アヒルの子 その2
物思いにふけっていた。
次女――テーブルの対面側に座っているさくらから、「私の名前って、どうしてさくらになったの?」と問いかけられてしまったので、ちょっとだけ意地悪をするつもりで「ん? なんとなく」と答えてみたのだ。
するとさくらは悲しんでしまった。
父親にとって、意地悪とはコミュニケーションの一環である。
さくらは何に対してもこだわることがなく、どことなく冷めているし、あらゆる物事を「なんでもいい」と片づけてしまう。そんな彼女から何か『感情』を引きずり出してやることは、なによりの喜びだった。だから意地悪もするし、嘘もつくし、ふざけてばかりいる。
その成果は、今までにもそこそこあった。
今ではすっかりと大月家の憎まれ役だ。反省はしていない。
「……ああいや。だってさ、さくらって、何に対してもこだわることがないだろう? だから、そんなに悲しんでしまうとは思っていなかった」
そのセリフに、
はっ!
とさくらは、何かに怯えるような顔つきになった。慌ててぶんぶんっ、と首を振り、ばさばさっ、と肩に触れる程度のミドルヘアが宙を舞った。
「ち、ちがうちがうっ、わっ、私、これが宿題だから、もっといろいろ書かないとだめなんじゃないのかなって思っただけなの!」
両手を突き出して「ちがうちがう」と手のひらを向ける。
「だってこんなんじゃすぐに宿題おわっちゃうもん! 『なんとなく』って一言書いただけで終わりになっちゃうもん! もっと色々書いたほうがいいんじゃないのかなあって思っただけで私は――」
オーバーリアクション。
明らかになにかを隠そうとしている。
父親は、そんなことに気がつきはしたのだが、それよりも気の毒になってしまった。
先ほどの「なんとなく」というのは嘘だ。
予想ではさくらは、その嘘に対してノーリアクションをとるのが八〇パーセント。「なるほど」と納得してしまうのが一八パーセントで、残りの二パーセントが悲しむこと、もしくは怒りだすことだった。なにかしらの感情を引きずり出してやることは父親の使命なのだが、今回はさすがに居心地が悪すぎる。
「えっと。嘘だよ」
「え?」
「さっきの。さくらの名前のこと。『なんとなく』っていうのは嘘。もっと別の理由があったんだよ」
「……そうなの?」
さくらは目に見えて血圧を下げ、両手をそっとテーブルの上に乗せた。
「そうそう。嘘ついてみただけ。ごめんごめん」
「そ、そうなんだ。嘘だったんだ」
さくらは胸に小さな手をあてがい、分かりやすいほどにホッとした顔つきになった。
自分の名前が適当につけられてしまった訳ではない。その事実に安心したようである。なにごとに対してもこだわりはないのだが、少なくとも自分の名前は「どうでもいい」という訳ではないようである。
――いやいや。
父親は、心のなかで首を振った。
考えてみれば当たり前のことだ。
当たり前の反応である。
こだわらない、欲しがらない、なんでもいい、というこのさくらだが、さすがに『家族』だけはどうでもいいという訳ではないのだ。だからそう、考えてみれば当たり前のことなのだ。
あの悪霊退散グッツをプレゼントされたときにも何故か喜んでいたようだったが、それよりももっと前、なんの前触れもなく、誕生日というわけでもないのに『アナログ式の目覚まし時計』をプレゼントしてやったときにも、さくらは喜んでいた。
さくらは、家族だけは『どうでもいい』というわけではないようである。
家族だけは、大事にしているのだ。だから、家族から貰えるものならば、なんでも大事にするのだ。
おとうさん、おかあさん、おねえちゃんが好きだ。――それは小さなガキどもにとっては当たり前のことなのかもしれないが、さくらにとっては強烈な視野狭窄といえなくもないのだが、とにかくさくらは、家族にだけは異様に甘えているのである。
「さくら、食うか?」
と父親は問いかける。
さくらがテーブルに宿題のノートを広げているように、父親は30グラムのポテトチップスの袋を広げたところだった。
そのポテトチップスは、冷凍庫で一晩おいて凍らせたものである。父親のお気に入りの食べ方だった。
「……ねえ、いつも思うんだけど、それっておいしいの?」
「なに言ってんだ。ポテトチップスは凍らせないとうまくならないだろ?」
「……いらない。私は普通のやつがいい」
父親は袋のなかに手をやって、一枚つかんで食べた。ばりぼりと音を立てる。
いつだったか、冷凍庫の中をポテトチップスの袋でいっぱいにしてしまった父親は、母親に叱られていたことがあった。「変態め」という母親のセリフは、いまになってみればさくらにも理解できる。
変態なのだ。どうしようもなく。
「ねえ、おとうさんってさ」
「ん?」
「いっつもいっつも、てきとうなことばっかり言うよね」
「ポテトチップスの事か?」
「ちがう。私の名前のこと。ウソだ、って」
さくらの血圧がふたたび上昇していた。
テーブルに置かれた白紙のノートの上で、さくらの手のひらが握られた。眉毛のあたりで切りそろえられた前髪が、ゆらっ、と動いた。上目遣い。というよりは睨みつけている。
思い出すように怒りはじめていた。
「あー、わるいわるい。ほんの戯れだ」
という父親だったが、悪びれた様子はない。それどころか、
「さくらは素直すぎるからな。ついつい騙してみたくなってしまう」
「ええっ」
「人を疑うっていうことを知らないっていうか、なんというか」
「なんというか?」
「……」
父親は言わないでおいてあげた。
なかなか学習しない。
だから何度も騙される。
「とにかくさくらなは、騙されやすすぎるんだよ」
「おっ、……お母さんが前に言ってたよ!」
さくらは、はっきりと上気している様子だった。怒った声で、
「ついても良いウソと、ついちゃいけないウソがあるんだ、って」
「むっ……」
父親は言葉に詰まってしまったようである。なにかを言いかけたようだったが――、やめた。
それから、
「ごめんなさい」
父親は素直に、ぺこりと頭を下げた。
ふんぞり返るように深く座っていた身を起こし、膝に手をつき、「ついてはいけない嘘をついてしまったようだ。さくら、ごめん」と謝った。
深々と謝った。
「…………えっ。……うそ」
これにはさくらも驚いた。
さくらは悲しむようなこともまれなのだが、父親も父親で、素直に謝るようなことはまれなのだ。
いつもバカなことばかり言い、悪いことをやってしまったときには悪びれもせずに、「あっははーっ、ごめんごめん。ゆるしてちょーん」などと冗談を重ねてくるような父親だったのだ。
「……えっと……、ど、どうしよう」
心の声が、口にもれている。
さくらは困ってしまい、瞳をあちらこちらへと彷徨わせる。
「べ、べつに、あやまらなくてもいいかな……」
あくまでも謝るように仕向けたのはさくら自身だったのだが、いざ素直にも謝られてしまうと、焦ってしまうようだった。
「だ、だまされちゃった私がわるいっていうか……なんというか……」
「……俺は、あやまらなくてもいいのか?」
父親は頭を上げ、ちら、とさくらを見やる。
さくらは目を丸くしていた。
「そ、そうだよっ! ……だ、だからお父さんがそんな風にするの、変だよ」
「そうか。俺は、ちょっと変だった」
「うんうん」
父親は姿勢をもどし、ポテトチップスを一つまみ食べる。
ばりぼりと、普通のポテトチップスよりも、気持ち程度うるさい音を立てる。
「悪いのはさくらだ。騙されるさくらが悪い。――俺がウソ泣きをしているときは心配して駆け寄ってきてくれたり、『骨が折れてしまったー!』と白々しいほどに痛がったふりをしてみときにもさくらは血相を変えて救急車を呼ぼうとしたこともあったが、それらも全部、さくらが悪い」
「……」
「というわけで、さくら、宿題の続きをしよう」
「…………あ……うん」
なんとなく釈然としない顔で、こくん、と頷いた。
それからさくらは、素直にも鉛筆を握り直し、父親のことを見上げる。
じっと言葉を待つ。
「……」
「……」
リビングルームには沈黙が訪れた。
カラスが馬鹿まるだしの声で「ぐわーぐわー」と鳴いているのが聞こえてくる。
西にある市街地の方面から、東の山へと向かっているようだった。
そろそろ寝床へと帰る時間なのかもしれない。――きっと朝っぱらから羽のおもむくままに自由に飛びまわり、そこらへんの川辺で水浴びをして、水辺にひそんでいる貝や虫などを食べあさり、公園では滑り台を滑走してみたりして……、遊び疲れたのだろう。今日も満足な一日だったと告げているようで、この日は休日だというにも関わらず早朝カラスの声で起こされてしまった父親は、頭のかたすみのほうで「うるせぇ」と悪態をついていたのだが……、もう片方のかたすみのほうでは、困っていた。
さくらが反論してこないのだ。
ちょっとだけ「怒ってほしい」、と思っていた。
とにかく、そろそろ日が沈もうとしているようである。
カラスの鳴き声が遠ざかっていくと、リビングルームに設置されているアナログ時計が、かち、こち、と音を立てるのが聞こえてきた。
「ええとだな……」
次の言葉に迷ってしまう父親に対し、
「なに?」
とさくらは、もうすでに『いつものさくら』である。頭の中は、とっくに宿題へと切り替わっているようだった。
父親は苦々しく笑いながら、凍りついたポテトチップスを食べる。
「…………んと、どんな宿題だったっけ?」
「私の名前のことだよ。忘れちゃったの?」
「そうだったな。どうして『さくらにさくらという名前をつけたのか』、それについてだったな」
「うん」
興味深そうに、まっすぐな視線を向けているさくら。――どことなくウズウズとしているような様子であるが、それを悟られまいとして平静をとりつくろっている様子だった。
父親はそんな娘を見ながら、ふっ、と笑い、
「じゃあ話そう」
「うん。話して」
「さくらに、『さくら』という名前をつけた理由。……まず第一に、俺も、母さんも、『桜』が大好きだったからだ」
「ふうん?」
さくらはすぐに、鉛筆を動かした。ようやく空白のままのノートに、字が刻まれた。
お父さんもお母さんも、桜が大好きだったから。
「そして第二だ。これが決定的だったんだが――、これには真緒が関係している」
「え? おねえちゃんが?」
「そう」
さくらのお姉ちゃん。
真緒。
さくらの三歳年上の姉であり、長女であり、小学六年生だった。
一体誰に似てしまったのやら――かなり能天気な女の子である。
お箸が転がっただけでも笑いはじめてしまう女の子なのだ。頭の中にはお花畑がひろがっているのかもしれない。
そしてズレている。
たとえば『髪型』に対する考え方ひとつとっても、どこかズレているのだ。
さくらは、肩に触れる程度のミドルヘアを好んでいる――こだわりが少ないさくらであっても、その髪型はなんとなく心地がいいのだろう。
対する真緒は、背中まで届くようなロングヘアを好んでいる。彼女いはく、「長いほうがいろいろと便利だし、いざというときに武器になりそう」という謎の理屈だった。――それは真緒が好きな『バトル系の漫画』の影響なのだが……、父親はそれを知っている。さくらはそれを知らない。だから余計にさくらは、「能天気で謎のおねえちゃん」という印象を持ってしまっている。
真緒は能天気。
というよりは、能天気すぎるところがある。彼女は、いつだって笑っているのだ。
なにがそんなに面白いのかは分からないが、「ふんふーん」と鼻歌を歌いながら宿題をやり、げらげらと屈託もなく漫画の本を読み、「あははー」と幸せそうにご飯を食べる。それこそが、さくらの知る『おねえちゃんのすべて』だった。
おてん娘。
母親はたまに、真緒のことを『おてん娘』と呼ぶことがある。
父親は、それを的確だと思っていた。
雲一つない青空に、晴れ晴れとした太陽がさえわたるようなお天候。おてん娘だ。
「……おねえちゃんと、『私の名前』と、どういう関係があるの?」
さくらは視線を遠くのほうへと向けながら、訊いた。
きっと頭のなかでは、太陽のように元気に輝き、ヒマワリのように屈託もなく笑顔を咲きほころばせ、カラスのように無邪気に遊びまわるお姉ちゃん――真緒の姿を思い浮かべているのだろう。
「うん。それはな――」
父親はいったん言葉をおいてから、
「真緒が小さな頃だな。さくらが産まれる前のことだ。……真緒は『桜の花』を見ながら、泣いていたことがあったんだよ」
「……へっ?」
さくらは、姉が泣いている姿を一度たりとも見たことがなかった。