2話 家族のかたち その4
さくらの通う中学校の目の前には、東西をつらぬく一本の大きな道路がある。
殺風景な道路だ。
電柱などのようなものも立っていなければ、街路樹のようなものも植えられていない。そのために見渡しが良く、ついでにいうならば日中の交通量もそれほど多くない。田んぼや畑に囲まれた、大きくて素朴な四車線が、ひたすらどこまでも続いているのだ。
中学校を出てからこの道を、東に迎えば山脈へと入っていき、西に向かえばさくらの家、またはスーパーや繁華街、さらには奈良盆地の中心へと行ける。
さくらにとっては、移動の主要になるような道路だった。
そんなど田舎の、だだっ広い道路の歩道を、さくらとゆり子は並んで自転車を押して歩き、おしゃべりに興じていた。
「やっぱりゆり子ちゃん、モデルさんみたいだね」
「……私が、モデル……ですか?」
いきなりの話題に、ゆり子はきょとんとした顔をさくらに向けた。
「うん。すらっとしているし、美人さんだし」
「そんなことを言われたのはじめてですけど……でも、小学生の頃はもうちょっと太っていたんです」
「そうなんだ? っていうかゆり子ちゃん、どうして急に敬語なの?」
「え……だ、だって先輩ですから」
「あはは。窮屈だし、私は普通に喋りたいな」
「……そう、ですか」
「おねがい」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「うんっ!」
二人は顔を合わせて笑った。さくらは満面に喜びを浮かべ、ゆり子はしとやかに。
時刻は一七時を少しまわった頃である。まだ明るくて、日没までには二時間ほどを要するだろう。西日がまぶしい帰り道だった。二人は目を細めたり、ガードレールの向こう側に広がっている田んぼを視界におさめながら、自転車を押して歩き続けた。
五月上旬に植えられた稲穂は、膝の高さにまで成長していた。
「でもさ」さくらは横目でゆり子を見ながら言う。
「……うん?」
「私、ゆり子ちゃんが太っていたなんて言われても、まったく想像できないけど」
「……小学六年生のときにね、やせるために努力したの」
「どういうことをしたの?」
「筋トレよ」
驚いたさくらが「えっ」と声をあげる。思わずゆり子の顔を見た。
彼女は正面からの太陽が眩しいようで、目を細めているところだった――というよりはそう見えているだけなのかもしれない。普段から彼女は眠そうな瞳をしているのだ。その瞳が向けられると、さくらはドキッとした。やはり、ゆり子は中学一年生らしからぬ、どこか大人びた雰囲気がある。
「……って言っても、ガチガチの筋トレじゃないわ。週に一回だけ、しかも一〇分くらいしかやらないし。……ただ、その一〇分間は集中してやっていたわ」
「ジョギングとか、ウォーキングみたいなのだと思った」
「わたし、走るのは苦手だし……ウォーキングにしても、時間がかかるから嫌なの」
「あー、たしかに時間はかかるかもね」
中型のバスが三台、二人を追い越して行った。ガソリンで動くタイプのバスだったためにエンジン音がうるさい。しかも重い車体を支えているタイヤが、わずかな段差を踏んでズシンと道路を揺らした。
バスが遠ざかって静かになってから、ゆり子が続ける。
「……わたしはその頃、歩いたり走ったりするようなダイエットは意味がないと考えていたわ。やめたとたんにどうせリバウンドするんだろうし……食べる量を減らすようなダイエットなんてもってのほかよ。お腹が空くのはつらいから」
「お腹が空くのは、確かに辛いよねぇ」
「でしょう。あんなものまるで修行よ。ナンセンスだし、それに――」
――あっ
――いよいよ毒舌が出るのかな?
と、さくらは少しだけ期待したが、そんなことはなかった。
「それに筋肉を増やしたほうがダイエット効果が長持ちする、っていうことにも気がついちゃったし」
「筋肉……」
ゆり子の口から『筋肉』という言葉が出てきたことには、どうしても違和感を感じる。似合わないのだ。花のような少女とは、まるきり無縁であるような言葉のように思えた。
さくらは横目でゆり子の腕を観察する。筋肉も脂肪も感じさせないようなほっそりとした腕が伸びていた。
「あのね」
とゆり子は前置きをしてから言う。
「たまに、わたしは食べても太らないんだ、なんて言う人がいるじゃない? ずるいと思わない?」
「あ、いるいる。ずるいよねえ」
「ちなみに私のおじいちゃんがそういうタイプなんだけど」
「へええ? そうなんだ」
「うん。……でもね、おじいちゃんと話をしているうちに、どうして彼がいくら食べても太らないか、納得できたの」
「どうして太らないの?」
「筋肉質なのよ。過去に柔道をやっていたらしいわ。しかも結構本気で。その頃は『鬼の内田』なんてあだ名で呼ばれていたみたいよ」
「お……鬼の……内田? なんだか怖そうなおじいちゃんだね」
「鬼のさくらちゃんも怖かったわ」
「うっ!?」
鬼のさくら。
いきなり言われてしまってギクリとした。
つい昨日のことだ。バイト先で絵本を作っている時に、姉の真緒とゆり子が二人で、あまりにもバイオレンスでグロテスクで子どもにトラウマを残しそうな凶悪な絵本を作ろうとしていたものだったから――、さくらはつい、二人を怒ってしまったのだ。
家に帰ってから、真緒に「鬼のようだった」と言われてしまったほどである。
「ごっ、ごめんなさい。ごめんなさい。……私、生意気に口出ししちゃって」
「ううん。あれで良かったわ。むしろ感謝しているのよ。……もし、あの時さくらちゃんが指摘してくれなかったら、マリンちゃんからもっともっと強烈な雷がおちてきたはずよ」
「ふうん……? っていうか、ゆり子ちゃんも支部長のこと、マリンちゃんって呼んでいるんだ?」
「あっ!」
今度はゆり子が驚いた。
しまった! とばかりに目を丸くして、手で口を抑える。頬がすこしだけ赤く染まった。
「……ええとなんの話だったかしら、そうだ鬼の内田の話をしていたんだわおじいちゃんの話よ」とゆり子は早口で、むりやり話題の軌道修正をした。
「……あ、うん」
「そんなおじいちゃんは、わたしの三倍くらいの量の飯を食べるし、間食だってばくばく食べるわ。今は運動らしいことなんてなにもやっていないのに、まったく太る気配がない。腕もそんなに太いわけじゃないし、身体つきだってほっそりとしているの。……でもね、その腕を触ってみると、まるで鋼鉄のように硬くてびっくりしたわ」
「すごい」
「でしょう。だからね、要するに食べても太らない人って代謝が良いのよ。じーっとしているだけでもどんどんエネルギーが燃えていくのね。おじいちゃんがうらやましかったわ。寝っ転がってグラビア雑誌眺めているだけでも痩せていくんだから」
「……」
ゆり子のおじいちゃんはグラビア雑誌を読む。知りたくもないような情報だった。一瞬つっこみを入れようかとも思ったが、他人の趣味に関わることだ。口出しすべきではないだろう。
「だからゆり子ちゃんも、筋トレをやったんだ」
「うん……そういうことなの」
「なるほど」
あらためてさくらは、ゆり子の身体つきを見てみた。半そでのワイシャツから伸びている腕、スカートから伸びている足はともに細い。とてもではないが筋トレをしているような手足には見えなかった。どちらかというと華奢な感じのする外観だ。
「どういう筋トレをすればいいのか、今度教えて」
「……いいわよ。きっと想像しているよりも辛くはないし、簡単だから。うちに遊びに来たときにでも教えるわ」
「うんうん。行きたい。おじいちゃんがどんな人なのかも見てみたいし」
「あ……おじいちゃんは、家にあまり帰ってこないの。忙しいみたいで。だから家にはわたし一人よ」
「一人? っていうことは、ゆり子ちゃんはおじいちゃんと二人暮らしなんだ?」
「……うーん。……まあ、そんな感じ……かしら」
ちょっとだけ悩んでから、ゆり子は曖昧に頷いた。
二人暮らしというと、自分と同じような境遇なのだろうか。さくらは俄然、ゆり子に親近感を覚えた。
中学校の門を出てからすでに三〇〇メートルは歩いただろうか。真緒の通う高校を、右手に通り過ぎたところだった。
このまま一キロメートルも進まないうちに、さくらの家が見えてくる。その家からさらにまっすぐ二キロメートルほど進むと、バイト先である『耳成山』、さらに二キロメートル進んだところにゆり子の家があるようだった。
「わたしのおじいちゃんのことは別にいいの。さくらちゃん、なにか訊きたいことがあるようだったけど?」
「あ、そうだね」
言われてさくらは、はっとした。
こうやってゆり子と一緒に帰ろうとしたのも、帰る方向が同じだった――それだけではなく、バイトについて質問してみたいことがあったのだ。
「あの絵本、ほんとうにあんなストーリーで良かったのかな?」
と率直に尋ねた。
「え? 昨日の絵本のこと?」
「うん。だってさ、PRF研究所のお仕事は、古代の文化とか文明を蘇らせることだよね? でも私たちが昨日作ったストーリーは、もうほとんどオリジナルと言ってもいいくらいの本だったから。……ほんとうにあんなのでいいのかなって」
「ああ、たしかに。蘇らせるというよりは、もうほとんどオリジナルよね」
「そうだよね? それからあの『元々の絵本』っていうのも、古代の日本ではあらゆるところで読まれたくらいに、有名なお話だったんだよね?」
「うん。そうみたいね」
「だったら、同じお仕事をしているPRF研究所の人が、もっと正しい形で絵本を蘇らせているかもしれない。……そうなれば、私たちが作った絵本は『こんなものは正しくない。適当な仕事だ』って言われちゃうんじゃないかなあ」
不安な口ぶりで、さくらは一気に喋ってしまった。
ゆり子は、あくまでも落ち着いた声で言う。
「気にしなくてもいいと思うわ」
「そう、かな?」
「マリンちゃ……」と言いかけてゆり子は、いったん口をつぐんだ。
「……」
「コウモリ女も昨日、そういうようなことを言っていたでしょう? たしか『そのほうがいい』みたいなことを」
「……あ、うん」
「もしかしたら誤解しているかもしれないけれど、PRF研究所って、さくらちゃんが思っているほど真面目な団体なんかじゃないわ」
「そうなの?」
ゆり子は頷いた。
「PRF研究所では、年に一度、大規模な報告会があるわ。世界中の研究員が日本に集まるんだけどね。でも実際のところ、ただの陽気なお祭りにしかならないの。さくらちゃんもそれを見れば一発で分かるわ……彼らがいかに『好き』でやっているのか。……それから『趣味』の延長でしかないんだろうなってことも」
「へえぇ?」
報告会という堅苦しそうなイベントなのに『陽気なお祭り』だとは……。言葉を置き代えるならば『パーティ』だ。きっと本当に、世界中の研究員たちが集まって騒ぐのだろう。さくらはその様子を想像しておかしくなった。
ひとつだけ不思議なのは、いかに陽気なお祭りになってしまおうとも、報告会というからには閉鎖的なイベントであるはずだ。ゆり子はそれに参加したことがあるということなのだろうか。とするならば、いつか自分も参加出来るのだろうか。
考えを巡らせる間もなく、ゆり子が続けて喋る。
「わたしたちの耳成山の研究所では、おもに子どもに関わるような文化・文明を調べているでしょう? でも世界中に散らばっている研究所のなかには、科学技術だとか、古人の思想とか、そういうものを調べている人たちもいるわ」
「うん?」
「結局はみんな、ただの趣味でやっているようなものなの」
「そうなんだ」
「……うん。だからね、みんなは恐れているのかもしれない」
「……恐れる? なにを?」
小さな交差点に入った。ちょうど信号が赤になってしまったため二人は立ち止まる。
田んぼに広がっている稲穂は、いつの間にかピタリと静止している。風が凪いでいたようだ。穏やかな光景ではあるのだが、静かすぎてかえって不気味だった。横断していく車をぼんやりと見ていると、ゆり子が続けて言う。
「あのコウモリ女を含む世界中の研究員たちは、知り過ぎてしまうことを恐れ入ているんじゃないかしら……知識とか技術とかを。もしくは単純に歴史を」
「……」
さくらは返事ができずにゆり子を見つめる。
彼女はとくに表情も変えずに、たんたんと言う。
「温故知新」
その言葉にさくらはドキッとした。以前、支部長とも同じ話をしたことがあった。
「これは、過去のことを学んで、そこから道理を知りましょう、みたいなことわざなんだけど」
「……うん」
「でもその一方で、『やぶをつついてヘビを出す』っていうことわざもあるわ」
「あ」
「過去を知ることで、私たちの好奇心が満たされたり、人や世界の成長につながるんだったらまだいい。でも、それだけじゃないかもしれない。なにか悪いことにつながる可能性もある」
「そうかもしれない」
「うん。だから、PRF研究所の人たちはときに、正しい形で過去のことを蘇らせることを忌み嫌うんじゃないかしら。たしかに研究所は、世界に与えている影響力も強いし、資金も研究員もたくさん抱えているわ。けれど、あくまでも趣味の延長みたいなものなの。所詮はただの『古代人マニア』なの」
「……真面目じゃないって言ったのは、そういうことか」
「うん」
信号が青になった。
歩きはじめたさくらの足取りは重かった。ちら、とゆり子の顔を見る。彼女の目は遠くのほう、耳成山のほうを向いていた。その表情は一貫して泰然としていた。
「あくまでも、これはわたしの予想よ。あのコウモリ女の話をあれこれ考えあわせた、わたしの予想」
「……そうなんだ」
「……わたしには、あのコウモリ女がなにを考えているのか分からない。でもこれだけは言える。今あの女には、信念がない。どこか投げやりでこの仕事をやっているわ」
「投げやり……なの?」
「うん。いい加減でやる気がみられないわ」
そう言い切るゆり子の口調は、支部長を責めたり蔑んだりするようなものではなかった。むしろ理解者のそれである。支部長とゆり子、二人の間にはなにか特別な信頼関係があるような気がした。
だからこそ支部長に対しては、あの毒舌なのだろうか?
そう考えると納得がいった。
「そういえば、支部長って、歳はいくつなんだろう。私と同じ歳だって予想しているんだけど」
「さくらちゃんの一つ上よ」
「そうなんだ?」
「だけど、大学を卒業している」
「えっ!」
「東京に住んでいたのよ。都会の学校では能力さえ伴っているならば、どんどん進級できるからね。だからマリンちゃんはとっくに大学を卒業しているの。三年前に奈良に帰ってきたのよ」
奈良に帰ってきた。
その言葉が不思議だった。
「PRF研究所で働くために、戻ってきたのかな?」
「ううん、奈良に帰ってきたのは保護者の思惑よ。……普通の中学生になってほしかったの。歳相応の勉強をさせようとして……というよりは、マリンちゃんには歳相応の環境で、普通の女の子として育ってほしいと考えたみたい」
「そうだったんだ」
その話は興味深くて面白いのだが、さくらにとって一番面白い部分は、ゆり子が『マリンちゃん』と自然に口にしているところだった。
そしてそのマリンちゃん。目を合わせても、いつもその途端に逸らされてしまう。やはり彼女には、極度の人見知り、もしくは対人恐怖症、そういう性質があるのだろう。
「でも支部長って、あの『超能力』があるから、あの職場についたんだよね?」さくらが言った。
「ちょ、チョウノウリョク……? ずいぶん大げさな表現をするのね」ゆり子がきょとんとして答えた。
「だって、かっこいいし」
「……でもね、彼女のリーディングが発現したのは、偶然にもあの職場についてからよ。そして支部長にさせられてしまったのも最近のお話」
「へええ、……ゆり子ちゃん、支部長のこと詳しいね」
何気なく放った一言に、ゆり子はひどく驚いて絶句した。他人のことをぺらぺらと喋っていることに罪悪感でも覚えたのだろうか。決まりの悪そうな顔になって「この話題はここまでにしましょう」と提案した。さくらは笑いながら頷いた。
ゆり子の足が、ぴたり、と止まった。
いつの間にかコンビニの目の前だった。ずいぶんと歩いていたようで、もうさくらの家までは二〇〇メートルといったところだ。
「コンビニ、寄っていくの?」さくらも立ち止まって尋ねた。
「……うん」
「じゃあ、私も寄る」
「うん」
ゆり子の顔がわずかに微笑んだ……ような気がした。




