1話 初仕事は盗み聞き? その11
お魚のパイを食べ終わるころには、一三時になっていた。
さくらにとっては初となるバイトの出勤まで、あと一時間。
ただ、初めてのバイトとはいっても、採用が決まっているわけではなかった。実際にさくらが働いてみてから、支部長がその働きぶりを見て、採用するかどうかを決めるらしかった。
さくらは、軽度の緊張をごまかすために漬け物を作っていた。
その隣では、真緒が食器を洗っている。
二人はこの日、私服である。
さくらは、白いシャツに、紺のショートパンツ。そこに薄いピンクのカーディガンを重ねている。
真緒は、やや大きめのサイズの、薄いグリーンのTシャツに、足にぴったりとフィットしたジーパン姿だった。
突然、
「ねえ、今日の晩御飯は、焼肉たべようよ」
と真緒が言った。
「えっ、もう晩御飯の話?」
さくらがびっくりして目を丸くした。
思わず手も止まった。白菜の葉っぱ一枚一枚に、塩をぬりこんでいるところだった。
「さくらだって、もう次のご飯の準備しているでしょう?」
「……それはそうなんだけど、でも、……これは時間がかかるものだから仕方ないというか」
真緒が、さくらの手元を覗き込んだ。
じーっ、と、塩まみれの白菜をみる。
「……な、なに?」
「私、そんなに塩をたっぷりとつけたら、食べられないよ」
「……あ、大丈夫だよ。あとでちゃんと洗うつもりだから」
「洗うのに、塩をつけているの?」
「うん、えっとね」
さくらは説明した。
塩には、周りから水分を吸収してしまう働きがある。だからこうして塩をまぶして、余計な水分を抜く。そして塩を細胞に浸透させる。――そうすることで野菜の代謝をピタリと停止させ、腐敗の進行を防ぎ、余計な栄養分を失われないようにするのだ。
それだけではない。
あとでさくらは、かつおぶし、粉砕昆布、鶏がらのパウダーなどの「だし」で味つけをするつもりだったのだが、だしにも当然、塩分が入っている。だからいきなり味つけをしてしまうと、余計な水分がみるみる排出されてしまい、上手い具合に味つけができなくなってしまうのだ。
つまりこうして、あらかじめ塩をまぶしているというわけだった。
「へえ、さくらって、やっぱり料理のことは詳しいね」
「……そうでもないよ」
「あ、でもね、私だって少しは詳しいんだよ」
「なに?」
「ロースはね、肩のちょっとうしろのあたりのお肉のこと。ツラミが、顔の部分のお肉のことで、ランプがお尻のほうのお肉で、カルビが――」
さくらは思わず噴きだした。
真緒の顔が、わずかに朱にそまる。
「あっ、あれ? なにか間違っていた?」
「ううん、ちがうの。でも私、そういうことは全然知らなかった」
「そ……そう?」
なにか釈然としない真緒。
だが、すぐにいつもの調子に戻った。なにかおかしな歌を口ずさみながら、食器をふたたび洗いはじめる。
「みーの、はちのす、せんまい、ぎあら、みーの、はちのす――」
さくらにはなんのことかは分からなかったが、「牛の内臓かな?」と予想した。
「……わかった、じゃあ、今日は帰ってきたら、焼肉にしよう」
「うへーいっ! ばんざーい!」
真緒は、泡まみれの両手をあげた。
そうしてこの日の予定が組まれた。
一四時からは二人でバイト。そのあとはスーパーでお肉を買って、家で焼肉。
☆
二人が自転車を走らせているのは、だだっ広い田んぼや畑のどまんなかにある、四車線ほどの道路だった。二人は自転車専用のレーンをまっすぐ西にすすみ、『耳成山』へと向かっていた。
日中は車通りが少ない道路である。
古代では、『近鉄大阪線』という線路が伸びていた場所なのだが、当然、二人はそんなことを知らない。
さくらの前を走る姉が、さきほどの歌を口ずさむ。
「みーの、はちのす、せんまい、ぎあらっ」
「……そんなに焼肉が楽しみなの?」
「そりゃーっ! そうだねえ!」
と言いながら、真緒は後ろをふりかえったが、その顔は、ストレートのロングヘアに完全に隠されていた。
「後ろを向いて走ったらあぶないよ」とさくらが言う。
真緒が前を向いてから、大きな声で言う。
「さくらは、緊張してるのー?」
「うん、そうだけど……」
「だけど?」
「ちょっと、楽しみかな……」
絵本を作る。
考えただけでわくわくしてくるお仕事である。「どんな絵本になるのかなぁ」と、さくらは浮き立つような気分で自転車をこいだ。
そして、もう一つだけ、――ひそかな楽しみがった。
☆
支部長の髪型は、ちょっとだけ丸みのあるショートカットである。
さくらがギリギリ肩に触れる程度のミドルヘアだが、それよりも少しだけ短く、前髪は横に流してヘアピンでとめてあった。
そして彼女の髪の毛の一本一本は、まっすぐに整っている。丁寧にブラッシングをしているばかりでなく、他にもなにか絶対に秘訣があるはずだ、とさくらは踏んでいた。
そして、彼女の目。
ちょっとだけ釣り目で、怖い感じがするのだが、さくらが目を合わせただけでおどおどしてしまう。
全体的に、なにか小動物を思わせるような雰囲気だった。
さくらが支部長の観察をはじめたのは、出勤してすぐのことである。
真緒と二人で職員室に入ると、なにかの書類に目を通している支部長がいた。二人で挨拶をすませると、支部長は立ち上がり、さくらになにかを言おうとしたところだったのだが――、
さくらが、じー、っと観察をはじめたので、支部長は立ったまま、ぴたり、と動きを止めてしまったのだ。
「――なっ、なによ」
と、九官鳥のような高い声。
これである。
いくらなんでも支部長が可愛すぎるのだ。「いったいどうして、同じ歳くらいなのにここまで自分と違うんだろう」と、考えてしまい、――思わず、さらにじろじろと観察してしまいそうになったのだが、さすがに失礼かもしれないと自制した。
「なっ、なんでもないです」
とさくらは答えた。
「……そう?」
「可愛いなと思って見ていただけです」
「……かっ?」
支部長は、口の形も「か」にしたまま、硬直した。
顔が赤い。
「……やっぱりこの子は危険だ」と支部長が、ぼそっと言った。
小さな声だったために、さくらは聞きとることができなかった。
「はい?」
「なんでもないわ」
支部長が、ぶんぶん、と小さく首を振った。
「マリンちゃん可愛いよねぇ」と真緒が言う。
「うるさいっ、あだなで呼ぶなっ!」
「うへへ」
真緒は、六つの机が並んでいるうちのいちばん隅っこ、窓際の席についた。支部長席のすぐ目の前である。
それから真緒は、「みーのっ、はちのすっ、せんまい、ぎあらっ」と、あの歌を口ずさみながら、ノートパソコンを開いた。
「と、とにかく、さくらちゃん、すぐそこの席に座って」
と支部長が、真緒の向かいの席を指さした。
「は、はい。分かりました」
アルミ製のワークデスクである。
この席は、昨日、四〇歳くらいの女が座っていた席だった。そして隣は、四〇歳くらいの男が座っていたはずだった。支部長からは「夫婦がいる」と説明をされていたので、「その二人が夫婦なのだろう」と見当をつけていた。
さくらが席に座ると、背もたれから「キイ」という音。
正面の真緒と目が合う。
にへらーっ、と、真緒はだらしない感じの笑顔になった。
「あはは……」と、さくらが曖昧に笑う。
そこで部屋に、もう一人の少女が現れた。
「おはようございます」と、落ち着いた感じの少女の声。
三人で、同じように挨拶をする。
そうして部屋のなかに歩いてくるのは、昨日、この部屋で見た少女だった。
身長は、さくらと同じ一五一センチ程度。髪は、さくらよりもちょっとだけ長く、毛先のほうには緩いウェーブがかけられていた。
服装は、清楚な感じのするブルーのワンピースで、腰にベルトを巻いていた。細い腰だった。というよりは全体的に細いのだ。
彼女はちょっとだけ眠そうな目をしているが、おそらく、彼女にとってはあれがデフォルトかもしれなかった。まつげが長くて、これまた可愛い。さくらはつい、じっと見てしまう。おそらく歳は、自分と同じくらいだろうと思った。
その少女は、真緒の隣に座ろうとした。
さくらが、ハッとしてから立ち上がり――、
「あ、あの、はじめまして。大月さくらです。よろしくお願いします」と頭を下げた。
「よろしくおねがいします。ゆり子です。内田ゆり子です」と穏やかな声。
同じように彼女は、頭を下げた。
髪が、ふわっ、と浮いた。
それから彼女は、真緒の隣の席に座る。
――ゆり子ちゃん。なんて品のある人だろう!
そうして三人、それぞれ自分の椅子に座ったところで――、
「さて、じゃあ」と、支部長が言った。
三人の視線が彼女に集まる。彼女は誰とも目を合わせようとせず、窓のほうを見ながら言った。
「まお、ゆり子、この前の『桃の絵本』について、ちょっとすすめてもらえるかしら」
「うーん、でもあれだけじゃぁ」
と真緒が不満そうな声を出した。
「まったく分からないわ」とゆり子も不満そうに続けた。
「いっ、いいからすすめるの。それだけしか分からなかったんだから仕方ないの」
「へぇい」
「……はい」
二人はしぶしぶとした感じで頷いて、それぞれの席からファイルと取り出して、どこかのページを開く。
「でもさー、ゆり子ちゃんさー。見てよ、これ、ひどいよねえ」
「ひどすぎる」
なにが「ひどい」のか、さくらには分からなかったが、支部長は「う、うっさいわね!」と反論した。
「そ、それよりさくらちゃん」
と、支部長が、さくらのほうを向いて言った。
「はいっ」と、さくらがちょっとびっくりした返事。
「あなたの今日の仕事についてだけど」
「はい」
さくらは、ついに来た、と思った。
支部長には、「絵本を作ってほしい」と言われていたのだ。さくらは、それをずっと楽しみにしていた。眠る前などは、布団の中で――、どんな絵本を描くんだろう、とわくわくしながら考えていたほどである。
子ども向けの絵本。
たとえば、主人公がお姫様だったりして、王子様と恋に落ちるような――、そしてかけおちに発展するような、ハラハラする恋の物語。
たとえば、貧しい少年が、必死に働いたすえに、お母さんやお父さんを助けるような、思わず涙がこぼれそうな物語――。
たとえば、お猿さん、熊さん、牛さんとかが主人公だったりするような、素朴で、心が温かくなる物語。
どんなものを書くのだろうかと、さまざまな絵本を想定していた。
だが支部長の指示は――、
「しばらくその、机のうえに書いてある書類を読んでいること。以上よ」
「……読むだけ、ですか?」
「大切なことよ」
「わ、わかりました」
と、返事はするものの、さくらは拍子抜け――がっかりした。
そして机の上を見る。
まっ白な紙が数枚あるだけなのだが――、裏にはなにかが書かれているようだった。さくらは裏返した。
綺麗な、手書きの字でなにかが書いてある。
読んでみた。
『さくらちゃん。今回の、あなたのお仕事の内容を教えます。今日は――』
おそらく、支部長が書いたものらしかった。
――なんだろうこれ。どういうことなんだろう。
と不思議に思いながらも、続きを読む。
『――今日は、目の前に座っている二人の観察をしていてください。とりあえず数分程度でいいので、その二人の会話を、じーっと聞いていてください。ありのままいうと、最初のあなたの仕事は、盗み聞きです』
さくらは途方にくれた。迷子にでもなってしまったような気分だった。
まだいろいろ書いてある。――続きを読む。
『とにかく、二人のお話を聞いていれば、さくらちゃん、今日、あなたはここでなにをすべきかが分かると思います。決して二人の邪魔はしないように、盗み聞きしていてください。……いきなりこんな指示をだされてしまって不安になるかもしれませんが、深く考えることはありません。……まったく深く考えることはありません。以上。麻里奈より』
さくらは、麻里奈――、支部長を見た。
一秒間だけ目を合わせてくれた。
彼女は「そういうことで、よろしくね」と言わんばかりに頷いた。
さくらは、いつだったかテレビ番組で流れた、すし職人のドキュメントを思いだしていた。
そのドキュメント番組では、弟子入りしてきた新米に向けて、
「技はな、盗むもんなんだよ、甘えんじゃねぇ。俺たちはずっとそうやって生きていたんだ!」
みたいなことを、師匠らしき人が言っていた。
――これは、たいへんなことになっちゃった! うわあ、どうしよう!
と、さくらは内心で冷汗。
つまりこれは、あの二人から「技を盗め」、「仕事のやりかたを盗め」ということなのだろう。さくらはいきなり、おののいてしまった。
だが――、
そういうことではなかったのだ。
本当に、深く考えることはなかった。




