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間章 さくらは眠れない

 さくらはこの日、職場という新しい環境へと足を踏み入れてしまったせいか、なかなか興奮がおさまることがなかった。ベッドの中で眠れずに、なんどもなんども寝返りをうっていた。

 目を閉じていると、この日に会話をした『三人』の声が、頭の中でよみがえってしまうのだ。

 支部長。

 ゆり子。

 真緒。

 九官鳥のようなかん高い声に、毒舌悪態に、能天気な声。

 うう、眠れない……。

 ああもう。ぜんぜん眠れないよ……

 と枕の上で、さきほどからぼそぼそと独り言をいう始末だった。

「はあ……」

 とため息をつきながら、さくらは目をあけた。

 真っ暗なフローリングの六畳間には、月の光がレースのカーテンごしに入ってくる。カーペットや勉強机がぼんやりと照らされていた。さくらはその机のうえの、デジタル時計に目をやると、

 〇時すぎ。

 どうしてこんなに眠れないのだろうか。興奮か。緊張か。それとも何かに対する漠然とした不安なのだろうか。さまざまなことを考えるが、どれも違うようであった。それとも、「祭りの後の静けさが寂しい」みたいな現象なのだろうか。

 ――あ。

 気がついた。

 身体が不快感を訴えている。

 暑いのだ。背中にもわずかに汗の感触があった。

 ――暑い。

 そうだ。暑いせいなのだ。どうしていままで気がつかなかったんだろうか。不快だったのだ。

 そういうことにした。

 全身を覆うようにかけていた布団を、お腹のあたりまでガバっと下ろして、二本の足をにょきっと出した。パジャマは薄い生地のもので通気性が良い。そのために、すーっと心地よい快感がやってきた。

 ――ふう。

 これで眠れるはずだ。

 なんとなく安堵して、あらためて目を閉じる。

 静かに呼吸をくりかえす。

「……」

 外からは、沢山のカエルの鳴き声が聞こえてくる。

 まさに合唱だ。水を張った田んぼの中で、遠くから、近くから、沢山のカエルがなにやら楽しそうに歌っているのが聞こえてくる。

 対して家の中は、しん……と静まり帰っている。

 さっきまでの『焼肉』を食べながらのバカ騒ぎの余韻よいんなど、すっかりと消えさってしまっていた。

 静かな家なのだ。

 二階にある姉――真緒の部屋からも、一切の音が聞こえてこない。

 しかしきっと、リビングルームのハムスター『賢太』は、活発に動きはじめている頃だろう。夜行性なのだ。回し車に乗っては延々と走り、コロコロコロコロと音を鳴らしているに違いない。

 だが、さくらの部屋には、そんな音さえも入ってこない。

 静かな家。

 広くて、静かな家なのだ。

 たまにさくらは、これを「寂しい」などと思ってしまうことがある。親が亡くなってからというもの、しばらくの間はバタバタしていて気がつかなかったが、「ずいぶんと静かな家になったな」と、いつだったか気がついたことがあった。

 しかし同時に、もう一つ気がついたことがあった。

 真緒が、前にも増して騒がしくなったのだ。

 ベッドの中でさくらは、思わず声に出して笑ってしまった。

 ――もしかして、おねえちゃんが無駄に能天気なのも、ちょっとだけ子どもっぽいのも、アポっぽく振る舞うのも、ぜんぶ私のためにやってくれているのかも。

 そんなことを考えずにはいられなかった。

 なぜならば真緒の、性格と行動はどこかちぐはぐなのだ。

 良い意味でちぐはぐなのである。

 なんにも考えていないかのようにアホっぽく振る舞っているかと思えば、ときには大胆に行動を開始しているのだ。

 いまの暮らしが可能になったのも、彼女のおかげだった。


 そもそもこの、西暦に換算して三五〇〇年という、非常に優しくておおらかな空気がながれている世界であっても、親が亡くなってしまった真緒・さくらのような未成年に対して、政府は「どうぞ、二人暮らしでもなんでも自由にしてください」などと言って突き放してしまうほどの、適当な対応はしていない。

 この世界では、「未成年の保護者が亡くなってしまった」とあれば、親戚、学校、近所会などが、その未成年を保護する決まりになっている。

 しかし、そんな保護の手を離れて、未成年だけで生活できるようになるための『許可証』みたいなものがある。

 亜成人認定証あせいじんにんていしょう

 真緒はそれを取得した。

 あくまでも、「未成年だけでも二人暮らしができるようになる」というものは副産物みたいな効果なのだが、結果的に二人は、自由に生きられるようになったのだ。

 もちろん自由と言っても、たったの二人だけで生きているわけではない。

 たくさんの人間と協力しあって生きている。

 近所会と協力して、地域の赤ん坊や、または介護を必要としているような人間を助け、そ自分たちもまた助けられて、

 手をとりあって。

 すべての人が、欠けているものを補いあって。

 これは、この世界では常識である。

「……常識かぁ」

 さくらはつい、ひとりごとを言ってしまった。

 眠ろうとしていたはずなのに、考え事に夢中になっていた。いつの間にか目も開いていて、真っ暗な天井を、じーっと見つめていた。

 しかし、さくらの目には別のものが映っていた。

 つい数時間前の、支部長の顔だ。





「地域とか、近所会とか、みんなと助け合って生きているのよね……」

 と、支部長は元気なく言った。 

「はい?」

 さくらは反応に困って、きょとんとしながら返事をした。コップに入った麦茶を飲んでいるところだった。

 一九時。

 支部長は、仕事を終えたさくらを休憩室へと案内した。そして、「まおも、今日はすぐに終わるから、ちょっと待っていなさい」と言って麦茶を――いくつかの資料と一緒に――出してくれたのだ。

 二人でソファに対面して座ると、支部長はわざとらしいくらいに首をあっちのほうへと向けながら麦茶を飲み始めたのだが……、さくらは不審ふしんに思いながらも、やっぱり指摘することはなかった。

 やがてぎこちなく世間話がはじまって、いつのまにか『常識』の話になった。

 さくらと支部長の知っていること――というよりは常識が、すこしだけちぐはぐだったのだ。

 社会のしくみを知らないさくらに対して、支部長が軽く説明をし、地域ちいきの常識を知らない支部長に対して、さくらが説明をしてやった。

 地域の常識。

 人々は、一人や二人では生きていけない。

 だから、手を取り合って、助け合って生きている。さくらは、そんな当たり前のことを説明しているうちに、みるみると支部長の元気がなくなってしまったのだった。

 そして、

「だったらわたしは……」

 と、ほとんど聞きとることができないくらいの声で、ぼそっと、支部長が呟いた。

 さくらが首をかしげ、その意味を訊ねようと口をひらいたのだが、支部長は「なんでもないわ」と首を横に振った。

 しかしさくらには、その言葉の先が予想できてしまった。

 だったらわたしは、非常識だ。

 そんなことを言おうとしたのだろう。

 どんな気持ちがこめられていたのだろうか。さくらは考えてみるが、容易に分かるようなことではないだろうと思った。

「ま、まあっ」

 と、支部長はなにかを隠すように、一気にまくしたてる。

「古代人たちが、いまの暮らしを見たら仰天ぎょうてんするかもね。電線が張っていないことを除外すれば、ほとんど街並みは同じだし。使っている言葉もまったく一緒だし。――そうやってまったく同じ世界が広がっているかと思いきや、常識がちがうもの。人々の価値観はぜんぜん違うし、お金だってあんまり必要じゃないし、わたしみたいな『特技』を使える人も、うじゃうじゃいるし」

 特技。

 支部長の特技とは、リーディングである。

 遺物に触れただけで、過去の情報をある程度読みとることが出来てしまうのだ。

「超能力ですねっ!」

 と、さくらは目を輝かせて言った。

 すると支部長は、きょとんとして言う。

「ちょ……チョウノウリョク?」

「支部長がやっている『リーディング』って、超能力なんですよね?」

「うーん……大げさね。でもそういう言いかたもできるのかしら」

 この世界のなかでは、超能力などという大それた言いかたをしない。

 あくまでも『特技』である。なぜならば、一〇〇人に一人くらいは何かしらの『特技』を使う事ができるためだ。世間もその存在を認めている。

 人々はそれを、職業や生活の役にたてているほどだ。

 だからこの世界では、『特技』の存在は常識となる。

 さすがに爆発をおこしたりとか、瞬間移動をしたりとか、そこまで強力な『特技』を使える人は存在しないのだが、真緒やさくらが読むような漫画、または映画の中では、そのような『特技』をド派手に誇張こちょうして表現することがある。そういうものを『超能力』という。

「でも、いきなり超能力なんて言うからさ……」

 と支部長は、ガラステーブルの上の麦茶をじっと見ながら言う。

「ドカン、ボカン、みたいなのを想像しちゃったけど、こういうわたしみたいなのも、超能力って言うのかもね」

「……あれ? その台詞、まえにもどこかで聞いたことがあるような気が」

「そ、そうなの?」

「はい。思い出しました。おねえちゃんがまったく同じことを言っていました」

「うぐっ……、まおと同じ台詞を口にしてしまうとは……」

「はい?」

「ううん。なんでもないわ。でもわたしの特技なんて、ほとんど役に立っていない。……未熟で、……中途半端」

「そんなことないです。すごいと思います」

「……そ、そう?」

 と言いながら支部長は、自分の目の前にあるコップに手を伸ばし、麦茶を飲みはじめた。その顔色は、こころなしか赤かった。

 さくらは、そのような『特技』に憧れていた。

 たとえば支部長が手に持っているガラスコップ。これを、手も使わずに、念じるだけで持ちあげて、口に運べるような人間も存在する。

 さくらにはそのようなまねは一切できない。できないから、憧れていた。――憧れているからこそ、『特技』ではなく、もっとかっこよく『超能力』という言いかたをしてしまうのだった。

 支部長は喉がかわいていたのだろうか、コクコクと音を立てながら、麦茶を一気飲みしている。

 さくらが突然言う。

「わたし、マリンちゃんみたいな超能力者に憧れます!」

 ぶほっ!

 と、支部長が麦茶を噴きだした。さくらの顔に直撃。悲鳴をあげた。

「けっほ! ごっほ!」

「どっ、どうしたんですか急に! 大丈夫ですかっ?」

「……けほっ、ごほっ、ごふえっ」

 支部長はむせて喋れない。顔も真っ赤にして涙目だった。

 二人とも水浸しになってしまった。かつて遊園地で、こういうふうに水が飛び散るアトラクションがあって、さくらはびしょ濡れになってしまったことがあった。それをふと思いださせるほどに濡れてしまった。

 さくらはポケットからハンカチを出して、自分の顔を拭きながら支部長の顔をぞき込むと、

「――あっ、あほかっ! どうして急にあだ名で呼ぶんだ!」

 支部長が声を張りあげた。九官鳥が鳴いているみたいな、かん高い声が響いた。

「え? だって、いまは仕事中じゃないですし、かわいい呼びかた――」

「職場では支部長と呼ん――っ」

 支部長はげほげほ、と激しくせき込みながら、手のひらを上に向けた。

 犬にお手をやるようなポーズ。

 おそらく「わたしにもハンカチを貸してくれ」という意味だろう。さくらはそれを渡した。支部長はそのハンカチを受け取ると、自分のポロシャツ、ショートパンツを拭きはじめた。

「で、でもおねえちゃんが、『こうやって呼ばれると喜ぶんだよ』って言って――」

「あのヤロウッ!」

 支部長が拳をにぎった途端――、

 休憩室の扉が、ばんっ、と音を立てて開いた。

「なんの悲鳴ださくらあっ! マリンちゃんになにかされたのかああっ!」

 声を張りあげながら現れたのは、もちろん『あのヤロウ』

 ぶかぶかのTシャツに、ほっそりとした足にフィットしたジーパン姿。さくらの姉、真緒だった。

 真緒は二人の様子を見るなり、

「……どうしてびしょ濡れなの?」

「まおのせいだろうがっ! 変なこと吹き込みやがって!」





 まったくもって騒がしい一日だった。

 さくらはあの支部長の、少し元気のない様子が気になってしまったが、どうしても彼女の声を思いだしているうちに……、

 思わず笑ってしまうのだった。

 まくしたてる支部長の声はかん高くて、九官鳥きゅうかんちょう、もしくは猿がキャーキャーと騒いでいるかのようだった。

 考え事がつぎからつぎへと浮かんできては、眠気を散らしてしまう。

 それほどに今日は、いろいろなことがあったのだ。

 バイトが終わってからも、おかしなことがあったのだ。

 真緒の『内臓の歌』を聞きながらスーパーに寄った。はじめは気分が悪くてどうしようもなかったさくらだったが、色々な食材をながめているうちにお腹が空いてきてしまった。結局さくらも焼肉が楽しみになり、わくわくしながら家に帰った。

 玄関には、なぞの書き置きがあった。

 謎の、書き置き。

「……」

 家に帰ってきたら、玄関に、なぞの書き置きがあったのだ。

「……あれはなに?」

 思わず顔をしかめて呟いてしまう。

 真緒と二人、家に帰ってきて玄関を開けようとしたときに、一枚の紙切れが挟まっていることに気がついたのだ。

 そしてその紙には一言――、

『ときをあらためてふたたび参上する。ミラより』

 と書かれていた。

「……」

 いやはや、ほんとうに次から次へと、おかしなことが起こる一日である。思い出してみても、やっぱり謎だった。

 静寂のなかに、つい、ため息がもれる。

 さくらが困惑しているのは、誰なのかが分からないとか、意図が分からないとか、そういうことではない。むしろ、思い当たるふしはあるのだ。

 ミラ。

 これは、近所に住んでいる小学六年生の女の子、皆川未来(みなかわみらい)に違いない。

 家のすぐそばの、七〇メートルほど離れたところにある木造建築、公民館の二階に住んでいるのだ。

 付き合いも三年くらいになる。

 よく遊びに来る。

 仲もよい。まるで家族のような交流をくりかえしている。

 そして未来ちゃんには、高校一年生の姉がいる。その姉妹たちとは、『境遇』もよく似ている。親がいないのだ。

 彼女たちは、あの公民館で『保護』される形で住んでいる。面倒を見ている人物とは、以前、川シジミを持ってきてくれた七〇代の男、勇作ゆうさくだ。

 ただ、保護をしているとは言っても、勇作と姉妹との関係は、『親子』のようなものでは決してない。『大家さんとアパートの住人』と言った感じだろう。

 とにかくその未来ちゃんが、さくらの家に来るような目的といえば、『単純に遊びに来た』のだと、そのくらいしか思い浮かばない。家に来た目的などは、疑問をはさむ余地もないのだ。

 さくらが困惑している理由とは、あの書き置きそのものにある。

「ときをあらためて……ふたたび参上……ミラより?」

 その言葉づかいは一体なんなのだろうか。

 大人しくて、自己表現が苦手で、だからこそ活発な男子になりたいと憧れているような、内気な感じのする普通の女の子である。

 その、普通の女の子が使うような言葉ではない。

 漫画かドラマかの影響でもうけて、そういう言葉を使ってみただけなのだろうか。

「……まあいいか」

 今日はもういい加減にしておこう。考え事はもうやめだ。もう眠ろう。

 そういう結論になった。

 目を閉じる。


「……」


 少しだけむしむしとする夜だが、窓を開ければ冷えてしまう。そんな感じの温度である。外からは相変わらずのカエルの大合唱が聞こえてくる。

 さくらは目をあけた。

 ちらっ、と横目で、机のうえのデジタル時計を見た。

 〇時五分。

「トイレ……行ってから寝ようかな……」

 ため息をつきながら上半身を起こした。

 そして足を地面に降ろし、ゆっくりと立ち上がった。

 電気はつけないことにした。眩しい光などを見てしまったら、ますます眠れなくなってしまうと思ったためだ。

 のろのろと歩いて、部屋のドアをあけると、

 廊下で、小さな影が動いた。

「えっ!」

 さくらはすぐに、それがなんなのか分かった。

 ペットのゴールデンハムスター『賢太』である。廊下に置いてあるスリッパの中で、なにやらもそもそと動いていた。

「ど、どうやって脱走したのっ!」

 まったく眠れる気配のない深夜だった。


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