2話 家族のかたち その3
授業はすでに、六時間目に突入していた。
すこしだけ特殊な授業である。
さくらの中学校に併設されている『幼稚園』で『子守り』をすることだ。
ただ一言に子守りと言っても、ちゃんとした授業の一環としてやっている。
さくらたちは前準備として『発達学』という授業を何度か受け、ある程度、幼児期についての知識を身につけてからここを訪れているのだ。
いわばこれは実習である。あとでレポートも提出することになっている。
選択制の授業なので、クラスの全員が来ているわけではない。
「さくらせんせーっ、おにごっこしよお!」
と声をかけられて、さくらはまたしても自分がウトウトしていたことに気がついた。
しかも立ったまま。
「……うぇっ!」
思わず頓狂な返事をしてしまったために、目の前にいる小さな男児に「アホっぽい」などと言われ、大笑いされてしまった。
幼稚園の一〇〇平方メートルほどのグラウンドに、四〇名ほどの幼児たちが遊びまわってキャーキャーと声を立てている。それを見守っているのは、さくら含むクラスメイト八名の女子。ジャージ姿である。
ちなみに本物の幼稚園教諭は現在、建物の中で別の仕事をしているところだ。
だからさくらたちは、責任を持って幼児たちの面倒を見なければならなかった。
うたた寝などは、もってのほかである。
――い、いけない。しっかりしなきゃ。
とさくらは自戒して、男児に話しかけた。
「ご、ごめん。……なに?」
「おにごっこしよおうよお」
「う、うん。良いよ。やろう!」
「じゃあタッチ!」
「えっ?」
さくらが状況を理解するよりも先に、男児はさくらの腰をバシッと叩いてタッチ――、背中を向けて全速力で駆け出した。
「きゃはは」
と無邪気な笑い声があがった。
「えっ、ず、ずるいよ! もうスタートなのっ?」
「ちゃんと一〇〇までかぞえてねえっ!」
「わかった――って! 一〇〇も数える必要あるのっ!?」
返事はない。
背中はあっというまに遠ざかっていく。
「も、もうっ! ほうとうにずるいっ!」
と文句はいうものの、さくらは律儀にも一から順に数えはじめた。
ジャージの内側には、汗の感触。
むしむしとした午前中とは打って変わり、午後になってからは風が出てきたせいなのか、からっとした気象になりつつある。だが、さすがに太陽にじりじりと照らされていれば、汗も噴きだしてくるようだ。
子ども達はみんな、無邪気に走り回ってかん高い声を立てている。その声に混じってセミの鳴き声――、今年初めてのセミの鳴き声が聞こえた。
ジイィィィ……。
という鳴き声がするのだが、『ニイニイゼミ』という種類のセミらしい。
可愛らしい感じのする名前だなぁ――、などと考えながら、さくらは大声で、しかも早口で、数字を数えた。
五〇――、
六〇――、
のんびりと数えてしまっては男児を待たせてしまうことになる。それは可愛そうだ。――かといって数をごまかすのも忍びない。だから可能な限り迅速に一〇〇まで数える。
途中で舌を噛みそうになった。
八〇――、
九〇――、
「ひゃくっ!」
と数えきり、さくらが走り出した時には、なぜか、側にいた沢山の子どもたちが注目していた。
真剣に、大声で、しかも早口で数を数えるさくらの姿が面白かったのだろう。
なぜかさくらは――、
追いかけられる側になっていた。
「えっ? ど、どうして私が追いかけられてるのっ!?」
気がつけば、先ほど逃げていた男児までもがさくらを追いかけていた。
周りが全員、鬼である。
「やつをおええ!」
「にがすなあ!」
「かこめえ!」
「ほういしろお!」
と、まったく可愛げのない言葉を駆使しては、妙に連携のとれた動きで一〇人ほどの子どもたちが追いかけてくる。
その様子を見ていた周りの子ども達が、みるみる集まってきては、大勢で追いかけてくる。
さくらには、子ども達がどうして追いかけてくるのかは分からなかった。
分からないのだが、「理屈ではないんだな」ということだけは理解できた。好奇心のままに、行動しているのだろう。
子どもたちの笑顔には、邪気が無い。
太陽と同じくらいのまぶしい笑顔は、たしかに可愛いといえば可愛いのだが、このときばかりはどことなく怖かった。
なんとなく動物的で、さくらには怖かった。
「うわああっ、こわいよっ! みんなちょっとこわいよっ!」とさくらが悲鳴をあげ――、
「うおおおお! おらあああああっ!」と子どもたちが勇ましい雄たけびをあげ――、
「ぎゃーっハハハハハ」とツボにはまったさくらのクラスメイト――葵の笑い声が響きわたった。
そんな六時間目だった。
「うう……疲れた……」
更衣室の中央、背もたれのないベンチに座り、さくらはジャージ姿のままうなだれて動けなくなっていた。
「さーちゃん。お疲れっ」
とその背中に、元気のありあまる葵の声がかかった。
さくらは、首だけを動かして睨みつけるように葵を見た。
ぶっ!
と、なにを思いだしたのか分からないが、葵は噴きだして笑った。
「わらいすぎだよ……ひどいよ……」
とさくらが悪態をつくと、葵の代わりに別のクラスメイトが返事をした。
「災難だったね。周りで見ているぶんには喜劇だったけどさ」
「……人ごとだと思って」
「でもさくらのおかげで、レポートに書くネタが増えたよ」
「……言っておくけど『明日は我が身』だからね?」
さくらが渋面になり、口をとがらせて言うと、その女子はロッカーの中に手を入れながら、もう片方の手で敬礼のポーズ。
「へぇーいっ」とおざなりな返事をする。
――まったくもう。みんな完全に他人事なんだから。
と胸中で愚痴を言ってから、さくらは重たい身体をようやくもちあげて、ロッカーに手を伸ばす。
ロッカー室には、八人の女子がいた。
先ほどの幼稚園に行った、八人の女子グループである。
「ねぇさーちゃん」
葵に呼びかけられた。
さくらがロッカーに手をかけたまま振り向いて「うん?」と返事をすると、葵はワイシャツのボタンをかけはじめたところだった。
「今日って時間ある? さーちゃんちのハムスターと遊びたいなって思ったんだけど」
「あっ……」
「だめ?」
「もちろん良いよ。でも一年生の女の子と、放課後に約束しちゃったの。少しだけお話しようって。その子も一緒でいいなら――」
「あっ、じゃあまた今度にしておくよ。さーちゃんも今日はお疲れっぽいしさぁ」
「あ……うん」
葵は「さてさて」と言いながら、自分のバックに手を入れてごそごそとやりはじめた。
遠慮をさせてしまったようだ。
さくらが約束をした女の子とは、もちろんゆり子のことである。
昼休み、廊下ですれ違ったゆり子は『お仕事の途中』だったらしく、大した話もできないままで別れてしまったのだ。
だが、彼女との別れ際に、「放課後に少しだけお話をしよう」という約束だけは交わせていた。
さくら個人としては、葵とゆり子、二人を会わせてみたいところだが――そのようなことを無理に言うのもおかしいかもしれない。さくらはなんとなく残念な気持ちになってしまったが、気をとりなおしてロッカーを開けようとした。
すると――、
自分の足が、ぷるぷると震えていることに気がついた。
「うわ……」
疲労だ。
走りすぎたようである。
「ねぇさくら」
とクラスメイトの女子がすぐに気がついて、声をかけてきた。
「うん?」
「今日さあ、キミ、学校に泊まっていったら?」と冗談交じりに言った。
「あはは……だいじょうぶだよ。歩けないほど疲れている訳じゃないし」
「そう?」
「私、家に帰ってハムスターの『賢太』にご飯あげないと。それに、おねえちゃんも夜になれば、お腹を空かせて帰ってくるから」
「確かに。そうだったね」
「そうそう」
さくらは笑いながら自分のロッカーを開け、着替えをはじめた。
クラスメイトが言う「学校に泊まっていったら」というセリフは、まるきり冗談だという訳でも無い。
実際、学校には生徒が泊まれるような部屋があり、許可を出せばひとつ返事で「いいよ」と言われてしまうのだ。
どうしてそういうことが可能かというと、学校はただの『教育現場』として機能しているわけではない。つまりはそういうことなのだが……、では「具体的にどういうふうに機能しているのか」、「どうして宿泊なんてものが可能なのか」と問われてしまえば、さくらには答えることができない。「そういうものなんだ」という程度の認識だった。
「私が幼稚園のときにお世話になった先生、もう顔覚えてなくてさぁ」
「えぇ、私は覚えてるけどなあ」
と、ロッカーの隅っこのほうで着替えていた二人が、思い出話をはじめていた。さくらはその会話を聞くともなしに聞きながら、ジャージを脱ぎにかかった。
「あはは。そうやって覚えてくれている生徒がいるなら、私もやっぱり、目指してみようかなぁ」
「幼稚園教諭?」
「そうそう」
その言葉を聞いて、さくらは何かを思い出しかけた。思わず手が、ぴたっと止まった。
――あれっ? なんだろう?
いまの会話を聞いて、どうやら自分は今、なにかを思いだしかけたようである。
なにかが脳裏に蘇りかけた。
しかしその記憶は、疾風のように去っていってしまった。二人が話すような、遠い過去に関わることではない。むしろつい最近の、幼稚園に関わるようななにかだったような気がするのだが……。
すでに思い出せなくなってしまった。
「さーちゃん? どしたの?」
と葵が、石像のように固まってしまったさくらを不思議に思い、声をかけてきた。
「……私、なにかを思いだしかけたんだけど……でもなんだろう?」
「早く着替えないと、別のグループ帰ってきちゃうよ」
「あ、そうだった」
「じゃあ、あたしは先に教室戻るねっ」
「えっ? ……あ、着替えが済んでいないの、私だけか」
「そゆこと」
さくらが周りを見渡せば、グループの全員が制服――ブラウス・スカート姿になっていた。
――しまった。のんびりし過ぎた。
と、慌てて着替えをはじめるさくら。
「じゃあ、私たちは先に行ってるからね」
と軽々と手をあげて、ロッカールームをぞろぞろと去っていくクラスメイト達。
バタン、と扉が閉まってしまえば、容赦のない静寂がやってきた。
さくらは、ばたばたと焦って着替えをはじめた。
上着をもちあげてはズボンを降ろし、ロッカーの中のワイシャツをひっつかんではジャージを鞄に詰めて――めちゃくちゃな着替えである。
なんとなく寂しくなってしまったのだ。
「うぅ……」
と無意識で、うめき声みたいなものをあげてしまうと、
「そんなに寂しいの?」
と、無人になったはずのロッカールームから声がした。さくらは驚いて、びくっ! と動いてから振り向いた。
制服姿の、葵が居た。
一人だけ残ってくれていたようだ。
だが彼女は――、にやにやと意地悪そうな笑顔を浮かべていた。
「えっ……い、いたのっ?」
「いたよ。あたしだけね。さーちゃんを置いてくわけないじゃん」
油断していた。
ずいぶんと間抜けな姿を見られていたはずだった。




