさい」

 と言いながらもゆり子は、まるで宇宙人とでも出会ってしまったかのような、不思議なものを見るかのような瞳で、じーっと明日乃を見つめた。

 そして、「そうか、公認だったんだ」と呟いた。

 明日乃は、ぴくっ、と微動びどう

「うん? なんのこと?」さくらが訊いた。

「ええとね、漫画のことよ。明日乃さんの」ゆり子は、握手をしていた手を放しながら答えた。

「漫画家のこと?」

「ううん。漫画家のことじゃなくて、漫画のこと」

 どういう意味なのだろうか。

 さくらは、きょとん、としてゆり子を見つめ……、それから明日乃に目を向けた。

 明日乃は目を丸くして、口もポカンと開けていた。

 その顔が、みるみると真っ青になっていく。

「あ……あの……」

 と明日乃が、おずおずと口を開く。

「あのですね……、ゆり子さんとやら……」

「はい?」

 なにか深刻そうな明日乃の様子に、ゆり子も不思議そうに答えた。

「ええと……ゆり子さん……いえ、ゆり子ちゃん。えっと、私たちが会うのって、初めてだよね?」

「はい。初めてです。初対面です」

「私が漫画家っていうことも、今知ったんだよね」

「はい。今知りました」

「もしかして、私がどんな漫画を描いているのかも……」

「はい。さっき分かったばかりです」

「ふんげえええええええっ!」

 明日乃が驚愕して、おかしな声を発した。

「ふんげ?」さくらが思わず反復した。

「…………あれ?」

 と、ゆり子の顔にも、みるみると焦りが生じはじめた。

「……」

「……」

「……」

 おかしな空気が流れた。

 三人が、三様に、次の言葉に迷ってしまい沈黙してしまった。

 明日乃は驚愕したまま凍り付き、ゆり子は「しまった」とばかりに後悔した顔になり――、

 さくらは、二人の反応の意味が分からなくて困惑した。

「あ……あの」

 とさくらが、おそるおそる口火を切った。

 ぎくうっ、と二人が、顔をこわばらせた。

 二人の顔は、まるで大量の〇点の答案用紙を、親の前で盛大にぶちまけてしまったかのような痛恨の表情になっていた。

「えっと、ゆり子ちゃん。あすのさんがどんな漫画を描いているのか、分かったの?」

「え……と……分かった……のかなぁ……」

 微妙な返事だった。

 さくらの疑問は、ますます深みにはまった。

 ――うん?

 ――どういうこと?

 ――ゆり子ちゃん、あすのさんがどんな漫画を描いているのか、分かっちゃったんだよね?

 どうして分かってしまったのだろうか。不思議だった。さくらは、明日乃がどんな漫画を描いているのかは、まったく分からない。

 ――『月刊誌で連載をしている』

 そこまでは本人が教えてくれたのだが、具体的なことまでは教えてくれなかった。

 だからさくらは、明日乃のペンネームも知らなければ、当然、連載しているタイトルのことも知らないのだ。

 なぜゆり子は、すぐに分かってしまったのだろうか。

 しかも明日乃は、その月刊誌にはもちろん、コミックなどの後書きや、作者インタビューなども一切関わりを持たなかったらしいのだ。当然、顔写真などのようなものも世に出したことがないそうだ。つまり、明日乃の顔を見ただけでは、彼女がどんな漫画を描いているかまでは、絶対に分かるはずがないのだ。

 にも関わらず、おそらくゆり子は「明日乃がどんな漫画を描いているのか」をあっけなく見破ってしまったらしい。

 ――ってことは……、

 ――つまり、私たちの会話だか何かで、気づいちゃったってことだよね?

 さくらは思わず、考え事が口に出てしまう。


「そういえば……さっきあすのさん、私のことを変な名前で呼んでたけど……それかなぁ」


 完全にひとりごとだった。

 悪いクセがつい、こんなところで出てしまった。

 それを聞いた明日乃・ゆり子の緊張が高まった。その顔にはみるみると汗が浮かんでいく。

 二人は目を合わせた。

 さくらがもう一度、なにかを訊いてみようかと口を開きかけたとき――、

「そっ……そんなことよりっ」とゆり子が、さくらの思考をさえぎるように言った。

「うん? なに」さくらが応じた。

「明日乃さんはさっき、お願いしたいことが二つある、って言っていたような気がするんだけど……」

 ゆり子が、むりやり話の流れを変えた。

「あ、そういえば」とさくらが思い出して言う。「あすのさん。もう一つってなに?」

 すると女子高生、明日乃は、

「……うんげっ!」

 と、これまた本当に訳の分からないことなのだが、「まずい」とばかりに肩を縮めて、だらだら、だらだら、とおかしな汗を流し始めた。

「うんげ?」

「……」

「……」

 ――あれ?

 ――本当に……二人とも、どうしちゃったの?

 ひゅう、と風が吹き、三人の前髪がむなしくなびいた。

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