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2話 家族のかたち その1

 月曜日。

 この日、さくらは学校に到着するなり――、さっそく一時間目の授業から、ウトウトしはじめた。

 無理もないだろう。

 寝不足なのだ。

 だからといって、机のうえで教科書を広げ、ノートをとりながら、さくらが睡魔に苦しんでいるかというと……、まったくそうではなかった。呆れることに、苦しんでなどはいなかった。


 ――あ……、ああ。これは、気持ちいいかもしれない。

 ――授業中のウトウトが気持ちいいっていうのは、こういうことだったんだ……。


 世間では、首をかくんかくんやりながらウトウト眠ってしまうことを、『船をこぐ』と表現することがあるが、どうしてそういう言葉を使うのか、さくらはこの日、はじめて理解できたような気がした。

 本当に、まるで船にでも乗っているような気分になってくるのだ。

 夢と現実とのあいだで意識は定まらず、五感もみるみる鈍感になっていく。そんななかで唯一感じられるのは、ゆら、ゆら、とどこかの海を漂っているかのような心地よさ。しかも窓から入ってくる風が、まるで潮風のようである。むしむしした空気を、さーっと流していくような風が、これまた快感なのだ。


 ――い、いけない……このままじゃ私、だめになる。

 ――しっかり黒板を見ないと……。しっかり……、見ないと。


 そうやって自戒しながら黒板を凝視するのだが……、襲いかかってくる生理的欲求にはなかなか打ち勝てない。「もういっそのこと、なにもかもを忘れて眠ってしまえたら、最高に幸せなのになぁ」などと考えながら、とろーん、としていると、

 平和な海に、かみなりが落ちた。

 誰かがさくらの首筋を――、よりにもよって無防備な首筋を、ぶすっ、と指でつついたのだ。

 あまりに突然の出来事だった。


「はうっ!」


 さくらが奇声をあげた。

 しかも、結構おおきな声だった。

「え?」

「はう?」

「だれ」

「さくら」

「なぜ」

 と教室のあちこちから声がして、いっせいに視線が集まった。


 ――しまった!


 慌てて口を抑えるが、もう遅い。

 授業が中断していた。

 さくらの席とは、教室のど真ん中だ。全方向から四〇人ぶんの視線を集めてしまったさくらは――、恥ずかしさのあまりに硬直してしまう。

 呆然とする教室。

 痛恨のさくら。

 そこで四〇代になる男の教師が、様子をうかがうように口を開く。

「サクラ?」

「はっ、はい……」

「今日は元気ですネ」

「えっ……ええと、あの、なんでもないです。ごめんなさい」

 さくらは焦りながらうつむいて、今の発言をなかったことにしようとする。……だが、先生はなぜか妙につっこんで訊いてくる。

「はう、ですか?」

「うっ、ええと……、ほんとうになんでもないんです……」

「非常に近いです。でも『ハウ』ではありませんネ、ここでは『ホワイ』を使いますヨ」

「……えっ?」

「ホワイ、でぃでゅーごーとぅイタリア? ですヨ。前後の文脈をかんがえてみると、ハウではなくて、ホワイがあてはまると分かりますネ。もしもハウを使ってしまうと――」

 なぜかあの『奇声』は、『英語の授業』とうまい具合にかみ合っていたようだった。

 ぽかーんとして先生の話を聞いていると、

「分かりますか?」

 と先生が訊いてきた。

「はっ、はい。よく分かりました」

「よろしいですネ、では次」

 授業が再開した。

 その瞬間、さくらの目が鋭くなった。

 ――誰っ!

 ――誰だ犯人はっ!

 無防備な首筋をいきなりつついてくるような、おおばかもの。どこのどいつだ。なぜいきなりあんなことをした。ホワイッ!

 まっさきに後ろを振り向いた。恨みの込められたじとおっとした瞳とともに。

 後ろの席、スポーツ刈りの男子生徒と目が合う。

(ちっ、ちがうぞ! 俺じゃねーよっ!)と訴えるような目つき。

 そして、その男子生徒が腕をまっすぐに伸ばして――、さくらのすぐ隣を指さした。視線がつられて向いた。

 さくらの右隣の女の子――、(あおい)が、肩をぷるぷるさせながら声を殺して笑っていた。

 

 


「あおいちゃん……、いきなりひどいよ」

 授業が終わるなりさくらは、葵を非難した。

「ごめんごめんっ、あっはははっ」

 まったく悪びれる様子もなく、葵は笑った。

 彼女はわざとらしくも拳を作って、自分の頭をコツン、と叩く。憎たらしいくらいに可愛いしぐさだった。

 葵とは、以前、さくらが履歴書を広げているところにやってきて「さーちゃん、あたしにも見せて」と物見高く見物していたジャージ姿の彼女。――葵ちゃんである。

 髪はやや長い。さくらが肩に届く程度なのに対して、葵は鎖骨のあたりまで伸ばしている。そして彼女の瞳は、まるで小学生のように童心に満ちている。

 しかもいまは、うっすらと涙などを浮かべながら、心底おかしそうに笑っている。

「もう……。まったく反省してないし」

「えぇー、むしろ感謝してほしいくらいだけど」

「どうしたら感謝になるの……」

「ツボ!」

 と言って、葵は自分の首筋を指さした。

 さくらは困った顔になる。

「つぼ?」

「眠気に効くツボだよ。ほらこの首筋のあたり、髪の生え際のあたりを、ぶすっ、てやると目が覚めるんだってさ。効果バツグンだったでしょ?」

「いや……あの、いきなりそんなところを触られたら、もうツボとかは関係ないような気がするけど」

「そうかな? じゃあもっかい試してみよう」

「えぇ……、自分の首で試しなよ」

「自分じゃダメなんだってぇ、さーちゃんの首筋が良いのよお」

「うわ、うわっ、ちょっと、だめだってば!」

 狼藉を働くためにぶっきらぼうに接近してくる葵を、両手で止めにかかるさくら。抵抗むなしく首筋を触られて「ひゃあ」と悲鳴があがり、ニヤリとした葵がさらに手を伸ばす。そうやって二人がきゃーきゃー騒いでいると、さくらの後ろの席の男子生徒――、立浪が、「ごほんっ」と咳払いをした。

 立浪(たつなみ)

 彼も以前、さくらが履歴書を広げているところにやってきた男子生徒だった。そのときにはジャージを着て、葵と口喧嘩をしていた男子生徒――、立浪(たつなみ)だ。

 スポーツ刈りの、日焼けをした立浪。半そでのワイシャツの間で腕を組み――。おもむろに口を開く。

「……お前らさぁ、仲むつまじいのは良いんだが」

「なによ。文句あるの? さーちゃんといちゃいちゃしているだけじゃない」

「いやだからさ、そのいちゃいちゃが目の毒なんだよ。……なんつうか、目のやり場に困るんだよ。朝っぱらから」

「そういう目で見ているから目の毒なんじゃない? 堂々としていればいいじゃん」

「バカかお前は」

「ハァ?」

 そしてこの二人、たまに口喧嘩がはじまる。

 葵と、立浪。

 きっと仲が良いに違いない、ということをさくらは理解しているが、ときどき怪しくなる。

 本気でけなし合い、本気で罵り合うのだ。

「目の前で女子生徒がいちゃいちゃ身体をつついているところを、じーっと見つめる男子がいたら、それはそれでエロ野郎だろ?」

「ていうか誰も『見つめていろ』なんて言ってないんだけど。そういう思考になるあたり、あんたの脳内ピンク色のお花畑でも広がってそうね」

「俺は意外とピュアなんだけど」

「うわーっ! 自分でピュアとか言っちゃったああ! もうアレね、『私って天然キャラクターなんです』みたいに言葉に出してアピールする芸能人なみに痛々しいわ」

「バカか。お前こそ脳内でケシの花でも育ててるんじゃねーのか」

「はーっ? あたしがラリってるとでも言いたいわけ?」

「そう言っているつもりだが? お前、おかしな脳内麻薬だだ漏れだろ。会話はぶっ飛ぶし暴言だけはポンポン出てくるし。この自家薬中めが」

「あー、オーケイオーケイ、アンタもツボを押してほしいのね? 良いツボがあるのよ。こうやって二本の指を、両目にブスッと突き立てるだけで良いの。今のアンタには丁度いいかもね。『目のやり場』なんてつまらないことは今後気にしなくなるわ」

 やはりというか、あっというまに険悪ムードである。

 教室の中央で、ぎゃーぎゃーと騒ぎたてる二人。

 もちろん大声だ。視線も集まる。

「あ、あの……」

 恐る恐るさくらが呼びかける。

 すると、

「んっ? なーに、さーちゃん」

 葵は、ケロっとして答えた。

 ついさきほどまでの剣幕なども、一瞬で忘れてしまったかのような表情だ。

 さくらは、「みんなに注目されているから、そのへんにしておこうよ」と言うつもりでいたのだが、そんなセリフもすでに意味を持たなくなっていた。

「……ううん。なんでもない」

 教室のあちこちから向けられていた視線も、すでに興味を失ったかのように散っていった。

「で、なんの話をしてたんだっけ。あ、さーちゃんがどうしてそんなに眠そうな顔をしているのか、それついてだ」

「そんな話、してたっけ?」

「うん。寝不足なの?」

 と、葵は体勢をもとに戻して、さくらを向く。

 このように葵とは、あたまの切り替えが早く、悪い事はすぐに忘れてしまう。――しかもその能力は、超人的なほどに洗練されている。

「俺も……、今日のさくらは危なっかしいなと思ってたけどよ……」

 と立浪が言った。

 それに同意して、葵がウンウンと頷いた。

「そうよねぇ、あたしも隣で見ていて怖かったわ。かっくんかっくん船をこいで気持ちよさそうに、目をトローンとさせているかと思いきや、いきなりギロッ、て黒板を睨みつけて、しばらくしたらトローンってなるの。その繰り返し」

「怖かったのは俺だよ……。誰かさんが授業中、さくらにあんなことするから、俺がやったと勘違いされたんだぞ。思いっきりさくらに睨みつけられたんだからな……」

「あっははは、おかげで立浪も、面白いモノが見られたからいーじゃん」

 二人はすでに和解していた。

 葵の超人的なところとは、つまりそういうところだ。

 怒りや恨みなどと言ったネガティブな感情を、本当の意味で一切ひきずらないのだ。ド派手に喧嘩をしたばかりの立浪に対しても、すぐにまた笑顔を作ってしまう。――だからこそ、なんとなく余憤を引きずったままの立浪でさえも、イライラしていることがバカバカしくなってしまうのだろう。あっというまに毒気を抜かれてしまうのだ。

「あ、そうだ」

 とさくらが思いついて言う。

「私、あおいちゃんにハムスターのことを訊こうと思ってたんだ」

「うん? いきなりなぜハムスター?」

「私が寝不足なの、ハムスターの『賢太』のせいでもあるんだよ」

「え……賢太に、なにかあった?」

 葵の表情が、とつぜん曇った。

 さくらは、「あ」と気がついて、「心配しないで」と首を振った。

「病気とか怪我とか、そういうことじゃないんだけどね。えっと、脱走しちゃったの」

「ちゃんと見つかった?」

「うん。すぐに見つかったよ。――でね、ケージの扉はしっかりと閉まっていたはずなのに、いつのまにか開いていたから、まさか自力で開けたのかな、って思ったんだけど。……こんなことってあり得るのかな?」

「その扉は、外に開くタイプのものだよね」

「うん」

「なら、あり得る」

 と、葵は迷いもせずに言った。

 ハムスター先輩、葵。

「賢太って確か、ゴールデンハムスターだったよね。――どんくさいように見えても結構パワフルでさ。しかも頭もいいから、ケージの扉くらいなら自力で開けちゃってもおかしくないよ。内側から『ぼかーん』て蹴り飛ばしたのかも」

「……そんなに乱暴に開けちゃうものなの?」

「たぶんだけどねぇ」

 と頷きながら葵は、机のなかから一枚の下敷きをとり出して――、べこべこと音を立てながら自分の顔を仰ぎはじめた。

 続けて言う。

「脱走したって言うけど、どこで見つけたの?」

「スリッパの中で、もそもそ動いていた」

「あっははは、無害だねぇ。飼い主にそっくり」

「……褒めてるの?」

「褒めてる褒めてる。ねえ、立浪もそう思うでしょ」

 と呼びかけられたが、立浪はなにかを想像するように黙っていた。目線をななめうえのほうにあげて、少し考えこんでから――、

「……さくら」と口を開いた。

「なに?」

「そもそも、どうしてそのハムスター、賢太っていう名前なんだ?」

「賢い子になるようにって意味で、賢太ってつけたの」

「ああやっぱり。なら、飼い主にそっくりかもな」

 ――おや?

 と、さくらは疑問になった。

 葵はともかくとして、立浪が褒めてくるなどとは――。いよいよどんな反応をしていいのか分からなくなってしまい、さくらは困った。

 立浪が続きを喋る。

「ああ、ちなみに『飼い主』っていうのは、さくらのねーちゃんのほうな」

「……うん? でも、どういう意味なの」

「賢くて、図太そうだっていう意味だ。もしさくらのねーちゃんがハムスターだったら、エサを食べるためとあらば、ケージの扉くらい簡単にぶち破りそうだ」

 いきなり立浪は、なんて失礼なことを言うのだろうか。

 さくらはムッとして、

「おね――」

 おねえちゃんはそんなに食い意地はっていないからね!

 と言おうとしたが、言葉が途切れてしまった。

 正解である。

 まったく反論の余地がない。

 しかも、さくらの頭のなかではそんな様子が思い浮かんでしまった。

 ハムスター・真緒。

 なんとなくお腹が空いたので、ケージの扉をぶち破って脱走。「おなかすいたよぉ」などと言いながら廊下をウロウロ徘徊。そしてスリッパを見つけた瞬間に興味が移ってしまい、「あははー、なんだかよく分からないけどスリッパ面白いやぁ」などと言いながら中にもぐり込んで遊んでいるうちに、空腹のことをすっかり忘れてしまう。

「おっ、おねえちゃんはそんなにアホじゃないっ!」

 たまらずに叫ぶさくら。

 びっくりして目を白黒させる立浪。

「おいおい、誰もアホなんて言ってないだろ……」

「あ、あれっ。そうだっけ」

「むしろさくら、自分のねーちゃんのことをアホだと思っているのか?」

「おも――」

 思ってないから!

 と言おうとしたが、言葉が途切れてしまい――、

「おっ、思ってないから!」

 言いなおした。

 ぷっ、と葵が噴きだした。

 さくらが顔を向けると――、葵は「あ、やべっ」みたいな焦った顔になった。小さく舌を出して謝るような素振りを見せてから、下敷きをまたベコベコと鳴らして自分の顔を仰ぎはじめた。

「でもさー、さーちゃんはさ」とごまかすように葵が言う。

「……なに」

 さくらが渋面になり、少しだけドスを効かせた声で答える。

「さーちゃんがシスコンだっていうところは間違いないよ」

「うっ……」

「ほらその反応。自覚くらいはしてたでしょ?」

「……ちょっとは」

「うんうん」

 これに関しても、まったく否定はできない。

 否定はできないが、かといって今さら直すこともできないだろう。

 さくらにとって真緒とは、たった一人だけの甘えられる存在、特別な存在である。そして実際に、――大好きなのだ。悔しいが、シスコン。認めるしかない。

 さくらがしょんぼりと俯いたところで――、

「別に、悪い事じゃねーと思うけど」と立浪が言い、

「そうね、あたしもそう思う」と葵が同意した。

「家族を大事にしているってことだろ」

「そうそう。そういうこと。さーちゃん程度のシスコンなんて、よくある感じじゃない?」

 さくらは、「あれ?」と、不思議に思って顔をあげた。

 二人の表情は、蔑んでいるわけでもなく、責めているわけでもなく、ただ感心しているかのような顔つきだった。

 立浪が続けて言う。

「世の中を見てみれば、異常なほどに冷え切った家庭だってあるだろ。それに比べりゃ良いよ」

「うんうん。世の中を見てみれば、異常なほどに歪んだ兄弟愛――って、おい立浪、あたしに何言わせる気だ?」

「はあ? 俺がいけないのか」

「あっ、当たり前じゃないっ! バカ!」

「お前なに中なの? ヤク中なの?」

「おおっ? やんのかこらあっ」

 なぜかまた、あっというまに喧嘩がはじまってしまったが……、

 さくらは二人の言葉を聞いて、意外だとばかりに目を丸くしていた。てっきり、「いい加減に親離れしたら?」みたいなことを言われてしまうかと思っていたのだが……、

 そうではなかった。


 ――家族思い。


 二人が言いたかったのは、そういうことなのだろうか。

 その「思う」という対象が、たった一人、たった一匹だけしかいないところが、なんとなく寂しいような気もするのだが……、それも間違いだろう。

 決して「居ない」わけではない。「居る」のだ。――しかも姉・真緒は、たったの一人で三人分くらいは騒いでくれている。あそこには明るい家庭があるし、賢太という新しい家族だっているのだ。

「家族かぁ」

 とさくらは呟いて、視線を天井のほうに向けた。脳裏にはぼんやりと、昔見た映画の映像がよみがえっていた。

 親に捨てられてしまった少年と、親が亡くなってしまった少年。コメディータッチで二人の友情が描かれているような映画だった。


「なあ、俺と(さかずき)を交わそうぜ」

「盃? どうして急に」

「俺らは兄弟になるんだよ。家族になるための盃だ」

「でもお前、酒なんか飲めないだろう。なにを飲むんだ?」

「自動販売機でなにか探そう」

「安っぽいな……だめだろ」

「なにが?」

「家族になる儀式じゃないのかこれ……」


 主人公は、親がいないという辛い境遇の二人だったが、終始ふざけたノリで『友情』もしくは『家族』について描かれているところが、さくらは好きだった。

 こんな映画を思いだしてしまったことに、意味はない。つい「家族かぁ」などと呟いてしまったことにも、やっぱり意味はない。

 しかし――、

 さくらのその呟きを聞いて、ぎくり、と顔をこわばらせた人間がいる。

 葵と、立浪だ。

 さくらにとって『家庭』というものは、少しだけデリケートな問題を含んでいる。それを分かっているからこそ、ぎくりとしてしまったのだ。

 しかもさくらは、憂いでも帯びているかのように瞳をとろんとさせて、遠いどこかを見つめるかのように視点も定まっていない。

 ただ単純にさくらは……、眠いだけである。

 眠いからそう見えてしまうだけなのだが……、

 二人の目にはそうは映らなかった。まるで遠い天国でも見つめるかのような瞳だ、と勘違いしていしまった。

 だから二人は――、


 一瞬の目くばせをした。


 その刹那の時間には――、目線だけにもかかわらず膨大な情報のやりとりがあった。なぜか思いは通じ合っていた。奇跡のようなやりとりだ。人間は追いつめられると奇跡の力を発揮するというが、まさにこれだったのかもしれない。

 時間にしても、わずかコンマ一秒ほどだっただろう――。

(おい葵、この話題ってだめじゃねえ?)

(そうかもしれない!)

(話題変えろよ)

(分かってる。でもすぐには無理!)

(くそっ、こうなりゃ俺が裸踊りを披露するっ!)

(バカなの? さくらに汚いもの見せんじゃないわよ!)

(じゃーどうすりゃいいんだよ!)

(せめて一発芸くらいにしておきなさいよ!)

(いきなりかよ! スベるの確定じゃねえか! 結局俺が汚れるんじゃねえか!)

(できないのっ?)

(やってやるよ!)

(よし行け!)

(クッソオオオオオッ!)

 そして立浪が拳を握り、変な汗をかき、しかし腹をくくる。目くばせをはじめてから、ここまでわずかコンマ二秒である。

 そんな立浪の決死の覚悟のことなどは――、さくらは知らない。

 さくらの瞳には、すでに別のものが映っていたのだ。

 廊下を、てくてく、と歩いている一人の女の子。見覚えのある女の子だった。

 ゆり子ちゃん。

 昨日、職場で「はじめまして」の挨拶をして、一緒に絵本を作るお仕事をした、毒舌・内田ゆり子ちゃんである。同じ制服を着て、廊下を歩いている。

 ――あっ、ゆり子ちゃん! この学校の生徒だったんだ!

 と気がつくと、さくらはだしぬけに高揚した。

 そして――、

 さくらが、ゆり子ちゃんを呼ぶために立ち上がり、立浪が一発芸をやるために飛びあがって机に乗ったのは、同時のことだった。

 次の瞬間――、

「おーいゆり子ちゃああん」という呑気な声と、

「夏のだあいさんかく筋んんっ――」という雄たけびが重なって――、

「えっ?」

「えっ?」

「えっ?」

「えっ?」

 あらゆる人間の「え?」が重なり――、


 ――破壊。


 なにをしようとしたのかは分からないが、机に乗せた立浪の足が滑り、バランスを崩して空中で回転、机がひっくり返り、教科書が散乱し、女の子が悲鳴をあげたすえに――、立浪がまるでプロレスラーのように、側にいた男子生徒にボディプレスをかましていた。


「ぐはああああああああっ」


 あらゆる破壊音とともに、誰があげたのかも分からない、悪役の断末魔のような声が響いた。

 決してうまれる必要性のない、無駄な悲鳴がうまれた。

 ゆり子は唖然として、教室の中を見つめていた。

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